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第一話 「政略結婚と愛人」

王宮の高殿に、婚礼の鐘が響いていた。


セラフィア帝国の新たな皇妃、レティシア・フォン・グレイスは、整えられた銀の髪を風に揺らし、どこか他人事のような目で空を見上げていた。


「愛など、必要ありませんわ」


そう口にしたのは、初夜の寝室。

豪奢な金糸の天蓋付き寝台の前に立つ、二人きりの場だった。


新郎たる皇帝カイゼル・セラフィアは、静かに首を傾げた。

その顔に浮かぶのは驚きでも怒りでもない。ただ、わずかな疲労と――諦め。


「……そうか。君は、そういう人だったな」


「誤解なさらないでください。私はあなたを蔑んでいるわけではありません。ただ、結婚という制度が、“国家と政治を前進させるための契約”であると理解しているだけです」


まるで条文を読み上げるかのように、淡々と話すレティシア。

その声音に、情熱のかけらもなかった。


彼女は、この帝国の大宰相グレイス公の娘。

政務の補佐、改革の構想、外交の調整……どれも一級の実力を持ち、父の後継者とまで言われていた。


「この結婚は政略結婚。陛下もそれで私をお望みだったのでは?ですから――」


彼女はふわりと振り返ると、部屋の扉に目をやった。


「……セリーヌ、入って」


その一声に応じて、扉が開く。


ゆるやかな波打つ青銀の髪を結い上げ、濃紫のドレスに身を包んだひとりの女性が現れた。

気怠げに微笑むその姿は、まるで舞台から抜け出た幻のようだった。


「はじめまして、陛下。……夜伽のお相手、まことに光栄ですわ」


「……え?」


カイゼルの瞳が、珍しく揺れた。


「この者は、私の侍女にして友人。かつては舞姫として、帝国中の宴を沸かせた“セリーヌ・ルナリア”。頭の回転も早く、口も達者で、あなたのような方にこそ相応しい。……私では、きっと満たせませんから」


「……君は、本気で言っているのか」


「もちろん」


レティシアは何一つ、後ろめたさのない顔をしていた。


「私は政務をこなすためにここへ来ました。陛下の心を満たす役目は、彼女に任せます。どうぞ、お好きに」


そう言って、レティシアはカーテンの奥へと去った。

まるで政務室に向かうかのような、凛とした足取りで。


残されたカイゼルは、しばらく無言だった。


セリーヌがいたずらっぽく微笑んで言う。


「……どうやら私は、今夜から“皇帝の女”になるみたいですね」


その言葉に、カイゼルは首を振る。


「……すまない。君のことを否定するつもりはないが――」


「……わかってますよ」


セリーヌはわかっていた。

この男は、心底からレティシアを愛している。

それはもう、可哀想なほどに。


彼女がこの愛人役を頼まれたとき、笑って引き受けた。



でも、扉が閉まった今――その視線の熱量と、張り詰めた静けさに、少しだけ胸が痛んだ。


「……陛下も大変ですね」


「私が出目の悪い成り上がりの皇帝だから仕方ない、どこの血筋かわからないものの子など要らないだろうからな」



「あら、あの方はそんなお方ではないですよ」



セリーヌは柔らかくそう笑うと、そっと一礼して退いた。

それは“拒絶された愛人”のふるまいというより、

“すべてを知っている傍観者”の姿だった。


翌朝、レティシアは普段どおり、朝食も摂らず政務机に向かっていた。


「……どうしてこうも文官どもは保守的なのかしら。年寄りばかりでうんざりしますわ」


「レティシア様。昨夜のこと……よろしかったのですか?」


傍らに控えるセリーヌが、微かに問いかける。


「何が?」


「さすがに、あれは……皇帝陛下が少し、可哀想に見えました」


「だからって、私が彼に愛情を注げば済むと?」


「……いえ」


レティシアは筆を止め、窓の外を見た。


「私は愛を知らない。親も政略で結ばれた夫婦だった。

感情で動けば、政治は腐る。それに――」


「それに?」


「……」


「レティシア様……」


セリーヌはそれ以上、何も言わなかった。




その夜、カイゼルは一人、王座の間にいた。


月明かりが落ちる玉座の階段に腰を下ろし、昔の記憶に耽る。


――今思えば初恋だった。


あの日、城下で出会った銀髪の少女。

貴族に虐げられていた少年の手を取り、彼女は言った。


「私の名前は、レティシア・グレイス。帝国の未来を、私は変えたい」


その言葉が、彼の原点だった。


彼女のために、剣を磨いた。

学問を修め、帝位継承を勝ち取った。


すべては、彼女を“迎えるに足る男”になるために。


それなのに――


「……愛人、か」


その言葉が、まるで刃のように突き刺さる。



だが、彼女が望むなら皇帝としてすべてを与える。



「君が望むなら、全てを捧げよう」


月が、玉座の間を静かに照らしていた。



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