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月に打たれた心 2

「いったい、ナニをしてたのよ、お父さんのバカ!」

 なんなのよ、このとんでもない“不祥事”は!!

「娘として、恥ずかしいわよっ。冗談じゃないわっ」

 私のお母さんだけじゃなく、他に四人の女性との間に、こ、子供がいたなんて。

「ダレが愛人だったのよ!?」


 一人で叫んで、違うな、と、思う。


「本妻はダレ!?」

 いや、これも、微妙におかしい?


「いったい、どーいうことなのよ!? お父さんっ。立つ鳥、跡を濁さずって言うでしょーーーっ!!」



 天井に向かって、大声を張り上げる。

 ここに来て、二日目。

 混乱は、おさまらない。おわまるわけがない。


 冬馬に、涼馬に、氷馬に、蒼馬?

 トンマだかチョンマだかマンマだか――ああ、違う、わけがわからないっ。


 いきなり、三人の兄に、一人の弟? 

 四人の異母兄弟?

 私、この家で、暮らすの?


 さっきの、凛ちゃんからの電話で、すっごくシビアモードな自分を思い出したけれど。

 シリアスに浸ってるヒマもないくらい、とんちんかんな現実が、降ってきてる。





「うるせーぞ!」

 怒鳴り声と共に、部屋のドアがドカッと鳴って。

 ギョッとして、おそるおそるドアを開けると、見覚えのある赤い髪の彼の顔。

 と、見覚えのない女の子が、彼の後ろにいる。


「あ、ごめんなさい。ええと……蒼馬、じゃなくて、氷馬……じゃなくて、涼馬、くん?」

 まだ名前も顔も明確に一致していなくて、あれこれ口篭もっている私を、彼は見下した態度で睨んでくる。

「ダレが名前、呼んでいいっつたんだよ。馬鹿女」

 バカオンナ。……ごもっともですけど。



「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」

「呼ぶな。話しかけるな。メンドクセ―」

「干渉するなって、そういうこと?」

「てめぇで考えろ」

「あの、その女の子は……」

 まさか、五人目の異母姉妹!?

「それが干渉だっつってんだ! なにがイボシマイだ。これ以上ゴロゴロいてたまるかよ」

「え? 私、まだ、何も言ってない……」

「顔に書いてあんだよ。わかりやすいオンナ」


 言うだけ言って、彼は、一緒にいた女の子と隣りの部屋へ。

 右隣りが、彼の部屋らしい。

 そう思って閉まるドアを見ていたら。昨日、インターホン越しに聞こえた会話が、ありありと浮かんできた。

『とっかえひっかえ連れ込むな、うちはラブホテルじゃない』

 あれは、確か、冬馬の方が言っていた。

 そういうこと、か……。

 納得して、そして、はたっと青ざめる。


 “そういうこと”? 

 げっ。冗談じゃない。

 隣りの部屋で、やめてよーーーっ! 


 全身の血が沸騰する勢いで、バタバタと部屋を飛び出した。

 ただでさえ窮屈なヒトサマの家が、さらに最悪なコトに!

 階下の、とんでもなく広いリビングに駆け込んで、ひと息。


 どうしようもない不良息子だわ、あれは。

 とっかえひっかえって、血筋かしら?


 お父さんのこと、そんなふうに思いたくない。

 お父さんが、そんな人だったなんて、想像もつかない。

 たとえ本当のことだとしても、私とお父さんの思い出が、どうにかなってしまうわけじゃない。


 でも、やっぱり、寂しい。

 どこかで、裏切られていたのかって、思ってしまう。

 今となっては、お父さんに、何も聞くことはできないけど……。

 さすがに、凛ちゃんにも言えない。

 どう、説明していいかも、わからない。



 キッチンのほうで物音がして、私は、何も言わずにここにいるべきか、顔を出してみるべきか、迷ってしまった。

 でも、挨拶くらいしたほうがいいんじゃないかと考えて。

 びくびくしながら、リビングからブレックファーストルームに入っていって、キッチンを覗く。


 ブレックファーストルームは、普段の食事に使っている部屋だとか。

 別にあるダイニングルームは、まったく使わない部屋になってると、家の中を案内してくれた冬馬が話していた。

 コの字型の広いキッチン。ガステーブルには六つのコンロがあって、全体のデザインと合わせた木目調の冷蔵庫も、普通の家庭用とは思えないほど大きい。


 その前に立って、背の高い黒髪の男の子が、こっちに背中を向けていた。

 見たことがない。計四人のうちの二人としかまだ会っていないから、多分、残りの二人のどちらか。

 叔父と偽って手紙を書いてきた氷馬か、冬馬の弟の、蒼馬か。



「コーヒー飲むんなら、淹れるけど」

 いきなり声をかけられて。

 びっくりして、キッチンとブレックファーストルームをぐるりと見回し、自分の背後も振り返ってみた。

 背を向けたままの黒髪の彼が、手を動かしながら、言った。

「昨日、来た子だろ。トウから聞いてる」


 後ろにも目がついてるのか? この人は。唖然としてると、

「飲むんなら、二人分入れる。いま飲まないなら、飲みたいときに豆ひいて入れて」

 いちいち、豆から入れるの? ここんちのコーヒーは。

「コーヒー飲める?」

 訊かれて、慌てて答えた。

「飲めます!」

「今、飲む?」

「はい、ぜひっ」

 豆からなんて、淹れたことないよ……。お父さんはコーヒーを飲まない人だったし、私が自分で飲むときは、インスタントがせいぜい。


 彼はふり返ると、カップボードからもうひとつ、コーヒーカップを取り出した。

 初めて見えた顔は、思った通りの、無表情。

 冬馬も涼馬もとってもハンサムで、この人もかなりなハンサムだけど。端正な顔の表情がないのは、人形みたいに見える……動いてなければ。


 短い黒髪。涼しげな額と鼻筋、形のいい耳。

 顔の輪郭から首や肩へ流れる、すっきりしたライン。黒いタートルネックのセーターと黒いスラックスが、整った細身のスタイルを更に素晴らしく見せている。

 腕も足も、スラリと長くて。

 身のこなしや雰囲気に、無駄がないって感じの、凛々しい容姿。



 そして、思った。

 この人、お父さんに、似てる。


 くっきりとした眉筋、少し上がり気味の切れ長の目尻が、知的で寡黙そうに見える顔立ちに、面影があって。

 冬馬と涼馬の二人は、カラフルな髪や瞳の色、日本人離れした華やかな風貌もあって、似てるとは感じられないけれど。

 この人は第一印象からすぐに、どことなく似ているとわかる。



 そして、ここに来て。

 はじめて認める、こと。

 お父さんの、血を引く人なんだ、って。


 認めたくない、というより、状況を丸呑みで、受け入れるしかなかった。


 私の気持ちは。

 呑み込んだものに押しつぶされるように、身動きがとれないでいる。


 私は。この人たちと、私だけのお父さんだと思ってた人との、繋がりを。

 認めようとしているの? 

 認めたく、ないの?



「あなたは、ヒョウマ、さん? それとも、ソウマ、さん?」

「蒼馬のほう」

 ということは、金髪・冬馬の弟で、赤髪・涼馬の兄、ね。


「十六だって、聞いてるけど」

「そうです。十六です。高一」

 することもなく、その場に居心地悪く突っ立ったままで、答えた。

「じゃ、一つ下か。俺は今年で十七だから」

「十七歳? え? いま、十六!?」


 素っ頓狂な私の声に、彼が顔を上げた。

 目があったけど、そらすことも忘れて、真剣に見つめ返してしまう。

 黒色ともいえない瞳。髪の色は黒いのに、瞳の色は違う。黒よりも少し薄い、灰色がかった色。

 諦めにも似た、悟り切った冷やかな光を、湛えた瞳。


 どこかで見たことがあると思った。

 思うと同時に、蘇える記憶。

 穏やかな人柄だった父が、時折、こんな瞳をすることがあった。ぼんやりと煙草を吸いながら。

 近づいてはいけないときだと、子供心に理解していたこと。



「そう。高二」

 その眼差と落ち着いた雰囲気で、大学生のようにも見える。大人びてる人だ。

 硬質で近寄り難い感じを抱いてしまうのも、そのせいかも。

「まさか、冬馬さんも、高校生じゃないです、よね?」

 二人が同い年って言われても、疑問がないくらい。異母兄弟なら、同い年もありえるだろうし。

「トウは、大学一年で、たぶん、十九? 違うな、年が明けてからだから、まだ、十八。今日も大学行ってるはずだよ。聞いてないけど。帰りの新幹線、珍しく乗り合わせなかったな」

 大学一年ということは、目の前にいる自称高二の蒼馬と、冬馬は、二歳違いなのか。


「帰りの新幹線?」

「氷馬以外の三人とも、東京の大学と高校と中学に通ってるから。新幹線通学してる」

「東京までぇ!?」

「あんたは、どこから来たの?」

「東京、杉並区です」

「ああ。じゃ、高校もその辺?」

「四ツ谷ですけど」

「そう。こっから駅までハイヤーでニ十分」

 ……ハイヤー?

「それから東京駅まで、新幹線で一時間弱。上野から秋葉原経由か、四ツ谷なら東京駅で中央線に乗り換える方が早いか。片道二時間程度なら大丈夫だな。学校のこと、考えてる?」


「いえ、私は……」

 ブンブンと、首をふる。

 とんでもない。


 ハイヤー? 新幹線! 冗談でしょ!? 

 交通費だけで、月、いくらよ? 出せないわよ、私には!! 

 一人二十万は、確実に越えるわよっ? 

 どこの世界に、そんなバカ高い交通費、平然と消費してる家があるってのよーー!

 私は、ここに来るのに、たった片道なのに、新幹線なぞ使わず鈍行で来たのよ。

 出せない電車賃ではなかったけど、節約をして、よ。

 これからの生活もあるし、貯金は底ナシじゃ、ないし。



 どっと疲れて、深い溜息。

 だいたい、父親が賃貸マンションに住んでたっていうのに、なんで子供たちが、こんな広い敷地の、バカでかい家に住めるの? 

 私のお父さんの息子で、どうしてそんなにお金持ちなの!?

 三人がそろいもそろって、東京に出なくたって。

 そんなに向こうの学校がいいなら、東京に住めばいいのに。

 なんで、シーズンオフもなにも関係なく、不便な高原リゾート地に住んでるの? この家族、というか、キテレツ兄弟は。

 マジで、理解不能。


「中学生って、誰? もしかして、手紙を書いてくれた氷馬さん、なんてことは」

 考えることを放棄しかけてる私の発言に、彼がパーコレーターを使う手を止めて、しばし、沈黙。

「氷馬は、長兄だって、聞いてない?」

 …………そういえば、昨日の冬馬からの話の中で、彼が、僕は氷馬の弟だって、言っていたかも。


 ここに来てからずっと動転してて、思考が発狂マシーンと化している。

 恐怖のメリーゴーランド状態で、目まぐるしく高速回転しながら。

 流れる音楽も何十倍速のように、キンキンとしか聴き取れない音を立てて、不協和音が私の混乱を加速させる。

 表面はなんとか落ち着こうとして自分をなだめても、絶え間無く激しく動き回る感情。

 ……あ、アタマがごちゃごちゃしてきた……。



「中学生は、一番末弟の、涼馬」

「中学生って。さっき、女の子連れて部屋に行った気がするけど」

 そういえば年下だったと困惑しつつ、私は二階を振り仰ぐ。

 またか、と、黒髪の彼は一人言のように言う。


「あれは、日常茶飯事だから。女の子が代わる代わる訪ねてきては、泊まっていくか最終電車で帰るんだ。見るたびに相手が違うけど、気にしないでいいよ」  

「見るたびに、日常茶飯事って」

「早い話がほぼ毎日なんだけど。飽きるまでやらせとくって、放っといてることだから」

 飽きるまで、やらせとく。

 と、言われても。

「私、そのたびにっていうか、毎日、部屋を避難するってことで……」

「避難? ああ、隣りの部屋なのか。聞こえるようだったら、勝手に空いてる部屋に移動していいよ。あいつ、その辺のホテルを使うのが嫌いみたいだから。わからなくはないけど」


 聞こえる、ようだったら……? 

 ん? と、眉を寄せる私を、気づいたらしい彼が振り返る。


「訂正。気になるようだったら」

 手を動かしたまま、何気なさそうに、そんなことを言う。


 我に返った私は、その場から、消えていなくなりたいと思った。

 かりにも私は、女の子なのに。

 女の子相手に、どうしてこの人、こんなに淡々としてるの?

 いくら異母兄弟かもしれない、とはいえ、初対面の男の子と、なんていうリアルな会話。

 私は、もともとが純情で、オクテで、ウブなわけ。

 自分で言うのも情けないけれど、告白したことも、されたこともおろか、まだ、ナンの経験も体験もない。


 初恋だって、「したのかどうかわからない。特に好きになった人はいないかも」と発言して、凛ちゃんやクラスメイトたちに散々コケにされてきた私なんだから。

「まぁ、あんなカッコイイ父親がいたら、しょうがないけどね」と、一応同意されつつも。「なつめは病的なファザコン」とまで、からかわれ続ける始末で。



 いまの、いまだって。

『心筋ハードビート発狂メリーゴーランドが暴走して止まりません! 脳内オーバーヒート四露死苦!』

 状態で、この現在位置からどうしたらいいか、ものすごく困惑で。

 すぐ隣りの、リアルタイムに、耐えられるワケがない!

 こんな会話を男の子とすることすら、免疫がないのにっ。

 恥ずかしさで、顔がどんどん火照ってくる。

 コーヒーなんて断わって、この場をさっさとと離れたい。



 私は、真っ赤になっているみっともない自分の顔を見られたくなくて、蒼馬の視界に入らないように顔をそむけた。

 キッチンの隅に立ちんぼになって。

 ……ダメだ。いろんなコトとごっちゃになって、パンパンの脳ミソと気持ちが、破裂しそうだ。


 心臓が、ドクンドクンと、大きな音を立てている。

 後になって、今日のことが大爆笑の種まきになり、キテレツ兄弟から散々にからかわれるハメになるとは、このときの私は知る由もない。


「空いてる部屋、どこですか?」

「どこだったかな。ドアノブ回してみて、鍵がかかってない部屋」

 ということは、鍵がかかってる部屋は、四人の部屋ってことね。

 みんな、鍵閉めてるの? 自分の部屋に。

 ヘンな兄弟。異母同士だと、いろいろと、複雑なのかな。

 だから、干渉しないで、他人事で、無表情で―――



 そのとき、どこか遠くの方で、パリン! と、甲高い音がした。

 固い何かが、膨張したみたいに弾けて、壊れた音。

 磁器のような、硝子のような、乾いた破裂音。


 私は、音のしたほうを振り返ることもできず、顔を上げる余裕もなくて。

 両手で額を押えるようにして、うつむいていた。

 いろんなことがいっぺんにあって、考え過ぎなのかな。


 頭が、ボ――……ッと、する。

 気が、遠く、なりそうだ。


 耳鳴りのように、耳がツーンとして。

 頭のなかも、周囲に感じる感覚も、奇妙に張り詰めてきて。

 ここに居る感覚が。薄れてくる。



 具合、悪いのかな……。

 コーヒーをろ過する、コポコポした音すら。とても、遠い。


 間に、幾重にも空間があって、そのフィルターを通してくるみたいに。物音が、じんじんと反響して膨らみながら、鼓膜に伝わる。

 両膝がガクンとなって、床に倒れそうになった。

 その体が支えられる。力強い、腕。



「なつめ?」

 やわらかな金色の髪が、とても間近に、降ってくる。



「……冬馬、さ、ん」

「キッチンに入ってきたら、いきなり倒れてきてびっくりした。大丈夫?」

「大丈夫、です」

 ……たぶん……。


「ちゃんと、食事した?」

 私を横から支えながら、冬馬がひざまずいて、私の目をじっと覗きこむ。

「勝手に、冷蔵庫とか、開けたら、悪いかと思って……」

「じゃあ、ゆうべから何も?」

「持ってきてたお菓子は、食べました」

「そんなんじゃ。言っただろ、勝手にしてかまわないって」

 冬馬が、呆れた、というふうに息をついて、首をふる。

 そう、言われても。やっぱり、知らない人の家だから。勝手にはできない。

「よく、わからなくて」


「僕たちは、自分のことは、それぞれ自分でしてる。家にあるもので、何を料理して食べるのも、それぞれの自由だから。君も遠慮する必要はないんだよ。好きにしていい。買い出しは、大抵の物は僕がしてるから、欲しいものがあったら言ってくれればいいから。わかったね?」

 私の目をしっかりと覗きこむ、水色のようだった彼の瞳は、すぐ近くで顔を傾けると、薄い紫に映る。

 光の加減で放つ色が変わる、不思議な瞳。


「……でも」

「僕も、誰も、君のお守りはできないからね。自己管理は、ちゃんと自分ですること」

「でも、あの、生活費とか」

「そんな心配、してたの?」

「好きにしていいって言われちゃうと、よけい、落ち着かなくて。貯金も、少しあるから、払えないこともないんで。言ってくれたほうが」



「説明してなかったのか?」

 蒼馬が、冬馬を一瞥しながら口を挟む。

「気にするなんて思わなかったんだ」

「大事なことだろ」

「こっちだっていきなりで、慌てたんだ。そこまで気配りできないさ」

 片眉を上げて蒼馬を睨み、それからふと目を細めた。


「どうしたんだ? そのカップ」

「割れたんだ」

「割れた? 珍しいな、お前が。リョーマじゃあるまいし」



 私も、蒼馬の手元に気付いて、壊れたカップをぼんやりと見る。

「さっきの、何かが壊れたような音、これだったんですか?」

「何だと思ったの?」

 蒼馬が、怪訝な顔をする。

「もっと、遠くで、離れたところで、何かが壊れたのかと思ってた」

「遠くで?」

 冬馬が、私を支えていた手を離して、自分の膝についた。

「こんなに近くにいたのに?」


「なんか、耳鳴りみたいになって。たくさんのフィルターがかかったみたいに、届く音が、ぼやけてるんだけど、はっきり、すごく遠くの音を、聞いてる感じで。……倒れそうになってたからかな……」

 冬馬が、黙って、見つめてくる。

「やっぱり、ちょっとへばってるのかな? みっともないけど。体力だけはあるつもりだったのに、最近、根性ないみたいで」

 私の様子を観察するようにじっと見つめてくるので、慌ててその場しのぎで適当なことを口にした。

 彼は、ホッと息をつくと、左の手のひらでそっと私の額に触れる。



「気を失いそうになってるとき、そんなふうに聞こえるらしいね。慣れない生活で戸惑いも大きいだろうけど、きちんとを食事して体に栄養を摂らないと。今日の夕食は、僕が多めに作っておこう。苦手なものはある?」

「ない、です……」

「俺の分もよろしく」

「なんだって? ソーマ」

「はい、アキミちゃんにコーヒー」

 ダイニングテーブルに、コトンと、湯気の立ったカップが置かれた。

 アキミ、って。私のこと?


 冬馬が、目をしばたたかせて、蒼馬と私を交互に見る。

「アキミちゃんって、いうんだっけ?」

「……なつめです」







「ここはね、湘馬ショーマの別荘だったんだ」

 冬馬が、自分のコーヒーをカップに注ぎながら言った。

「もとは明治時代にフランス人が建てた別荘で、その後は二十年前程前まで国が文化遺産保有を目的に管理してたんだ。湘馬が、競売で落札してから何年もかけて改築したみたいだけど、結局、彼が住むことはなかった」


「お父さんが!? だって、うち、そんなお金持ちじゃ全然なくて」

 仰天した私の声に、彼が、私の驚きに合わせるように苦笑する。

 お金持ちどころか、毎月の生活費も節約が当然、親子二人で慎ましく暮らしていたし、お父さんも派手なことを好む人じゃなかったはず。



「前はね、違ったんだよ。たぶん、湘馬の人生観を変えたのは、君と、君のママなんだろうな」

 私の、お母さん?

「あの、私の母のことを、知ってるんですか?」

 訊き返すと、彼は、少し憂鬱そうに私から視線をそらした。

 その瞳が、コーヒーの湯気の向こうで、儚げに揺れて見える。


「君のママのことは、湘馬にそういう女性がいたという事を、人づてに聞いたんだ」

 私の問いに首をふってから、彼は言葉を続けた。

「けれど、僕たちは、湘馬のいろんなことを知っている。恐らく、君の知らないことだと思う。もちろん、それもある一面で、君も、僕たちの知らない湘馬をたくさん知っているだろうけど。

 君の知らないことは、君が必要だと感じたときに、話すよ。僕らの知らない湘馬のことは、僕たちは――僕は、興味がないから、聞かないけど」


 興味が、ない。

 はっきりとした、拒絶の意志。



「……それは、やっぱり、何人もの異母関係のせい?」

「ファミリーという関係に、こだわりがないんだ」

 私の疑問を察した冬馬が、簡潔に答える。


 そうなのだろうか。

「家族って、私には、大切な感覚だけど」

 家族と呼べる人は、いなくなってしまったけれど。

 なくなってしまった、今だから。とても、とても、恋しいと思う。

 大切だと知っているから、また、帰りたいと思う。

 ぬくもりを知っているから、また、そこに触れたいと思う。


 冬馬が、気だるげに、再び首をふる。

「僕を含めて、四人とも、ままごとには関心がない」

「家族って、ままごとなんかじゃないと思う」

 戸惑いながら意見をしても、冬馬は何の反応も示さなかった。

「理解し得ない価値観のことで、君と言い合うつもりはない。これからもね。湘馬のことで、はっきりしていることは、これだけだよ」


 漂う無情感が、彼の、柔らかで繊細な優しい面差しを覆っていく。

 ゆっくりとかきあげた淡い金色の髪が、指の間からこぼれておちて。

 呼吸を感じさせない美しさに、私は、見惚れてしまう。

「彼は、裏切ったんだ」



 裏切り……?


「あなたたちを? どうして?」

 彼は、瞳を伏せる。

 その言葉の先をしまいこんだ心に、固く蓋をするように。

 そうしていく気持ちを、永遠に途切れない沈黙で、見つめるように。

 しばらくの間、静寂をまといながら、目を閉じたままでいた。


 彼らに、れだけの、複雑な想いが、あるというのだろう。

 私は、私が一緒に暮らしたお父さんのことしか、知らない。

 この人にとっても、父親である存在が。

 この人に、この人たちに、何をしたというの?


 それとも。“何もしなかった”という事実が、あるということも……もしかしたら。



 私は、記憶がある限り、いつも、お父さんと呼べる人と一緒だった。

 私は、ずっと、一人占め、していたのかな。

 愛情も、存在も、すべて。

 それが、彼の言う“裏切り”でも、あるのだろうか。

 家族を、ままごとだと口にする彼が、父という存在に、望んでいたかもしれないこと。



 見つめていると、静寂のカーテンをそっと開いて、外の世界を確かめる憂いを漂わせて。

 冬馬が、目を開いた。

 私と視線を交わしながら、なんの感情も見えない、見せない眼差。

 どんな気持ちでいるの? 

 父と、それから、きっと私のことも、拒絶している人。

 血の繋がりがあるかもしれない人。

 その人の、顔。



 瞬間。

 体が、ゾクリとした。


 冷や水でいきなり背中を打たれたように、心で感じとった何かが反応して、全身が強張る。


 ついさっき、その顔に見惚れてた自分が嘘のように。

「怖い」と、感じている。


 何故だかわからないけど、おかしい。


 蒼馬も、涼馬も。

 思い浮かべると、端整な容姿に目を奪われていて気づかなかった。

 でも、何かが、おかしくて。

 変だ。この、無表情。


 人としてごく当り前の、人間らしい感情の動きや温もりを匂わせない、冷やかさ。

 一瞬の緩みもなく、人間の冷然さを模して精巧に創られた、能面のような顔。

 はっきりと、私を、拒絶している。


 背中から滲んだ冷やかな水が、皮膚の奥まで浸透して、私のなかで、うごめき始める。

 不規則に流れる、言い表すなら、不安と呼ぶ水。胸の空洞のあたりに溜まって、ざわざわと心が波立っている。


 たとえようのない不安定さを落ちつけたくて、胸を押えた。

 そして、触れる、セーターの下の指輪。

 考えないようにしていた現実的な心配事や、他の諸々の痛みや感情と絡まりあって、抑えてきた不安が急速に昂まり出す。




 冬馬が急に、立ち上がった。

 コーヒーを飲み終えたカップを手に、シンクに水を流す。

「飲み終わったなら、ついでに洗うけど」

 そう言いながら、言葉を続ける。

「この別荘は、今は、長兄の氷馬の名義になっている。でも、もとは湘馬が所有していたものだ。君にも、自由に過ごせる権利がある。何も気兼ねすることはないよ。何度も言うけど、好きに過ごすとといい」




 水音が、聞こえる。

 さらさらと流れて、底のないどこかへ、落ちてゆく。




「カップは?」


「……自分で、します」


 喉に貼りついた強張りを、引き剥がすように、返事をした。



 なぜ、「怖い」、と。

 私は、感じているのだろう。


 すぐにでも、逃げ出したいような衝動で。

 見てはいけないものを、見せられた気持ちで。

 来てはいけないところに、導かれてしまった気持ちで。




 見つめていると、心が、寒くなる。

 こんな人が……いるなんて。           









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