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「貴女の介護は私の義務ではありません」長年の嫁いびりを悔いる義母と、実母を選んだ私。冷戦の果てに見つけた、本当の家族の距離感。  作者: jnkjnk


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第二話 二つのSOS、一つの決断

実母、富美子が入院した総合病院のロビーは、消毒液と湿布の入り混じった独特の匂いが漂っていた。

窓の外では、あの日から続く雨がまだしとしとと降り続いている。私は自動販売機で買った温かいミルクティーを両手で包み込み、冷え切った指先を温めていた。


「腰椎の圧迫骨折ですね。高齢の方にはよくあることですが、絶対安静が必要です。コルセットを作って、痛みが引くまでは寝たきりの状態になります」


医師からの説明は、淡々としていたけれど重かった。

母は、私に心配をかけまいと気丈に振る舞っていたが、ベッドに横たわる姿は以前より一回り小さくなってしまったように見えた。


『ごめんね、紗和子。法事の最中だったのに……向こうのお義母さん、怒ってるでしょう?』


病室での母の第一声は、自分の痛みへの訴えではなく、私と義実家への配慮だった。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。

あんな酷い言葉を投げつけた義母と、自分の痛みを堪えて娘の立場を案じる実母。

どちらが本当の意味で私を大切に思ってくれているのか、答えは明白すぎて涙が出そうだった。


「ううん、大丈夫よ。お義母さんも、お母さんのこと心配してたわ」


私は嘘をついた。母に余計な心労を与えたくなかったからだ。

母は「そう、よかった」と安堵の笑みを浮かべたが、その笑顔が私の罪悪感をさらに深めた。

私はこの八年間、この優しい母を後回しにして、あの冷酷な義母に尽くしてきたのだ。その事実が、鋭い棘となって心に突き刺さっていた。


会社には事情を説明し、有給休暇を使って母の入院手続きや身の回りの世話に通っていた。

幸い、私の勤める文具メーカーの上司は理解があり、「介護は突然来るものだから、無理しないで」と温かい言葉をかけてくれた。

夫の健太からは、あれ以来連絡がなかった。

おそらく義母になだめられ、「頭が冷えたら帰ってくるだろう」と高をくくっているに違いない。

私は実家の片付けと病院通いに追われ、夫に連絡する気すら起きなかった。


しかし、その静寂は三日後の夜、唐突に破られた。


実家のリビングで、母の着替えの仕分けをしている時だった。テーブルの上に置いたスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。

画面には「健太」の文字。

大きく深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。


「……もしもし」

『お、おい紗和子! やっと出た! 今どこにいるんだよ!』


健太の声は上ずり、明らかにパニック状態だった。


「実家だけど。どうかしたの?」

『どうかしたじゃないよ! 母さんが! 母さんが大変なんだ!』


心臓がドクリと跳ねた。また嫌味の電話かと思ったが、様子が違う。


『階段から落ちて……救急車で運ばれたんだ! 骨折してるって! 今すぐこっちの病院に来てくれ!』

「……え?」


一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

数日前、私の母が転倒したことを「大げさだ」「気が緩んでいる」と嘲笑った義母が?

まるで悪い冗談のようだった。


「分かったわ。どこの病院?」


健太から告げられたのは、私の母が入院している病院とは反対方向にある、隣町の整形外科病院だった。

私はため息をつきたい衝動を抑え、車のキーを掴んだ。

行かないわけにはいかない。まだ法的には夫婦であり、義母なのだから。

けれど、以前のような「急がなきゃ」という焦燥感は皆無だった。ただ、淡々と義務をこなすだけの冷めた感情がそこにあった。


病院に到着すると、処置室の前の廊下で、健太が頭を抱えて座り込んでいた。

私を見つけるなり、彼は弾かれたように立ち上がった。


「紗和子! 遅いよ!」

「連絡を受けてすぐ来たわ。お義母さんの容態は?」

「足の骨を折ったらしい。今、ギプスを巻いてるところだ。痛い痛いって泣き叫んでて……俺、どうしていいか……」


健太は情けない顔で私にすがりついてきた。

三十六歳にもなって、母親の怪我ひとつでこの動揺ぶりだ。私は彼の手をそっと外し、冷静に尋ねた。


「命に別状はないのね?」

「ああ、頭は打ってないみたいだけど……とにかく、入院手続きとか、いろいろあるだろ? 看護師さんが保証人がどうとか言ってるし、俺よく分かんなくて」

「……分かったわ。私がやってくる」


私は受付に向かい、入院の手続きを済ませた。

義母の保険証の場所、既往歴、服用している薬。それら全てを把握しているのは夫ではなく私だった。

手続きを終えて処置室の方へ戻ると、車椅子に乗せられた義母が出てくるところだった。

右足全体が太いギプスで固定されている。


「……痛い、痛い……なんで私がこんな目に……」


義母は髪を振り乱し、化粧も崩れ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。

あの法事の席で、扇子を片手に私を見下していた高慢な姿はどこにもない。


「お義母さん、大丈夫ですか」


私が声をかけると、義母はハッと顔を上げ、私を睨みつけた。


「紗和子さん! あなた、今までどこに行ってたの! 私がこんなに苦しんでいるのに!」


開口一番、謝罪でも感謝でもなく、叱責だった。

私は呆れを通り越して、乾いた笑いが込み上げてきそうになるのを堪えた。


「実家におりました。母の看病がありましたので」

「実家、実家って……! こっちは骨折よ!? 痛くて死にそうなのよ!? 嫁なら飛んでくるのが当たり前でしょう!」


病院の廊下に義母の金切り声が響く。通りかかった看護師や患者が驚いてこちらを見ている。

健太が慌てて「母さん、静かに」となだめるが、義母の興奮は収まらない。


「家の階段が暗かったのよ! あなたがちゃんと電球を替えておかないから!」


言いがかりも甚だしい。電球の交換は先週私がやったばかりだ。

おそらく、慌てて階段を降りようとして足を踏み外したのだろう。


「病室へ移動しましょう。皆さんの迷惑になります」


私は努めて冷静に車椅子を押した。

病室に入り、義母をベッドに移すのにも一苦労だった。大柄な義母の体は重く、痛い痛いと暴れるため、看護師と三人掛かりでの作業となった。

ようやく落ち着いた頃には、日付が変わろうとしていた。


「喉が渇いたわ。お水」

「枕の位置が高い。直して」

「背中が痒い。さすってちょうだい」


ベッドに横たわった義母は、王様のように命令を繰り返した。

私は黙々とそれに従った。水を含ませたストローを口元に運び、枕を調整し、背中に手を入れる。

健太はパイプ椅子に座り、スマートフォンをいじっているだけだ。


「……で、これからどうするの?」


水を飲み終えた義母が、不満げな目で私を見た。


「どうする、とは?」

「入院中、誰が私の世話をするのってことよ。病院の食事は口に合わないし、着替えだって毎日持ってきてもらわないと困るわ。それに、退院した後はどうするの? この足じゃ、家事なんてできないわよ」


義母の視線は、「当然あなたがやるのよ」と語っていた。

健太も顔を上げ、私の言葉を待っている。


「そうですね。お義母さんの怪我は全治二ヶ月といったところでしょうか。リハビリも含めればもっとかかります」

「だから、紗和子さんが会社を休んでちょうだい」


義母は悪びれもせず言った。


「健太は仕事が忙しいし、男に下の世話なんて頼めないわ。嫁のあなたが看るのが一番でしょう。ちょうどあなたの実家のお母さんも入院してるんでしょう? だったらついでに休職でもして、両方見ればいいじゃない」


「ついで」という言葉に、私のこめかみがピクリと跳ねた。

この人は、私の母の病気も、私のキャリアも、すべて自分の都合の良いようにしか解釈しない。


「お義母さん。私の母の手術が、来週に決まりました」


私は静かに告げた。


「手術? だから何よ」

「圧迫骨折が悪化していて、ボルトで固定する手術が必要です。高齢ですし、リスクもあります。術前術後は、私が付き添う必要があります」

「そんなの、向こうの親戚に頼めばいいじゃない!」


義母が激昂して上半身を起こそうとし、痛みに顔を歪めた。


「痛っ……! ああもう! 私だって手術が必要かもしれないのよ!? 自分の親と義理の親、どっちが大事なの!?」

「どっちも大事な親です」


私は即答した。

しかし、義母は鼻で笑った。


「建前はいいわよ。高村家の嫁に入った以上、優先順位は決まっているでしょう。健太、あなたからも言ってやりなさいよ」


話を振られた健太は、気まずそうに頭を掻いた。


「まあ……そうだなあ。紗和子、母さんの言うことも分かるだろ? 母さんは寂しがり屋だし、他人のヘルパーさんとか嫌がるからさ。お前の母さんの方は、命に関わるわけじゃないんだろ? 手術の日だけ行って、あとは母さんの方を優先してくれないか?」


健太の言葉は、私の心に残っていた最後の情を断ち切る鋭利な刃物だった。

命に関わるわけではない?

母は一人暮らしで、誰も頼れる人がいないのに?

義母には健太という息子がいるのに?


「……健太さんは、休めないの?」


私は最後の確認として聞いた。


「俺? 無理無理。今デカイ案件抱えてるし、昇進に関わるんだよ。男が親の介護で休むなんて、出世コースから外れるようなもんだろ」

「私は? 私の仕事はどうでもいいの?」

「お前の仕事は……まあ、事務職だし、代わりはいるだろ? 俺の稼ぎで食わせてやってるんだから、こういう時こそ内助の功を発揮してくれよ」


健太は、悪気なく笑った。

彼の中では、それが「正論」なのだ。

男は外で働き、女は家を守る。親の介護は嫁の仕事。

その価値観の檻の中に、私を閉じ込め続けてきた。


深いため息が、私の中で冷たい塊に変わった。

怒りは通り越し、今はただ、目の前の二人が哀れに見えた。

彼らは気づいていない。

私が「はい」と答えるのを待っているようだが、私がもう、以前の私ではないことに。


「……分かりました」


私は伏し目がちに言った。


「会社には、介護休暇の申請を出します」

「おお、そうか! やってくれるか!」


健太が嬉しそうに手を叩いた。

義母も、当然といった顔でふんぞり返る。


「最初からそう言えばいいのよ。まったく、手間をかけさせて」

「ただ、仕事の引き継ぎがありますから、明日一日は出社させてください。その代わり、明後日からは休みを取ります」

「明日? 明日は誰が来るのよ」

「明日は日曜日ですから、健太さんがいますよね」


私が健太を見ると、彼は「えっ」と嫌そうな顔をしたが、私がじっと見つめると渋々頷いた。


「まあ、一日くらいなら……」

「ありがとうございます。では、明後日から、私が『家族』のために動きます」


私はあえて主語をあいまいにした。

彼らは、私が「義母のために」休むと思っている。

義母の身の回りの世話をし、わがままを聞き、奴隷のように尽くすと信じている。


「着替えや洗面用具は、明日健太さんに持ってきてもらいますね。私は一度実家に戻って、準備をしてきますから」

「ええ、頼んだわよ。あ、私の好きな駅前のプリン、買ってきてね」


義母はもう、私が自分の支配下に戻ったと確信してリラックスしていた。


「はい、承知しました」


私は恭しく頭を下げ、病室を出た。

廊下に出た瞬間、張り詰めていた肩の力が抜けた。

ふう、と長く息を吐き出す。


足取りは軽かった。

決心がついたからだ。


翌日、私は会社へ行き、上司に「介護休業」の申請書を提出した。

「対象家族」の欄には、しっかりと『実母・牧野富美子』と記入した。

上司は心配そうに、でも力強くハンコを押してくれた。


「大変だと思うけど、しっかり支えてあげてね。会社のことは気にしなくていいから」

「ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます」


その夜、私は自宅へ戻った。

誰もいないマンションのリビングは、ひんやりとしていた。

健太は義母の病院に泊まり込んでいるのだろうか、それとも実家に帰っているのだろうか。どちらでもよかった。


私は自分の部屋に入り、クローゼットを開けた。

大きなボストンバッグを取り出し、自分の服を詰め込み始める。

数日分の着替えではない。

当面の間、実家で暮らすための荷造りだ。


化粧品、大事にしていた本、通帳と印鑑。

そして、引き出しの奥から取り出したのは、緑色の紙。

離婚届だ。

まだ記入はしていない。でも、いつでも書けるようにと、一年ほど前から隠し持っていたものだ。

今回はまだ出さない。

けれど、これは私のお守りだ。


荷物をまとめ終えると、リビングのテーブルに置かれた健太の飲みかけのペットボトルが目に入った。

私はそれをゴミ箱に放り投げた。


「さようなら、都合のいい嫁」


誰もいない部屋で呟いたその言葉は、誰よりも自分自身の胸に強く響いた。


明日は、義実家へ行って、私の荷物を引き上げ、義母と夫に「宣言」をする日だ。

彼らがどんな顔をするか、想像するだけで胸がすくような思いがした。

でも、これは復讐ではない。

私の人生を取り戻すための、正当な選択だ。


私はバッグのファスナーを力強く閉めた。

ジジジ、という音が、これまでの関係の終了を告げる合図のように聞こえた。

窓の外、雨は上がり、雲の切れ間から月がのぞいていた。

私の進む道は、もう決まっていた。

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