パンドラ 2
どこをどう歩いて来たのか、わからなかった。
私有地の木々の間に、黒々とした影のような礼拝堂が見えはじめ、立ち止まる。
激しい雷雨に見まわれそうな今夜は、ここの軒下で休むしかない。
入り口に回って、試しに扉を押してみると、施錠がされていなかった。
鍵はだいぶ前に無くしたままで、中に入れないと聞いていたのに。
ギィ…っと軋む音を立てて、それは動いた。
重い樫の扉を開けて中へと入り、さらに奥まった先の扉へと足を向ける。
外壁は傷んでいるものの、造りがしっかりした建物らしく、少し見る限りでは荒廃はそれほどでもない。
奥の扉を開けると、真っ暗な堂内が、ぽっかりと口を開けて広がった。まるで地獄の入り口のように、どんよりと暗く寒々しい。
――――今まで彼らが、四人の兄弟が、どれだけの人の生を奪ったのか。
また、どれだけの人の生を、繋いできたのか。
知りたくもない、それらの魑魅魍魎な念の闇が、この忘れられた、暗闇の祈りの場所に澱んでとぐろを巻いているのではないか。
気味の悪い気配を勘ぐって、怯えそうになる。
鼻腔を芳しく刺激する、濃密に立ち込める、甘い香りがする。狂気を誘うような噎せ返る甘さで、堂内は満ちていた。
ラッパを持つ、大天使ミカエルの肖像が描かれた、正面のステンドグラスが見えた。
この世の終末の時、最後の審判のラッパを吹くと聖書に記されている大天使。
そこから雷光が射し入り、礼拝堂の中を青白く映し出す。
祭壇の奥の大きな木製の十字架、そこに架けられたイエスキリストの贖罪の裸体や、十字架を挟んで両脇に居並ぶ十二使徒の象が、沈黙でそこに座していた。
ふらふらと、祭壇へと近づく。
背の高い燭台があり、その傍の、深紅のビロードで覆われた台には、純白の薔薇や百合の花々が咲き乱れていた。
そして、白い花たちに囲まれて、ひっそりと置かれている、手のひらほどの小さな写真立て。
これは。
お父さんの、写真……?
どうして、こんなところに。
手に取り、顔を近づけて、稲光に照らして確かめてみる。
…………間違いない。
とても若い、私が見たことのない頃の父だけれど、面影がはっきりとある。
誰が、こんなところに、置いたの?
それに、生けられて間もない、この花々も。
再び青く鋭い稲妻が走り、眩しさにビクッとして顔を上げたとき。
「……ひ……っ」
光が、壁の一面を映し出した。
悲鳴にならない声を上げて、目を見開く。
不気味さのあまり、呼吸も驚愕も、即座に恐怖に奪われた。
壁の小さな模様だと思っていたそれは。
人たちの、顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔…… …… ……
……千ではおさまらない、無数の写真たち。
国籍もばらばらの、見知らぬ顔のひとつひとつが。遺影のように壁に張り巡らされている。
冷ややかに見おろす暗い瞳たちの、底知れぬ怨念が、この場を訪れる者の息の根をじりじりと締め上げるように。
一瞬の光に照らされ、また、闇の沈黙に返る。
丹念に磨かれて黒光りする、木の床も、並ぶベンチも。
この場所に、度々足を運ぶ者の心の所在を、ありありと伝えていた。
暗闇の礼拝堂に漂い、狂気を誘う、濃厚な花の息吹。
逃げ場なく充満する、想いの芳香。
狂おしさと、窒息するほどの甘さ、声のない怨念の眼差たちが。
私の惑乱を、誘う。
許されることのない、懺悔。弔い。
葛藤の苦しみと、満たされない贖罪。
永遠に償えない重荷を、贖えない罪を。
静寂の仮面の下で激しく突き詰め、見つめる想い。
………………知りたくなかった。
そう思うばかりだ…………
この家に来てから、知りたくなかったことばかり、知らされる。
自分の内側にある、ただ一つの想いだけで。
自分のすべてを焼き尽くそうとする、激しい感情があることも。
涼馬も、蒼馬も、氷馬も、こんなことをする人たちじゃない。
この家の私有地を自由に歩き、この祈りの場に訪れる人。
偶像を支えにすがるように、神を拝し、ひざまずいて。
天へと祈る神聖な祭壇に、手折った無数の生たちに、白い花と祈りを捧げる人。
歯車が、止まらなくなる。
憎んで、非難して、人間なんかじゃないと否定して、糾弾する。
私の中から、排斥する。
存在のすべてを、跡形もなく追い出して、そうできなければ、止まらなくなってしまうのに。
止まらなくなると、わかっているのに。
この場所に。その人の、窒息するような想いに。
自分の激情にも、触れ続けるのが堪え切れなくなる。
息苦しくなって礼拝堂を出ると、降り始めていた大粒の雨に打たれて…………冬馬がいた。
濡れそぼった姿で、ガウンのまま、素足で私を追いかけてきたのだ。
「…………確かに、僕は、人殺しだ」
私の姿を見つめた冬馬は、天の怒りの如き稲妻の下で、神に宣言するようにはっきりとそう言った。
「僕たちは、この身勝手な人間社会が産み出した、化け物なのかもしれない」
まっすぐに、私を見据える彼の顔に。
滲んでいるのは、絶望だけ。
無表情の仮面で覆うしかなかった、彼の真実の悲鳴が、そこにあった。
「でも、そんな言い分も、この罪の前では、戯言でしかない」
真っ青な顔で、震える声で。
自分を曝け出し、自らを打ちのめす者。
前髪から滴り落ちる空からの雫が、涙のように彼の頬をつたう。
どこにも行き場のない、彼の想いが、冷たい雨に打たれながら。
儚く壊れてしまいそうな、その瞳に溢れている。
このまま、跡形も無く、私の前から消えていきそうな彼に…………
…………手を、差し伸べたくなる。
お父さんを殺した、あんたたちなんか、あんたなんか。
私が殺してやりたいとすら、想うのに。
心底、そう想っているのに。
どうすればいいか、わからない。
どうしていいか、わからないくらい、私も痛いけれど。
すごく、すごく、苦しいけれど。
「人殺しだと、化け物だと責めるなら、だったら、教えてくれないか。他にどんな道があったのか、どうすればよかったのか、教えてくれ!
僕が、僕たちが、どう生きていけばいいのか。どうしたら誰も殺さずに、誰の人生も操らずに、生きていけるのか。教えてくれないか」
冬馬の叫びの手が、私の胸で燃え盛り出す悲鳴の炎を、鷲掴みにした。
私の感情を。
表わす言葉は、見つからない。
泣き叫びたくても、罵りたくても。
どこに何を、ぶつけたらいいのか。
――――見つからない。なにも…………
激しさを増す雨に打たれながら、冬馬に近づいて。
私は…………彼を、抱きしめた。
彼の背は、私よりもずっと高くて。
だから、私の腕では間に合わないと、思うのに。
私のこの体は、小さすぎて。彼を受け容れる力には、なれないと、思うのに。
けれど、彼は。
私の両腕に、すべてを預ける存在になっていた。
私が触れた途端、冬馬は体を強張らせたけれど、その戸惑いはすぐに流された。
彼は、私の体に、両腕を回しながら。
苦しさを全身で吐露する烈しさで、震えはじめた。
私よりも、ずっと背が大きくて。
大人びている人なのに。
体中で、自分を訴える子供のように…………呼吸を、声を、やるせなく奮わせる彼のことを。
守りたいと想っている、私がいる。
私に、できることなら。
喚き散らして、責め立てたい感情も。
怒りも、大切な人を失った悔しさも、憎しみも、悲しみの絶叫も。
冬馬に触れながら、私のなかで、崩れていく。
激流が遡った私の感情の跡に、ぽっかりと、穴が空いて。
冬馬という存在が、私の始りから、私を生かしている細胞、命の息吹であったかのように。
自然に。急速に。熱い血を伴って。
染み込んでくる。
…………苦しいのは、私だけじゃない。
泣いていいよ…………
…………雨が、降っているから…………
私がもし、雨を降らせる力を持っていたなら。
このままずっと、やまない雨を降らせたい。この人のために。
あなたの、涙のために。
流れる雨のなかで、途切れない雨の音のなかで、あなたが苦しみをさらけだし、泣きつづけることができるように。
一生、泣きつづけても、叫んでも。
心の内から消えることのない血の涙が、この人のなかに溢れていることを、私は、知ってしまったから。
この人の、彷徨う心の所在を。嘆きの悲鳴を。
自分の両手で抱え切れない、運命の重さを。悲しみの想いを。
知ってしまったから。
抱きしめながら。
私の心の歯車は、もう、止まらない。
――――そのとき。
一際大きな雷鳴が響き渡り、ドドンと大地が唸った直後。
私の体が、眩しく光った。
夜を切り裂いた稲妻の一筋が、冬馬の肩に回した私の手、その指先に落ちたと思う錯覚。
そして、瞬く間に痺れる光が、私の全身を突き抜ける鋭い感覚。
ビクンッと体がしなり、熱いとも冷たいとも言い表せない強烈な電流が、全身を駆け抜
けた。
青白い閃光が、私と、冬馬を、包んでゆく。
痛みも、体が弾け飛ぶ衝撃もなく。
何かの映像を眺めるように、私はそれを見ていた。
雷に打たれながら、自分が冷静に、それに打たれていることを、見つめている。
私の周りの雨が、光りはじめる。
私の体が発光して、夜の雨を照らしている。
「……………………」
金や銀、淡い黄色や緑色、紫色、桃色が混ざり合い。
一粒一粒が宝石のように、虹を見るような美しさで。
一粒一粒が意志ある命のように、煌きだす。
私はぼうせんと、自分の手のひらを、自分の顔にかざした。
自分の肌が、青白い光を放っているのを、眺める。
雨の雫が、虹の珠のように…………輝いている。
傘をさした氷馬たちが、森のなかに姿を現すのを、現実感のない視覚で捉える。
何が起こったのか思考することもできないまま、彼らが足早にやってくるのを見つめていた。
抱きしめていた冬馬から、離れなければと、ぼんやりとそう思った途端。
体が、ガクンと崩れそうになった。
冬馬が、私の体に圧し掛かるように、倒れてきたのだ。
「冬馬?」
突然襲われた重さにびっくりして、現実に引き戻されながら。
私は、冬馬が意識を失っていることに気づき、必死でその体を支えた。
「……冬馬? 冬馬っ!」
がっくりと力を失い、死人のように目を閉じて。
私の肩になだれかかる、冬馬の横顔に、濡れて金色に輝く髪が幾筋も張りついている。
真っ青に見える頬も、冬の雷雨に打たれた体も。
体温を損ない、冷たくなっていく。
冬馬を支えながら、私は悲鳴を上げていた。
その声は、救いなどないと、天からの非情を知らされるように。
再び地面に落ちた雷の地響きで――――空しく、かき消された。
冬馬の意識は戻らない。
呼吸もなく、体は人間のものとは思えないほど冷たかった。
死んでしまったのだと、何度も思った。
冬馬の部屋の、冬馬の横たわるベッドのそばで、私がわななき取り乱して涙を浮かべるたびに、
「死んではいない」
と、氷馬は言った。
氷馬は、冬馬の両足の甲を手で押さえ、「肉体から離脱した生命エネルギーを引き戻している」と言う。
涼馬は、冬馬の両手のひらに自分の手を重ね、蒼馬は、冬馬の額やこめかみに手を当てて、目を閉じている。
聞き取れない、呪文にも聞こえる何かを呟きながら。
「呼吸が合ってない」
苛立つ声で、氷馬が他の二人を振り仰ぐ。
「オマエに合わせてるよ」
涼馬が目を閉じて深い息を繰り返し、いつもの彼らしくない静寂した空気を身にまとっている。
それでも、氷馬から再び注意を促がされると、眉を顰めて彼らしく舌打ちする。
「先走んなよ、ついてけねぇ。少しはこっちに合わせろよ、おまえ一人でやってんじゃねえんだから」
文句を言う涼馬に、
「リーダーは私だ」
にべもなく返す氷馬。
蒼馬は、二人に取り合わずに自分の対処に没している。
「オマエも手伝え」
涼馬が、しゃがみ込んだままの私をふり返り、顎で冬馬を指し示した。
「胸に左手、丹田に右手を当てるんだ」
「……丹田?」
「腹だよ、ヘソの下らへん」
「……私、何もできないよ……?」
あなたたちのような力はない、そういう意味で首をふる。
「おまえの超意識のエネルギー回路は、もう完全に開いてんだよ。さっき、体が発光したのを自分でも見ただろ? 全身細胞の無限領域が覚醒したんだ」
自分の目で見たと、思っていることでもあるのに。
幻だったかもしれないと、思おうとしている私もいて。
涼馬の話を把握できずに、見つめ返す。
雷に打たれて、人間が生きているわけがない。
即死するのが当然のことで、なのに私は生きている。
涼馬が再び舌打ちして、早口で捲くし立てる。
「人間が、体を維持するのに使っている以外の力、九十%以上の力は眠ってて、大半の人間はその力を使う回路が開かねーで一生が終わるんだよ。開こうとしないんだ。
狭い世界で安穏としているフリをして、常識で手におえないものを背負わないほうが、大多数の人間は楽だと思ってやがる。そのくせ、超能力を発揮する人間を羨ましがったり疎ましがって、社会から排斥しようとする。
おまえはさっき、眠っていた力を、自分の意思で使いこなせる回路が完全に開いたんだ。
つっても力を全部使える化け物は、この地球にはまだいないけどな。開いた力をこれから使うか使わないかはおまえの勝手だ。けど、わかったら、今はさっさと手を貸せ」
「開いた、力……?」
「目の前のモノを壊そうと、イメージを使って集中して考えれば、一瞬で壊せる力だ。手伝う気あんなら早く手伝え!」
叩きつける勢いで言われ、強引に促がされる。
固唾を呑み圧倒されていた私は、抗う勇気の欠片も見つけられずに、よろよろと立ち上がった。
冬馬の体を挟んで涼馬の反対側に立ち、恐る恐る冬馬の体に触れる。
濡れたガウンを脱がされ、ざらざらした麻布の肌掛けをかけられただけの体は、触れた私が身震いするほど冷たいままだった。
「温めたほうが……」
不安に掻き乱されて、そんなことではどうにもならないだろうと絶望感に襲われながら、ぽつりと口にする私に、
「それはまだ後だ」
氷馬が答える。
何をするのかまったくわからず脅えるばかりで、ただ冬馬の体に手を当てていると、
「呼吸を合わせて。深い呼吸で、ゆっくりと十カウントで息を吸って。同じカウントで吐き出して」
目を閉じたままで、蒼馬が言う。
「逆複式呼吸にしろよ。吸うときに腹をへこまして、出すときに腹を膨らますんだ。意識レベルを陽性に上げる強制呼吸だ。自分が上がれば、冬馬を上げる助けになる」
そう教えてくる涼馬に、
「それはまだ難しいからいい」
と、呟く蒼馬。
「呼吸のリズムが乱れると、こっちがやりにくくなる」
冬馬の胸に左手を、丹田に右手を乗せる。
言われたとおりに、腹式の深い呼吸で、カウントを取る。
耳の神経をそばだて、リーダーだと言っていた氷馬の息遣いに、自分の息を合わせようとする。
「それでいい」
氷馬が頷いた。
冬馬の呼吸は、戻る様子が見えない。
このまま、彼を失うかもしれないという……恐怖。
まだ、出会ったばかりなのにと思うと、涙が溢れ零れかける。
不安で取り乱している場合じゃないのに。
彼らの足を、引っ張っちゃいけない。
言い聞かせて、自分の呼吸に専念する。
「そう……そのリズムで。……吐くときに、自分の想いやエネルギーが、冬馬の体を満たすようにイメージして。開いた力を、現実化するには、鮮明なイメージが重要なんだ。
息を吸うときは、頭の天辺を通じて、眩しい太陽からエネルギーを吸収するように想像して。大丈夫、俺も手伝えるから」
「…………」
こういうとき、蒼馬の冷静な声は、何よりもの支えになる。
最初に感じた、落ち着いて大人びた印象は、間違っていなかったのだと思う。
兄弟にとって、精神的な支えの軸になっているのは、この人なのだ。
そう考えながら。
私のエネルギーが、私の想いが、冬馬の体を満たすように……イメージする。
…………………
…………冬馬……冬馬……
……目を、開いて。
また、あなたの、美しい瞳を見せて。
儚い水色と薄い紫色の入り混じった、夕暮れの空を思わせる、あのトワイライト・ヴァイオレットの眼差で、私を見て。
ここに来て一番最初に、私の名前を呼んでくれた人。
いつも、私を、名前で呼んでくれた人。
干渉しないと言いながら、いつも私のことを気遣ってくれていた。
透明な、優しい声で、私を呼んでくれた。
アロエのサラダ、すごくおいしかったよ……
ドレッシングの作り方も、教わったけれど、……冬馬のようには、おいしく作れないの。
また、あのサラダ、作ってくれる? 私に、教えてくれる?
私に、教えてくれる?
あなたが、どんな人なのか。
もっともっと、教えてくれる?
どんな声で笑って、どんなふうに心から微笑んで。
どんなふうに、青空を見上げるのか。
夜の空じゃない、明るい真昼の空を見上げるあなたの姿を、私に見せてくれる?
また、私を抱きしめてくれる?
また、私の名前を呼んでくれる?
――――私の心の声が、体の内側から、熱い湯水のように溢れてくる。
あたたかく、あたたかく、冬馬の体へと注がれてゆく。
注いでも、注いでも、溢れてくる。
この人を大切だと想う気持ち。
もっと、この人に触れたいと想う気持ち。
想う気持ちが、枯れない心の泉から溢れでて。
私の体を流れ、満たして。
冬馬の体へと、流れてゆく…………
……途切れない、想い。
満ちるたびに、幸せを感じる、喜び。
私は、この人が、好きなんだ。
すごく、すごく、すごく、好きになってしまったんだ……。
誰よりも。……誰よりも。
この人のことしか、見えなくなる自分を。
身勝手で、わがままで、残酷なほど利己的だと思うけれど。
いま、お父さんの魂と、冬馬の魂を救える道があるとすれば。
そのどちらかを選べば、どちらかが、必ず助かるのなら。
私は、冬馬を選ぶ。
ごめんなさいと、泣きじゃくりながら。
私の心の核にある本能は、冬馬を選んでいる。
その決意が、私を開き始めた。
私のなかに、光が、満ちてゆく。
虹色の。さっき見た、宝石のような、意志ある命の煌きのような光が、私のなかに満ちて。
冬馬へと、注がれてゆく。