第五話 「沈黙する皇帝」
皇帝は、怒ってなどいなかった。
責めもしなければ、問い詰めもしない。
ただ、黙っていた。
その沈黙が、レティシアには何よりも重かった。
「……なぜ、何もおっしゃらないのです?」
書類を並べる手を止め、ふと問いかける。
ふたりは例によって、政務室の一角にいた。
隣り合って、それぞれの机に向かいながら、ただ淡々と仕事をこなす。
カイゼルはしばし黙っていたが、やがてゆっくりと答える。
「君は……俺が何かを言えば、耳をふさぐだろう?」
「それは……」
否定できなかった。
何度も、彼の言葉を“感情”と捉えて切り捨ててきたのは、自分だ。
「だったら、黙って見ている」
「……陛下、それはそれで気味が悪いです」
「……」
また、黙る。
レティシアの歯に衣着せぬ言葉は、残酷だった。
彼女を縛らず、追い詰めず、ただ支えるだけ。
それだけで、自分の感情を成り立たせる彼の在り方がどうしても理解出来ない。
(どうして……優しくされるのが、一番怖いのかしら)
レティシアは小さく息を吐いた。
彼のやさしさは、あまりにも“理想の夫”で。
それゆえに、自分の中の防壁を崩してくる。
「私は……器用な人間ではありません」
「知ってるよ」
「腹立たないのですか……?」
「不器用な人間が、一生懸命何かを成し遂げようとする姿は、美しい。どうして腹を立てる必要がある?」
まただ。
この男は、どうしてこんなに真っ直ぐな言葉を投げてくるのか。
レティシアは思わず目を伏せた。
その日、政務室を出たあとの彼女の足取りは、いつもより少し重かった。
廊下の向こうから、セリーヌが歩いてくる。
「お帰りなさいませ、レティシア様。陛下と何かありましたか?」
「……あの人は、ずるいわ」
「ずるい?」
「優しすぎるのよ。……責めてくれた方が、よほど楽なのに」
セリーヌはしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……でも、その優しさに、少し救われた顔をしてらっしゃるわよ」
「してません」
「はいはい。してませんね」
肩をすくめるセリーヌに、レティシアは小さく苦笑を浮かべた。
「……セリーヌ、北部の件、ありがとう。あなたのおかげで資金の流れを掴めたわ」
「どういたしまして。いちごタルトで手を打ってよかった」
「……今度は何が欲しいの?」
「そうね……じゃあ、陛下との初夜の話でも聞かせて欲しいですね」
「却下」
「私が夜伽に向かうことに妬いたりしないのですか?」
「私が陛下に?セリーヌを取られたからと言って妬いたりしないわ」
「そっちじゃないです」
「セリーヌがいないと困るわ」
そんな他愛ない会話が、少しだけレティシアの胸の重さを和らげていた。
夜。
カイゼルは執務机に座り、静かにペンを走らせていた。
王としての職務は山積みだが、それでも彼は、
“彼女の隣にいるため”だけに、この地位を手にした。
「レティシア……」
誰もいない部屋で、その名を呟く。
彼女があの日、幼き自分に手を差し伸べてくれたこと。
泥にまみれて、打ち捨てられた自分に言った言葉。
『あなたも、変われるわ』
その言葉が、彼の人生を変えた。
だからこそ、彼は変わった。
剣を学び、学問を修め、帝位を継ぎ、すべてを手に入れた。
「……愛されなくてもいい。
でも、せめて、“支え”としてなら、認めてほしい」
彼の声は、夜の帳の中に、そっと溶けていった。
その夜。
レティシアは夢を見た。
まだ少女だった頃、帝都の片隅で迷子になった自分に、
手を差し伸べてくれた少年の夢。
その瞳は、どこかカイゼルに似ていた。
「あなたも私と一緒にこの国を動かさない?」
「…国、を?」
その言葉だけが、ずっと耳に残っていた。