― レティシア出産編・カイゼル立ち会い ―
帝国歴833年・冬至の夜。
静かな雪が王宮の屋根を白く覆っていた。
内殿の奥、王妃の私室。
その中には、緊迫した空気と、ひとつの命の誕生を待つ時間があった。
「っ……ぅ、はぁ、っ、は……っ!」
絹を裂くような息遣いの中で、
レティシアは額に浮かぶ汗を拭うことすらせず、
ただ、全身を震わせて耐えていた。
「レティシア……!」
その傍らに、いつになく強く手を握りしめている男がいた。
カイゼル。
帝国の皇帝であり、今はただのひとりの夫。
彼の額にも、うっすらと汗が滲んでいる。
「大丈夫だ、俺がいる。……ここにいる」
その声は震えていた。
普段、どれだけ冷静沈着な政務を裁いても、
今この瞬間だけは、ただ無力だった。
「い、た、い……っ……カイゼル……!」
「いる、いるぞ、ここにいる」
カイゼルは何度も手を握り直した。
医師が声をかける。
「陛下、しっかりと王妃殿下の呼吸を導いてください。
次の波が来ます――いきんでください、王妃殿下!」
「っは、は……っ、っ、あああああっ!」
産声の代わりに、レティシアの悲鳴が響く。
カイゼルの指先は、骨がきしむほどに強く握られ、
それでも彼は、その手を絶対に離さなかった。
「おい、もう終わるんだな、これで終わるんだな……」
彼は誰にともなく、あるいは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「もう少しです、王妃殿下……!」
やがて、
「……産まれました!」
その一言が室内に響いた。
小さな、小さな声が、それに続くように――
「……あ、あ……おぎゃあっ、おぎゃああっ!」
「……!」
レティシアは全身から力が抜け、
カイゼルはその手を離すことも忘れて、
ただ、息を呑んでいた。
抱き上げられた赤子は、濡れた髪と小さな手足で、
この世界に精一杯の叫びを上げていた。
「男児……立派な男の子です」
医師がそう言った瞬間、
カイゼルの視界が、滲んだ。
「……っ、ああ……」
男の声ではなかった。
それは、震えた魂の、嗚咽だった。
「ありがとう……ありがとう……レティシア……」
「ありがとう、生まれてきてくれて……」
涙が頬をつたっていた。
王も、皇帝も、何も関係なかった。
彼はただ、父になった。
「この子が……俺たちの……」
「そう…よ」
レティシアは微笑んだ。
顔は汗に濡れ、髪も乱れていたが、
その眼差しは何よりも美しかった。
「あなたの名に、誇りを持てるように育てましょう」
カイゼルは、震える手で、
赤子の額にそっと触れた。
「俺の名を……」
その夜、帝国は静かだった。
ただ一つの命が、確かにそこに生まれた。




