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「貴女の介護は私の義務ではありません」長年の嫁いびりを悔いる義母と、実母を選んだ私。冷戦の果てに見つけた、本当の家族の距離感。  作者: jnkjnk


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第一話 ひび割れた献身

じっとりとした湿気が、喪服の背中にまとわりついて離れない。六月半ばの蒸し暑さは、私の心に積もったおりをさらに腐敗させるようだった。


今日は、義父の七回忌の法要だった。

高村家の本家にあたるこの古い日本家屋には、朝から親戚一同が集まり、読経の響きと線香の匂いが充満していた。


「紗和子さん、お茶がぬるくなってるわよ。皆さんの湯呑み、見て回ってちょうだい」


厨房から飛んできた鋭い声に、私は反射的に体を強張らせた。

声の主は、義母の高村佳代子。六十八歳という年齢を感じさせない張りのある声は、いつだって私を責め立てるための鞭のように機能する。


「はい、お義母さん。すぐに」


私は急須を手に取り、畳の広間へと戻る。正座で痺れた足が悲鳴を上げているが、顔を歪めることは許されない。私は「高村家の嫁」であり、この場においては感情を持たない黒衣くろごでなければならないからだ。


夫の健太は、親戚の男性陣に囲まれてすでにビールを煽り、顔を赤くしている。

私が皆の湯呑みを回収して回っているのに、彼は一度もこちらを見ようとしない。


「おっ、健太くんのところはまだ子供はできないのかい?」

「いやあ、うちは共働きなんでね。紗和子が仕事辞めないもんだから、タイミングが難しくて」


親戚の叔父の無遠慮な問いに、健太はヘラヘラと笑って答えている。


まただ。

私のせいにする。


健太の収入だけでは将来が不安だから、私が正社員の座を手放さずに働いていることを、彼は「紗和子のわがまま」として処理している。そう言っておけば、古い価値観を持つ親戚や義母からの風当たりが弱くなることを知っているからだ。

私は唇を噛み締め、何も聞こえないふりをして、新しいお茶を注いで回った。


「あら、紗和子さん。お茶の色が薄いわよ。急いでるからって手抜きはみっともないわ」


背後から義母の声がした。親戚たちの談笑が一瞬止まり、視線が私に集まる。

義母は上品な微笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。


「すみません、蒸らす時間が足りなかったようです。淹れ直してきます」

「そうしてちょうだい。まったく、八年も経つのに、こういう細やかな気配りが身につかないんだから。私の教育が悪いと思われるじゃないの」


ため息交じりに言われたその言葉に、親戚の何人かが愛想笑いを浮かべる。


「佳代子さんも大変だねえ」

「今の若い人は気が利かないから」


そんな声を背に浴びながら、私は逃げるように厨房へと戻った。

流し台に立ち、震える手で茶葉を新しいものに入れ替える。

悔しさで視界が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。ここで泣けば、さらに義母の格好の餌食になるだけだ。


私が耐えているのは、実家の母の言葉があるからだった。

『紗和子、結婚というのは他人同士が家族になることだから、最初は辛抱が必要よ。でも、誠意を持って尽くせば、必ず伝わる日が来るわ』

優しくて、いつも私の幸せを願ってくれた母。母の教えを守り、いつか義母とも本当の家族になれると信じて、私はこの八年間、理不尽な嫁いびりに耐え続けてきた。


けれど、その「いつか」は、蜃気楼のように遠ざかるばかりだ。


法要が終わり、仕出し弁当の食事が始まった。

当然、嫁である私に席はない。

配膳、酒のおかわり、空いた皿の回収。それらを一人でこなしながら、時折つまみ食いのように台所の隅で余り物を口に入れる。それが私の昼食だった。


「紗和子さん、お醤油!」

「ビール、もう一本!」

「子供がジュースこぼしたわよ、布巾持ってきて!」


矢継ぎ早に飛んでくる注文に、私は回転寿司のレーンのように動き続けた。

額に汗が滲み、化粧が崩れていくのがわかる。

ふと、広間を見ると、義母が上座に座り、満足そうに親戚と話しているのが見えた。


「ええ、健太は優しい子ですから。嫁が至らない分、あの子が苦労してるんですよ」


また私の話だ。

義母にとって、私は自分の優秀さと「可哀想な母親」という立場を演出するための道具でしかないのかもしれない。

そう思った瞬間、ポケットに入れていたスマートフォンが短く振動した。


マナーモードにしていたが、エプロンの下でその振動は妙に大きく感じられた。

こんな時に連絡をしてくるのは、仕事のトラブルか、よほどの急用だ。

私は皿洗いの手を止め、濡れた手を急いで拭いて画面を確認した。


表示されている名前は『実家(母)』。


胸がざわりとした。

母は、私が義実家の行事で忙しいことを知っている。そんな日に、母の方から電話をかけてくることなど、今まで一度もなかった。

嫌な予感が背筋を駆け上がる。


私は周囲を憚りながら、勝手口から外へと出た。

湿った熱気が体にまとわりつく。

通話ボタンを押し、耳に当てる。


「……もしもし、お母さん?」


応答がない。

いや、微かに荒い呼吸音が聞こえる。


「お母さん? どうしたの?」

『……あ、紗和子……? ごめんね、忙しい時に……』


母の声は、掠れていて弱々しかった。

その声を聞いただけで、ただ事ではないと悟った。


「大丈夫、今は外に出たから。どうしたの、その声」

『あのね……ちょっと、転んじゃって……。腰が、痛くて動けなくて……』

「転んだ!? 今どこにいるの? 一人?」

『家よ……。トイレに行こうとしたら、足がもつれて……。救急車を呼ぼうと思ったんだけど、スマホが近くにあったから、つい紗和子にかけてしまって……』


母は父を早くに亡くし、一人暮らしだ。

この暑さの中、痛みで動けずに倒れている母を想像して、血の気が引いた。


「すぐ救急車呼んで! 私もすぐ行くから! 鍵は開けられる?」

『……ごめんね、紗和子……』

「謝らなくていいから! すぐ行くからね!」


電話を切り、すぐに119番通報をした。実家の住所を告げ、状況を説明する。救急隊が到着するまでの時間が、永遠のように長く感じられた。

通報を終えると、私は震える手でスマホを握りしめ、勝手口から家の中へと戻った。


広間では、宴もたけなわといった様子で笑い声が響いている。

私は意を決して、義母と夫がいる上座へと歩み寄った。


「お義母さん、健太さん。申し訳ありません」


私の切迫した声色に、周囲の雑談が少しだけ止んだ。

義母が不機嫌そうに眉を寄せる。


「何よ、大きな声を出して。お客さまが驚くじゃない」

「実家の母が、家で転倒して動けなくなったそうです。今、救急車を呼びました。私もすぐに病院へ向かいたいので、失礼させていただいてもよろしいでしょうか」


頭を下げてそう告げた。

当然、心配してくれると思っていた。

「それは大変だ、すぐに行きなさい」と言ってくれると信じていた。

しかし、返ってきた言葉は、私の想像を絶するほど冷酷なものだった。


「……はあ? 何言ってるの、あなた」


義母は、呆れたようにため息をつき、箸を置いた。


「転んだくらいで大げさね。お年寄りなんてよくあることでしょう? 救急車を呼んだなら、病院の人がやってくれるわよ」


耳を疑った。

よくあること? 転倒が高齢者にとってどれほど危険か、義母自身も知っているはずだ。


「ですが、母は一人暮らしです。付き添いが必要です」

「だからって、この状況を見てちょうだい」


義母は扇子を広げ、散らかったテーブルと、まだ酒を飲んでいる親戚たちを指し示した。


「今日は大事な法事よ。まだ片付けも終わっていないし、これからお見送りもしなきゃいけないの。長男の嫁であるあなたが不在で、どうやって場を締めるつもり?」

「それは……でも、母の容態が心配なんです」


私は夫に助けを求めて視線を送った。

健太、お願い。何か言って。


健太は気まずそうに視線を逸らし、ボソボソと呟いた。


「まあ、母さんの言うことも一理あるよな……。紗和子がいなくなると、母さん一人じゃ大変だし。向こうに着いたら連絡もらうことにして、とりあえずこっちが終わってからにしたら?」


頭の中が真っ白になった。

この人は、何を言っているんだろう。

私の母が、痛みで苦しんでいるのに。救急車で運ばれようとしているのに。

法事の片付けの方が大事だと言うのか。


「……終わり次第って、いつですか? 皆さんが帰られて、食器を洗って、掃除をして……夜になりますよね?」


私の声は、怒りで震えていた。

それに反応したのは義母だった。


「何よ、その言い草は。私たちが薄情だと言いたいの? あのねえ、紗和子さん。嫁に来たってことは、高村家の人間になったってことなの。実家のことばかり気にして、婚家の務めをおろそかにするなんて、言語道断よ」


義母の声は、親戚中に聞こえる大きさだった。

周囲の空気も、「嫁のくせに」という無言の圧力を放っているように感じられる。


「それに、どうせ大したことないんでしょう? 捻挫くらいで大騒ぎして。あなたの実家のお母さんは、少し娘離れができていないんじゃないの?」


プツン。


私の頭の奥で、何かが切れる音がした。

それは、これまで八年間、必死に繋ぎ止めてきた「理性」であり、「情」であり、「家族になろうとする努力」の糸だった。


視界が急速に冷えていく。

目の前にいる義母の顔が、夫の顔が、ただの「醜悪な他人」に見えた。


怒鳴り散らしてやりたかった。

テーブルをひっくり返してやりたかった。

けれど、不思議なほど心は静まり返っていた。

怒りを通り越して、諦めと軽蔑が心を支配していたからだ。


私はゆっくりと顔を上げた。

表情筋が死滅したように、能面のような顔をしている自覚があった。


「……分かりました」


私の静かな声に、義母は「分かればいいのよ」と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

夫もホッとしたようにビールに口をつけている。


彼らは勘違いしている。

私が「言うことを聞く」と答えたのだと思ったのだろう。

違う。

私は、「あなたたちがどういう人間か、よく分かりました」と言ったのだ。


私はくるりと背を向け、厨房へと戻った。

エプロンを外し、きれいに畳んでカウンターの上に置く。

バッグを手に取り、車のキーを確認する。


「あら? 紗和子さん、お酒のおかわりは?」


親戚の一人が声をかけてきたが、私は無視した。

そのまま玄関へと向かい、靴を履く。


「ちょっと、紗和子! どこへ行くの!」


背後から義母の金切り声が聞こえた。

私は一度だけ振り返り、無表情のまま告げた。


「母の病院へ行きます」

「はあ!? さっきの話、聞いてなかったの!? 戻りなさい! 勝手な真似は許しませんよ!」


義母が顔を真っ赤にして立ち上がるのが見えた。

夫も慌てて「おい、紗和子!」と叫んでいる。


「許すも許さないもありません。私の親です。あなたたちの食事の後片付けより、母の命の方が大切です」

「なっ……なんてこと言うの! 親戚の皆さんの前で恥をかかせる気!?」

「恥をかいているのは、どちらでしょうか」


私は冷たく言い放った。


「怪我人を心配することより、自分の面子と片付けを優先する人間性の方が、よほど恥ずかしいと思いますけれど」


広間がシーンと静まり返った。

義母は口をパクパクと開閉させ、言葉が出てこないようだった。

夫は呆然として私を見ている。


私はそれ以上何も言わず、玄関の扉を開けた。

外の熱気と共に、激しい夕立の気配がした。


車に乗り込み、エンジンをかける。

アクセルを踏み込むと、高村家の古い門がバックミラーの中で小さくなっていった。


涙は出なかった。

ただ、胸の中にあった重い鎖が外れ、心が軽くなっていくのを感じていた。

もう、あの家のために心を砕くのはやめよう。

あの人たちに「家族」としての情を期待するのはやめよう。


フロントガラスに、大粒の雨が叩きつけ始めた。

ワイパーを動かしながら、私は病院へと車を走らせた。


頭の中にあるのは、母の無事と、これからのことだけ。

もう二度と、義母の顔色を伺って生きたりはしない。

ハンドルを握る手に、自然と力がこもった。

これが、私の反撃の始まりだった。


母が入院することになる病院までの道のりは、私の新しい人生への滑走路のように思えた。

雨脚は強まるばかりだったが、私の視界はかつてないほどクリアだった。

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