塹壕ゾンビ
柴田を含めた警視庁の四名は、午後遅くに皇居に入った。
宮内庁の施設の一つを使って暗くなってからの探査の準備を進めた。
最も目撃情報の多いエリアを二名ずつで見回ることになった。
昼間は見回らないのに夜間も目一杯探査しないのは、昼間帯に睡眠を取っても十分に体を休められないからだ。
メッセージアプリのグループを作って、この三日間、互いに情報をやり取りすることにした。
陽が落ち、暗くなると柴田は施設を出発した。
「すごいな」
皇居の自然は、ここが都内であることを忘れさせるほどのものだった。
保全・管理用に獣道のような、ちょっとした道があるのだが、そこを外れるとすぐに道に迷いそうなほど草木に覆われていた。
「『塹壕ゾンビ』ですか」
「そうだ。その表現が正しいかはわからないが、映像の通りだとすると塹壕のような窪みがお堀に沿って存在することになるな」
「そこを中心に動き回っている、と」
柴田は頷いた。
「地図的には、そろそろお堀の近くだ。足元に気をつけろ」
お堀という名の通り、岸から這い上がって来れないよう急斜面になっている。
二人は、草木の中をわけ入り、慎重に歩いた。
頭につけたライトだけでは草木に覆われていて、足元までしっかり見えない為、手にもライトを持って照らした。
「……これ、これ、塹壕では?」
確かに窪みが出来ていた。
ただ、掘ったばかりのものではなく、随分と時間が経過している為に、深さがなく、なだらかになっていて、剥き出しの土の部分はなく、コケや草が生えていた。
「確かに作られてから時間が経っているせいか、幾分緩やかにはなっているが、人工的な感じがするな」
「本当に戦時中に塹壕を作ったのでしょうか?」
「空爆があったから防空壕を作った記録はあるらしいが、塹壕を作る必要はなかっただろうな」
塹壕のように掘られた部分は、皇居の縁をなぞるかのように続いている。
「降りて進んでみますか?」
柴田は頷くと、先に若手の彼が下に降りた。
「見かけより深いな」
雨風で削られ、埋められているはいえ、腰の高さより深かった。
柴田も追うように降りると、若手の後ろをついていく。
「俺、親も祖父母も戦争を経験してないんですけどね。こういうの見ると戦争があったんだなって思いますね」
「何、自分だけ若いふりしてるんだよ。俺の祖父母だって戦争は知らない」
二人は話しながら、塹壕と思われる掘られたところに沿って、エリアを見回った。
夜がまだ浅いせいなのか、問題のゾンビ、もしくはそれと見間違えるような動物などと遭遇することはなかった。
二人は、エリアの中を何度か行き来すると、あらかじめ決めておいたポイントで立ち止まり、定点監視を始めた。
その後も、動くのは小さな動物や鳥だけで『塹壕ゾンビ』あるいはそれと見間違うような動物に出会うことはなかった。
時間を見て、二人は宮内庁の施設に戻り、仮眠をとって待っていた二人と交代した。
その晩、柴田を含む四人は何も発見できなかった。
次の晩も、同じだった。
流石に三日間では無理なのだろうか。
柴田はそう感じていた。
夜が明け、陽が上り、午後になる前には、皇居を出なければならない。
施設で待機しながら、柴田はスマホでSNSの情報を漁っていた。
その中で『ユキネェ』というハンドルネームの投稿が目を引いた。
『塹壕ゾンビは米軍の落とした焼夷弾に仕込まれた軍事ウィルスが生み出した化け物』
……というものだった。
バカバカしい、と思いつつも書かれている細かな情報は、それっぽく集められていて、まるで事実のように思えてくる。
SNSでも支持を集めているらしく、とある大学内では『塹壕ゾンビ』に対しての情報開示を米軍に要求するデモをする動きまで出てきた。
「焼夷弾の一部に仕込まれた米軍のウィルス…… ねぇ」
話には無理がある。
もしウィルスが本物だったとしても素材となる死体が皇居内に十分になければならないのだ。
東京に空爆があったとすれば第二次世界大戦だろう。
実際に塹壕の『ようなもの』はあったが、塹壕の目的で掘られ、本当に戦闘があって、死者が出た記録は一切ないのだ。だから仮にウィルスが本物であっても、ゾンビは作り出せない。
ウィルスが『呪い』だとしても同じことだ。
皇居の内側を彷徨いていることを説明できない。
いや、まさか……
柴田は首を振った。
その連中は皇居、あるいは赤坂の御所に秘密の実験場があって、戦争負傷者や捕虜を使って実験をしていたとある。
もしそうなら、米国を批判する前に、まず日本全体が紛糾してしまうような話だ。
そもそも捕虜を実験に使っていたら、ジュネーブ条約を破っていることになる。アメリカの批判をするどころではないのだ。
だから、この話は『アメリカを批判する』には的ハズレな内容となる。
「柴田さん、そろそろ行きますか」
柴田は立ち上がると、装備を確認して施設を離れた。
皇居の中を歩いていると、暗くてはっきりは分からなかったが、月明かりの様子から雲が出てきたようだった。
そして、パラパラと雨が落ちてきたと思ったら、一気に天候が変わって土砂降りになってしまった。
柴田たち二人は、予定を変えて雨が落ち着くまで木々の下で雨宿りをすることにした。
雨が小降りになり、二人が再び皇居の森の中を歩き始めると、今度は雷が鳴り始めた。
光と音の感じから、近くの雷ではなかったが、空が明るく光ると森の中も照らされた。
「おい」
柴田は一緒に見回りをしている警察官に声をかけた。
「今、何かいなかったか?」
柴田には、雷の光の下で、一瞬変なものが見えた気がした。
「脅さないでください。私には特に変なものは見えませんでした」
「……」
ゴロゴロと、まだ雷が空を走っていた。
葉に溜まった雨粒が、急に音を立てて一斉に落ちてくる。
狙ったかのように雲から雲へと雷が走る。
フラッシュのように空からの白色光によって、森が照らされる。
「!」
何か、いる。
視野の中に、人型の動く生き物が映った。
雷の腹に響く音と、加えて獣が威嚇するように喉を鳴らす音が聞こえる。
「柴田さん! あれ!」
青黒く変色した肌。
腕や腹には、何かに噛みちぎられたように肉や皮が欠損している。
「ゾンビ……」
動く死体。
柴田の中には、それを表す言葉は『ソンビ』しかなかった。
「特殊警棒を」
柴田たち二人は、腰につけていた伸縮式の警棒を取り出すと、勢いよく振って最大長まで伸ばした。
そのまま警棒を構える。
「何者だ!」
「答えなければ打撃を加えるぞ!」
二人は正面に立ってゆっくり向かってくる『死体』のような生き物に問いかけた。
だが、聞こえているのか、言葉が理解できないのか、ゾンビに見える者からの応答はない。
空には雷が走り、森はまた白い光で包まれた。
塹壕ゾンビの口が大きく開かれ、広がる腐臭と共に死体ににつかわしくない鋭い牙が確認できた。
「噛まれたら……」
若い警官は最悪の事態を想像して萎縮してしまった。