第十話 「抱きしめて、何も言えず」
山に陽が沈みきる少し前、
帝国近衛軍の馬蹄が、谷あいの森を蹴って走り抜けていた。
「この先だ。ルネス侯の旧領、捨てられた別荘地がある」
カイゼルは馬上で、風を切るように進む。
彼の瞳は研ぎ澄まされ、思考は一点に集中していた。
──レティシアを、救い出す。
何人たりとも彼女を傷つけさせはしない。
(間に合ってくれ)
近衛兵が声をあげる。
「陛下、建物が見えました!」
「包囲を崩さず、突入は俺の合図を待て!」
カイゼルは馬を飛び降りると、最前線に立った。
「レティシア――今、行く」
そのころ、山小屋の奥。
レティシアは、椅子に縛られたままじっと息を整えていた。
(そろそろ動きがあるはず)
予感ではなく、確信だった。
あの男は、必ず来る。
彼女が助けを求めていなくても、言葉ひとつなくても――
「そういう男」だ。
そのとき、外で物音がした。
「な、なにごとだ!?」
扉の外で叫び声が響く。
ガタガタッ、と誰かが走る音。
「誰か、来て――」
扉が開かれる前に、爆音とともにそれが吹き飛んだ。
火薬。破城用の簡易突入装置。
帝国軍の戦術のひとつ。
煙の向こうから、ひとりの男が駆け込んできた。
「レティシア!」
「……っ、カイゼル」
彼の姿を見た瞬間、心の底に張り詰めていた糸が切れた。
「無事か」
「ええ。縛られてるだけ……」
カイゼルは駆け寄ると、縄を切った。
手首を抱え、そのままそっと彼女を引き寄せる。
「……!」
その体が、彼の胸に当たる。
息が詰まりそうだった。
張りつめていた気持ちが、一瞬で溶けていくのがわかった。
「遅れて、すまない」
「来なくても……違う。来てくれて、ありがとう」
ぎゅ、と彼の腕が強くなる。
「……君がいなくなったら、俺は生きる意味を失う」
「私も……怖くなかったはずなのに、あなたの顔を見たら、涙が出そう」
「泣いていい。泣いていいんだ、レティシア」
その声に、彼女はもう抵抗できなかった。
小さく肩を震わせて、ただ、静かに泣いた。
それを、カイゼルは何も言わずに抱きしめ続けた。
この瞬間だけは、王も妃も関係なかった。
ただの男と女が、そこにいた。
翌朝。
王都に帰還したレティシアの誘拐は極秘裏に処理され、
犯人グループは全員拘束された。
カイゼルは政敵への報復よりも、
レティシアの心を“守ること”を選んだ。
政のことは、彼女に任せる。
だが、“彼女自身”のことは、王である自分が責任を持つ――
その静かな決意だった。
レティシアはその夜、政務室で彼に会った。
「……助けに来てくれて、本当にありがとう」
「ありがとうなんて、要らない」
「でも、言いたかったの。私、あなたに何も返せてなかったから」
「返してもらう必要なんて、なかった。
君が無事でいてくれることが、俺にとっては最大の報酬だ」
「……それでも。あなたに、何かを返したい」
「……」
「少しだけでいい。私の時間を、あなたに使ってもいいと思ってる。
……今なら、そう思える」
それは、愛の告白ではなかった。
けれど、“閉じていた扉”が開いた証だった。
「ありがとう。……それが、どれだけ嬉しいか」
静かな夜に、ふたりの声だけがあった。
“愛してる”という言葉がなくても、
それ以上の感情が、この部屋には満ちていた。




