記憶喪失になったら沢山の美女たちが見舞いに来た
――真っ白だった。
目を開けると、天井。ふかふかの枕。見知らぬベッド。まるで王族みたいな内装。
(……ここはどこだ? ていうか俺、誰だ?)
頭が痛む。胸がざわつく。何も思い出せない。それなのに、やけにいい匂いがする。石鹸の香りが鼻をくすぐり、すぐ横で柔らかそうな何かが揺れた。
「殿下! ご無事で……!」
顔を覗き込んできたのは、金髪の巻き髪をふわりと揺らす、涙ぐんだ絶世の美女だった。
しかも、その胸が布地を押し上げ――って、違う!
(誰だ!?)
「お目覚めですね……! わたくし、リリアナ。殿下の幼馴染であり、許嫁ですの!」
許嫁だと!?
俺にこんな美人の許嫁がいたのか!?
「殿下、お気分はいかがですか?」
続いて入ってきたのは、短髪で凛々しい美女。鎧を纏った女騎士だ。やけに美形が揃っているな。
「失礼ながら、申し上げます。この女に騙されてはいけません。真の婚約者は私、ミラ・ヴァイスです」
「な、なんですって!? あなたはただの護衛でしょう!?」
「いえ、殿下は私に夜な夜な“お前しか信じられない”と……!」
……つまり、俺には許嫁が二人いる?
そんなこと、あるのか? というか許されていいのか?
「えっと……俺は……」
「殿下っ! 無理してはいけませんわ!」
「殿下、無理に思い出す必要は……!」
くっ、頭が……痛い……なにか大切なことを忘れているような気がする……
――だが、思い出せない。
脳内の書棚はすっからかん。唯一残っているのは「自分はたぶんイケてる」という根拠のない確信だけ。
(くそっ、俺はいったい何をしてきた男なんだ……!?)
と、そこへ。
「殿下ぁああああああああああっっ!!」
扉がバァンと開き、第三の美女が飛び込んできた。
茶髪のポニーテールに、エプロン姿の女中風――いや、“元気枠”だな、これは。
「良かったぁ~! 目が覚めたんですね! 大丈夫ですか!? 私です、サラです! お夜食担当の!」
「ちょっと!? なんで使用人風情が殿下の私室に!?」
「いやいや、リリアナ様より私のほうが付き合い長いですから! 殿下が“君のスープだけはうまい”って言ってくれた日、私、もう泣くほど……!」
(今度は庶民派美女……!?)
三人の美女が、まるで恋人の座を争うように火花を散らしている。
しかも全員、俺と“いい関係”だったような発言を……。
(記憶喪失中の俺、女たらしじゃないか?)
いや、違う。これはたぶん、彼女たちの勘違いだ。
俺がそんな器用な男なわけ――
「殿下っ、目が覚めたと聞いて……!」
スッ……と静かに扉を開き、黒髪ロングの神秘系美女が現れた。
全身黒の修道服。手には薬草と聖水らしきもの。
「わたくし、祈祷師のイレーネと申します……殿下が“運命の出会いだ”と仰った、あの夜を……私は……」
ついに出た、“運命の出会い”発言。
これはもう言い逃れできない。
――いや、待て。
(本当に俺が、こんな女神級の美女たちに手を出していたのか……?)
まさか、自分がそんなにモテ男だったとは。
記憶喪失の今、確かめようがない。
「殿下、大丈夫ですか!?」
「どうか、最初に名を呼んだ者に跡継ぎの座を……!」
「いえ! ここは公平に、スープ対決で!」
「待って、ここは祈祷で清めてから……!」
もはや修羅場というより、美少女カオス会議だ。
「俺は……女たらしだったのか……」
記憶喪失前の自分がいかにクズだったのか、思い出さなくてもわかる。
この状況がその証拠だ。
「くそっ、なんで一人に絞らなかったんだ! こんなの、最低な人間のすることじゃないか!」
思わず叫んだ俺の声に、部屋がシン……と静まり返る。
「……俺は……人間のクズだ……」
リリアナが顔を逸らし、
ミラが目を伏せ、
サラはエプロンの端を握りしめ、
イレーネはうっすらと涙を浮かべていた。
(なんだ? この空気は?)
重い。重すぎる。さっきまでのバチバチ女子会バトルはどこへやら、空気が完全に“失恋直後のグループカウンセリング”へと変貌していた。
「でも、でも……! 記憶をなくした殿下がこうして悔いているということは……」
リリアナが、まっすぐ俺を見つめた。
「やはり、殿下のお心は本当だったんですのね……! 私だけに囁いた“君こそ唯一の花”の言葉は……!」
「いえ、それは私にも……!」
「私にも……!」
「わたくしにも、夜空の下で……」
「全員に言ってるじゃねーか!!!」
俺、どんだけロマンチストな言い回しをしていたんだ!? 花とか夜空とか、そんなにポエムが好きだったのか!?
だが、そんな中――
「殿下。ご安心ください」
イレーネが、どこか微笑むように言った。
「たとえ記憶が失われようとも、わたくしの殿下への愛は変わりません」
「「「「……!」」」」
完全なる落ち着きと慈愛をもって語られたその一言に、他の三人も心打たれたように頷く。
「俺は……こんなにも愛されているのか……」
彼女たちへの愛に、思わず涙が出た。と同時に、そんな彼女たちの心をもて遊んだ自分に怒りを覚える。
「くそっ、君たちの記憶さえ戻れば……すまない」
「殿下、そんなに無理に思い出さなくてもいいんですよ」
「そうですよ。無理に思い出すのは体に毒です」
「私だけが覚えていればいいのです」
「神もそう告げています」
「ありがとう。こんなにも愛されているなんて……」
俺はもう、泣きそうだった。いや、たぶん泣いていたのだろう。
感謝と罪悪感が入り混じって、感情がぐちゃぐちゃになる。
(……しかし、やっぱり思い出せない)
記憶は真っ白のまま。
なのに、こんなにも愛されていたなんて――そりゃ混乱もする。
「殿下……それで、本日のご予定ですが」
不意にミラが手帳を開き、仕事モードに切り替わった。
「午前は剣術稽古、その後は書簡の確認。そして午後から婚約者たちとのランチ会、その後は沐浴、そして夜には……私との――」
「待て、最後だけおかしい気がするが?」
「では代わりに私と夜の読書会を――」
「そういう問題じゃない!」
「夜食のスープ会なら!」
「平和だな!」
「……わたくしは、聖なる祈祷を……二人きりで……」
「逆にいちばん重い!」
本能に忠実な美女たちを、ツッコミという名の説得でなんとか押しとどめる。
(……なぜこんなことになっているんだ?)
だが、考える間もなく――またしても、扉がノックもなく開いた。
「殿下! 目覚めたって本当ですかっ!」
風を巻き起こして現れたのは、黒スーツに眼鏡をかけた長身美女。
美しさと理知を武器にする、“できる女”タイプの登場だ。
「私です。国家補佐官のクラリス・アイゼン。殿下の教育係でもあります」
(また増えた……だと!?)
「記憶喪失と聞きましたので、さっそく再教育を始めましょう」
「ちょっと待て!? 自己紹介からの即授業開始は初めて見るぞ!?」
「あなたには、国の未来がかかっているのです。怠惰は許されません。まずは現状の政務を把握していただきます」
そう言ってクラリスは、机の上に分厚い書類の束をドサリ。
「……あの、今の俺には難しい話は……」
「殿下は“クラリスの講義は心地よい子守唄だ”と仰っていましたよ」
「寝てるじゃねぇか!!」
すかさず他の美女たちが一斉に抗議を始めた。
「ちょっと、今は静養が第一ですわ!」
「政治の話なんて、記憶が戻ってからでいいでしょ!?」
「スープ飲ませて寝かせた方が効率いいですって!」
「神の加護による祈祷こそ……!」
「お静かにっ!!」
ピシャリとクラリスが一喝。眼鏡がキラリと光る。
「……殿下の未来のためには、感情より理性が必要です。あなた方の“好き”を盾に甘やかしても、本人のためになりません」
重たい正論が空気を制した。
(……正論だな)
だが次の瞬間、クラリスは目を伏せ、小さくつぶやいた。
「……あの夜、“君の叱咤だけが心の支えだ”と仰ったあなたを前にして……私は、ただの教育係ではいられなくなったのです」
「ここでも口説いているだとッ!?」
俺は思わず叫んだ。
そして当然のように――
「“心の支え”ですって!?」
「そのセリフ、私も言われたわよ!?」
「私は“命の味”って言われたけど!?」
「私は夜空の下で“信仰の灯”と……!」
「どれだけ比喩に頼る男なんだ俺はぁぁぁッ!!」
記憶のない俺が、ポエムと比喩とロマンスでできていたという事実だけは、どうやら揺るがないらしい。
もう誰にも止められない。
これは修羅場でもカオスでもない――ロマンス爆弾の爆心地だ。
(……だが)
ふと、心に引っかかる違和感が芽生える。
(誰も、“俺の過去”について具体的なことを言ってこない……)
名前や思い出話の“雰囲気”は語るくせに、実態が見えてこない。
「俺は……俺は誰なんだ……?」
ズキンッと、頭に激痛が走る。
そう、あれは――
あれは――!
「殿下!?」
リリアナが慌てて駆け寄る。
「無理に思い出そうとしないでくださいまし! そんなにご自分を追い詰めないで!」
「殿下、お水を! スープでもいいですか!?」
「いや、それはもう食事では!?」
「……沈黙の祈りを」
わらわらと寄ってくる美女たち。
(違う。“記憶”じゃない。これは――“警告”だ)
心の奥で、何かがざわついている。
この部屋。この状況。この“優しすぎる空間”。
――何かが、おかしい。
「……なあ、クラリス」
「はい、殿下」
「俺がこの部屋に運ばれてきたのは、いつだ?」
「……三日前です」
「それ以前、俺の世話をしていたのは?」
「……医師と、看護の従者たちが。ですが、殿下が目覚められてからは私たちが……」
「じゃあ……俺が“記憶喪失”だと診断したのは、誰だ?」
静寂。
リリアナが目を逸らし、
ミラの眉がわずかに動き、
サラは口元をきゅっと結び、
イレーネは目を閉じ、静かに祈る。
「……つまり、俺は医者の顔も診断書も見ていない」
俺はゆっくりと身を起こし、痛む頭を押さえながら全員を見渡す。
「――この“記憶喪失”、本当に本物なのか?」
空気が一変した。
誰も、言葉を発しない。
冗談のような顔をしていた彼女たちは、今、何かを隠している。
「まさかとは思うが……俺が目覚める前に、何か“都合の悪いこと”があったんじゃないか?」
「……殿下」
最初に口を開いたのは、クラリスだった。
だがその声には、哀しみが滲んでいた。
「どうか、これ以上……真実を探らないでください」
「……なに?」
「記憶は、失くしたままのほうが……殿下のためなのです」
他の三人も無言で頷く。
(俺は……何を忘れている?)
ふと、ベッド脇の小箱に気づく。誰も触れようとしないそれを、そっと手に取る。
――ズンッ。
黒い稲妻のような衝撃が、脳を駆け抜けた。
あふれ出す断片的な記憶。
そして、ひとつの名前。
「アリシア……そうだ、アリシアだ!」
愛した女。生涯添い遂げると誓った、本当の妻の名前。
「俺はあのとき、馬車で帰国途中だった。事故に遭って……気を失って……!」
そこで、ひとつの疑問が浮かぶ。
「……俺はすでに、結婚していた。じゃあ、お前たちは……誰だ?」
見知らぬ五人を見渡して、俺は叫んだ。
「俺はお前たちなんて知らない!! いったい何者だ!?」
彼女たちは、不敵な笑みを浮かべて、静かに言った。
「あ〜あ、思い出しちゃった」
「もう少しだったのに」
「ふふ……でも、殿下のことならよく知ってますよ」
「だって、私たち――」
「――殿下のこと、愛してますから」
「大丈夫。また初めから教育すればいいのです」
「……アリシアは!? アリシアは無事なのか!!?」
「では殿下、おやすみなさい」
「――待て、何をするつもりだ! 誰か、誰か来てくれ!」
「誰も来ませんよ。だって、ここ病院じゃありませんもの」
「何を言って――誰か、誰か!」
***
――真っ白だった。
目を開けると、天井。ふかふかの枕。知らないベッド。まるで王族みたいな内装。
(……ここはどこだ? ていうか俺、誰だ?)
頭が痛い。胸がざわつく。何も思い出せないのに、なぜかやけにいい匂いがする。鼻をくすぐるのは、石鹸の香り。そしてすぐ横で、柔らかそうな何かが揺れた。
「殿下! ご無事で……!」
顔を覗き込んできたのは、金髪でふわふわ巻き髪、涙ぐんだ絶世の美女だった。