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プロローグ
幼き日の記憶──それは春の終わり、街角にて
その日は朝から小雨が降り続き、王都の空は薄く曇っていた。
当時十歳だったレティシア・フォン・グレイスは、
単独での外出を許されていた唯一の貴族令嬢だった。
護衛を撒き、ひとりで市場を歩くのが、彼女にとっての“自由”だった。
「……また、迷ったかもしれないわね」
そんな独り言をつぶやきながら、裏路地を曲がったその時だった。
どさっ、と何かが倒れる音。
小さな呻き声。
汚れた木箱の陰から、少年が転がり出た。
ぼろぼろのシャツ、裸足、痩せた身体。
けれどその瞳だけが、異様に強い光を帯びていた。
レティシアは思わず近づき、しゃがみ込む。
「……だいじょうぶ?」
少年は身を引き、何かを守るように腕を抱える。
「触るな……汚れる」
「……汚れる? そんなこと、誰が言ったの」
「みんな」
レティシアは眉をひそめる。
「名前は?」
「……カイ、って呼ばれてる」
「“呼ばれてる”……本当の名前じゃないの?」
「知らないんだ」
ほんの一瞬。
レティシアの表情が揺れた。
そして、そっと手を伸ばす。
「いこう、汚れないから心配しないで」
少年の手が、震えながらも差し出される。
――それがふたりの、最初の出会いだった。




