真実 2
「湘馬の子供として生を受けた以上、逃れられないこと」と、冬馬は言った。
私は、荷物をまとめながら、不安定に揺れる気持ちを必死で支えている。
しっかりしなくちゃ。
信じる、信じないは、私次第だ。
何を信じるかによって、現実も大きく変わってくる。
彼らにとっては、事実かもしれないことでも、私には、違う。
私はまだ、自分で選んだものを、何も背負ってはいないのだから。
彼らが投げてきたパスを、拒否する権利だって、自分にはあるのだもの。
荷物をまとめるのが忙しくて、パジャマのままでいた私は、手早く着替えをして、脱いだパジャマを丸めてたたんでバッグに押し込んだ。
今の時間なら、夜の八時前には、東京に着くはず。
用意が済んで立ち上がったとたんに、足元が重力を失い、目の前が真っ暗になる。
急に起き上がって、動いたせいだ……呼吸を整えるために、深呼吸を繰り返す。
腕時計をはめて、来たときと同じマクレガーのコートを羽織る。
リュックを背負い、バッグを両手に、お世話になった部屋を見渡すことなく、私はそこを出た。
後ろ手にドアを閉めると、廊下に、三人の姿があった。
冬馬。蒼馬。涼馬。
揃っているところを見ると、私の行動はお見通しらしい。
自分を奮い立たせて、彼らに告げる。
「私は、何も見なかったし、聞かなかった。あなたちのことは、忘れるわ。忘れずに記憶にあっても、他言はしない。あなたたちも、私のことは放っておいて」
一息にそう言って、歩き出した私の手を、涼馬がつかんだ。
「勝手に来て、引っ掻き回すだけ回して、自分はさっさと退散かよ?」
「呼んだのはそっちじゃない」
「来たのはオマエの意思だろ!?」
「私の意思で来たかもしれないけど、また、私の意思で出て行くだけだわ」
「ずいぶん勝手な言い草だな」
「勝手でもなんでも、私には私の決意で動く権利があるはずよ」
「そうだな」
蒼馬が、頷いた。
「俺たちの誰にも、あんたをどうこうする権利はない」
「ソウ、おまえ」
非難めいた声を上げた涼馬が、舌打ちして黙り込む。
私は、彼らのほうをふり向いて、頭を下げた。
「……お世話に、なりました」
顔を上げると、冬馬と、視線が合う。
無感情を装う表情の中に、心のやり場のない自分を持て余すような、物憂げな眼差あった。
私は、胸の奥がざわめくような、息苦しさを覚えてしまう。
「出て行くのは、かまわない。君の好きにすればいい。けれど、もう少し休んでからの方がいい。今の君の状態だと、駅に辿りつくのが精一杯だよ」
切羽詰っている人間を諭そうとする、慎重な口振りで、冬馬が言う。
「平気です。今日中に出たいの」
「もし倒れても、僕たちは、迎えに行かない」
突き刺された、気がした。
突き刺した手は、冬馬の手なのか。
それとも、自分の意思の手なのか。
心臓が、見えない裂傷を訴えるかのように激しく乱打する。
ここから、一刻も早く離れたいくせに。
この人たちの顔を、二度と見たくないって、思っているのに。
逃げるように、距離を置こうとしているそばから、心は痛みで喘いでいる。
「大丈夫です」
来たときと同じように、大荷物を抱えて、ボストンバッグを引きずりながら階段を降りた。
体が、ふわふわと宙を歩いているようで、力が入らない。
三日間も寝たきりでいたからだ。体を動かすことに慣れれば、きっと、だいじょうぶ。自分を励ましながら、吹き抜けになっている階段を一段一段下まで降り切ると、バッグから手を離して、額から頬に流れてくる油汗をぬぐった。
なんでこんなに、体調が悪いのか分からない。こんなふうになるなんてこと、初めてだけど……。……根を上げちゃ、いけない。
立ち戻ったら、呑み込まれてしまう。
身動きの一つ一つを注視されている、迫る視線をひしひしと背に受けながら。
ふり返らずに、玄関に立った。
ここを、一歩でも出たら、一人だ。
駅に着くまでに、倒れたとしても。たとえ私が、野垂れ死にしたとしても。
あの人たちは、私を放っておくだろう。
“他人でいること”を選んだ私に、手をかしたり、干渉したりは、しない。
それは、わかる。
足元がもつれて、めまいに襲われる。肩を繰り返し上下させ、全身で息をつく。
慌ただしく階段を降りる足音がして、
「なつめ!」
倒れそうになった体が、後ろから支えられた。
「だから、無理だって言ってるだろう!」
ビターシトラスの、香り。
ふり返らなくても、私を抱きかかえるように支えてくれている人が、誰なのか、わかってしまう。
「僕たちの傍にいたくないなら、それはそれでかまわない。出てくなとは言わないから、もうニ、三日、休んだほうがいい。体の具合が回復してからじゃないと、三十分もしないうちに失神して動けなくなるぞ!?」
私は、息切れがして、話をすることもできない。
数分と間を置かず、どんどん気分が悪くなる。
なんなの――――? いったい。
私、どうしちゃったの!?
「だいたい、そんな状態で、どこへ行こうって言うんだ? 友達のところか? 友達だって迷惑だよ、こんな君に転がりこまれても」
そうだけど、でも。
私は、荒い呼吸を繰り返して。やっとの思いで、口にする。
「ここには……いられないの。……いたくない」
大きくて、不気味な、見えないものに、取り巻かれていく。
底のない、不安。
抗えない、恐怖。
自分が自分で、いられなくなる。
「…………わかった」
立っていることさえできなくなっている、私を支えながら。冬馬が、大きく息をつく。
「ソーマ!」
デニムのポケットから鍵を取り出して、階上の吹き抜けから玄関を見おろしている蒼馬へ、軽々と放る。
「僕の部屋から、車のキィ、取ってきてくれ。机のそばのボードに掛かってる」
「トー……マ?」
「相当な頑固者だね。君、意地っ張りを直しましょうって、毎回通知表に書かれるクチだろ。湘馬に似てるのかもな、そいうとこ。
四人の中じゃ、人の話を聞いちゃいないヒョウはともかく、実はリョウよりも手におえない、一番の強情者のソウといい勝負だぜ」
冬馬が、苦笑する。
「さすがに、駅に放り出すのも寝覚めが悪いからね。ヒョウが気まぐれで篭るのに利用してる、ホテルのコテージがあるんだ。いつ行ってもいいようにキープしてあるから、そこに連れてくよ。あそこならゆっくり休めるし、食事の心配もいらない」
……寝覚めが、悪いなんて……
「え? なんて言ったの、なつめ」
冬馬が自分の顔を、私の顔へと、近づける。
長い睫毛が影を落として、菫色に見える瞳をすぐ間近に見ながら。
こうして見るのはこれが最後だと思い、思うほど、苦しくなった。
ここに残りたくない抵抗とは別の、何かに溺れている自分から、自分を引き千切る思いがする。
片割れを、溺れたまま置き去りにしていく、どうにもならない狂おしさ。
感じたことのない、激しく惑乱している、胸苦しい気持ち。
この人の前で、たくさんわがままを言って、困らせて、甘えたくなる。
子供じみた、感情。
「…………放っといてくれて、よかった、の、に…………」
冬馬が、一瞬、目を見開いて。
それから、うつろう私の目を、そっと覗きこむようにして、言った。
「僕もいちおう、血の通った人間のつもりで、生きてるんだ。君が、どう思ってるかは……わからないけれど」
そして、寂しそうに。
消え入りそうな儚さで、優しく、哀しく、微笑した。
コテージは、丸太造りの、木の香に包まれた空間だった。
高い天井にロフトを設えていて、リゾート地での休日を、くつろいで過ごせそうな場所。
ホテルの敷地内にあるとはいっても、さすがに木枯らしの吹きすさぶこの時季は、訪れる人も少なく深閑としている。
篭るには、いいかもしれない。隠れ家みたいで。慣れないとかなり、物寂しい感じもするけれど……。
静かすぎるのに馴染みの薄い私には、木の葉が落ちる音にもびびってしまって、どうにも落ち着かなかったりする。
何かが出てきて、叫び声を上げても、誰も助けには来てくれなさそうな。
案内図を見ると、ホテルの本館までは八百メートルも離れている。
冬馬に連れられてきた直後、私はベッドに倒れ込んで、そのまま起き上がれなくなってしまった。
うつらうつらとする意識の中で、冬馬がしばらく居てくれたように思うけれど、目が覚めたときには一人だった。
ベッドサイドのナイトランプが、ほのかに辺りを照らしている。
私は最初、自分がどこにいるのか、判断できずにいた。
サイドテーブルにあった冬馬の書き置きを見て、やっと状況を思い出す。
数日も食事をしていないわりには、空腹を感じない。
喉は乾いていたので、備えつけの冷蔵庫を開けてみた。
ホテルが常備しているジュースとアルコールの他に、牛乳と栄養補助ドリンク、一口大に切ってお皿に盛り合わせた果物、カスタードプリン。
大きめのガラスのタッパーに入った、冷製の野菜スープまであった。
冬馬の配慮だろうと、察した。
ホテルのルームサービスは利用時間が限られてるし、冷蔵庫があるとはいえ、大抵はドリンクサービスくらいしかしていない。
つくづく、よく気のつく人だと感心する。
ハウスキーパーの役割をしている彼らしいというか。
野菜のスープや果物は後から届けに来てくれたのかな、と思いながら。鍵はどうなっているのだろうと、出入り口を確認してみた。
ちゃんと、閉まってる。ルームキーは、書き置きと一緒にあった。
どうやって外から、閉めたのだろう? キープしているコテージだと言っていたから、スペアキーでもあるのかもしれない。
と、納得しておいて、深く考えないことにする。
鍵が無くても、開けたり閉めたりするくらい、なんてことないかも……なんて、思い浮かんだこと、そんな事を、さえぎる疑問もなく思ってしまったのが、嫌だった。
体は、まだ少し、ふらついている。
あと、一日か二日くらい休めば、体調も回復するだろう。
そうしたら、再び荷物を抱えて。
私は、戻らない。もう、彼らに、会わない。
このまま、きっと、会わないかも、しれない……?
「それで、いいじゃない」
呟いて。
……もう、会わない。私は、あの家で、暮らせない。
彼らと一緒には、いられない。
……生きる世界が、違うのだ。
お父さんが、離れたという世界に、私も、飛び込まないでいく。
自分のことは、自分が決めるの。
誰にも、何者にも、どんな力にも、動かされない。
冬馬や蒼馬の言っていたことが、本当で。
お父さんも、お母さんも、自分の生きる道を自分で選び、自分の心に正直に生きてきたのなら。
私は、両親を、誇りに思える。
これからどうしようって、問題はあっても。負けられない。
そう思うそばで、“だめかもしれない”とも、心が、ささやいている。
何がだめなの? と問いかけても、くるくるとコインの表裏が変わるみたいに、気持ちは止めどなく暗転する。
凛ちゃんは「何かあったらうちにおいで」と言ってくれてたけど、そのまま甘えて行くことはできない。
学校の担任の先生とか、区役所や福祉事務所に駆け込んで、自活するための施設のこととか相談してみよう。
最初から、そうすればよかったのに。どうして気が回らなかったのだろう。
焦る気持ちが先立って、一人になってどうしようって、右も左もわからず動転して、冷静に考えられなかった。
今も、冷静なわけじゃないけれど、切羽詰ってギリギリのところで踏ん張ってるぶん、がむしゃら根性が頭を動かしている。
底の見えない不安に、両足を引きずり込まれるのを恐れながら。
ラフランスやメロン、リンゴ、イチゴ、キウイ、ブドウを、ちょっとづつ摘まんで、お皿を冷蔵庫に戻す。
そして、再びベッドルームに行き、眠った。
夢を見ていた。
朦朧とさ迷う眠りのなかで、指輪が浮かんでいる。
どこかから光を受けてきらめいて、心地良い夢の世界のメリーゴーランドのように、揺るやかに回っている。
胸にかけた、形見の銀の指輪。
父が自分で創った、銀細工のシンプルなもの。
父がいつも身に付けていたもの。そして、そこに刻まれた刻印。
それを見て、私は。
どうして気づかなかったのだろう、と、思うのだった。
『なつめ。男の子を守れる女の子になるんだよ』
『男の子のほうが強いじゃない』
『体の力はね、男の子のほうが強い。ふつうの女の子は絶対にかなわない。でも、心の力は、女の子のほうがずっと強いんだ。男の子は体の力が強くて、女の子は心の力が強くて、それでこの世界は、ちゃんとバランスが取れているんだよ』
『バランスって、なあに?』
『ちょうど良く、という意味になる。
将来、なつめも、命がけでなつめを守ってくれる男の子に、出逢えるだろう。
なつめには、体を張って自分を守ってくれる男の子を、大切にできる女の子になって欲しいんだ。
男の子の心を、優しく包んであげられる女の子に、なって欲しい。男の子の心を、優しさと勇気で包んで、支えられる女性に』
『よくわかんない』
『なつめにはまだ、難しいかな』
『大人になって、また言ってくれたらいいよ』
寒い土地というのは、なぜこうも、孤独感を募らせるのだろう。
ホームに音を立てて吹き込む、空っ風に震えながら、肩をすぼめる。
一時間に二本ある程度の電車は、出ていったばかりで、三十分近く私はそこで次の電車を待たなければならなかった。
両手と背中の荷物を椅子に降ろして、自分も空いた所に座る。
コート越しにプラスチックの無機質な冷たさが伝わってくる。
土曜日の午前中でも、駅にいる人影はまばらだった。
十二月に入り、一段と寒さを増した冬晴れの空は、どこまでも澄んでいた。
私は、見上げながら、途方に暮れる。
吐息をつくだびに、自分の視界が生温かくなって、瞳や肌に、呼吸の湿度が降りかかる。
その頼り無さが、泣きたくなるくらい、私を孤独にさせた。
その僅かな温かさが、いまの私が触れられる自分の勇気だとも思い、泣きたくなっても涙は零れなかった。
鼻を啜りながら、冷たくなった顔を、手袋をはめた両手で暖めてみる。
こんなときに、思い出してしまう。
父と、ウィンドウショッピングに行くのが大好きだったこと。
この手袋も、このコートも、二人で一緒に選んだこととか。ピンクでお揃いにしたら、「ピンクばかり着ていると、ピンクずきんになるぞ」なんて、笑われたこと……。
帰りにおねだりして、高野のパーラーで、フルーツパフェを食べた。
嬉しくてにこにこしている私を、お父さんがもっと嬉しそうに眺めるから。私も、もっと嬉しくなってずっと笑っていた。
二年前の十二月だったと思う。クリスマス前の、冬晴れが眩しかった日曜日の午後。
こんなときに、ありありと、思い出してしまう。
いままで、思い出すことはなかったのに。
父と子の、二人で暮らした日々はありふれていて。
でも、過ぎてきた今になって、こんなに、愛しくて、優しい時間に満たされていたんだって、知らされる。
ありふれていたことの一つ一つが、そのときは素通りしてしまった温かさで、満ちていたから。
いまになって……切なくなる。
もっと、大切にすればよかったと、思いながら。
でも、思い出が温かいから、私はこうして、泣かずにいられる。
これから、本当に、一人で生きていくのだ。
本当に、一人なんだ。
東京へ戻って、ビジネスホテルを探して、月曜日になったら、担任の先生に取り敢えず連絡してみよう。
それから、住民票を置いたままの区役所に行って。親類は誰もいないと話していた父だから、私には頼れる大人はほとんどいない。
なんとかなる。だいじょうぶ。
働くこともできるんだし。
そう励ましているのに、心がきゅうきゅうと、乾いた音を立てている。
しぼれる元気がもうないかもしれないと、感じたりする。
心細さが、あらゆる力を奪い、気持ちを萎えさせようとしている。
…………何が、罪なのだろうか。
薄青い透明な空を見ていたら、そんなことが、心に浮かんだ。
彼らは、手を下しているわけではない。
実際に、何かをしているわけではない。
ただ、強く念じるだけだと言う……。
誰もが当り前にある考える力、想いの力を、コントロールして、それが現実に起こるように念を送り導いているだけ……。
人の想いの力が、想うように現実になるかもしれないことを、認めるならば、そういうことなのだろうか。
誰かを殺したくなるほど憎んだことはないけれど、憎む気持ちは悪いことだと、法で裁くことはできない。
目に見える形で、誰かを傷つけてるわけではないから。それは、私でもわかる。
隣りにいる人に、憎悪を向けている人がいる。よくあることだと、蒼馬は言っていた。
でも、これだけでは“罪だ“とは言えない。
想うだけでは、罪だとは、言えない。
だったら、彼らもそうなるの……?
念の力を送るだけで、手を下していなければ、彼らの罪は、存在しないようなもの……?
飛行機が墜落したという、事実があり。
それによって、念を送りそうなるように仕向けた彼らには、多額の報酬があるかもしれないこと。
現に、彼らの生活は、並大抵の経済力で支えられているものではないことも、事実なのだ。
結果としてある事実は、明らかなのに。
行った事を。罪を、罪として、明らかにできない。
犯罪として、この世で裁かれることのない……力。人間の、想念。
誰かの死を願う人まで罰していたら、この世の中は混乱する。
目に見えないものを徹底的に疑いジャッジして、あらゆる人を疑い、判断できる目印もないなかで、あらゆる秩序が、秩序として成り立たなくなるのだから。
この世界は、私が思うより、あやふやなのかもしれない。
確固たるものに守られていて、それに守られたまま一生を過ごせるのだと、何の疑問もなく、信じていた。
こんなにも、あやふやなのか。
考えれば考えるほど、足元から崩れていくように思える。
ここにいる自分も、確かなものではないと思い。
視界に映るものも、すべてが揺らいで、あっけなく崩れていくように……
……もう、いいじゃない。
もう、いいじゃない。
……投げやりに、そう思い始めた。
なんだか、疲れたよ……私。
もう、一人なんだし。
これから、どうしていいかわからないし。
この世界は、何がなんだかわからないし。
あの人たちも、何がなんだかわからないし。
自分のことも、何がなんだかわからないし。
お父さんだって、もう死でしまったんだし。
もう、いいじゃない。
…………どうしていいか、わからないよ。
どうやって生きていけばいいのか、わからないよ…………
一人きりで、どう生きていけばいいのだろう。
何をどうやって、頑張っていけばいいのだろう。
頑張り続けたら、いつか答えが見えてくる?
何が幸せかなんて、わからないけれど。
私には、永遠に幸せなんて、来ないかもしれない。
私の、温かくて幸せだったときは。
お父さんがいなくなって、すべて終わったのだ。
…………死んでもいいと、思った。
生まれて初めての感情。言葉。
こんなことを思う自分が、私には私じゃないように思えて。
けれど、そんなことも、もうどうでもよかった。
一度、そう思ったら、心は瞬く間にそこへと流れだした。
その流れをせき止めようとする気力も、まったくなくて。
全身が倦怠して、体がどんどん重くなるのを感じている。
死んでもいい……。
もう、死んでもいい。
お父さんのところへ行こう……
死にたい、死にたい、と、心の奥底から声が聞こえる。
……これは、私の、声?
そうだ。
これが、私の、本当の声。
苦しいばかりの、気持ち。
見ないように、蓋をしてきたもの。
考えないように、耐えてきたもの。
心の底からじわじわと、急速に込み上げてくるのは。
我慢して、我慢して、抑えていた私の想い。
吹き上げて、溢れるままにしてしまったら、私はぼろぼろに泣いて、泣き続けて、こんなところまで来ることはできなかった。
見ないふりをしてきた、わけのわからない衝動が、充満してくる。
あらゆる否定。
自分のそこかしこを責めてズタズタにして、踏みつけて投げ捨てて、なにもかもを消し去りたくなるような。
私は、傷ついている。
私は世界中の誰よりも傷ついていて、可哀想な人間だ。
私は、絶望している。私は、役立たずだ。
私は、何の取り柄もない駄目な人間だ。
私は、すべてに絶望している。
私は、あの人の手を振り払ってしまった。
私は、あの人を傷つけてしまった。
私は彼らに、人間そのものに絶望している。
私は寂しかった。
お母さんがいなくて寂しくて寂しくて、でもお父さんを困らせちゃいけないと思って、いつも笑って元気なふりをしていた。
ほんとうは、すごくすごく寂しかった。
お父さんは、嘘つきだ。お父さんは、ひどい。
こうして私をまた、一人にして。もっと、一人ぼっちへと追いつめて。
どうすればいいの? いったい、私にどうしろというの……?
神様がいるのなら、すぐに私に答えてよ。
……神様は、答えてくれない。
私なんかに、答えてくれない。
私には、生きていくところなんて、どこにもない。
私は、もう、限界。
頑張るのは、これで最後。
これで、終わり。何もかもを終わらせたい。終わらせよう。
私なんか、生きていてもしょうがない。
私なんか、何の価値もない。
私の存在には、砂粒さえの意味もない。…… ……
耳では聞こえない、心の声。声。声。
真っ暗な絶望の淵へと、私を煽り、なぶり。
背中を押し出す手と、引きずり込む手と。
上りの電車が見えてくるのに導かれて、私は立ち上がる。
戻れないところへと、自分自身を追い込むんだ……
ホームの縁まで歩き、ふわりとそこから飛び降りた。
風に包まれた、ほんの一瞬。
瞬く間に、線路の砂利に体が叩きつけられる。
甲高い警告音。
電車が、凄まじいブレーキ音を立てて近づいてくる。
私を八裂きにする、獰猛で残虐な意志のある怪物にしか見えないそれが、鋭く尖った刃を、何千本も剥き出しにしたかの如く迫り来る金属音が。五感の全て、感覚の全てを圧倒し、正常な自分へと突き動かす。
もう間に合わない。戻れない。戻れない。
戻れないんだ……
地面に叩きつけられた痛みの衝撃で、烈しく悶える恐怖心。
死で味わうだろう激痛の幻覚が、半狂乱になって、心、体、心を駆け巡る。
限界を超えた恐怖は、限界のボーダーラインを超えた先からは、人間の恐怖心ではない世界を広げている。
死の支配が歓声を上げ、私を愚か者だと歓喜の声で高らかに嘲笑い、追い迫り四方に突き抜ける機械音と重なる。
世界中の何もかもが存在せず、宇宙の何もかもに見放されて、黒々とした永久の暗黒の闇に飛び入る。
永遠の悲鳴を喚声し、宇宙の塵となる勇気の総てが、非情な手で引きずり出され試される。
後にも先にも“そこ”に飛び込むしかおまえの道はないのだと叫び、叫ばれ、一寸の躊躇にしがみ付こうとする自分。
その瞬間に、『“そこ”に飛び入るだけの底知れぬ勇気があるのに、自分を諦めた自分』に対して、何かが言う。
「終わりのない後悔を彷徨う、無限の絶叫をおまえは選び、すべては戻れないのだ!」
そう鮮明に闇の意識から突き示され、自らの最期の想いが壮絶な嘆きとなる。
全身が叫び出す――――「生きたい!」
心の奥底から生を咆哮した私の世界が、突如として、黒い闇に覆われた。
幻覚の激痛など遠く及ばない、風のように優しい、優しい抱擁……
そして、光が射し込むはずもないと思っていた黒々とした闇が、すぐに明るくなった。
何が起こったのか、何が見えているのか判別できず、私は目を凝らす。
私の視界に映ったものが、人だと思えるまでに、数泊の時間が流れた。
その容貌のせいも、あったかもしれない。
冬の空に溶けいるようになびく、白い長い髪。
体温がないのではと思うほどの、白く透き通った肌。
これは…………目の前にいるこの人は……。
……玖珂、氷馬。
あの夜に見た、白い影の…………
茫然自失で、崩折れたままの体を地面に横たえ、その人は黒いマントのようなロングコートで、私の肢体を包むように掛け直してホームへとこの体を抱き上げる。
誰かの体に自分の体が触れて、死を間近にしていた自分がひどく震えていることを知る。
急停止した電車と体との距離は、二十センチもなかった。
彼は、自分も軽々とホームへ上がると、血相を変えて駆け寄ってきた数人の駅員に、
「私の妹です」
と、言った。
「……ほんとうに……妹さんなんですか?」
人身事故になる寸前だった事態を束の間忘れたのか、ポカンとした顔で私と彼を見比べる駅員たち。
その場に居合わせた他の人々も、突然の出来事の興奮以上の関心を、ざわめきに表わして、コートにくるまれた私を覗き見ようと興味をむき出しにしている。
「ええ。母親は違いますが」
素っ気なく付け加え、
「損害賠償等があるならこちらへ」
名刺のような紙を差出し、あっけにとられたまま駅員の一人がそれを受け取る。
「それからあの荷物、その住所に送って下さい。いまは往復する時間がないので。代金は迷惑料込みで後で家の者に払いに来させます」
私のボストンバッグなどを視線で指し示し、彼は相手の拒否も同意も確認しなかった。歩けるかどうかも聞かずに、彼は、私を抱き上げる。
腰より先まで伸びた、真っ白な髪を風に散らしながら、ホームを後にした。
「今の念を送信したのは、《K》だ」
私にだけ聞こえる声で、氷馬はそう言った。
抱えた私に一瞥もくれずに歩いていく氷馬の顔を、放心したように、見上げている自分。
この人の瞳は……冬の雨に、似ている。
肌と同じに、色素の薄い灰色の。
彼の涙が地に落ちたら、透明の、溶けることのない氷珠になりそうな、冷たい雫そのものの眼差。
日の光を受けると、瞳の表面に太陽の火の色が広がる。
けれど、その双眸の奥までは、太陽の命の熱は届かないように見える。
「電車を止めたのは、私の力だ」
紅く充血して見える唇を、ほとんど動かさずに彼は話した。
「脅しだ。自殺での死を狙う場合は、その者の感情であるかの如く動かす手段を使う。ターゲットの心理を遠隔で読み取れば、負の感情を広げるのはすぐだ。弱っていて無防備であるほど、読みやすく、操作もしやすい」
駐車禁止も無視して、ロータリーに停めてあった、車のドアを開ける。
冬馬の趣味と同じ、外国のクラシックな車種、黒色のスポーツカーの右側の助手席に、私は乗せられた。
数日前に乗った冬馬の車は、エンジ色のものだった。
「向ける念が強力であるほど、想念の攻撃を受けた人間は、あっけなく死ぬものだ。人一人殺すのは、容易い」
サングラスをかけると、彼はおもむろに車を発進させ、一人言のように語る。
耳では聞こえない心の声で、迫ってきたもの。
あれが想念の、力。
選ばれ、計画的にこの世に生み出されて。産まれながらにして、超能力と呼ばれる能力を、強力に発揮する。
自在に、自他の意識を操ることのできる存在の、選ばれた人間の、力。
「そしてそれは、超人的なことではない」
私の思考を読んだのか、偶然なのか、彼はそう言った。
そこから先は、何も言わなかった。
私は無言のまま、言葉を発するわずかな余力もなく、シートに体をうずめていた。
あのまま死んでもよかったと、放心のなかでぼんやりと思っていた。
それは、自分の真実の想いなのだろうか。
それとも、吹き込まれた想念の支配の声の残聴なのだろうか。
その夜、一晩中、襲いくる悪夢と震えにうなされていた、私の手を。
握り続ける、優しい手があった。
冬馬が、そこにいた。
「力づくでも、止めればよかった」
冬馬は、繰り返しそう言った。
様子を見に来ていた蒼馬や涼馬は、自分で経験してみなきゃわからないことだと、私へなのか、冬馬へなのか、そう言った。
浅い意識のなかで、私はそれを聞いていた。
「僕もリョーマも、逃げ出して抵抗して、同じように残酷なやり方で、死の寸前まで誘われたことがある。わかっていたのに、君を止められなかった」
無意識が、恐怖に揺り動かされて。
発狂するような奇声を上げて、体を痙攣させるたび。
冬馬が、私をいたわる。
目を見開きわなないて救いを求める私を、彼の瞳が、幾度となく覗き込んで、「大丈夫だよ」と、つぶやいた。
私の額の髪を、なだめるように、撫でながら。
ずっと、言って欲しかった言葉。
ずっと求めていた、優しい指先。
求めていた温もりが、ここにあり。
眠りの狭間で、彷徨いながら。
私の涙は、私の頬と髪と、冬馬の指先を、濡らし続けた。
お付き合い頂き有難うございます。
また日を改めて更新します。
今後とも宜しくお願いします。
光音 拝