第四話 「セリーヌ」
セラフィア帝国王宮、北棟・三階の一室。
その部屋は、皇妃付き侍女・セリーヌ・ルナリアの私室である。
「ふぅ……今日もお疲れさま、私」
深く開いたネックラインのガウンを羽織り、鏡台の前に腰かけたセリーヌは、頬杖をついて自分の顔を見つめた。
「……やれやれ、偽りの“愛人候補”業も、板についてきたわね」
鏡の中の女は、ため息をつくでもなく、笑うでもなく――
ただ、何かを悟った目で自嘲していた。
セリーヌ・ルナリア。
もとは帝都でも名高い舞姫。
貴族に寵愛され、舞台を降りたあとは情報屋として暗躍していた。
そんな彼女が、“政略結婚する王妃の味方が必要”と耳にしたのは、三年前のこと。
当時、すでに政略の道具として婚姻が決まりかけていたレティシア・フォン・グレイス。
名家に生まれ、完璧であることを求められ続けた少女。
「“完璧な女”は、心を凍らせるしかないのよね……」
そう囁いた彼女に、レティシアは一言だけ答えた。
『あなたの心を信じるとは言いません。でも、あなたの頭は使わせていただきます』
おかしな女。けれど、嘘を言わない女だった。
だからこそ、セリーヌは“彼女を裏切らない”と決めた。
そして今。
彼女は“王妃夫の愛人役”を演じている。
というのも、カイゼルが不憫でならなかったからだ。
初日のあれ以外、レティシアはそんな事すら忘れているのか、何も聞いて来ない。
皇帝カイゼルに肩入れし、少しでも嫉妬が芽生えればと思い協力してはいるが、ほぼ意味がなかった。
「……にしても。あの皇帝陛下も物好きね」
セリーヌは、指先で唇をなぞる。
「私に見向きもしないなんて」
その視線は、最初から最後まで――“レティシア”に向いていた。
セリーヌは知っている。
あの男が、王妃をどれだけ想っているか。
どれだけ無償に近い感情で、彼女を支えているか。
(……同じ女として、羨ましいとも思うわ)
けれど、それをレティシアに伝えたところで、馬の耳に念仏。
だから彼女は、今日も軽薄に笑う。
「さて。明日は誰に色目を使って、情報でも引き出そうかしらね」
*
翌朝、政務室では――
レティシアが難しい顔をして、ひとつの報告書を読んでいた。
「北部軍備費が急増? どうして……?」
不審な動きがある。
この報告の裏には、必ず何かがある。
「……セリーヌ、セリーヌはいる?」
「呼ばれずとも、参上よ」
「お願いがあるの」
セリーヌに、レティシアは書類を差し出した。
「この“軍備費増額”の件、調べてほしい。陛下の耳にも入ってない様子だから、たぶん、評議会の誰かが動かしてるわ」
「了解。で、報酬は?」
「王妃からの“評価”は?」
「足りない」
「じゃあ、今夜のデザートのいちごタルトを譲る」
「取引成立!」
ぱちん、と指を鳴らして立ち上がるセリーヌ。
その足取りは軽いが、瞳は鋭くなっていた。
「……気をつけてね」
「わかってる。私は、“王妃という名の革命”の影法師だもの」
そう言って、セリーヌは闇へと消えていく。
王妃という光が強ければ強いほど、
その影は深く、鋭く、静かに動く。
彼女もまた、レティシアへ忠誠を違う者の一人だ。
その夜。
カイゼルの寝室に、文官のひとりが駆け込んできた。
「陛下、失礼いたします! 王妃付きの侍女セリーヌが、城下の貴族街で目撃され――」
「……ああ、レティシアの指示だろう」
「おそらく……ですが、詳細は不明です」
「追わなくていい。セリーヌに手出しをした者がいたら、そちらを処罰するように」
「はっ……!」
文官が去ったあと、カイゼルは独りつぶやく。
「セリーヌ…」
彼女は、王妃の影でありながらも、ただの道具ではない。
それを、カイゼルはわかっていた。
そして、羨ましくてしかたなかった。
一方その頃、セリーヌは貴族街の一角、社交サロンの裏口から姿を現していた。
「……やっぱり。噂どおり、北部貴族連合が動いてるわね」
軍備費の裏には、反皇帝派が資金洗浄に使っている財団があった。
それを掴むには、“女の顔”が要る。
男に近づき、笑い、耳元でささやく。
セリーヌはその“演技”に、もう何のためらいもなかった。
(私の役目は、“彼女の邪魔をするやつは皆、排除すること”)
それだけが、自分がここにいる理由。
セリーヌはそっと夜を駆ける。
王妃のために。