それでも、名は遺す
王宮の夜は静かだった。
カイゼルは、王宮西翼の私室――
小さな書斎と寝室を兼ねたその空間の隅で、静かに息子を見下ろしていた。
まだ一生を受けたばかりの皇子は、小さな寝台の中で、時折ぴくりと指を動かしながら眠っている。
「……お前は、この帝国で、どんな名を背負うのだろうな」
小さく、問いかけるように、誰に聞かせるでもなく呟いた。
カイゼル。
戸籍すら曖昧な場所で生まれ、何者でもなく育ち、
知識と意志だけを拠り所に、帝国の中心まで辿り着いた。
だが、玉座に座った今だからこそ、
“血筋”という言葉は、彼の耳にこびりついて離れない。
彼は望んで即位したのではなかった。
誰よりも帝国を理解し、支えられると証明し、
だからこそ選ばれた――それが事実だった。
だが、子を持った今、初めて知ったのだ。
「“継がせる”ことの重み」を。
「血のない皇帝に、帝位を託す正当性はあるのか」
誰にも聞かれていないはずのその疑問を、
レティシアが、何度か耳にしたことを知っている。
彼女は毅然としていた。
「血ではなく構造を受け継がせる」と語っていた。
だが、彼自身の中にある“空白”が埋まることはない。
子が産声を上げたその日。
レティシアは笑って言った。
「この子には、あなたの名を継がせましょう」
その言葉が嬉しかった。
嬉しすぎて、言葉にできなかった。
だが、夜が来ると、ふと思う。
自分の足跡は、果たして、
この子にとって“誇り”になるのだろうか。
それとも――“足枷”なのか。
ふと、書斎の隅の棚に視線をやる。
そこには、過去の皇帝たちの肖像画が並んでいる。
血族の名を受け継ぎ、絢爛な系譜の中で“継がれてきた男たち”。
その列に、自分の名が加わることに、いまだ違和感がある。
「お前は、父の名を、誇ってくれるだろうか」
その問いに、眠る皇子は当然、答えない。
だが、代わりに、書斎の扉が静かに開いた。
「……また考えていたのね」
レティシアだった。
白い室内着に身を包み、足音もなく近づいてきた。
「この子の未来に、あなたの名が傷をつけるんじゃないかって――
そう思ってる顔だわ」
彼は否定も肯定もしなかった。
「……名は、呪いにもなる。私には、それがよく分かる」
「あら、あなたの名前は私がつけたのよ」
カイゼルは、彼女の声を静かに聞きながら、
再び皇子を見下ろした。
その小さな手の中に、自分が託せるものは何か。
「もしも、この子が“私の名”を継いで苦しむ日が来たら……」
「大事なのは名ではないわ。そしてその名は決して、呪いにならないわ」
カイゼルは、やっと、わずかに笑った。
「語れるだろうか。私に」
「でも、きっとこの子が教えてくれる。
あなたの名が、どれほど強くて優しいかを」
その夜、カイゼルは初めて、
“自分の名を継がせる”ということを、肯定できた気がした。
それはまだ、不安の残る形だったが――
それでも、彼はこの国に、“名を遺す”と決めたのだった。




