強襲
麗子の目の前の風景が、ローム大の更衣室に戻った。
雪音の瞳から涙が溢れ落ちていた。
彼女自身が無意識に両親の死に関わる記憶を呼び覚ました為、麗子もそこへ引き摺り込まれたのだ。
麗子は気持ちを切り替え、あらためて雪音に問いかける。
「あなたにゾンビを作れと指示するのは誰?」
雪音は答えられないのか、苦しい表情になっていく。
「!」
その時、乱暴に扉を開ける音と、女生徒が騒ぐ声が聞こえた。
「雪音!」
聞き覚えのある男の声。
いきなり三人がいる場所のカーテンが開くと、そこには短髪でメガネをかけた男がいた。
確かこいつはブリキ男の役をしている鉄葉という名の者だ、と麗子は思った。
麗子は周囲で騒いでいるのと同じような調子で言った。
「キャー! 痴漢!」
「黙れ! 雪音を返せ!」
と言うなり鉄葉は、麗子の頬を平手打ちした。
叩かれた顔が、激しくブレると麗子は俯き、立ったままで固まったように止まってしまった。
「おら!」
鉄葉はそう言って、雪音の腕に手を伸ばした。
橋口は力の抜けている雪音を、突き飛ばすように鉄葉に押しやった。
彼が雪音の体を受け止めようと必死になっている隙に、橋口は麗子を抱きしめた。
「麗子、大丈夫!? なんだケド」
麗子は俯いたままで、反応が無い。
橋口は麗子の顔を下から覗き込む。
目は開いているが、橋口のことが目に映らないかのようだ。
「あっ、逃げんな! なんだケド」
鉄葉は雪音を抱えて扉に向かっていく。
「追いかけるんだケド」
橋口は麗子の腕を引っ張って、鉄葉を追いかける。
麗子は俯いたまま、橋口についていった。
建物の廊下を進むと、鉄葉は待っていた案山と合流した。
「雪音はどうしたんだ?」
「いいから手伝え」
二人は向かい合うようにして雪音を抱えた。
当然、一人が後ろ歩きしなければならず、急いで歩けない。
橋口も橋口で、麗子を置いていけば良いのに、連れて行こうとするため、追いつけない。
「なんで雪音の意識がないんだ?」
「お前が考えろ」
「なんだと!」
案山は雪音の足を下すと、鉄葉にくってかかった。
鉄葉は案山に対応するため、雪音をおろしてしまった。
「雪音を運んで施設まで逃げるのが先決だろうが。そんなこともわからないのか?」
「さっきからバカにしやがって」
案山は長い髪を後ろにかき上げると、鉄葉の襟を掴んで締めた。
「雪音を起こした方が早い」
「起こせるなら起こしてみろ!」
鉄葉は案山の腕を、その腕力で外した。
案山はひざまづくと寝転がっている雪音の上体を起こし、言った。
「雪音、施設に急ごう」
「!」
聞こえていないかに思えたが、雪音は案山の手を振り解き、立ち上がった。
「……雪音?」
「出して」
「ここでか?」
案山は立ち上がって、ジーンズの前ジッパーを開ける仕草をする。
「違う。呪物よ」
「いや、流石に、構内でやったらまずいだろう」
「いいから出しなさい」
二人は雪音の声がいつもと違うことに注意をしていない。
案山は鉄葉に言う。
「鉄葉、取ってこい」
「雪音、真面目に言ってんのか?」
「雪音はどうでもいい。俺の命令を聞け」
鉄葉は案山を睨みつけながらも、ジュラルミンケースを隠している場所へ向かって走り出した。
橋口は雪音たちの状況を見ると、麗子に向き直って言った。
「麗子、しっかりするんだケド!」
俯いた顔に向かって、下から顔を寄せると橋口は麗子にキスをした。
彼女の霊力が麗子に注がれ、失われていた瞳の光が戻った。
麗子は突然、背中を伸ばし、顔を上げた。
目を閉じて上を向いている橋口に気づく。
「……ど、どうしたのカンナ」
「麗子ブリキ男に引っ叩かれて、意識飛んでたみたいだケド」
麗子は思い出したかのように叩かれた頬に手を伸ばし、触れた。
この痛みが、それなのか。
そして雪音たちの状況を確認した。
鉄葉がジュラルミンケースを持ってくると、雪音の前に置いた。
「まさか」
ここで『塹壕ゾンビ』を召喚するつもりなのだろうか。
だが、雪音の動きからそれしか考えられない。
霊体とは言え、ゾンビ自体は本物だ。
こんな大学のキャンパスで召喚したら、大変なことになる。
「かんな、アリス刑事に連絡して、周りの人を退避させて」
「麗子はどうすんだケド」
「彼女たちの召喚を止めさせる」
麗子と橋口は頷くと、別々の方向へ動き出し、それぞれのやるべきことを始めた。
ケースから取り出された筒状のものを設置すると、雪音はそれに手を合わせた。
ブツブツと詠唱を始める。
「止めなさい!」
突き飛ばしてでも詠唱を止めさせようとする麗子を、案山が肩を入れてブロックしてきた。
案山は男で麗子より背丈も大きいが、彼女とぶつかると、尻もちをついてしまった。
「邪魔はさせない」
そう言って案山が立ち上がり、通さないと言う意思を示すように両手を広げた。
「こんなところで彼女が詠唱したらどうなるかわかってるの?」
「知ったことか!」
案山はそういうと、片足を大きく引きサッカーボールを蹴るかのように麗子を蹴りつけた。
振りが大きいせいか、空振りした案山はバランスを崩した。
さして運動神経がいいわけではない麗子でも、その案山の残った足を蹴って転ばせることは容易だった。
視野の隅に何かが動いた。
「!」
麗子は勘でしゃがむと、そこに風を切る音が走った。
危険を感じて、後ずさる。
鉄葉の拳だった。
脅しではない、殺意を含んだパンチ。
『これは簡単ではないな』
彼女の中の狐が言った。
麗子の力を構成する曼荼羅。その『普賢菩薩』を埋める霊体だ。
冴島次郎三郎が予言した麗子の味方の一つだ。
麗子が考えている間にも鉄葉は拳を、時折、蹴りを交えて麗子を攻めてくる。
彼女はギリギリで避けることができた。
避けれただけラッキーと言える。
『ここは俺に任せろ』
「どうしろっていうの?」
死角から、アッパーカットが振り上げられる。
麗子の意識外で体が動いた。
自分の意思ではなく、強く足が動く。
正面方向にでもこんな距離を飛んだことはない。
四、五メートルは飛んでいるだろう。
鉄葉は驚いて動きが止まる。
「そんなバックステップ、ありかよ」
『今のは危なかった。俺が体を動かしてやる。とりあえず、一旦脱力しろ』
麗子は言われた通り、立ったまま手足を振って力を抜いた。
身を任せるように、心を解放すると彼女の中の狐が、全身を緊張させた。
体を乗っ取ったのだ。
「よし。いい感じだ。意外と鍛えているな」
麗子の声だが、麗子自身の言葉ではなかった。それは彼女の中の狐の声だった。
『やれるの?』
「やれるさ、というかやってやる」
麗子はポケットからオープンフィンガーグローブを取り出し、はめた。
鉄葉は両手で呼び込むように手を動かすと言う。
「かかってこい!」
鉄葉の先では、雪音は大きな筒を前にして指を組み、詠唱を始めている。
それにシンクロするように筒の模様が光を放っていた。
あれも不発弾なのだろうか?
麗子はそんなことを考えていた。
考えている間も彼女の体は狐が動かしていて、鉄葉の拳を避け、蹴りを受け流し、時折、彼の腹に拳を叩き込でいる。
鉄葉との格闘に、終わりが見えない中、麗子の体は激しく呼吸を始めた。
体格差からくる消耗度の違い。そもそも彼女の体力が低いことも影響し一分ちょっとの格闘で、体に強い疲労が出ていた。
一方で筒の周囲には黒い霧状のものが見え始め、それが人の形に集まり出している。
詠唱が終われば、ソンビが現れ、明るい大学のキャンパスが一気に混沌と惨劇に包まれてしまう。
『お願い、この鉄葉とやり合っている時間はないの』
「あいつも、体力だけで格闘をやってるんじゃない。しっかり技術も持ってる。簡単にはいかない」
『じゃあ、霊力で上回るしか』
息を切らしながらも、鉄葉の拳を避ける。
「……だな」
純粋な体力、つまり基礎体力の差、体重差や筋肉量の違いを埋め、麗子がそれを補い上回るためには『霊力』を使うしかない。
「行くぞ!」
直接霊力をぶつけたら鉄葉が破壊されてしまう。
姿を変えず、霊力で比重を増し、筋力の出力値も増す。
麗子の別人のような拳に、一瞬で気づいた鉄葉は大袈裟にのけぞって避けた。
続け様の右拳が繰り出されると、鉄葉は一気に距離を取った。
「なんだこの威力は……」
「声かけたら流石に避けれるか。今度は予告なしだ」
麗子は軽く握った左拳を前にし、ファイティングポーズをとる。
麗子の中の麗子は、視野の隅に映る黒い霧がゾンビに変わっていくのを見てしまう。
『急いで!』
狐が麗子の体を素早く前にステップインさせる。
鉄葉はタイミングを見て、カウンター気味のローキックで崩そうと仕掛けた。
麗子はありえないタイミングでそのローを足の裏で受け流す。
受け流した足が着地しないうちに、麗子は軸足側を蹴って飛び込むようにハイキックを放つ。
鉄葉は、構えている腕を顔の横に振って、麗子の蹴りをガードする。
ガードした蹴りが、腕に当たった瞬間、鉄葉はその蹴りがさっきまでの軽い体から放たれたものとは違うことを実感する。
予想の倍、いや十数倍の威力に負け、麗子の蹴りで鉄葉の首が激しく振動する。
体はバランスを崩し、回るバトンのように頭が地面へ落ちていく。
彼は、どこまで意識があっただろう。
激しく体を打ちつけた鉄葉は、口から泡を吹いていた。
『ねぇ! だ、大丈夫なの?』
「手加減はした」
麗子はそう言うと、同時に体を取り返した。
「遅かった……」
雪音の周りにある黒い霧は、すでに足の先までゾンビになっていた。
その一体だけではない。四体、五体、そしてまだなりかけている黒い霧も同じ数くらいいる。
どうしたらこのピンチを守り切れるのだろう。
麗子は向かってくるゾンビを、呆然と見つめていた。