機能停止
私はここにいる。
では、目の前で泣いている少女は誰だろう。
若くして白髪になって、自宅を失い、両親の死を思い出して泣いている。
ただ泣いているのを見ただけで、彼女の心情がわかるのも変だ。
そう、目の前の少女は『過去の』私なのだ。
鏡や動画などでも、この頃の自分を客観視したことがない。
この頃の私はやることなすこと全て暗い記憶であって、思い出に繋がるような情報は何も残っていないし、残すはずもなかった。
なのに、目の前の自分は妙にリアルだ。
着ている制服と軽く引っ掛けている上着は、当時よく着ていたもので間違いない。
ここはあの頃、引き取られていた親戚の家の近所の公園だ。
……公園?
敷地は広く何もない公園のように見えるが、奥に見覚えのある建物が建っている。
「雪音ちゃん? だっけ」
目の前の少女は、見ている視線の後ろから声をかけられた。
呼びかけた者が、視線を通り越して、少女の私の肩を叩く。
肩を叩いたのはスーツを着たおじさんだ。黒い髪は撫でつけられていて、光っている。
親戚や血縁の者ではない。だが、知り合っている。
「ここだと寒いだろう。中に入ろう」
少女の私は、おじさんの呼びかけに応じて立ち上がる。
二人は建物に入っていく。
私の意識も二人を追いかけて中に入っていく。
教祖の胸像を前に、二人は手を合わせた。
「先生の教えに従えば、同じようなこんながあったとしてもきっとうまくいく」
「……」
この少女はそんなことを信じてはいない。
ただ優しくしてくれるおじさんのそばにいるだけだ。
おじさんは、少女に何か行為を求めてくるわけでもない。
ただ、この暖かい場所を与えてくれる。それだけだ。
おじさんは奥から大きなバスタオルを持って戻ってくると、少女に手渡した。
彼女はまずそのタオルに顔を埋め、匂いを嗅いだ。
気持ちが落ち着くと、徐にその白い髪にタオルをあて、濡れた頭を、肩の染みを拭き取っていった。
学校で、この白い髪は目立ち過ぎた。
『染めてんだろ!』
両親が死に、私は親戚が住む地方都市に住んでいた。
学校もそうだったが、この地方自体、ガラが良いとは言えなかった。
今考えると、その親戚自体もガラがいい方ではなかった。それは地方の性質だったのかもしれない。
私はただ自席に座って帰る準備をしていたのに、連中が勝手に寄ってくると、頭に花瓶の水をたらしてきた。
『白く染めるなんて、お前、イカれてんな』
多様性なんて都市部の綺麗事だ。
地方では、みんなと同じではない者は『ハナツマミ』者なのだ。
転校生、白髪。
二つも違えば、イジメの材料としては十分だった。
無視とか、物を隠されたりするのは耐えられた。
だが、水をかけられた時、私の中で限界を迎えた。
立ち上がった瞬間、正面にいた娘の頬を平手打ちしていた。
「やったな!」
人数もいて、暴力の使い方に慣れている連中には、かなう訳もなかった。
私はあちこちを殴られ、傷つけられた。
私の意識は、少女の近くを離れ施設内の他の場所に移ろっていく。
事務室風の小さな部屋が見えてくると、そこには見知らぬおじさんが立っていた。
扉を小さく開けると、髪を拭いている私の姿を見た。
「あれか」
「そうだ。あの娘は雪音と言って、強い霊力持っているんだ。何か使える時がくる」
二人のおじさんが話している近くにいる、背の低い髪を後ろに撫でつけた女性が、目を窄めて扉の隙間を覗き込んでいる。
「どうやって分かったんだ?」
「あの子の母親が集会にやってきた時、教団の建物につれて来たんだ。突然、大きな警報音が鳴って集会に集まった人間が大混乱したそうだ。調べてみると、霊力を持った人間がゲートをくぐった時の音だったらしい。この建物ではないがな」
その時、扉の先にいる少女の私と目があった気がした。
おじさんは視線に気づいたのか、小さい声で言った。
「気づかれる」
もう一人の男の声で、扉は閉められた。
「両親を自殺に追い込んだ原因は、我々教団にあるというのに」
「わかりゃしないさ。直接死に追い込んだのは借金取りであって、我々ではない」
「借りて注ぎ込んだ金の行方を調べれば、すぐに……」
口に指を立て、黙れという仕草をした。
「もうこのことは二度と口にするな。こういうことは、すぐに感づかれる」
嘘だ……
私の意識は、震えた。
だが、なぜこんなはっきりと話しているところを記憶しているのだろう。
どれだけ考えても、この会話は、私が聞いたこともないものだった。
「……」
目の前にいる、短髪を後ろに撫でつけた女性の顔を見ながら、雪音は思い出した。
「あなた、教団の人?」
サングラスを押し上げながら永江リサは、そう言った。
「あの時は、たまたま仕事で出入りしていたのよ」
雪音は永江の体を押し返した。
「さっきの、あなたが作った幻ね」
リサは首を横に振る。
「当時のお互いの記憶を再構成しただけよ」
「じゃ、母と父の死に教団が……」
「今回、あなたの名前を聞いて思い出した。そして調べた。あなたの両親が死ぬきっかけになった借金は、あなたの母親がした教団への多額の献金だった」
雪音は突然、首を横に振った。
「違う。あなたは嘘をついている」
「今見た、ものが真実だということ、貴方にはわかるでしょ? だって、私の記憶と貴方の記憶は、完全に別々なものではない。あの微かに開いた扉で繋がっている」
体側に沿って下ろした彼女の手が震えていた。
髪の長い男がやってきてその手を取った。
「雪音、そいつのいうことなんか信じるな! さっきの女と同じように『命令』を入れたに違いない」
「けど宗、私の見たものは……」
「きっと、本物の記憶に近いから混乱しているだけだ。本当に見たものだけを信じろ」
雪音は思った。
本当に見たもの?
思い出されるのは、父と母の死体。
死体の前は、夜中に借金のことで喧嘩する父と母。
今思えば母と教団の建物に行ったことがある。
「!」
雪音は目を見開く。
あの時、建物の中で警報がなった。
周囲の人間が、私を奇異な目で見ていることも。
思えば、あれがきっかけだったのかもしれない。
本当に見たものも、教団が私を利用していたことを裏付けしようとしている。
「雪音! しっかりしろ」
彼女の心は揺れていた。
今まで信じて来たもの。そして仲間。
全てを今、失うか。
それとも……
黙って動かなくなった彼女は、まるで機能が停止したかのようだった。
「今のうちに捕まえるんだケド」
宗が彼女に手を伸ばす。
「雪音」
雪音は宗の手を握った。
「逃げるわよ」
そう言うと、もう一方の手を振り上げた。
細かく切られた紙切れが、とても綺麗に吹き上がる。
雪音が振り上げた手で印を結ぶと、落ちてくる紙切れが姿を変え、黒い羽を持つ蝙蝠となった。
大量発生した蝙蝠は、三つに分かれると、それぞれ永江、橋口、そして麗子の周りを回った。
体を掠めるほど近くを飛び回る蝙蝠に、視野を遮られているうち、倒れていた鉄葉を含めた三人の姿が見えなくなっていた。
蝙蝠は一匹一匹が小さくなって、やがて消えた。
麗子はあたりを見回すが、どちらに消えたのかすらわからなかった。
「やられた……」