第二話 「氷の王妃と献身の王」
セラフィア帝国の朝は早い。
太陽が地平線を割って顔を出すより前に、文官たちは議事堂の扉をくぐり、政務官たちは報告書を手に走り、侍女たちは宮廷の調度を整える。
そして皇妃レティシアは、薄明の時間に書斎へ入る。
「おはようございます、陛下」
「おはよう、レティシア」
もう何度目になるのか、ぎこちない挨拶のやりとり。
けれどそれすらも、カイゼルにとっては“進歩”だった。
以前のレティシアは、目も合わせようともしなかったのだから。
彼女はもう椅子に座り、早朝から政務書類の山に取り掛かっている。
帝国内の地方都市の財政改善案。新たな流通税の提案書。魔法士ギルドからの助成金申請。
「……この水運税、去年よりも10%も高くなってる。地方の財政が逼迫してる証拠だわね」
「……それは、港町バルメルが連続して盗賊被害を受けているからだ。自衛に金を回しているらしい」
「……では、いっそ警備隊を中央から派遣して、“帝国保護下”の名目で港の管理権を奪ってしまえばいい」
「奪って、とは物騒な」
「事実上、そうなるでしょう? 言葉を柔らかくすればいいのよ。“帝国による港湾安全維持の一環として”って」
さらりと政略を組み立てるその様子に、カイゼルは思わず微笑んだ。
「君が帝国を背負えば、百年の安寧が訪れるかもしれないな」
「お褒めに預かり光栄です」
一切表情を変えずに答える彼女の横顔を、彼はそっと見つめた。
いつも忙しく書を読み、ペンを走らせ、そしてため息をつく。
そうやって、少しも自分を見ようとしない。
――それでも、構わない。
隣にいて、手を貸し、支えることができるのなら。
彼女が国を変える道を望むなら、王としてその道を整える。
自分の存在が、彼女の「不要なもの」であっても。
「……少し、休まないか?」
「結構です」
「お茶を――」
「飲みません」
「では、せめて朝食を――」
「要りません」
すぱすぱと斬られる提案に、近くで控える侍女たちが震える。
だが、カイゼルは慣れたものだった。
「わかった。では、何かあれば呼んでくれ」
そう言って、自分の手元の資料に目を落とす。
宮廷の者たちは皆、こう思っている。
――冷たい王妃に、なぜあの皇帝はそこまで尽くすのか?
答えはただ一つ。
愛しているからだ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
その日の昼、宮殿の中央庭園では、各国の使節団を迎える小宴が開かれていた。
レティシアはその場に、皇妃として出席していた。
煌びやかなドレスに身を包み、整った微笑を浮かべ、外交用の仮面を完璧にかぶっている。
一見すれば、誰もが彼女を「気高く美しい王妃」と称えるだろう。
だが、カイゼルは知っていた。
この仮面の下にある、あまりにも繊細で脆いものを。
「レティシア様」
声をかけたのは、東方国の大使だった。
「お聞き及びですかな? 我が国では王妃が外政を仕切ることなどありえませぬ。女性が前に立つことなど……失礼ながら、帝国の品位を損なうと考える向きもあります」
静かに、けれど侮蔑を含んだ声。
周囲の空気が少し張りつめた。
だがレティシアは、微笑みを崩さずに言った。
「それはご心配いただき、ありがとうございます。ですが帝国では、誰が“前に立つか”よりも、“何を成すか”が重視されるのです。どうぞ貴国も、実績に応じた評価をなさってください」
「……!」
使節の顔がひきつる。
それを見た他国の貴族たちが、くすくすと笑った。
完璧な応対。完璧な政治家。
誰もが認める“帝国の女狐”。
だが、カイゼルにとっては――
*
その夜。
執務室で再び並んで座る二人。
レティシアは資料に目を通しながら、不意にぽつりと言った。
「……陛下は、どうして私にここまでよくしてくださるのです?」
「どうして、とは?」
「私はあなたに愛を求めないと初夜に言いました。……それでも、あなたは、私を否定しない」
「……君に否定する部分などないからだよ」
「?」
カイゼルはペンを置いて、少し笑った。
「君は俺を必要としない。でも、排除はしなかった。
王妃として、共に政を行うことを拒まなかった」
「それは……仕事です」
「それでいい」
レティシアは、初めて“目をそらした”。
その視線が伏せられたことに気づいて、カイゼルはそっと続ける。
「君が誰にも心を預けないことは知っている。
だが俺は、君が王妃でい続けるために、存在している」
「……」
レティシアの指が、ほんの少し震えていた。
それを、カイゼルは見なかったふりをした。
「では、先に休ませていただきます。おやすみなさい、陛下」
「……ああ。おやすみ、レティシア」
彼女の背が扉の向こうに消えるまで、彼はその名を口の中で繰り返していた。
――レティシア。
どんなに心が通わなくても。
それでも、俺には君が全てだ。
それは決して、政治のためではない。
ただ一人の女性として、君を愛しているから。
その夜、レティシアは眠れなかった。
薄暗い寝室のベッドに身を沈めながら、
胸の奥にわずかに残った、あの言葉が何度も反響する。
「俺は、君が王妃でい続けるために、存在している」
彼は、どうしてあんなふうに言えるのだろう。
どうして、あんな顔で笑えるのだろう。
彼女の心に、かすかに亀裂が入る――
それは、長く凍てついていた氷に、春の水が触れたような、わずかな音だった。