外伝第2話:与えられた名「カイゼル」
王都東区・第七軍施設――
少年カイゼルが新たに配置されたその場所は、帝国軍の最下層に位置する「雑用管理舎」だった。
戦場へ赴く将兵のための兵装倉庫。
食料の積み下ろし。
汚れた軍靴を磨き、兵舎の便所を清掃する。
誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。
それが“兵にすらなれない者”の務めだった。
けれど、彼は一度も不満を口にしなかった。
「……カイゼル、おまえ今日もやるな。覚え早いな」
「……報告は全部、文字にできるんだな。誰に教わった?」
「……声がでかいだけの奴より、あいつの方がずっと使える」
目立つことを嫌いながらも、自然と存在が浮かび上がっていく。
“意志ある者”――カイゼル。
レティシアに名付けられたその名に、彼の背筋が支えられていた。
まだ誰にも知られていない未来の王は、
いま、名を背負い、帝国の底辺を歩き始めていた。
カイゼルが第七軍施設に配属されてから、最初の三ヶ月は「掃除」と「物運び」しか任されなかった。
食堂の床、兵士たちの私物倉庫、訓練場の排水溝。
どれも「誰もやりたがらない」からこそ、黙ってやる者が重宝される。
カイゼルは一言も愚痴を言わず、いつも黙々と仕事を終わらせた。
朝は夜明け前に起き、備品庫の鍵を預かる者よりも先に待機していた。
そんなある日、軍吏官の一人がぽつりと呟いた。
「……あの子、誰に教わったんだ?」
「なにが?」
「今日の納品台帳、あいつが勝手に写し直してた。元のよりずっと読みやすい」
「まさか、あの歳で?」
「誤字もない。軍規も通ってる。誰かに正式に教わった跡がない。……まるで、読み書きが本能みたいに入ってる」
それを聞いた上官は一言だけ漏らした。
「……気味が悪いな」
カイゼルはそれを、聞いていた。
だが彼は表情を変えず、ただ記録帳を閉じた。
彼にとって「読み書きができること」は、武器でもあり、鎧でもあった。
――あの日、名前を与えられた日から。
自分という存在を証明するために、“記録できる者”になると決めたのだ。
その日を境に、彼は「無言の小間使い」から、「記録係見習い」へと昇格する。
記録係見習いとなったカイゼルは、兵站部の雑多な帳簿を預かるようになった。
「弓矢の束数、補充履歴、倉庫の鍵貸与簿……これ、全部通しでチェック?」
「文句言うな。今のうちに覚えとけ。下っ端のうちに苦労しておくのが出世の基本だ」
「出世……」
その言葉に、カイゼルはほんの少しだけ眉を動かした。
「……俺にも、できるのか?」
「は?」
「上に行くこと。俺みたいな、孤児にも」
担当の古参兵はしばらく黙り込み、ふっと息を吐いた。
「できるさ。書けて、読めて、命令を間違えずに伝えられる奴は、“生き残る”。
そして生き残る奴が、最後には勝つ。――軍ってのは、そういう場所だ」
その言葉を、カイゼルは深く心に刻んだ。
季節は春になり、初めての遠征訓練が行われた。
王都から二十リーグほど離れた演習場へ、兵員三百、補給部隊四十名の大移動。
その補給記録班に、見習いとしてカイゼルも同行することになった。
「戦地じゃないから安心しろ。ただの野営訓練だ。記録と計数が仕事だ」
そう言われていたにもかかわらず、到着初日に事件は起きた。
部隊の到着を受け入れるはずの現地軍司令部が、手違いで配置を忘れていたのだ。
寝具はない、食料の受け取りも遅れている。しかも天候は悪化。
怒号が飛び交い、下士官たちが右往左往する中――
カイゼルは一人、記録簿を手に前に出た。
「臨時指揮所、設営を。倉庫から支給可能な備品一覧はこちらにあります。
本部とは伝令を通じて再確認済み。伝達漏れは第六連隊側の手配ミスです」
誰も彼を止めなかった。
その場にいた年上の副官が、ぼそりと漏らした。
「……おい、誰だあれ。見習いか? ……いや、あれ“参謀”じゃねえのか……?」
カイゼルはその日、はじめて“声に出して命令”した。
十三歳の春。
帝国の中で、最初の“彼に従った”兵士が生まれた日だった。
野営訓練から戻ったあと、少年カイゼルの名は静かに“軍の中”で広まり始めていた。
「第七補給小隊の記録見習いが、現地で指示を出したらしい」
「軍吏を差し置いて? 嘘だろ?」
「命令形で話したってさ。“臨時指揮所の設営を”って」
「それって、……あれだよな。“軍の目”が注目するやつ」
“軍の目”――帝国軍内の選抜観察機関。
階級に関係なく、若年者から将来性のある人材を抽出・推薦する独立班である。
そこに、カイゼルの報告書が届いたのは、訓練から戻って一週間後のことだった。
推薦者の名は、補給部第3中隊副官・マルコス准尉。
「読み書きと整理能力が高い。命令の意味を理解した上で他者に伝達できる。
しかも本人に“指揮する意志”がある。自発性を確認済」
その報告を受け、“軍の目”所属の教育士官が彼を訪ねてきた。
「おまえ、何者だ?」
「……雑用兵です」
「名前は?」
「カイゼル」
「年齢は?」
「13です」
士官はしばらく彼を見つめ、メモを取り、ぽつりと呟いた。
「……まあ、間違いないな。君、軍学校に入る気は?」
「……入れるんですか、俺が」
「推薦すればな。“戦地で使える知能と自立心を持つ者”という条件は満たしている」
「条件は……それだけでいいのか」
「違う。問題は、“自分で登りたいかどうか”だ」
その言葉に、カイゼルは黙ってうなずいた。
それから数日後。
正式に“軍教育課程への特別進学候補”として、彼の名が名簿に刻まれた。
「名前がある」
その文字を見て、彼は心の中で誰かに告げた。
“ほら、俺はちゃんと、あのときの名前で登ってるよ”――と。
帝国王都軍教育学舎――通称「王都軍学校」。
ここは将来、軍の中枢を担う人材を育てるための特別な教育機関であり、
その入学者の大半は貴族階級の子息だった。
カイゼルが校門をくぐった日。
周囲にいた者たちは、誰もが彼を一瞥し、すぐに目を逸らした。
「平民? いや、あれ、書記兵出身か?」
「雑用上がり? 推薦枠か。やれやれ……また“記念入学”かよ」
「下層の奴は大抵一年ももたない。覚えとけ」
そう囁く声を、カイゼルはすべて聞いていた。
けれど顔色一つ変えなかった。
教室でも、実技訓練でも、彼はひたすら“記録”し、“観察”し、“無言でこなす”。
剣技の試験では並以下。
魔術適性は「無」と判定された。
だが、戦術理論と歴史課題だけは常に上位を取り続けた。
ある日、上級生の一人が彼の記録ノートを覗き込み、眉をひそめた。
「……なんだこれ。配備予定と人員流れが全部……一人でまとめたのか?」
「見取り図付き。しかも間違いがない……」
講師がそのノートを手に取り、開いて、しばらく黙り込む。
「君、これはどこで学んだ?」
「現地で。実際に見ました」
「兵站の移動経路を“視覚的に記録”できる者は、参謀候補に少ない。……よく見てるな」
「見てるだけじゃ意味がありません。意味を知って、動けるようにならないと」
その言葉に、講師は小さく笑った。
「……君、“王の器”があるな」
それは、カイゼルがまだ知らぬ、自身の血に通じる予兆だった。
軍学校三年目の春。
生徒たちが最も恐れ、最も燃える課題――模擬戦略演習がやってきた。
年に一度、軍事顧問団の前で行われるこの演習は、
指揮官、参謀、前衛、後衛、それぞれの役割を分担し、
自らの指揮能力・判断力・戦術眼を競う、まさに“軍人の登竜門”だった。
だが、その年の班分けは“悪意がある”とすら言われた。
カイゼルの班には、他の貴族子弟たちの“落ちこぼれ”とされる生徒ばかりが集められていたのだ。
「……またか。嫌がらせってことか?」
「見ろよ、あいつが指揮官らしいぜ。雑用上がりがトップだってよ」
「マジかよ、終わったなこの班」
だがカイゼルは、眉一つ動かさなかった。
「この演習、勝つ。ルールをすべて理解して従えば、勝機はある」
「……お前、本気で言ってるのか?」
「本気でなきゃ、ここにいない」
彼は三日前から寝ずに、過去十年分の演習記録と勝率データをすべて洗っていた。
地形、気象、判定官の傾向、使用可能装備、模擬弾数、撤退ライン――
そのすべてを分析し、最も“勝てる戦術”を立てていた。
演習当日。
模擬戦が始まると、他の班は勢いよく突撃・防衛を展開したが、
カイゼルの班は一切動かなかった。
ただ、沈黙のまま待ち伏せ、陽動を誘い、誘導と分断で敵を刻む。
講師団がざわめく。
「……これ、本当に学生の指揮か?」
「機動封鎖と陽動が同時に? 初動でそれを読むのは、経験者でも難しいはずだ」
最終的にカイゼルの班は、模擬戦史上最高の
**“損害率3%以下・敵戦力制圧100%”**で勝利を収める。
結果発表のあと、ひとりの教官がつぶやいた。
「……この結果、上に報告しておこう。“カイゼル”の名と共に」
彼の名は、もう“名もなき孤児”ではなかった。




