第十三話 「過去の真実、名前の記憶」
王宮の東図書棟。
外からの光が射しこむ静謐な空間で、レティシアは一冊の古文書を手にしていた。
「……“カイ”って名前、どこかで聞いた気がするのよね」
夢に出てきた少年の名。つまり、カイゼルの名前。
彼女が迷子になった子供のころ、泥だらけの少年が名乗った名前。
『カイ。カイって呼ばれてる』
――でも、それは本名じゃなかった。
彼女の記憶の断片が、その名を引き寄せていた。
「セリーヌ」
「はいはい。資料は持ってきました」
セリーヌが運んできたのは、帝国孤児院の入退院記録の写本。
そしてその中には確かに、その名があった。
――“カイ”。十三年前に、首都第三孤児院から記録抹消。
「……この時期。陛下が“身元を得た”年と一致する」
「……」
「そう。あのときの“カイ”は、……カイゼル・セラフィア」
「どうやって、あのあと生きてここまで…」
ぼんやりとしていた記憶が鮮明に蘇る。そしてその疑問は、彼女を夜まで悩ませた。
その日の夕食後、王の私室。
「……カイゼル」
「ん?」
ワインを口にしかけていた彼の手が止まる。
「カイ、という名前。覚えてる?」
ワインの液面が、わずかに揺れた。
カイゼルはゆっくりと杯を置き、彼女を見た。
「……懐かしい名前だ」
「……気付けないはずだわ」
「そう。あの路地で、君が声をかけてくれた」
レティシアは目を伏せた。
「あなたはずっと覚えていたの?」
「忘れたことなんて、一度もなかったよ」
カイゼルは、視線を逸らさなかった。
「君に助けられたから、今の俺がいる。
あの一言がなければ、きっと俺は“王になろう”なんて思わなかった」
「でも、なぜその話をはぐらかしたの?」
「君に、負い目を抱かせたくなかった。
“昔、助けたから結婚した”なんて思わせたくなかった」
「……それでも、言ってほしかった」
「すまない」
レティシアは、椅子から立ち上がり、彼に近づいた。
「再会したとき、失望したでしょ?」
「君が初めて、“人を拒絶する目”で俺を見たとき」
「…」
「昔の君も他人と距離を取るっていたよ。優しいのに、少し冷たくて。
でも、正しくて、ひとを信じるのが苦手で……全く変わってなかったよ」
レティシアの手が、無意識に彼の胸元に触れる。
「……ずるいわね。私より、私を知ってる」
「ずっと君を見ていたからね」
「……ストーカーじゃない」
「はは。でも、それでも君が思い出してくれて、今、こうして話してくれている」
カイゼルの手が、そっと彼女の手に触れた。
「それが、何よりも嬉しいんだ」
沈黙。
けれどその沈黙は、どこまでも穏やかだった。
二人の呼吸が重なり、過去と今がひとつになる。
「……ありがとう、カイゼル。残念ながら、迷惑よりも嬉しいが勝ってしまったわ」
「こちらこそ、ありがとう。レティシア」
互いの名前を呼び合うだけで、
心の深いところにある何かが、少しずつ緩んでいくのがわかった。