パンドラ 3
そして私は、光になって。
私そのものが、光になって、あっという間のスピードで、冬馬の中へと吸い込まれていく感覚に囚われた。
全身が軽くなり、重力を失う。
私は、肉のある者ではなく、想いの力だけの存在になって。
冬馬の体、冬馬の意識と融合してゆく。
私の全てが、冬馬の存在と交じり合い、溶けてゆくのを感じた。
はじめて体感する恍惚が、私の意識と体を、ゆるやかに駆け巡る。
私の存在は、真っ白な世界に飛び込んだ。
いつまでも、ここに留まりたいと望みたくなる――――すべてを許し合い、なにもかもと融合して心地よく溶け合う、高揚感。
感覚のすべてが、純粋になって。
人は、この世界を知るために、誰かを愛したり求めたりするのかもしれない。……そう思えてくる。
その真っ白な、どこまでも真っ白な世界に、一点の小さな黒い染みがあって。
それを掴み取ろうと、近づいてゆく。
近づくほどにそれは大きくなり、黒々とした闇を広げはじめる。
――――あのとき、もう戻れないと。
死へと導かれ、線路に飛び込んで、命を失いそうになる寸前に脳裏に浮かんだ、永遠のブラックホールのような闇が――――私を吸い込むために、開口している。
永久の暗黒の闇。
そこへは、行けない。そこは、誰も行く世界ではない。
そこに行くために、私たちは、生きているんじゃない。
ここへは飛び込まない。
そう想う私の心の核に、響いてくる声。
闇の奥から……悲しい声で、誰かが、歌うように……泣いている。
――――――冬馬。
この声は、彼の。
光となった私は、暗闇の世界へ飛び込んでゆく。
彼を、助けたい。救いたい。その一心で。
果てしなく広がるそこは、無限の闇。
ここは、空の宇宙の果ての闇と繋がる、人の心の内にある、黒の空間。
人間の中の、内的宇宙を成す全体の一部には、闇の世界がある。
人間の体の外にある、外的宇宙の多次元の一つ、暗黒のブラックホールへと繋がる入り口だと、私の思考のどこかが認めている。
表の意識では、私のまったく知らない世界のこと。
なのに、内側の意識は、表の私が理解できないことを、理解している。
そして……この暗黒の闇に引き込まれ、溶けてしまったら。
冬馬も、私も、誰も、終わりのない絶望の塵になるしかないことも…………
ここは、冬馬の心。
冬馬の悲しみ。永遠の弔いの祈り。
嘆きの歌声。冬馬の、心の声……
悲しみの黒い渦が、私を締めつける。
乾くことのない涙の雨が、私の想いの光にじわじわと滲んで、私を濡らしてゆく。
蒼馬や涼馬たちの、『戻ろう』という意識の海のいざないが、幾度も幾度も、波のように打ち寄せても。
冬馬の世界は、それを拒否していた。
冬馬の泣き声は、深く、深く、一寸の光さえ射し込まない闇の宇宙にさざめいて、響き渡る。
その奥深くへ、さらに深くへ、沈んでいこうとする、冬馬の心。
私の光の意識が、それを追う――――――見つけた!
冬馬……!
針の先の如く小さな光が明滅している。
逸る気持ちで近づこうとしたとき。
私は、そこにきて初めて見た…………闇の手を。
そして、聞いた。闇の声を。
『この者は、我らが支配する者。この魂は、我が王のもの』
冬馬の光が吸い込まれた先に、突然に現れたのは、一人の少女だった。
ビスクドールのような白い肌に、黒いローブをまとっている。
そして、何の意思も放たない、硝子玉のような瞳。
でも、見つめていると……
底知れない寒々とした戦慄に襲われてくる。
この世の恐怖だけをすべて閉じ込めて、永遠の囚われが宿る形にしたような、絶望の力を放っていると分かる。
その少女は、冬馬の魂を抱え、もっと奥へと、飛ぶように歩く。
ここは――――本当に“存在する”世界なのだろうか?
それとも、私の幻想?
見失わないようについていくと、暗黒だけと思っていた一帯に、その世界の中心があるのが見えてきた。
岩でできた、宮殿の内部のような壁に囲まれ、更に後を追う。
人間の肉体が、壁という壁に隙間なく、ずらりと並んでいる……ズタズタに、拷問されたように。
意識が吐き気に襲われながら、そこよりも奥へ行くと、人間の形をしながら生気のまったくない人形そのものの体が、着飾られて並べられていた。
『王の食卓へ、この魂を』
少女の手から、彼女が魂と呼んだ、冬馬の光が捧げられる。
『眩しい……まだ輝いている。悪行を働かせたわりには、清らかすぎる魂ではないか』
身の毛もよだつ笑いが、その世界に木霊する。
『絶望と苦悶に満ちて、腐りかけた人間の魂ほど、美味なものはない』
満足げに響き渡る、歓喜の咆哮。
『奥へ。まだ清らかすぎる。しばらくして腐敗が進み、悪熟してから、食すとしよう』
私はまた、姿のない光のまま、追跡していた。
暗く、血生臭い岩屋に放り込まれた、冬馬の魂を見つける。
私は、自らの光の手で、その魂を抱えるようにする。
形のないクリスタルに似た、光の中心の球体を。
紫や白、青、緑に色彩を放つ煌きが、オーロラのようにうごめいて、球体の周りを幾重にも取り巻いている。
…………これが、冬馬の、光……。
魂といわれる命の、輝きなの……?
…………私が、はじめて好きになった人は。
なんて、美しいのだろう…………
我を忘れて、感動してしまう。
私の存在の全てが、彼に出逢えた喜びで躍動している。
気高く、繊細で……優美な。
美しい、美しい……彼の、輝く魂の……光。
暗黒世界の中心から、逃げるように連れ出した。
彼を胸に抱いて、守るように。
光として、私の意思の赴くまま、信じられない速さで疾走する。飛ぶように。
闇の咆哮が響き渡り、黒い手が私を掴もうとする。
四方八方からの、引き千切ろうと迫り来る力を、必死でかわして、抵抗する。
闇とは違う別の力が、黒き者たちを遮り、私に道を開けようとしている。
“もう少しだ”
蒼馬の声。
背後には、涼馬、氷馬の意識を感じる。
ここへ飛び込んだ時の入り口が、輝きの目印を放ち、それが段々と大きく見えてくる。
光溢れる世界として、開口している。向こう側の世界。
ここをすぐにでも抜け出そうと、はやる気持ちに押されながら。
ぎりぎりで、立ち止まる。
周囲を蒼馬たちに守られて、彼を、見つめる。
そっと、光の両手で包むように、彼に触れながら。
触れながら……込み上げる想い。
…………手放してあげたほうが、いいのだろうか。
いまなら、この魂を。
彼の望むこの永遠の闇の世界に、手放すこともできる……肉体のある、あの世界から。
そんな想いが、浮かんで。
意識だけの光の存在でありながら。
私は、泣きそうになる。
ここに、残したくない。
闇の主に、飲まれて欲しくない。
永遠に、泣いて欲しくない。
そんなのは、いや。
手放してあげたほうが、いいのだろうかと想いながら。
でも、この人を絶対に失いたくないと。
この人に、まだたくさん触れたいのだと。
私はまだ、この人のすべてに触れていないのだと、しがみつこうとする私もいる。
両手で、彼を包むように触れながら。
「私はまだ、冬馬に触れていない」と、わがままを想う。
光の球体、彼の魂の存在は、私に助けを求めることもなく。
ただ、私の手のなかで。静かに、たゆたっている……
『……僕は、ここにいてもいい』
冬馬は、言った。
『僕は、ここにいてもいい。
永遠の嘆きの、意志ある死を選んで、このまま闇の世界に溶けることも、厭わない。
罪に跪き、自ら、それを選ぼうと想う…………』
………冬馬…………
私は……冬馬に、語りかけた……
『……私は……どうすることも、できないの?
あなたを助けたいと想うのは、自分勝手な思い込みでしかないの?
あなたの想いを、意志を尊重して、手放すことだけが……
私に、できることなの……?』
私の、形にならない涙が。
光の粒となって、私の意識の手のなかに、落ちた。
冬馬の光と混ざり合い、虹色に煌いて。溶けてゆく。
『…… ……帰ろう……?』
……あと、少しだけ。少しだけもでいい。
……私と一緒に、いて欲しい。
あの、美しい眼差で。
私を、見つめて欲しい…………
――――――――冬馬………………!!
心の声が彼の名を叫んだ瞬間、体に受けた衝撃が私を揺さぶり起こした。
巨大な万力で、全身を押し潰されそうな重力。
自分の肉体の、信じられない重さに圧せられて、私は床に倒れこんだ。
目を回して、遊園地で無理矢理に何十回もジェットコースターに乗せられたみたいな、激しい酔いと不快感に襲われる。
…………私は、いったい、どこにいたの? 何を、見ていたの?
それとも、すべて、幻想?
床に体を投げ出したまま、動けないのに……世界が、自分が、ぐるぐると回っている…………。
「冬馬が戻ったぞ!」
嬉しそうな声が、聞こえる。
嬉しい、という感情を発することが、ここにいる誰にもそぐわないので。
誰の声なのだろうと、空中を浮遊しているみたいな、激しい眩暈の中で、思考を巡らす。
……涼馬の声だ。
「よくやったな、豆ダヌキ!」
嬉々とした涼馬の、弾む声を聞きながら、やっとの思いで重い体を起こしてみる。
「冬馬がいないと買い出しも面倒だからな。オレも蒼馬も車の免許がまだ取れねーし、氷馬は絶対買物なんか行かねーし。助かったぜ」
そんなことを言いつつも、子供のような素直さで喜びを見せる涼馬のそばで、蒼馬は言葉を噤んで、冬馬を見ていた。
冷静な眼差には、複雑な心情が滲んでいる。
いま、蒼馬がどんな想いでいるのか、少しだけわかる気がした。
…………引き戻しても、冬馬には、変わらない現実がある。
…………自分たちと、同じに。
冬馬の両足を押えたままでいる、氷馬の姿を捉えて、私は、途切れ途切れに口を開いた。
「……冬馬の心は、苦しんでるの。……悲鳴を、上げてる……。想像を絶する、悲しみのなかにいて……」
右に左に、上に下に、不規則に揺れる意識を耐えながら。
滅多に話をしない氷馬と、話さなければならないと、思った。
「なぜ、《組織》に対して、誰もノーと言えないの……? 言いなりになるしか、ないの?」
氷馬は、私のほうを見ることなく、冬馬の様子を注視しながら答える。
「苦しいのは冬馬だけではない。同様の境遇で生きている者は何人もいる。耐えられないのは、冬馬の弱さでしかないことだ」
有無を言わさない辛辣な正論を、眠ったままの冬馬に吐き出した。
私はとっさに、その視線から冬馬を庇いたくなり、非難の目を氷馬に向けてしまう。
「そして、《組織》に刃向かえば、世界政府からも見放される」
「…………」
世界政府って……世界中のこと?
地球全体のことを、差して言っているのだろうか。
定まらない思考のなかで、あまりにも大きすぎる話だと思い。
大袈裟なことだわ、と、納得できない私がいる。
そう思うのは、私がまだ、ここで生きること、彼らと生きることの立場や意味を、よく理解していないせいだろうか。
「この世の中は、ごく普通に生きている人間、ごく普通に生かされている人間には、決して知らされない不条理に、多くを管理され支配されて動いている。君にはまだ納得し難い話かもしれないが。
世界中の政府が黙認し、時に狡猾に利用さえする《組織》に楯突けば、そこに関わってきた人間として、どこにも行き場がないのは当然だろう」
それが現実だと断言する、氷馬の言葉。
そこにも、何もかもを諦めさせる支配が現われているのを、感じ取る。
「湘馬が《組織》から離れて十四年も生き長らえたのは、君の母親の一族の力もある」
「……私の……?」
「君は何も知らないようだが、公には秘されている神道の家系だと聞いている。詳細は私も分からない。必要があればいずれ話もあるだろう。
長い黒髪が特徴的な一族だそうだが、長髪は陰の影響が強いが、保護力の意味合いもある。湘馬は君に、髪を伸ばしていろと“強制”していたはずだ」
私は、答えなかった。
強制ではなくても「長い髪が似合うから伸ばしているといい」と、言われ続けていたのはその通りだ。
でもそれを、氷馬の前で認めることは、彼の放つ冷やかで傲慢で、言い知れぬ圧力に素直に服従することのように思えた。
「じゃあ……“ノーと宣言する”なら、死ぬしかないの……?」
《組織》の支配から、逃れるためには。
「湘馬のように、反逆者でありながら人並みの生活を続けて生きたのは、稀なケースだ。特に現在は、昔よりも管理が厳しい。生体登録も義務付けられている」
「生体、登録?」
「……オレたちは死なねぇよ。ヒョウはオレらのクソムカツク監視人だしよ。体外受精された時から研究所に管理され続けて、事故だの病気だの自殺だの殺人だので、簡単に死なねえようにコントロールされてる。《K》からの強力な想念の遠隔操作で、管理されてんだよ。大事な商売道具だからな」
涼馬が、自分に言い聞かせるように、悲痛な吐息混じりに呟く。
それに眼差で頷きながら、氷馬が私を一瞥し、冬馬に掛けていた麻の肌掛けの一部をめくった。
「これがその証明だ」
視線で示されたそこには、大きな傷があった。
「私にもある。他の二人にも。腎臓の片方を摘出した跡だ」
鋭く、生々しい傷跡に眉を潜めて。
脅える私を、氷馬の雨色の瞳が見据えた。
「腎臓は一つだけで機能する。十年程前から、有効に人材を管理するために、《組織》は体の一部を本部に保管する事を決定した。その者の肉の体の一部があれば、それを通じて生死のコントロールが利き易くなる。
呪いの藁人形と同じだと考えればいい、念を送る相手の髪があれば、呪いはかけやすくなる。それと同じだ」
握り締めていた手の指先が、かじかんで、冷たくなった。
冬馬の、美しい白い肌に容赦なく刻まれた、残酷な支配の爪痕。
“すべては逃れられない現実なのだ”と、私に教えるもの。
テレビを通して見た、飛行機の残骸以上に。
私にとって、明らかな真実だった。
「……でも、強い想念の意思で、自分の肉体から離れることも、不可能じゃない」
冬馬が、自らの意思で、そうすることを試みたように。
蒼馬が呟き、私たちは、ささやかな呼吸を取り戻しぐったりと横たわる、冬馬の青白い顔を見つめた。
まだ眠りの底にいるように、静かに瞳を閉じている冬馬は。
目を覚ましたとき…………最初に、何を、思うのだろう…………
「じゃあ、なぜ、あなたは、生きているの?」
私は、呟き返した。
「強い意思の力があれば、死も可能だと、言うなら。絶対に死ねないことは、ないのなら。
死ぬことを選ばないで、なぜ、こんな生を生きているの?」
ひどいことを、訊いている。
生きる価値のない人なんて、いないのに。
どんなに非情なことをしていても、その命が価値のないものだと、決めつけることは、誰にもできないはずだ。
僅かに噛んでいた下唇を、一度強くかみ締めてから、蒼馬は答えた。
「……知りたいんだ。この人生に、自分という存在に、どんな意味があるのか」
「自分という存在の、意味?」
「想念戦争に加担する一員として、生まれてきたこと。……一日でも長く生きれば、意味を掴めるかもしれない。一生かかっても、知ることができなかったとしても」
深い静心と苦悶が滲む、蒼馬の吐露。
涼馬も、氷馬も、何も言わなかった。
「知るために、生きている」
もう一度、蒼馬はそう言った。
知るために、生きるしかないのだと。
私は。
真実だったのか、幻想だったのか分からない、暗黒の世界での体感を、思いながら……
「パンドラ」
呟いていた。
「パンドラ? ギリシャ神話の?」
蒼馬が、訊き返す。
「よく分からないけど……そんな気がしたの。人間の誰もが、世界を破滅させるような力を、持っているのなら。それって、誰もが、パンドラの箱として存在してるんじゃないか、って」
混乱する思考で、吐き出した。
「特別な力じゃないと、あなたちは言うけど。でも、使っちゃいけない力なのよ」
「使ってはならない力を、なぜ人間が持っている?」
氷馬に、冷静に問われて。
私は首をふって、目を閉じた。
「分からない。けど、使ってはいけないから、閉ざされている。そう思えるの。みんながそれを、自分中心に、利己的な意識で、使いはじめたら。世界は本当に、終わってしまうから」
「……だけど……あらゆる災厄の力が飛び出した後の、パンドラの箱には。ただ一つ、何かが残っていると、言われている」
沈黙の後で、蒼馬が言った。
「未来を、どうすることもできない絶望か。それとも、未来の幸福を信じられる希望か」
もしかしたら、俺たちは、それを知るための実験台なのかもしれない。
自嘲的に、彼は呟いた。
再び訪れた、沈黙が、答えのように。
私たちは、言葉なく、冬馬を見つめた。
私たちに残されている、ただ一つの何かがあるなら。
それを掴むためにも、答えを知るためにも、生きなければならないことを。
噛み締めながら。
『……帰ろう……?』
……と。
やっぱり、私はあのとき。
私のわがままで……残酷なことを、冬馬に望み、伝えたのかもしれない……。






