第九話 「王妃誘拐事件発生」
朝、王宮の中庭に吹き抜ける風が、どこかざわついていた。
「本日は、東部領主の懇談会がございます。陛下は午後からのご出席です」
「わかったわ」
レティシアはいつものように控えめにうなずき、資料を確認していた。
その姿は、何も変わらぬ日常の一部のように見えた。
けれど、その日だけは違った。
彼女が中庭を横切り、東門側の別館へ向かう途中だった。
「……?」
後ろを歩いていた侍女の気配が、ふと消える。
「セリーヌ?」
呼びかけたその瞬間、足音――いや、蹄の音が迫った。
レティシアが振り向くより早く、視界が闇に覆われた。
麻袋をかぶせられ、馬に引きずられるようにして運ばれていく。
「っ、な……っ!」
腕を縛られ、声をあげる間もなく、彼女の姿は宮廷の敷地から消えた。
知らせがカイゼルに届いたのは、それから十七分後だった。
「……今、なんと?」
「王妃殿下が……誘拐されました。東門付近、証言によれば馬車で連れ去られたと――」
言葉が終わる前に、カイゼルは席を蹴って立ち上がっていた。
「警備隊、近衛、すべて即時出動。西方街道と南の山岳ルートを封鎖しろ。
……俺も行く」
「し、しかし陛下……!皇帝が皇宮を離れてはっ」
「彼女をさらったということは、王である俺に対する謀反だ」
その目には、激情の色があった。
ふだん、どれほど穏やかで冷静でも――
彼女のためなら、彼は獣にだってなる。
一方、レティシアは――
どこかの山小屋のような場所に連れ込まれていた。
麻袋を取られ、手足を縛られ、椅子にくくりつけられる。
「……やってくれたわね」
目を細めたその先には、面識のある男が立っていた。
「……ルネス侯」
「久しいな、王妃殿下。いや、宰相の娘よ」
東部貴族連合の筆頭にして、旧来の貴族派閥の残党。
王政と妃政の融合に反発し、保守の旗を掲げていた男だ。
「これは何の真似ですか?」
「君を排除すれば、皇帝も傾く」
「……私ごときでそんなこと」
「君が“ただの政治家”ではなく、あの男にとって“心の核”であるならば――揺さぶる価値があると見た」
レティシアは鼻で笑った。
「ふぅん……そんなに私が“重要”に見えます?」
「見えるとも。見えてしまったからこそ、こうして手を打ったのだ」
「なら、判断ミスですね」
「何?」
「私は、あの男の“心”ではなく、“政”の片輪です。
……この程度で帝国が揺れるとお思いなら、よほどおめでたい」
「……強がるのは自由だ。だが、君がどれだけ冷たくても、
あの男が君を手放せないことは調査済みだ」
その言葉に、レティシアの目がわずかに揺れた。
それを、ルネス侯は見逃さなかった。
「君がいなくなれば、帝国は弱くなる」
「……どうかしら」
「おとなしくしていれば、楽に殺してやろう」
「思い通りにいくといいわね?」
「……口の減らない女だ」
ルネス侯は満足げに笑うと、扉を閉めて出ていった。
残されたレティシアは、独り、束縛されたまま思う。
(……来ないで)
怖くないわけではなかった。
だが、あの男なら、来ると。
(私が見つけ出してくれと望んでいなくても。
あの人は、勝手に“そこにいる”から)
*
そのころ、王宮では――
「陛下、ルネス侯の別荘跡地に動きありとの情報です」
「よし、向かう。俺が行く」
「危険すぎます!」
「王妃を攫われて、玉座に座っていられるか」
その一言に、誰も何も言えなかった。
彼は剣を手にし、馬を駆け――
たった十人の近衛兵を率いて、山へ向かっていった。
その背に宿っていたのは、“王の威厳”ではなく、
“ひとりの男”としての、祈りに近い激しさだった。




