第七話 「記憶の断片、過去の約束」
王宮の図書塔、その最上階。
この場所を訪れる者はほとんどいない。
高貴なる書の静寂に満ちた、秘密のような空間。
レティシアは今、そこにいた。
「……帝国法典、編纂第十三巻……」
重たい革表紙をめくる。
だが、なかなかそれが頭に入ってこない。
なぜなら今日、偶然耳にした“ある名”が、記憶を揺さぶっていたからだった。
「カイ……そう。どこかで……」
幼い頃。
帝都の街角で出会った、ひとりの少年。
泥だらけで、膝を擦りむいて、それでも諦めずに立ち上がろうとしていた少年。
『名前、ある?』と聞いたら、彼は少しだけ笑って、こう答えた。
『カイ。カイって呼ばれてる』
カイ?
名前が…カイゼルだった?
「まさか、ね」
年齢、出自の曖昧さ、そして――
何より、あのときの瞳と、今の彼の瞳が。
レティシアは、ハッとした。
もし、あのときの少年が彼だったのなら。
もし、彼が自分を“知っていて”近づいてきたのなら。
(私は……)
その先の感情が、うまく言葉にならなかった。
*
カイゼルは王座の間でひとり、玉座の階段に座っていた。
誰もいない夜の大広間。
月明かりが窓から差し込み、静かな影を落とす。
ふと空を見上げた。
あの日、自分に手を差し伸べた少女。
初めて“人に救われた”と思った瞬間。
彼の中で、それまで灰色だった人生に色がついた。
“この人の夢を叶えるために生きる”
すべての努力は、そのためだった。
彼女はそれを覚えていなかったが、それでよかった。
この恋は、求めるためのものではないからだ。
名乗ったのは偽名だった。
境遇も見た目も違っていた。
忘れてしまうのが普通だ。
(覚えていなくてもいい。
それでも俺は、あのときの“救い”を、君に返したい)
それが、愛とか恋とか、そういう言葉よりもずっと深くて。
彼の生きる原動力になっていた。
翌日。
レティシアは何事もなかったように政務室に入った。
けれど、彼女の中では確かに何かが変わっていた。
「……おはようございます、陛下」
「おはよう、レティシア」
その何気ない挨拶に、ふと、あのときの声が重なる。
『ありがとう』
あのとき、泥だらけの少年が最後に言った言葉。
あれは、紛れもなく“カイゼル”の声だったように感じる。
(どうして何も言わないの……?)
彼女がそれを覚えていないことも、
何も言わずに見守ってくれていたことも。
全部、彼は“沈黙して”きたのだ。
「……今日の会議、午後からです」
「ああ、準備はしてある」
「あなたが……陛下が、私と初めて会ったのはいつです?もしかして、ずっと以前に」
カイゼルは驚いた顔で彼女を見る。
「覚えて、いたのか?」
「……」
カイゼルは、少し微笑んだ。
「覚えているとは思ってなかったよ」
「どうして、言わなかったの?」
「必要はないだろう」
その言葉に、レティシアは初めて、何かが崩れるのを感じた。
(言ってくれれば良かったのに)
心が、痛かった。
でもその痛みは、どこか優しくて、温かくて――
「……ずるい人」
「そうかもな」
「こんなに優しくされたら、嫌いになれないじゃない」
「……嫌いにならなくていい」
「……」
「好きになってくれなくてもいい。
でも、隣に居てくれるだけで、俺は満足なんだ」
言葉にならなかった。
けれど、レティシアはただ、うなずいた。
それが、彼女なりの“答え”だった。