ゾンビと塹壕
ゾンビの開いた口にある、鋭い牙を見ると若い警官は絶望気味に声を上げた。
「噛まれたら……」
柴田はすぐに反応する。
「噛まれるな!」
また一歩近づいてくるゾンビとの距離を保つため、柴田は後ずさる。
すると、一緒にいた若い警官とぶつかってしまう。
「おい、何やってる!」
「柴田さん、こっちにも!」
一瞬、柴田が後ろを振り返る。
若い警官越しに、もう一体のゾンビを確認した。
柴田たち二人は、塹壕の中で前後を挟まれてしまった。
「ど、どうしたら!」
発砲許可をもらって、銃を持ち込んでおくべきだった。
柴田は今思っても仕方ないことを悔やんでいた。
「まずお前が、塹壕の外にでろ」
柴田が庇うように背中で押しながら、若い警官が塹壕の外に出るのを手伝う。
若い警官は塹壕の上に上がれたが、ゾンビがさらに近づいて柴田は逃げる時間を失ってしまった。
「柴田さん!」
「いいから、お前は逃げろ」
柴田が覚悟を決め、特殊警棒を振りかざした時だった。
「闇のものよ。聖なる力の前にひれ伏し、闇に帰れ」
森の奥から声が響くと、同時に、数枚のトランプが飛んできた。
ゾンビは飛んでくるトランプに気づくと、怯えるように後ずさる。
虫を追い払うようにトランプを叩き落とす。
しかし、トランプは次から次に飛んできて、ゾンビを攻め立てる。
柴田もトランプに気づくと、探すように周りを見渡した。
「アリス刑事!」
鮮やかな青いワンピースに、白いエプロン。
ブロンドの髪に、黒いリボンをつけた彼女は、そのまま『不思議の国のアリス』から抜け出てきたようだった。
「今のうちです、柴田さん」
若い警官が手を差し伸べると、柴田は一気に塹壕から抜け出した。
アリスが飛ばすトランプに苦戦するゾンビは、ついに背を向けて逃げ出した。
「今度はこっちがゾンビを追う番よ!」
アリスの掛け声に柴田たち二人も逃げていくゾンビを追いかけた。
三人は雷の中、森を走っていたが、いつの間にか追っていたはずのゾンビを見失っていた。
「どこに……」
「まるで消えたみたいだ」
「……」
アリスは目標を見失い、飛んで戻ってくるトランプを一枚、指で摘むと目を閉じた。
トランプからの情報を感じ取ろうと、顔に近づけ、気持ちを集中させたが、何も答えがつかめなかった。
「アリス刑事、いつの間に戻ってきていたのですか?」
「ドジな霊能課の刑事が皇居でハマっていると聞いて羽田空港から直行したのよ」
「……そんな連絡してませんよ」
アリスは笑った。
「来て良かったでしょう?」
柴田は深く頭を下げた。
若い警官が割って入る。
「それより、塹壕ゾンビはどこにいるのでしょうか」
「確かに、このチャンスに居場所を探し出せなかったのは失敗だったわね」
柴田は見失ったあたりの塹壕に下り、特殊警棒で土を突いてみる。
「穴でも開いてれば簡単ですが」
「そんなところを突いて穴を開いてしまって、落ちでもしたら助からないわよ」
柴田の突く手が弱くなった。
そして手が止まると、言った。
「もしどこにも穴がないとして、塹壕ゾンビは幻覚だったということは?」
若い警官が反論する。
「自分は塹壕ゾンビを叩きましたからわかります。幻覚なら手応えに違和感があったのではないかと」
「あなた、過去にゾンビと遭遇したことは?」
「……ありませんが」
アリスはため息をついた。
「そりゃそうよね」
柴田が応援を得たのは霊能課ではなく普通の警察官だ。
この手の事象について知識や経験があるわけではない。
「柴田は叩いてないの?」
「あっ、えっと…… す、すみません」
「仕方ないわ。幻影ではなく、実態があったとしても霊力で作った偽物の可能性もあるし」
SNSに上がっている動画に映っているということは、おそらく幻影ではないのだ。
映像に残るには本当の死体が動いたか、それに相当するものが動いている必要がある。
浮遊しているような霊ではなく、完全霊体であれば理屈はあう。
霊力を使って出来たものなら、あっという間にこの場で消えたように見えるだろう。
そして、本物の動く死体にせよ、完全霊体を作ったにせよ、何者かが術をかけていることは間違いない。
おそらく術者は皇居の中にはいまい。
中にはいないが、そいつは皇居内に完全霊体を作り出す『踏み台』があることを知っているのだ。
アリスはそう考えた。
「宮内庁には後でいうから、そこらへんに何か埋まってないか掘ってみなさい」
「スコップを借りてこい」
若い警官が施設に戻ろうとするところをアリスが引き止める。
「あれだけ大きなものが出てくるのだから、地表に見えているはずよ。注意深く探して」
若い警官も塹壕におり、アリスが指示するあたりを探し回った。
だが、埋まっていると思われる不審な物も含め、塹壕ゾンビについての手掛かりは掴めなかった。