第十一話 「療養と共に過ごす日々」
誘拐事件から三日。
レティシアは政務の一線を一時的に退き、離宮での療養を命じられていた。
「大袈裟だわ。かすり傷ひとつないのに」
「“体”の傷ではなく、“心”の傷のためです」
応接室で静かにお茶を差し出すセリーヌが言った。
「……ま、あんたの場合、“心”の方が厄介そうだけどね」
「褒めてるの?」
「ある意味では」
セリーヌは柔らかく微笑む。
「正直、私……少し、怖かったの」
「なにが?」
「助けに来る、とは思ってた。でも――
あんな顔で、私を抱きしめるとは思わなかった」
「……なるほど」
「感情って、不意に溢れるのね」
「……そうよ、レティシア。あなたにもちゃんと感情はあるの」
「……その自覚が一番、厄介なのよ」
セリーヌがくすりと笑う。
「それにしても、陛下と距離、縮まったわね」
「……そうかしら」
「それにしても、陛下ったら朝から晩まで離宮に入り浸って、政務そっちのけで皆困ってるわよ」
「それは……」
「少しくらいは正直になって向き合ってあげたら?」
それは、確かに事実だった。
この三日、カイゼルはほとんど執務に顔を出さず、離宮で過ごすレティシアのもとに足繁く通っていた。
「――調子はどう?」
そうして、またやってきた。
深緑のラフな軍装に、軽くほつれた金の髪。
けれどその姿には、どこか“安らぎ”があった。
「……カイゼル」
「変わりはない?」
「変わりないわ。ただ、退屈」
「じゃあ、君の退屈を潰すために、今日は“チェス”でも持ってきた」
「……」
「君の嫌いな、“結果の見えるゲーム”だ」
「嫌がらせ?」
「いいや。君が自分の手で、どこまで未来を見通してるか、知りたくてね」
「……なるほど、挑発してるの?」
「君が乗ってくれるなら、それもまた幸せだ」
そう言ってチェスボードを開くカイゼルの表情は、
どこまでも穏やかで、そして――あたたかかった。
ゲームは静かに進んだ。
序盤、レティシアが王道を崩して強気に攻め、
中盤、カイゼルが緩やかに包囲を作る。
終盤、ぎりぎりで彼女が流れを読み切り、
意図的に“引き分け”へ持ち込んだ。
「……面白かった」
レティシアがぽつりとこぼす。
「君がそう言ってくれて、よかった」
「……昔、チェスは“敗者のゲーム”だと思ってたの」
「なぜ?」
「勝つために、味方の駒を捨てなきゃいけない。
情を切り捨てる、冷酷な計算の上にしか成り立たない。
……そう思ってた」
「でも?」
「いまは、少し違って見える」
彼女はボードを見つめながら続けた。
「互いの手を読み合って、それでも“引かない”。
その駆け引きに、“相手を尊重する”形もあるのね」
カイゼルの顔が、ほんの少し、ほころぶ。
「……君と話すと、すべてが価値ある時間に思えるよ」
「それ、ただの口説き文句だったら許さないから」
「口説けるなら口説いてるよ」
「……あなた、本当にずるい男だわ」
レティシアは、苦笑を含んだ溜め息をついた。
けれど、心の中ではもう――
“この時間が終わってほしくない”と思っていた。
その夜、ふたりは夕食を共にとった。
豪奢ではない。
素材の味を生かした、素朴なスープとパン。
それだけだったのに、不思議と心が満たされた。
「……ねえ」
ふと、レティシアが言った。
「もし、私が政に関わらないただの王妃だったら、あなたは失望してた?」
カイゼルはすぐに首を振った。
「考えたこともないなあ」
「……ひどいわね」
「恋は盲目というだろう?」
カイゼルはレティシアをまっすぐに見た。
「君が君である限り、俺は君を求め続ける」
「……“君が君である限り”って。あなた、そういう言葉を選ぶの、本当にうまい」
「でも、本音だ」
「……私も、少しは“自分”を、理解できるようになってきたわ」
「それは、嬉しい」
ふたりの視線が、ほんの一瞬、重なる。
言葉にするには、まだ怖い。
でも、それは確かな“信頼”の重みだった。
その夜、レティシアは久々に深く眠った。
夢の中で、彼が自分の名を呼んだ。
それは、やさしい音だった。




