外伝第8話:帝国記録補遺 ―カイゼル外伝・終章―
帝都・参謀局本館 中庭――春
戦が終わり、ようやく街に花の色が戻りつつあった。
衛兵の靴音も静かで、空を飛ぶ伝令鷲の姿もまばら。
かつて激しい情報と命令が飛び交った帝都に、ようやく“日常”というものが根を張り始めていた。
その中庭の片隅、ベンチに座る一人の青年。
カイゼル。
白い軍服の襟元に、新設された“楔章”が輝いている。
「閣下、今日の訓練予定ですが……」
「午前は座学だけにしてくれ。午後は、新入局員との懇談会だ」
「了解です」
かつて戦場を設計した彼が今、設計しているのは“帝国の未来”だった。
午後、参謀局士官学校にて。
カイゼルは若い候補生たちに囲まれ、笑いながら紙を広げていた。
「この線はな、俺がまだ“無名”だったころに使ってた抜け道だ。
普通は誰も通らない。だが、誰も通らないからこそ――安全だった」
「……でも、それじゃ怖くないですか?」
「怖いさ。だが、選択肢が一つしかなかったら、それを“最良”に変えるのが、設計者の仕事だ」
その言葉に、少年の目が真剣になる。
日が傾き、カイゼルはまた一人、軍政庁の屋上に立っていた。
風がない。
静かな空を見上げながら、彼は小さく呟いた。
「……風が、止まったな」
誰もが、ひとつの時代の終わりを感じていた。
帝都・参謀局資料棟地下室――数日後
ここは、極秘資料や戦略案の草稿が眠る場所。
だが今、カイゼルはそこに“ある一冊の帳簿”を置いていた。
中身は――帝国の記録には残らなかった、
伝令時代の小さな逸話や、士官たちとの昼食のメモ、戦後に届いた子どもたちの手紙。
「記録されない日常こそ、本当の帝国だと思うんだ」
そう語った彼に、隣にいた士官は照れくさそうに笑った。
「閣下って、そういうこと言うから“人間味”あるって言われるんですよ」
「……俺は、ただ“守ってきたもの”を忘れたくないだけさ」
その後も、カイゼルは時折資料棟の奥で一人、
書きかけの地図や走り書きの回想録を手にしていた。
戦術でも政治でもない、“名を継ぐ者”たちの背に届くような言葉を探して。
ある日、訓練場で新人兵士が転倒した。
誰かが笑いそうになったそのとき――
カイゼルはそっと歩み寄り、手を差し出した。
「……痛むか?」
「い、いえ、大丈夫です……っ」
「そうか。じゃあ次は、転んでも起き上がる設計をしような」
その言葉に、周囲の笑い声が自然と止んだ。
それは、“刃”としてではない、
“名”として彼が残した、ささやかな日常の景色だった。
帝都・士官学校別館 教室――ある雨の日
黒板の前に立つカイゼルは、手元の古びた紙を掲げた。
「これは、俺が十六のときに描いた“戦術地図”だ。
今となっては粗だらけで、たぶん机の上じゃ通用しない。だが――」
教室の全員が息を呑む。
「これを描いていたとき、俺は“誰かを死なせないようにするにはどうしたらいいか”だけを考えてた。
だから、これが俺にとっての“帝国の設計”だ」
静かに響いたその言葉に、一人の少女が手を挙げた。
「カイゼル閣下。これから先の帝国も、誰かが設計できるんでしょうか?」
しばらく考えたあと、彼は答えた。
「できるさ。ただし、“その設計図を誰が背負うか”が、一番大事なんだ」
その夜、カイゼルは執務室で新しい書類を眺めていた。
《帝国次期基幹士官候補名簿案》
そこには、かつての補給兵、伝令助手、書記見習い――
名もなき時代を共にした者たちの名が並んでいた。
「……いい地図になる」
その言葉と共に、彼は自らの地図に新たな線を引いた。
未来へと繋がる道。
それは、血筋ではなく“責任”によって選ばれた線だった。
そしてその時、彼の手元にはもう一つの書きかけの地図があった。
“名を継ぐ者”のために。
“刃を抜かずに済む帝国”のために。
帝都・歴史文書館 最奥記録室――後日
蝋燭の揺れる静かな部屋の奥。
帝国の公式記録が収められる“封書棚”の最下段に、一冊の薄い帳面が納められた。
表紙には、ただ一言――
《帝国記録補遺》
そしてその下に、手書きで記されていた。
《著:カイゼル》
そこに記されたのは、戦果でも軍略でもなく、
ある日交わした会話、訓練場での笑い、旧友から届いた一通の手紙。
「帝国とは、意志だ」
「名とは、責任を背負う覚悟だ」
「そして設計とは、誰かの未来を信じて描くことだ」
ページの端には、誰かの涙の跡が滲んでいた。
さらに何十年かの時が経ち、
一人の士官候補生がその記録を読み、そっと呟く。
「……カイゼルという人は、
ほんとうに、帝国を“設計”したんだな」
その傍らには、彼と同じ“名を持たぬ者”から届いた、推薦状の写しがあった。
やがて帝国は変わる。
構造も、人も、政も、全てがまた新しい風の中を進んでいく。
だが――どれほどの時が経っても、
“名を刻んだ者の設計図”は、どこかで誰かの背中を支えていた。
帝国歴820年、初夏――
帝都では、静かな波紋が広がっていた。
“カイゼル外伝”として記録された戦乱の終結から三年。
カイゼルは帝国戦術局副長官として、軍政・内政の枠を越えて“構造の設計”を任されていた。
王家の血統はすでに絶えかけ、帝国は「象徴なき国家」として危うい均衡を保っていた。
そんな中――
帝国評議会から、ついに公式提案がなされる。
《帝国宰相格・戦術局副長官カイゼルを、国家元首の座に推戴することを提議する》
それは、かつて皇帝に仕えた者ではなく――
「帝国そのものを設計した者」を、皇帝に据えるという“逆説”。
だが、当の本人は――
帝都南部の旧戦略工房にて、
カイゼルは黙々と、新たなインフラ配置図を描いていた。
「“皇帝の席”を作っている暇があれば、
農村と帝都を結ぶ路線を一本、正確に引いた方が未来は動く」
そう言って笑う彼に、アリステア元帥は微笑を返した。
「それが君の“即位宣言”だとしたら、帝国にとっては最良の演説だよ」
帝都議事堂・正門前。
その翌週、“推戴式”が行われるはずだった壇上に、カイゼルは現れなかった。
ただ、一通の声明文が読まれる。
《帝国の象徴とは、壇上に立つ者ではなく、
背後に立ち、前に進む者の道を設計する者である》
《私は“王”ではない。“帝国”の設計者だ》
それでも、民は静かに知っていた。
この国に今、“名を刻んだ皇帝”がいることを。
推戴式の朝、帝都には特別な鐘も、行進もなかった。
皇位を継ぐというのに、花も旗もなかった。
ただ一つ、朝の陽だけが静かに広場を照らしていた。




