月に打たれた心 3
『楽しいことを想い描くんだ。
どんなに辛いときも、どんなに悲しいときも、心が勇気を取り戻す魔法を、いつでも自分にかけられるように』
『なつめが、楽しいと思うこと、嬉しいと思うこと、きれいだなと思うことを、いつも考えていると、楽しいことはなつめのところに、ちゃんときてくれる。
心はね、磁石と似ているんだ。苦しいとばかり思えば苦しいことが、いやなことばかりを考えていると、いやなことがどんどんやってくる。
だから、楽しくて、うれしいことを、いつも考えるようにするんだよ』
『私はね、あのね、メリーゴーランドが大好きだから、じゃあ毎日、メリーゴーランドに乗って楽しい! いっぱい乗れてうれしい! って考えればいいの?』
『そうだね。なつめは賢い子だ』
そう言って、お父さんは楽しそうに笑った。小学校の入学式を向かえた日、二人で指きりをして約束したこと。
素敵な女の子に、幸福な大人になるためのとっておきの魔法だと、父は言った。
“楽しいことを思い描くんだ”
そのまえも、それからも、それはお父さんの口癖だった。
表わす言葉や行動は慎重でありながら、常に前向きに物事を考える人で、いろんなことを面白く丁寧に私に教えてくれた。
優しくてハンサムな父は、私の自慢であり、誇りでもあった。
手をかけて物を作ることをいとわず、限られた家計のなかでも身に付けるものは質のいいものを選び、私にもそれを教えた。
たくさんのものを持たなくても、様々なものを自分の目で見るのは大切だと言われ、ウィンドウショッピングにも二人でよく出かけた。
日曜日には、決まっていろんなところに連れて行ってくれた。
『楽しく人間らしく生きていく、それをたくさんのもので補う必要はない。何を大切にしたいかを考え、大切にできると思うものを自分のものとする』
父の信条は、私の信条にもなっている。
私は、自慢の父のもとで、彼の一人娘として、とても幸せな十六年を過ごしてきたと思う。
でも、楽しいことを考えてそれを引き寄せようとしても、困ってしまう事情は突発的に絶えず出てくるものだ。
ここに来てかなり困ったことのひとつにお、風呂がある。
この家にはなんとも豪勢に、素晴らしいバスルームが三つもある。
他の四人が、どこををどう使っているかは聞いていない。
勝手にしていいと言われてるけれど、シャワーだけでも使うタイミングには一苦労。
なんてったって、一応、女の子だし?
自分の部屋から近いほうのバスルームの様子を覗う。ドアに耳を当てて水音を探っているのがイマイチ情けないのだけど、しょうがない。
二階にあるバスルームは壁の二面が硝子張りになってて、外を見晴らしながら広いジャグジーに浸かれる造りになってる。
三階のお風呂は見ていないけれど、一階のお風呂も贅沢なもので、タイルも円形の浴槽も黒い磨き石で統一されたモダンなデザイン。
今まで暮らしていた賃貸マンションの造りと比べると、例えてみるならば天使のお風呂かミジンコのお風呂かというところ。更に驚くことに両方のバスともに、源泉から汲んでいる天然の温泉に浸かれるのだ。
この家の正面、門からは見えない裏庭のほうには、家のテラスから繋がるミラー硝子張りの運動スペースやジム、温水プールまである。
「いつでも使っていいよ」と案内してくれた冬馬は言っていた。が、あの三兄弟の前に自分の水着姿をさらす勇気はまったくないので、プールについては残念だけど、使わせてもらうことはないだろう。
耳を澄ましても、中からは何も聞こえない。よし、今だ。
仕度してある着替えを取りに、急いで部屋へ戻ろうとした。
けど、背後に回れ右してすぐに、青ざめる。
黒髪の蒼馬と、赤髪の涼馬が、私の有り様を目と鼻の先で眺めていたのだ。
私の心臓は、一時停止。
「何してんの? オマエ」
涼馬に、怪訝な目つきで見おろされる。
年はひとつ下らしいのに、断然背が高い。一五三センチの身長の私より、二十センチは上回っている。一八五は軽くあるような蒼馬や冬馬よりは、低く、幼く見えるけれど……
「なかに、誰か入ってないかなぁと、思って……」
目つきの鋭い涼馬に、胡散臭そうに睨まれて。ひるみながら、おずおずと答える。
「ノゾキの趣味あんのかよ? オマエ!」
「違うわよっっ」
「違うだろ」
私と同時に、蒼馬の声。
蒼馬が、涼馬を見やったままで言う。
「気兼ねしてるんだろ。一応、女の子みたいだし」
分かってくれてよかった、と、思うそばから。
ん? と首を傾げる自分。
一応? 女の子、みたいだし?
面と向かって遠慮なく言われると、かなり複雑な心境になる。
この人の目には、私はいったいどんな人間に見えているのかと、小三時間くらいじっくり訊いてみたい。三時間も場が持てないけど。
「ああ?」
面倒だと言わんばかりの目つきで、私を上から下まで眺める涼馬。
「リョウ、おまえ、二階と下とどっちの風呂使ってんの?」
「こっちだよ。なんで?」
「これからは、下のほう使えよ」
「なんでだよ?」
「それか、時間を決めるか」
蒼馬が、私を見る。
「たとえば、夜九時から十時は、あんたが使えるとか。そうすれば、いちいち気を使うこともないだろ」
私は、蒼馬からの提案に、頷いた。
「そうしてもらえると、助かるけど……」
「じゃ、そういうことで」
立ち去ろうとした蒼馬に、涼馬が憤然とする。
「待てよ! オレの意見は確認しないのか。九時から十時は一番使う時間なんだっ。オレがその時間にする!」
「青筋立てて主張することでもないだろ」
「でも、九時から十時はダメだ」
「文句があるなら下のバスを使え。そのほうが手っ取り早い」
「わざわざそっちに使うの、メンドクセーよ! この女が下のを使えばいいだろ?」
「好きにすればいいけど。お前もいい加減、レディファーストくらい学べば?」
「オマエに言われたくねえ!」
「自分の欲求で散々オンナを利用してんだから、少しくらい気にしろよ」
「てめぇのことは置いといて説教かよ。あ?」
「手当たり次第に甘んじているお子様に、どうこう言われる覚えはない」
淡々とした調子の蒼馬と、ムカつきをそのまんま表にだす涼馬。
荒れっぽいというか、涼馬は素直な性質の男の子なのかも。
蒼馬も冬馬も、見てる限りでは感情表現をしないでいるタイプで、とくに蒼馬の方が硬質で近寄りがたい顔つきをしている。
冬馬は他人と距離を置く姿勢を見せながらも、雰囲気がどこかしら柔らかい。
「私、八時から九時、か、涼馬くんの後で、いいです。それでいい、かな? 涼馬くん、蒼馬さん」
「名前を呼ぶなって言ったろが。バカオンナっ」
「俺は下のを使ってるからどうでもいいけど。それで決めたらもうあれこれ言うなよ。リョウ」
「オレはオレの好きにしたいんだっ」
「くだらないことでごねるなよ」
相手にしてられない、というふうに涼馬を一目して、蒼馬が背を向けていく。
ムカついた腹いせもあってか、涼馬にギロリと睨まれて、私はすく竦み上がった。
素直すぎるのも、コワイんだってば。
涼馬は、はっきりした顔立ちが、きつく見える。
長いまつ毛に覆われた、ゴールドにも見える琥珀色の目つきは鋭く、凛と整えられた眉にも気性の強さが現われている。
濃い肌の色が、力強さと、他の二人より男の子らしい気迫を、ひしひしと感じさせて、近くにいると、放つパワーに圧倒されそうになる。
「ったく、面倒なのが来たよな。オマエさぁ、自分が愛人の子だったらどうすんの?」
愛人の子!? 私が?
「私、やっぱり、そうなの?」
半信半疑に考え巡らしていた事に、衝撃が走る。
……そうだったの? お父さん………
「どう思った?」
私の衝撃を嘲笑う、眼差と口振り。
逃げられないものをいたぶるのを楽しむかのように、追い立ててくる。
「どうなんだよ」
「……よく……わからないけど、ショック、かも…………。信じたくないよ」
涼馬が、フンと鼻を鳴らして、皮肉げに笑う。
もの凄く、意地悪な顔を、してる。
ムッとする私。
ショックを受けている人間に、そんな顔、しなくたっていいじゃない!?
「愛人の子だったらショックか。ハン。で、てめぇのショックを他人に向けるのは、一向にかまわないんだな。なにが“ダレが本妻だ”だよ」
「私のショックを、他人に、向ける?」
「オマエの考えてんのは、そーいうことなんだよ。てめぇが愛人の子じゃなければ、やっぱり安堵するんだろ? 自分さえよければホカはどーでもいいんだよな。てめぇがイヤなことをホカが引き受けるのは、全然オッケーってんだろが。最悪だな。オマエの根性」
「ちょっと待って、じゃ、さっき言ったことは」
「例えばの話だよ。ダレが本妻だろうと愛人だろうと、ここでは関係ない。が、デカイ声でわめかれると、ムカっ腹が立つんだよ。てめぇの立場ばっかり優先して悲劇ぶられると、ドタマにくる。てめぇでイヤなことはホカも迷惑になるんだってことを、考えもしないでゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ! 少しはアタマ使えよな、馬鹿女」
ざっくりと、胸を突かれた。
そんなふうに、考えもしなかった。
突然のことでパニックになってたのは、そうなんだけど。
愛人がいたんだ、なんて、決めつけるように思い込んだり。
自分本位だったりにしか考えていなかった。
そうなんだ。
私がショックに感じてしまうこのことは、もしかしたら他の四人にも、複雑な想いとして同じ線上にあることかもしれないのに。
愛人の子供だと言われて、嬉しいと思う人がいるわけはないのだから。
「……狂気のメリーゴーランドがグルグル回転していて、目が回りそうなの」
「狂気のメリーゴーランド?」
なに言ってんだ? と言う口振りで語尾を上げて、眉間に立皺を寄せる涼馬。
「そうじゃなくて、それはいい訳で。私に、思いやり精神がないってことで」
言葉に出して、気持ちをぶつぶつと咀嚼して確かめて。
自分のなかで揺れる思考の均衡を、なんとか保とうとする。
「ごめんなさい」
私は、頭を下げた。
「ヘンなふうに考えて、独り善がりになって……失礼だよね。言ってくれて、ありがとう」
言われたことはショックだけれど、これは、私が、悪い。
ドカンッと落ちてきた隕石みたいな現実だけど、慌てふためいて無神経になってたことを、教えてくれた。
謝る私を、涼馬は面食らったように見ていた。
意地悪も嘲笑も、彼特有の力強い眼光からは、消えていた。
「いろいろ迷惑だと思うけど、少しの間……お願いします」
「少しの間?」
「……うん、アパート、借りれるようになるまで。できれば、住み慣れてる東京がいいんだけど、状況によっては、こっちでもいいし」
「無理だと思うけど」
「探すの難しいかな、やっぱり」
「そうじゃなくて。ヒョウが呼んだってことは、無理だぜ」
無理?
涼馬の表情が、固くなる。
「氷馬、さん。手紙くれた人よね、昨日も今日も見かけないけど……」
「アメリカ行ってる。アイツいっつも、何も言わねーで出てくんだよな。トーマが、多分そうだろうとさ」
「アメリカ? 旅行?」
「仕事みたいなもん」
仕事をしている人だったんだと、と、氷馬さんの情報を頭にインプットする。
四人の中で唯一の社会人、ということかな。
「氷馬さんは、どうして私を、こっちに呼んでくれたの?」
「オレも、ソーマもトーマも、聞いてない。でもオマエは、ずっと居ることになると思うぜ」
「ずっと? ここに?」
歓迎されてなかった様子なのに、なんで、ずっと居ることになるの?
私はそんな気は、さらさらないのに。
いったい何なの、と、不思議な思いで彼を見る。
涼馬は、琥珀の瞳を細めて、私を見、口端に歪んだ笑みを浮かべる。
何を含んだ笑みなのか、つかめない。
「ここに、というより、オレたちと一緒に。たぶん、ずっとだぜ」
オレたちと、一緒?
私が、このキテレツ異母兄弟と、ずっと一緒にいる?
雨が降りそうだ。
まだ外は、その気配もなく、夜空の雲の流れが穏やかに見えても、雨が降るのは大抵判る。
昼間がとてもいいお天気でも、夕方には降りだすとか。
そんなことを分かる感覚が、小さい頃からあった。
天気予報よりも正確な勘だって、お父さんはよく笑ってたし、学校の同級生たちにも珍しがられたりした。
私にとってはごく普通の感覚なので、どうということもないのだけれど。
私はどうやら、水に関わることと、相性がいいらしい。
花瓶に刺した花に「長く咲いていてね。お水さんよろしくね」と声をかけると、冬場では、二ヶ月は元気でいてくれたりする。
お父さんは私に、「なつめは緑の指の持ち主だから、植物や土や水の自然たちと相性がいいんだね」と、言っていた。
ヨーロッパでは、植物をいきいきと長持ちさせたり育てるのが上手な人のことを、緑の指の持ち主と云うのだそうだ。
もっとも私は切花はあまり好きではないので、花を生けることは滅多にない。
凛ちゃんにもお揃いで作った、お手製のレッグウォーマーを履く。
空気の入れ替えをしようと、バルコニーに出る窓を開けた。
途端に、冷たい風が、肌をしびれさせる。
すごく、寒い。
背中の真ん中ほどで切り揃えた髪が、夜風にあらわれ、両手で髪をまとめ直す。
辺りに広がる樹海の奥には、礼拝堂があるという。最初の、ここの持ち主だったフランス人が建てたとか。
もとから、文化遺産的価値は、その礼拝堂のほうが高いらしいけど。この別荘とは違い手入れがされていないので、放置同然の今は、涼馬に言わせると「肝ダメしにしか使い道がない」とか。
昼間に森林を見晴らしても、建物の片鱗すら見えない。
いったい、どれだけ広大なのだろう、この私有地は。
鍵が紛失したままで、礼拝堂の中には入れないとの話だけれど、散歩できるときに外観だけでも見学に行ってみようと考えながら、両腕を摩り外気を吸い込む。
この別荘はセントラルヒーティングになっていて、家中どこにいても、快適な室温に保たれている。廊下も、トイレも、お風呂も。欧米では一般的なものらしい。、
私はここに来るまで知らなかった。一台のエアコンがフル活動して、あちこちにある通風孔から適温の状態になるよう、常に空気が循環されていて、自動で快適な温度や湿度に調整しているのだそう。
自動換気もされていても、私はなんとなく気分で窓を開けたくなる。
自然の空気が、この家の中にいて寒さを忘れていた体を、引き締める。
夜はいっそう、高原地の静けさが伝わってくる。
自然の音だけだから、人工的な空気の震えもない。
だからより、静寂が染み入る。
風そのものの声。高い建物にぶつかり合う音ではなく。
とてもじゃないけど、夜の一人歩きはできないと思いながら、バルコニーに出る。
そこで、芝庭を歩いている冬馬の姿を見た。
離れていて、顔ははっきりと確認できない。でも、あれは、冬馬だ。
下限の月が、彼を照らす。
さらさらと揺れて、プラチナ色にきらめく髪。頬、足元を、青白く照らしている。
彼は、裸足で歩いていた。この寒いなかで。
……何をやってるんだろう。夢遊病の癖でもあるんだろうか。
立ち止まって、空を見上げた冬馬と、目があう。
夜の中で。お互いの瞳は、はっきりと見えないのに。
視線が絡み合っているのを、感じる。
私は、彼を見ていて。
彼は、私を見ている。
素手で触れると、痛みもなく、私の肌を滑り切り裂きそうな、冴えやかな月と。冬馬が。私を見つめている。
白銀色の光のすべてを、その体に吸い込むように、闇にたたずむ彼が。
冷ややかに煌く彼が、私の心の奥へ、射し込んでくる。まっすぐに。
夜に溶け入るように、青白く輝く彼の存在を見つめて。目をそらせなくて。
まるで、地上に落ちた月のように、彼はそこにいた。
そして、私は。
月に、魂を打たれたように。息が、つけない。
静かに、静かに、静かに。しびれさせて。
体の芯を揺さぶる、冷たい手。
――――囚われてゆく。
囚われて、ゆく……?
……どうして? そう、思うの?
ゆっくりと、夜の森へと消えてゆく冬馬の姿を、瞳で追った。
見てはいけないものを、見てしまったと、思った。
後ろ髪を引かれる気持ちで窓を閉め、カーテンを引き直す。
彼の眼差が、すぐ間近にあるように錯覚する。
いまになって、ドキドキと高鳴る鼓動。
惹かれたら、いけない人だと思った。異母兄弟だからというより、直感的に。
恋をする相手じゃない。
冬馬も、蒼馬も、涼馬も、容姿はすごく魅力的で素晴らしいのだけど、近づきすぎてはいけない人たちだと感じる。
恋愛に対してまったく免疫がなくて、それが引け目になって、臆病になっているせいでそう思うだけじゃなくて。
外が気になって、窓辺に寄り掛かり、しばらく座り込んでいた。
気持ちを切り替えようと、元からこの部屋にあるテレビをつけてみる。
父親が残業や出張のとき、一人のマンションで夜を過ごすことも度々あった。
音がないのが淋しくなると、それを紛らわすために、遅くまでテレビをつけっぱなしでいた。
音を聞き流しながら、私は、涼馬の言葉を思い出していた。
“オレたちと、ずっと一緒に。”
涼馬はなぜ、あんなことを言ったのだろう。
私が来て、迷惑そうな態度でいるのと、矛盾している。
嫌々ながら、一緒に居なきゃならない理由でもあるの?
まだ、私の知らない何かがある。
そう思ってはいても、あの三人は訊いたところで答えなさそうだし、余計なことを言うと逆にうと疎ましがられる。
しつこくすれば、私のこの家での居心地は、さらに最悪なものになってしまう。
干渉するなと言われた具合が、理解できてたかも。
何かあることは別として、あの人たちは、どこか、変わってる。
人を寄せつけるのを好まず、近寄りがたいという他に。
何か、説明のつかない違和感。
テレビでは、深夜のニュースが流れはじめていた。
私は、一人掛けソファーに座り直して、ベッドに入ろうかと思いながら、流れてくるままに映像を見ている。
立ち上がるのさえ、だるい。
一度、体を落ち着つけてしまうと、ぐったりして、ほんの少し動く気力すら萎えてくる。
思ってるより、ずいぶん気疲れしていて、神経がくたくただ。
そう感じていた、私の目に、見覚えのある映像が飛び込んできた。
はっとして、身を起す。
激しく吹き出す炎。上空へ立ち上る黒煙。
都内での、ビル火災の映像。
事件なのか、事故なのかわからない惨事。繰り返し流されてきた報道…………
「三週間前の今月二日、千代田区有楽町で三十五階建のオフィスビルが爆発、炎上した事故の捜査は未だに難航している模様です。
警視庁では偶発的な事故と人為的な事件の双方から懸命に捜査を続けていますが、何らかの反抗勢力によるテロ行為ではないかとの懸念も未だ根強くあるようです。
この事故よりも更に二日前に、シンガポールで起こったショッピングモールでの爆発テロのとの関連も指摘され、政府からも早急に事態の糾明を求める指示が出されていると共に、他の企業へも防災管理を含めた警戒と安全対策を強化するよう呼びかけています。
火災があったのは、平日の午後十一時過ぎの深夜でした。
この事故による犠牲者は、爆発元と見られる三十三階のオフィス、東日本MLC貿易株式会社の社員、玖珂湘馬さん四十歳が亡くなられたほか、警備員や清掃員を含む負傷者が二十三名になります。
被害に遭われた方々、及びその家族や関係者からは、一刻も早い事態の全容解明を望む声が上がっています。今後は、被害者や企業への保障問題についても、迅速な対応が待たれるところですが、大手保険会社では―――」
「……お父さん…………」
声にならない、吐息で。つぶやいた。
ボストンバッグの中の、読み返すことのできない新聞。
あの日からずっと、私の胸にかけられたままの、銀の指輪。
父が自分の手で作り、ずっと大切にしていたもの。
爆発が起こった場所にいて、原形を留めなかった人を、自分の父親だと確認させた印。
銀の鎖に通した指輪は、鈍く黒ずみ、熱で、変形している。
事故の凄まじさを、伝えてくる事実。
けれど、この指輪は、お父さんの左手に握り締められていた。
人の手と判別がつかない、黒ずんだ手のなかに、しっかりと。
寸前まで……お父さんが、必死で生きていたことを、物語るもの……。
なぜ、この指輪を握り締めたのか、わからない。
お父さんがどんな気持ちでいたのか、私には一生、わからない。
お父さんは、もう、この世にはいないから。
突然。本当に、突然。
私に、ひとかけらの合図もなく、消えてしまった。
さよならも、言わずに。……伝えられずに。
私は、きつく奥歯を噛み締め、両腕で自分を抱きしめた。
うずくまって。
自分だけが、自分を守るのだと、繰り返してきたことを。繰り返して。
こみあげてくる、熱い想い。
溢れ出す、どうにもできない悲しい感情で、体じゅうが震えてくる。
これが、悲しい、と、いうことなのか、と。
こんな、激しく揺さぶられる想いがあることを。私は、知らなかった。
お父さんは、私を愛してくれて。
たくさんのことを、私に教えてくれた。
そして、最後の、最後に。
大切な、悲しみを。残して。
消えてしまった。