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【完結】政略結婚なので愛は不要と告げた初夜に、妻は夫に愛人を紹介しました  作者: 一ノ宮ことね


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外伝第1話:名もなき孤児、カイ

王都第三孤児院。

そこは、帝国の誰もが存在を知りながら、見て見ぬふりをする場所だった。


病と戦争で家族を失った子どもたち。

貴族の不義の末に生まれ、認知されなかった子。

犯罪者の末裔として名前を消された子ども。


カイもそのひとりだった。


正確な年齢は誰も知らなかった。

ただ、孤児院に記録された最も古い名簿に、彼の存在があった。


冷たい雨が、窓ガラスを叩いていた。


石造りの古びた建物は、しみついた湿気と埃の匂いで満ちており、

その廊下の隅で、一人の少年が小さな布切れの上に膝を抱えて座っていた。


少年の名はなかった。

看護係が名簿の記録代わりに割り当てた識別符号――“C-Aiカイ”が、彼の呼び名だった。


年齢も曖昧だった。おそらく十歳前後。

髪は伸び放題で、目はよく見えたが、誰とも目を合わせようとしない。

言葉は話せたが、必要なときにしか喋らなかった。


孤児院では、生き残るためのルールがある。

喋らないこと。笑わないこと。目立たないこと。


「おい、そこの汚物。配膳手伝え」


年上の少年に呼ばれ、カイは立ち上がる。

足音を立てず、厨房へ向かい、パンとスープの盆を担いだ。


淡々とした作業の中で、彼はいつも“時計の針”のように動いていた。

感情をはさまず、言葉を返さず、ただ指示に従う。




“あの日”までは――


雨が本降りになった午後、いつものように年長に追いかけまわされ、敷地外に逃げ、物陰に潜んでいた。


身体が小さく、汚いといつも標的にされた。

投げ飛ばされて足が負傷していた。


膝を抱え、石畳を濡らす雨粒をぼんやりと眺める。


ただ静かに、冷たい世界を見ていた。


そんな時、誰かの駆ける足音が聞こえた。


「……あれ?」


少女の声だった。


カイが顔を上げると、淡い銀髪を濡らしながら、ひとりの少女がそこに立っていた。


高価そうな外套、真珠をあしらった髪飾り――貴族。それも、相当な家の子だ。


だが、彼女は目の前のカイを見て、一瞬ためらっただけで近づいてきた。


レティシアは思わず近づき、しゃがみ込む。


「……だいじょうぶ?」


少年は身を引き、何かを守るように腕を抱える。


「触るな……汚れる」


「……汚れる? そんなこと、誰が言ったの」


「みんな」


レティシアは眉をひそめる。


「名前は?」


「……カイ、って呼ばれてる」


「“呼ばれてる”……本当の名前じゃないの?」


「知らないんだ」


ほんの一瞬。

レティシアの表情が揺れた。


そして、そっと手を伸ばす。


「いこう、汚れないから心配しないで」


少年の手が、震えながらも差し出される。


――それがふたりの、最初の出会いだった。




レティシアはそっとその手を包むように握る。


「……行きましょう。濡れてると、風邪ひくわよ」


「どこへ?」


「うーん……そうね、わたしの“秘密の場所”」


彼女はそう言って、濡れた石畳を軽い足取りで歩き出した。


カイは一歩遅れてあとをついた。

足が思うように動かない。



「名前……君の名前は?」


「レティシア。レティって呼ばれることが多いわ」


「貴族?」


「うん。つまらないのよ、毎日。

お行儀とかマナーとか、“女はこうあるべき”ばっかり」


「……でも君は自由に見える」


「自由がないからこうして逃げてるの」


レティシアはふと振り返る。


「あなたも、逃げてたの?」


「……逃げる居場所すらない」


その答えに、レティシアの顔がこわばる。


「なら、私が居場所を作るわ」


「……君は変わってるね」


「よく言われるわ。でも、変わってる人間が世界を変えるのよ」


ふたりはそのまま、廃墟になった温室へと入り込んだ。

今では誰も使っていない、だが太陽の匂いのする場所。


レティシアは木箱を並べ、そこにふたりで腰を下ろした。


「ねえ、あなた。世界はね、動かせるのよ。

言葉と意志があれば、たったひとりでも」


少年は黙って、彼女を見つめていた。


「……本当に、君は変わってる」


その言葉に、レティシアはふっと微笑む。



「あなたも私と一緒にこの国を動かさない?」


「…国、を?」



しばらくふたりは、並んで座っていた。


軒下を叩く雨音だけが静かに響く。


「……ここ、寒いわね」


レティシアが呟く。


カイは黙って、自分が首に巻いていた汚れた薄い布切れを半分彼女に差し出した。


「……これ、あなたが使ってたんでしょ?」


「濡れてると、風邪ひく」


「……ありがとう」


ぎこちないやりとりだった。

それでも、レティシアは確かに微笑んだ。


「私ね、今日は護衛に頼んでお屋敷を抜け出してきたの。お母様にも内緒で」


「貴族なのに?」


「そうよ」


「ふうん」


「でも、来てよかったわ……お屋敷以外の世界が、どうなってるのか見たかったから」


彼女はカイを見た。


「あなたみたいな子が、どんな風に生きてるのか、ちゃんとわかったから」


カイは、それがどういう意味か分からなかった。

でも、胸の奥が少しだけ熱くなった気がした。


「……わかった?」


「うんっ」


レティシアはそう言って、小さく笑った。


「そして、あなたみたいな人が“名前をもらえる”国にしたいの」


その言葉に、カイは初めて、彼女の顔を正面から見つめた。


「……じゃあ。名前、つけてよ」


「え?」


「君が……つけてくれたら、それを“本当の名前”にする」


レティシアは驚いた表情のまま、一瞬黙り込んだ。


そして、静かに頷いた。


「わかったわ。じゃあ……」


彼女は小さく呟いた。


「“カイゼル”。どう?」


「カイ……ゼル」


「“意志ある者”って意味よ。帝国語で。

あなたが、あなた自身の意志で生きていけるようにって」


カイは、小さく笑った。


「……いい。気に入った」


「よかった」


彼が初めて“笑った”のを見て、レティシアはなぜか安心して、胸に何かが灯るのを感じた。


「じゃあ、今日からあなたは“カイゼル”。それが、あなたの名前よ」


それが、ふたりの物語の、本当の始まりだった。


雨は止まなかった。


夕方になっても空は鈍く重く、王都の裏通りに陽が差す気配はない。


「そろそろ戻らなきゃ……」


レティシアがぽつりと呟いた。


「そろそろ騒ぎが大きくなってそうな頃だし、屋敷に戻ったらきっと叱られるわね」


「……大丈夫?」


「うん、慣れてる。……あなたも気をつけて。風邪ひかないで」


彼女は立ち上がり、濡れた外套の裾を払った。


カイゼルはそれを見つめながら、何も言えずにいた。


「じゃあ、またね」


そう言って、レティシアは背を向けた。


けれど数歩進んだところで、彼女はふと振り返る。


「……いつか、名前のことを思い出したくなったら、これ見て」


そう言って彼女が差し出したのは、小さな布製のリボンだった。

彼女が髪をまとめていたものの一部。


「証拠よ。あなたが“名前をもらった”ってことの」


カイは、それを両手で受け取った。


「ありがとう」


彼女は微笑んで、裏通りの奥へと消えていった。


その背が見えなくなったあと、カイゼルは手の中のリボンを見つめた。


“意志ある者”――

与えられたその名は、小さな布の端と共に、彼の中に残った。


「カイゼル。……俺の名前」



それから、日々は淡々と過ぎていった。


カイゼル――いや、“カイ”は、またいつもの無表情な孤児に戻ったように見えた。


だが、変わったものは確かにあった。


配膳の手伝いの合間に、彼は読み書きの練習を始めた。


落ちていた新聞の切れ端。

台帳の端に走り書きされた名簿。

厨房に貼られた注意書き。


「カ」「イ」「ゼ」「ル」


自分の名前を、何度もなぞった。


はじめは周囲の子どもたちも笑っていた。

「名前もないくせに」「勉強なんて無駄だ」と。


だが、彼は気にしなかった。

むしろ、そう言われるたびに静かに燃え上がるものがあった。


あの少女がくれた名に、意味を与えたかった。


「おい、おまえ。これ、読めるか?」


ある日、年上の少年が破れた書簡を持ってきた。


「字がわかるやつ探せって言われたんだ。間違えたら、殴られるからな」


カイは、書簡を受け取り、目を通し、数秒で内容を読み上げた。


それが、兵舎付きの下働きへ推薦されるきっかけだった。


孤児院から“軍施設での雑用係”へ。


それは、ただの労働ではなかった。


規律、階級、命令、権威。

帝国が成り立つ構造を、カイゼルは骨の髄まで理解していく。


「おまえ……名は?」


そう問われるたび、彼は一瞬迷った後、答える。


「カイゼルです」


その名を、彼はようやく口にし始めた。


それは、自分が選び取った最初の“未来”だった。


十歳の冬。


彼は自分の名前を、世界に向かって名乗った。


そして、その名をいつか“国全体が知ることになる”など、

このときの彼はまだ、知る由もなかった。



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