宿泊先にて
エミリー・サンダースは空港を出ると、来日中の宿泊先であるホテルに着いた。
黒いワンボックスをホテルの地下につけると、専用のエレベータに誘導される。
荷物を持ったアリスも同じエレベータに乗ろうとした時、通訳が言った。
「アリスは階段で上がってこい」
「は? エレベータ、まだ余裕あるじゃない」
「口ごたえするな」
エミリーが言っているのだろうが、アリスはあえて通訳を睨みつけた。
「荷物やスーツケースに傷をつけるな」
「……あんた、いったい何が気に入らないの?」
アリスはようやくエミリーの顔を見て言った。
エミリーは通訳の耳に、小さい声で何か言う。
通訳は彼女の言葉を聞き終わると、口を開いた。
「まず最初に、到着した飛行機に遅れてやってきた。その謝罪もない。記者会見場で中央に入ってきた。そして私の話題をかき消した」
そういうと、通訳はスマホの画面を見せ、トレンド・ワードに『アリス』という言葉が入っていることを示した。
エミリーを最初ではなく、一番最後に飛行機から出そうとしたアイディアも、記者会見場でアリスが中央に移動したのも、この警護を仕切っている一人の男のせいだった。アリスが自分で考えてやったことではない。
ただ、それを言ってこの態度が変わるとは思えない。
私が何をやってもおそらくこのエミリーという人は、こういう態度をとるだろう。同性を見ると、マウントを取らずにいられないタイプの人間に違いない。
アリスは諦めてしまった。
そして両手でスーツケースを持ち上げると、階段方向へ歩き出した。
あらかじめ知らされていた図面により、ホテル内のレイアウトは把握していた。
スイートまで通じている階段はこの非常階段しかない。
アリスは空調が効いてない非常階段を、ひたすら登っていく。
こちら側から開ける手段はないので、スイートのあるフロアに着いたら、スマホで連絡してフロア側から鍵を開けてもらうように頼んだ。
淀んで蒸し暑い空気の中、体のあちこちを汗が流れていくのを感じる。
十何回も顔の汗を拭った後、ようやく鍵が開いた。
「アリス巡査、少々まずいことが」
「なんですか? 無線で連絡していただければよかったのに」
「エミリーの来日に反対する例の活動家が、ホテルに入り込んでいるという情報が」
スーツケースを運ぼうとして、ケースのキャスターが深い絨毯の毛に絡むことに気づいた。
面倒でも持ち上げて運ぶしかない。
「そういうことは普通の警護担当に言ってください。私はまず、この荷物を彼女の部屋に運び込まないといけないので」
「……荷物を置いたらでいいので、すぐに部屋にきてください」
スイートに入る通路を監視できるよう、周囲の部屋は押さえていて、その一つを詰め所として使うことにしていた。部屋とは、それのことだ。
「わかりました」
アリスはエミリーが泊まるスイートルームの前に来ると、インターフォンを鳴らした。
中から英語で話かけられ、アリスは理解できずに弱ってしまった。
「通訳の人はいないのですか?」
アリスの声だと気付かれたらしく、強い剣幕で捲し立てられる。
英語でひとしきり責めたてられた後、突然、
「今開ケルカラ、待ッテロ」
と言われた。それも同じエミリーの声だった。
まさか、日本語を理解し、話せるのに通訳を使っていたのだろうか。
アリスが入り口の前に立つと、扉が開いた。
「何シテルノ、早ク入リナサイ」
アリスは毛足の長い絨毯のせいでキャスターが使えない為、荷物を持ち上げながら中に入った。
指定された場所に荷物を置くと、アリスは会釈をして立ち去ろうとした。
「ムカツク女、ソウ思ッテル?」
「失礼します」
「待チナサイ」
アリスは振り返る。
「あなたに反対する活動家がホテルに侵入したという話があります。すぐに詰め所に行かないと」
「何ヲ言ッテルカ、分カリマセン」
「あなたの敵がホテルに入ってきた」
エミリーはアリスの右腕にしがみついてきた。
ふわっとした白いブラウスでは分からなかったが、腕に当たる胸は大きく、嫉妬を覚えた。
「アナタハ、ココデ私ノ警護ヲシテ」
アリスはため息をついた。
「直接的な警護は私の役目では……」
「イイカラソウシテ」
アリスは左手でスマホを操作し、送話モードにすると、言った。
「要人の強い要望により、私はこれからスイートルームの警護をするわ。状況を教えて」
イヤホンを通じて、詰め所にしている部屋からの様々な声が入ってくる。
『三階ロビーのホテルマンに目撃されたが、今はいない』
『監視カメラ映像を見たが、顔が確認できてない。だから、各フロアの顔認証装置で引っ掛けるのは期待できない』
『だが、顔以外は分かってる。グレーのスーツの上着をスーツケースに引っ掛け、チョッキを着ている』
監視カメラに顔が映らない? どこかで聞いたことがあるな、とアリスは思った。
本人の霊力でそれをしているのだとしたら、少なからず感じることができるだろう。
もしそうでなければ、相当強力な呪物を持たされている。
「ちょっと厄介な相手らしいわ」
呪物を持って、それを使ってくるなら、通常の警護のやり方は通じないかもしれない。
『今、この下の階に不審物が置かれていると連絡があった。スーツケースらしいから、奴が持ち込んだものかもしれない。すぐに確認する』
『爆弾かもしれん。慎重に行動しろ』
アリスはエミリーをベッドに連れていく。
「階下から何か来るかもしれないから、ベッドの上にいて」
「ワカッタ」
無用に騒がれてしまうだろうから『爆弾かもしれない』とは言えなかった。
アリスは再びイヤホンから来る情報に集中した。
『エレベータが来る!』
『カットしてなかったのか!』
『いいから何が出てくるか確認して、不審者なら確保しろ』
下のフロアに誰かいるという情報はなんだったのか。
アリスのスマホにメッセージが入った。
柴田からのものだ、とわかるとそれ以上スマホを操作するのをやめた。
だが、メッセージは一度ではなく、二度、三度としつこく入ってくる。
アリスは耐えきれずにメッセージを開く。
『ユキネェが動いた』
まさか……
アリスはエレベーターの前で待ち構えている連中に向かって叫んだ。
「そこを離れて!!」
音が割れてしまったのか、反応がない。
アリスはもう一度、押さえた調子で言い直す。
「そこを離れて! 中にいるのは……」
言いながら、イヤホンからエレベータが到着した音が聞こえてきた。
「まだ間に合う、早く詰め所に逃げなさい!」
『何を言って……』
『エレベータ内には複数の』
『逃げろ!!』
『ゾンビのコスプレ!?』
「コスプレなんかじゃないわ! 早く逃げなさい!」
アリスはスカートを捲り上げ、ふとももにつけたレッグホルスターから銃を取り出した。
「何ガアッタ!?」
驚いて声を上げるエミリーに向かって、その場に留まるように言う。
『敵が多すぎる!』
「まだそこにいるの? 早く逃げて」
『道夫が捕まった』
アリスはエミリーに言う。
「手伝って。私が出たら扉を閉める。扉の開閉については、私の指示だけに従って」
エミリーは頷いた。
アリスは扉を少し開け、外の様子を確認する。
様子がわかると、扉を勢いよく開けて飛び出した。
「エミリー閉めて」
「!」
エミリーはアリスの姿の先にいる、動く死体に気づいた。
「アリス、ソコ、ゾンビ!」
「早く閉めて!」
エミリーは震えながら扉に手を伸ばすと、勢いよく扉を閉めた。