彼女の髪色
白土雪音は大学での講義を終え、帰り支度をしていた。
先に支度を済ませた同じ学年の男子生徒が、彼女のそばで立ち止まった。
「白土…… 髪染めたのか?」
雪音はあまり話したことがない男からの問いに、少し間を置いてから言った。
「それがどうかしたの?」
「いや、なんで根本だけ白くしたの? 全部白くすればカッコいいのに」
雪音は思わず頭を手で隠した。
「……」
男は何かに気づいたように表情を変えると『さよなら』とだけ言って去っていった。
彼女の髪の毛は、毛先の側は茶色、根本が白くなっていた。
根本の白は染めているのではなく、地毛だった。
雪音はノートなどの片付けを中断して、バッグの中にある帽子を探した。
帽子を取り出すと、根本の白髪を隠すように被った。
七年前のことだった。
雪音は中学に入ったばかりで両親と暮らしていた。
父は仕事が忙しく、雪音が起きている時間に家にいることがなかった。
母も派遣で働いていて、雪音は友達が親にしてもらうようなことを殆ど自分でやっていた。
ただ、彼女はそれが当然だと思っていたし、彼女は両親のどちらも好きだった。
日々の暮らしが過ぎていく中、雪音が知らないところで何かが壊れ始めていた。
夏が近づいた頃、部屋で寝ていた雪音は、夜中に暑苦しくて起きてしまった。
エアコンを付け直そうと暗い部屋の中でリモコンを探していた時、部屋の外から父の声が聞こえた。
「だからなんでないんだ」
「知らないわよ! 必要だから使ったんだから、もっと稼いでよ」
「仕事でろくに家にも帰れず、いざ使おうとすると一銭も残ってないなんて」
二人の口調の荒さもあって、雪音はリモコンを掴み損ね、床に落としてしまった。
その音が聞こえたせいか、両親の話し声が止まった。
気付かれた、雪音は思った。
そっとベッドから降りて、リモコンを取ろうとしたが、扉の曇りガラスに影が映ったのを見て、寝たフリをした。
扉が開いたように光が入ってきて、声が聞こえた。
「雪音……」
起こそうとするのではなく、起きているのかを確かめるための小さな声。
母は雪音が寝ていると判断したのか、リモコンを拾い上げ「暑いわね」というとエアコンをつけ、タイマーを入れた。
リモコンを枕元に置くと、静かに出ていき扉を閉めた。
母が戻ると、父と再び口論を始めた。
時折、ガラスや陶器の割れる音が聞こえたかと思うと、母の啜り泣く声が聞こえてきた。
出ていって止めるべきなのか、判断がつかないままベッドでじっと耐えていた。
平和だと思っていた家庭が、こんなに危うくて、壊れかけていることに怖くなった。
離婚したらどうしようとか、そうなった時、父と母どちらにつくのか、など思いつくまま、考えを巡らせていると眠れなかった。
そのうち母の鳴き声が聞こえなくなると、雪音もいつしか寝てしまった。
数日後、雪音が学校から帰ると、家の前に胸元の開いたシャツをきた男が二人、タバコをふかして立っていた。
一人はサングラスをかけていて、一人は髪を剃っていた。
顔や背格好を見ても、彼女にはそれが誰か分からなかった。
怖いながらも家に入ろうと近づくと、二人に気づかれた。
「この家の娘だな」
雪音はバッグを体の前に抱え込み、後ずさった。
「別に何もしねぇ。お前のお母さんを呼んでくればいいんだ」
「……お母さんが、どうしたんですか」
「俺たちはお母さんの知り合いだよ。今日、家にいるって言ったから、俺たちは訪ねてきたんだが、居留守を使うから、仕方なくここで待っているんだ」
雪音がインターフォンを押す。
家の中で呼び出し音が鳴っている。
男が横から手を出して、インターフォンの呼び出しボタンを押した。
「ほら、今押した分は鳴ってない。お母さん、中からこっちを見てるんだよ」
「……」
「名前を言って、開けてと言え」
そう言って顎で家の方を示した。
雪音は震えていた。
「お、お母さん、開けて」
だが家の中から応答はない。
ボタンを押しても、中から音が聞こえないから、インターフォンのカメラでこちらを見ているに違いないのに、だ。
「おい、娘がどうなってもいいのか?」
それは言葉だけで、実際雪音に何をしているわけではない。
実際に触れたり脅しているところが目撃されてしまえば、、警察を呼ばれてしまう。
インターフォンの画面からは確認できないから、言葉で脅しているのだ。
「後悔するぞ」
雪音は出てこないで、と思いながらも、反面、自分がどれだけ大切に思われているのかとも考えていた。
そんな思いは杞憂に終わった。
「雪音!」
母は私を心配してくれた、と思ったのも束の間、その開けた扉に禿頭の男が足を差し込んだ。
母が慌てて扉を閉めようとすると、サングラスの男が加わり力で強引に扉を開けてしまう。
「やめてください!」
家の中から聞こえる母の小さな声は、近所の人の耳に届かない。
「お母さんに何するの!」
だからと言って、雪音の声を聞いて近所の人が助けてくれるわけでもない。
母を助けようとして扉に向かった雪音は、腕を取られ家の中に引き入れられてしまった。
男は扉の鍵を閉めてからチェーンロックをする。
「上がらせてもらうぞ」
「警察を呼ぶわよ」
「呼ばせないがな」
サングラスの男は、母の腕を後ろにねじあげる。
「そんなことより旦那を呼べ。どれだけ借金が嵩んでいるのか説明しないとな」
「この娘を自由にして」
「そんなこと言える立場だと思ってるのか?」
ねじあげている腕をさらに絞り込む。骨が軋んで母の顔が歪んだ。
「親戚を呼んで娘を引き取ってもらう。それまでは何もしない」
「娘の安全が確認できたらどうするってんだ?」
「なんでもする」
心の底から、絞り出したような声だった。
雪音はその声が、今も頭の中で繰り返される。
「よし、信じるぞ」
母が親戚に連絡し、三時間ほどすると外に車がついた。
インターフォンを通じて会話し、雪音だけが外に出た。
数日を過ごせる荷物を持って親戚の車に乗り込むと、親戚のおばさんは何も言わずに車を発進させた。
雪音は親戚のおばさんから、母に迷惑がかかるから家に戻ってはいけないと言われた。
小遣いもろくにない中学生の彼女にとって、車で三時間もかかる距離を、どうやって帰っていいかわからなかった。
スマホで親戚の家から自宅までの距離や時間はわかったが、徒歩なら野宿しなければならないし、電車を乗るにしてもお金がない状態でいくつも改札を抜けれる訳がなかった。
雪音は毎日毎日親戚のおばさんに帰りたいと頼むが、お金をくれるわけでも車を出してくれるわけでもなく、ただもう忘れなさいというだけだった。
一週間ほどたった時、親戚のおばさんが部屋で泣いている雪音のところにやってきた。
「あまりに不憫だから、お金を渡すけど、無事を確認したらすぐ帰ってくるのよ」
雪音は声が出なかった。
感謝の気持ちが声にでず、必死に何度も頭を下げて、そのお金を受け取った。
知らない駅から電車に乗り、初めてのる特急を利用して家についた。
インターフォンには誰も出てこなかった。
雪音は留守なのかと思いながらも、鍵を取り出し玄関を開けた。
彼女は生まれて初めて、息をしただけで分かる『嫌な予感』を感じた。
「お母さん!?」
姿は見えないが、いると確信していた。
何度も母を呼びながら、彼女は部屋を移動する。
心の中で無意識に避けていたのかもしれない。
雪音はようやく、両親の寝室の扉の前にたどり着いた。
漂ってくる空気から確定的な情報に、まるで気づかないふりをして、扉を開けた。
「!」
部屋の真ん中に二つ並べられた布団。
父と母がそれぞれで眠っている。
いや、目は開いているが、ほおの血の気は失せていた。
「お母さん、お父さん……」
それ以上声は出ない。
近づいてかけ布団を剥ごうとすると、乾いた糊が剥がれるような音がした。
「……」
体の力が抜け、脳に回る血が足らなくなり、目の前が白く濁っていく。
立っていられなくなった雪音は、そのまま気を失った。
黒々としていた彼女の髪は、その瞬間以来、白髪となったのだった。
それ以降の細かい内容は、雪音の記憶に残っていない。
親戚のおばさんの家で暮らすようになり、気がつくと初七日が過ぎていた。
保険が掛かっていたらしく、保険の調査員が来たが、雪音に答えることができる事はなかった。また、そもそも、その保険金は雪音が受け取れる金ではなかったのだ。誰が受取人なのかは、分からなかった。
今思えば、あの時の借金取りが受取人何かもしれないが、確証はなかった。
その後で雪音が知ったことは、両親の通帳に一銭もお金が残っていないことだった。
雪音に残ったのは、家と土地だけ。
だが、それが残っていただけマシだった。
彼女はそのお金で大学へもいけたし、今、少ないバイト代で暮らしていけるのもそのお金のおかげだからだ。
化粧室の中で、雪音は髪にスプレーをかけ、素早く白い部分を染めた。
手鏡も使って染まったことを確認すると、自らの頬を手で叩き、鏡に向かって笑ってみた。
もうあの頃の私ではない。
私を支える『教え』がある。
そう言い聞かせると、彼女は化粧室を出た。