第六話 「揺れる感情、揺れない意志」
朝の光が差し込む政務室。
窓辺の観葉植物がそよぎ、カーテンの影が床に揺れていた。
レティシア・フォン・グレイスは、今朝も机に向かっていた。
「……議会調整案、優先順位を変えないと。外交部との連携が遅れてる」
集中しているはずだった。
けれど、手元の書類に視線を落としながらも、意識のどこかが引きずっている。
──昨夜の夢。
『君を、迎えに行くよ』
まるで、それがカイゼルの声だったような気がした。
(……くだらない)
そう思い直して、ため息をつく。
けれど、何度打ち消しても、心の奥底で――
ほんのわずかに揺れているものがある。
彼の沈黙。
彼の言葉。
彼の眼差し。
「……揺れては、いけない」
そう呟いて、書類にペンを走らせた。
感情は、判断を鈍らせる。
愛は、隙を生む。
それを理解しているからこそ、レティシアは氷の仮面を崩さない。
「レティシア様」
控えていたセリーヌが声をかけた。
「本日、評議会にて南部商会との交渉議題が急遽入ったとのこと」
「……過保護ね」
「え?」
「わざと、私にとって有利な議題を優先的に出してきた。私に“成功体験”を積ませるつもりなのよ」
セリーヌが苦笑する。
「……過保護がバレてはこのやり方は意味ないのでは」
「彼はそういう人。押しつけず、ただ“支える”」
「嬉しいです?」
「……うるさいわ」
レティシアは立ち上がると、書類を小脇に抱えた。
「お膳立てだとしても、評議会へ行くわ」
その足取りは、強く、揺らぎのないものだった――はずだった。
評議会。
南部交易都市との利権調整が主議題となり、各派閥の代表たちが集まっていた。
レティシアは議場の一角で発言の機会を待ち、隣に座るカイゼルにだけ小さく囁いた。
「また、私の手札を補強したのですね?」
「それが王の務めだからな」
「……過保護な支援は、かえって失敗を誘うこともありますわよ」
「君が失敗しても、俺が補えばいい」
レティシアの指先が、ぴくりと動いた。
その瞬間、議長が指名する。
「王妃殿下、ご意見を」
レティシアはすっと立ち上がり、議場を見渡した。
「南部商会との交易優遇について、現行案では財務省への負担が大きすぎます。
商会に過度な譲歩をすれば、帝国全体の流通構造が歪むことになる。私はこの案に反対です」
ざわつく議場。
「王妃殿下、それはあまりに――」
「それに代わる案として、王立銀行の融資制度を強化する。利子で運用利益を生み出せば、帝国は“与える側”でなく、“貸す側”になれる」
「だが、それには……!」
「時間と根回しが必要? ええ、だから今ここで方針を定めるべきです」
堂々たる口調。
揺るぎない視線。
それはまさに、帝国の“頭脳”としての姿だった。
誰も反論できなかった。
ただ一人、王を除いて。
「……君は本当に聡い」
カイゼルは、誇らしげに笑った。
「違います」
「?」
「私一人では何もできません。陛下の手の上で踊っているだけです」
カイゼルの笑みが、少しだけ揺れた。
「その権利を君だけが得ているからね」
「……そうですね」
ふたりの間に、やわらかな沈黙が流れる。
それは初めての、“穏やかな距離感”だった。
その日の夜。
レティシアは政務室でひとり、窓の外を見ていた。
「……私は、揺れている」
認めるのは、まだ怖い。
けれど、完全に否定することも、もうできなかった。
あの人のまなざし。
あの人の沈黙。
あの人の背中。
そのすべてが、自分の心を静かに揺らしていた。
控えていたセリーヌが、静かに言った。
「悪いことじゃありませんよ」
「……セリーヌ」
「誰かに心を許すことは、悪いことではないですよ?」
レティシアは、窓越しの夜空を見つめた。
(私は、もう少しだけ……この感情に抗っていたい)
でも、いつかその抗いが溶けたとき――
何かが変わる気がしていた。