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第七話 「記憶の断片、過去の約束」

王宮の図書塔、その最上階。

この場所を訪れる者はほとんどいない。

高貴なる書の静寂に満ちた、秘密のような空間。


レティシアは今、そこにいた。


「……帝国法典、編纂第十三巻……」


重たい革表紙をめくる。



だが、なかなかそれが頭に入ってこない。



なぜなら今日、偶然耳にした“ある名”が、記憶を揺さぶっていたからだった。


「カイ……そう。どこかで……」



幼い頃。

帝都の街角で出会った、ひとりの少年。


泥だらけで、膝を擦りむいて、それでも諦めずに立ち上がろうとしていた少年。


『名前、ある?』と聞いたら、彼は少しだけ笑って、こう答えた。


『カイ。カイって呼ばれてる』


カイ?


名前が…カイゼルだった?


「まさか、ね」



年齢、出自の曖昧さ、そして――


何より、あのときの瞳と、今の彼の瞳が。


レティシアは、ハッとした。


もし、あのときの少年が彼だったのなら。

もし、彼が自分を“知っていて”近づいてきたのなら。


(私は……)


その先の感情が、うまく言葉にならなかった。






カイゼルは王座の間でひとり、玉座の階段に座っていた。


誰もいない夜の大広間。


月明かりが窓から差し込み、静かな影を落とす。


ふと空を見上げた。


あの日、自分に手を差し伸べた少女。

初めて“人に救われた”と思った瞬間。


彼の中で、それまで灰色だった人生に色がついた。



“この人の夢を叶えるために生きる”



すべての努力は、そのためだった。


彼女はそれを覚えていなかったが、それでよかった。



この恋は、求めるためのものではないからだ。


名乗ったのは偽名だった。

境遇も見た目も違っていた。

忘れてしまうのが普通だ。



(覚えていなくてもいい。

それでも俺は、あのときの“救い”を、君に返したい)


それが、愛とか恋とか、そういう言葉よりもずっと深くて。

彼の生きる原動力になっていた。


翌日。


レティシアは何事もなかったように政務室に入った。


けれど、彼女の中では確かに何かが変わっていた。


「……おはようございます、陛下」


「おはよう、レティシア」


その何気ない挨拶に、ふと、あのときの声が重なる。


『ありがとう』


あのとき、泥だらけの少年が最後に言った言葉。



あれは、紛れもなく“カイゼル”の声だったように感じる。



(どうして何も言わないの……?)


彼女がそれを覚えていないことも、

何も言わずに見守ってくれていたことも。


全部、彼は“沈黙して”きたのだ。


「……今日の会議、午後からです」


「ああ、準備はしてある」


「あなたが……陛下が、私と初めて会ったのはいつです?もしかして、ずっと以前に」


カイゼルは驚いた顔で彼女を見る。


「覚えて、いたのか?」


「……」



カイゼルは、少し微笑んだ。


「覚えているとは思ってなかったよ」


「どうして、言わなかったの?」


「必要はないだろう」



その言葉に、レティシアは初めて、何かが崩れるのを感じた。


(言ってくれれば良かったのに)



心が、痛かった。

でもその痛みは、どこか優しくて、温かくて――



「……ずるい人」


「そうかもな」


「こんなに優しくされたら、嫌いになれないじゃない」


「……嫌いにならなくていい」


「……」


「好きになってくれなくてもいい。

でも、隣に居てくれるだけで、俺は満足なんだ」


言葉にならなかった。


けれど、レティシアはただ、うなずいた。


それが、彼女なりの“答え”だった。



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