五章 パンドラ
その日はそれからずっと、心が囚われていた。
昼間の蒼馬の言葉と、今まで私が見てきた冬馬の姿が絡みあい、頭のなか、胸のなかに、幾たびも反芻する。
冬馬を見ると、さらに気になる気持ちが増してしまうから、夕食は作るのも食べるのも時間をずらした。
それでも彼について考える想いが、際限なく広がるのを、留めることはできなかった。
夜も遅くなったころ、そろりと三階に足を伸ばしてみる。
二階は、涼馬と蒼馬と私が使い、三階は冬馬と氷馬だけのプライベートスペースになっている。
前に一度、冬馬を呼びに上がってきたことがあるだけの場所は、他とはまったく空気が様変わりしている印象があって、ちょっと立入りにくい。
階段を上ると、正面にテラスへと繋がる多目的スペースがあって、私がいつも通る下のそれよりも広くなっている。
長い廊下に、照明のトーンを低くして一晩中灯りがあるのは、二階や一階の共有スペースと同じだった。
壁に飾られた一点の大きな額絵は、クロード・モネの睡蓮の絵だというのが、教養の浅い私にもわかる。
数年前に父親と観に行った印象派の美術展でモネの絵が数点あり、モネの風景画が好きだと言っていた父が、長いこと鑑賞に浸っていた。
それで、私もその画家の絵のイメージをなんとなく憶えていた。
レプリカなのだろうけど、もしかしたらこの絵はお父さんが選んで、ここに飾ったものだろうかと思い、その絵の前で暫く足を止める。
深い藍の水の流れと、仄かでありながら凛とした意思の有様を示して浮かぶ、白い睡蓮の世界は、冬馬という人の、内側の宇宙に重なるように思えた。
そんなふうに思うのは、私の囚われ、なのだろうか……。
人の生活の匂いのない、プライベートな美術館に居るようなひとときを過ごした後で、そのまま二階に戻ろうか迷いながら、結局、冬馬の部屋の前まで来てしまった。
物音ひとつしない、冬馬の部屋。
……いないのかもしれない。
もしかしたら、また夜更けの散歩に出ているのだろうか。
静寂の大気に溶け入るように、庭や、森を、ゆらゆらと歩いている姿が、目に浮かんでくる。
こうして来たところで、何をするわけでも、何ができるわけでもない。
小さな気休めでしかなく、私はドアの前に立ったまま、そっと溜息をつく。
「やっぱり、なつめ」
突然ドアが開いて、紫紺色のガウンを羽織った冬馬が現われた。
自分の目の高さの、深く開いた白い胸元に思わず目がいってしまった後で、私はすぐに視線をそらした。
「誰かの気配があったから。君だと思った」
言いながら、
「眠れない?」
と、様子を覗う眼差で私を見る。
「起こしちゃったかな……」
まさか出てくるとは考えもしなかったので、気まずさでそう言うと。
「それはかまわないけど。本を読んでたから」
冬馬は、静かな視線で私を観察している。
「何か、僕に用事があるの?」
答えられずにいると、私の言葉を待ってから、
「この間、笑ったこと、気にしてる?」
と、訊き返してきた。
「君をからかって、度が過ぎたと思う。でも、僕もあいつらも、君が嫌いで馬鹿にして楽しんでるとか、そういうことじゃない……むしろ、その逆だから、気にしないでほしい」
気遣われて、それが、居心地が悪くて。
どうでもいいことで、自分がここに来た理由をはぐらかそうとした。
「冷蔵庫のミルク、飲んでいい? ホットミルクを飲もうと思ったら、少しだけ残ってて。
飲み切っちゃったらまずいかなと思って、それで訊きにきたの」
「それだったら、内線使えばよかったのに。キッチンの物は、前に言ったように勝手にしていいから。食べたいものを食べていいよ、早いもの勝ちだからね」
冬馬が、涼馬のように読心術が得意な人じゃなくてよかったと、心底胸を撫で下ろしていると、冬馬の瞳が、私をじっと見つめて沈黙する。
心が、美しく澄んだ瞳に吸い込まれそうに思えて。
やっぱり、こちらの内面を読まれているのかと、おののき焦りつつ。
どいうわけか目がそらせない、自分がいる。
昼間は、透明な水色のようにも、華やかな菫色のようにも見える瞳が、廊下の落ち着いた照明の加減で、深い紫色に煌く。
きっと、たくさんの女の子が、この人の眼差に心を奪われて、恋をしたのだろうと……思ったりする。
「さっき、蒼馬と一緒にいたよね」
とっさに、私の心が動揺して、身構えた。
「蒼馬が、あんなに大笑いしているのを、はじめて見た」
冬馬は私を見つめたまま、そのことについては、特に関心がなさそうで。
大人そのものの顔をして、やわらかな表情を見せてくる。
「あんまり、僕の部屋に来ないほうがいいと思う。あいつが、誤解するから」
穏やかな自分を示すような、ちょっとだけからかうような微笑を見せながら、優しい声で言う。
…………なぜだろう。
こんなに、哀しい気持ちに、なるのは。
彼のやわらかさに、微笑に、突き放されたように思い。
哀しさでいっぱいになって、自分を抑えようとしても。
どんどん、どんどん、膨らんでくる。
持て余す重さで、私のなかに沈んでくる。
「おやすみ」
ドアを閉めかけた冬馬に、私は、口をついて言ってしまった。
「私と蒼馬が、そうなってもいいと思ってる?」
言ってしまった後で、何を言ってるんだろうと思う。
「……そうなっても、って?」
切り返す冬馬に、取り繕えずに黙り込む。
「恋愛に干渉する主義はないよ。異母兄でも気にする必要はない。環境そのものが特異なものだから。自由にすればいい」
やんわりと、あしらう口振りで、言われた。
「そうじゃなくて」
わかってる。
私は、この人にとって、何者でもないこと。
何者にもなれず、ただ父親を同じくするだろう関係、それだけだということ。
「ごめんなさい……なんでもない」
冬馬が、僅かに首を傾げて私を見おろしている。
少し、困ったように、心配するように、瞳を曇らせている。
「おやすみなさい」
応えて。これでいいのだと思った。
三つ編みをほどくたびに、「似合うね」と笑いかけてくれた、彼の言葉や、眼差や、微笑みを思い出しても。
それ以上の気持ちには、ならない。
これからずっと、何度も思い出すとしても。
思い出し続けるとしても。それ以上の気持ちには、ならない。
「なつめ」
追いかけてきた声に、立ち止まる私。
「君は、僕が好きなの?」
予想もしなかった、言葉。
単刀直入というか、率直というか。
そういう人だった、この家の人たちは。
「さっさと退散するなんて、きかん気な君らしくないね」
面白そうに、私の後ろ髪を引いている、気がする。
挑発するような言い方だと思った。
すうっと息を吸って、言い返そうとする。
さっきから、からかわれているのかもしれない。
自分の感情をきれいに隠す人だから、意地悪も見抜けない。
「私が好きなのは、父親なの。ちょっと異様なくらいのファザコンだって、これまでも友達にもさんざん言われてきたし、たぶん、そう」
ふり向きざまに言うだけ言って、階段を足早に降りようとする。
嘘は、言っていない。
「じゃあ。その父親を殺したのが、僕だと言ったら?」
吹き抜けに木霊した、声。
「湘馬を殺したのが僕だと言ったら。それでも君は、僕に恋をするだろうか」
心臓を、掴まれた。
鋭く立てた爪を、心の柔肉に、直に食い込ませる意志で。
冬馬をふり返る視線の先で、奥の部屋の扉が開き、白いバスローブ姿の氷馬が姿を見せる。
「何を言った?」
近づきながら、冬馬を見据える雨色の眼差。
目をあわせると、気持ちが凍えそうになる。
「口止めをしたはずだ」
「耐えられない」
吐き出した冬馬を侮蔑する、冷然とした態度を見せて、氷馬が目を細めた。
一九〇センチを少し上回る氷馬の身長は、それだけでも見る者を精神的に威圧する。
「私は、おまえのそういう弱さを軽視している。蒼馬にも涼馬にも示しがつかない。四人の決め事を犯すのは、チームワークを乱す甚だ迷惑な軽率さだ」
「だったら、僕も殺せばいい」
氷馬を睨んで、言い放つ冬馬。
「ドロップアウトさせてくれないか」
その頃には、只事じゃない気配を敏感に察した蒼馬と涼馬が、ニ階のそれぞれの部屋から出て、三階へと階段を上がって来ていた。
氷馬は、あからさまに冬馬の言葉を無視した態度で、私へと視線を向ける。
「正しくは、私たち四人でしたことだ。《組織》の中枢からの総意だ」
氷馬が、彼特有の抑揚のない口調で、私に告げる。
組織からの、総意で。
「彼らは、よほど君が欲しいのだろう。湘馬は、《組織》に娘を渡すのを拒み続けていた。四人の息子は置き去りにしても、愛娘だけには普通の幸せを望んだようだ。
だが、《組織》は簡単には諦めない。この世のすべてを思い通りにコントロールする飽くなき欲望を追求している集団だ、敵に回した湘馬が愚かすぎた」
説明するのが鬱陶しそうに、時折、息をつく氷馬。
私は、口を開くことができない。
声を出したいのに、言いたいことが、何ひとつ浮かばない。
「“僕たち”であろうと、“僕”であろうと、同じことだ。僕が、手をかけた事実は」
心を棒読みするように言い表し、冬馬は立ち尽くしている。
「例えそうでも、こいつが知らなくていいことだって、あんじゃねぇの?」
私の間近まで来た涼馬が言い、
「それは、おまえが嫌いなうやむやだとか、誤魔化しでしかないことだろう」
後を追ってきたそばで、蒼馬が、冷静な意見で遮った。
「この子がここに来たときに、『余計なことは言わずにいろ』と、ヒョーマからの連絡で一方的に言われたけど。俺は、いつかは話すべきだと思っていた。
知らないで俺たちといれば、事実を知る時が遠くなるほど、彼女の憎悪も苦しみも増すと思うから」
そして、私に語りかけるように、声を落とす。
「顔も憶えていない人間でも、父親は父親だ。でも、自分の命をかけて絶対権力に逆らうほどの情はない。四人のなかで、最後まで抵抗したのは、トーマだけだった」
「オレは、憎しみしかねーよ。悪魔の巣窟に生み落として、自分はさっさと逃げやがって。
父親以前に人間だと思ってねえ。思えるか。世界で一番目障りな男が消えてせいせいしてるぜ、何度殺しても、殺したりねえくらいだよ」
「リョーマ」
私の様子を窺いながら、蒼馬が小声で涼馬を制する。
私は。
衝撃を、呑み続けるしか、なくて。
出されるまま、拒否の権利すら自分の手元にないまま。
ここに来て、いろんなものを丸呑みして。
でも、もう、呑み込み切れなくて。
消化不良の、もろもろの塊たちが煮えたぎり、私を破壊する、爆弾になる。
辛うじてある我の意識で、自分の首に掛かる、銀の鎖に手をかけて。
それを、引き千切った。
おもいきり引っ張った摩擦で、首筋の皮膚が切れて。
その痛みで、私はいま、ここにいる自分を立たさなければならないと、踏ん張ろうとする。
鎖から、指に滑り落ちてきた銀の指輪を、涼馬の前に差し出した。
人間のものとは思えない、黒ずんだ手のなかに。
握り締められていた、指輪。
正視することができなかった父の、最期の息吹が、込められたもの。
「……刻印が、あるの」
強張っている頬と唇に、余力を込める。
涼馬、蒼馬、冬馬、氷馬の視線が、私の手に注がれている。
指輪の裏に、父の手で刻まれただろう。
父が形にして残した、唯一の心。
父が、肌身離さずに、大切にしていたもの。
「一文字だけの、Mの刻印。……私は、これは、お父さんの名前だと思ってた」
指輪を眺めては、時々、物思いに沈んでいた、父の姿。
そんなときは、私はいつも、よくわからない不安で心細くなって。
「お父さん?」と呼びかけると、決まって、切なげな微笑を浮かべて、「どうした?」と、訊いてきて。
「どうしたの?」と、私が訊きたいのに、訊けなかった。
なんでもない、そう言って。
父を笑わせるために、ふざけたことをして。
笑ってくれると、少しだけほっとした…………
「でも、それだけじゃなくて。……なつめの、M。涼馬のM。……冬馬のM。蒼馬の……、……氷馬の……」
発しようとする声が掠れ、熱くなる喉を振り絞り、私は声を上げた。
「握り締めてたの。真っ黒な、炭のような手で。握り締めていたの。
いま、わかった、どうしてこれを、お父さんが最後の最後に、握り締めていたのか」
いまなら、わかる。
知りたかったと、望んでいたことなのに。
知った後で、知りたくなかったと思う。
矛盾している。
私の感情なんて、こんなものだけど。
「あなたたちだって、わかったからよ。自分を殺そうとしているのが、誰なのか、分かったからよ。許してくれなんて、ムシがいいことを思う人じゃない。
それは、ずっと一緒に暮らしてきた私が、よく分かってる。あなたたちを、受け入れたから、死んだのよ。あなたたちの言う、“想いの力”を、無条件に」
受け入れたから。
覚悟と、潔さと。
許されることのない、懺悔。
愛情と、簡単に呼べるほど、生易しい感情ではなかったこと。
壮絶な、誰が悪いと、何が悪いとぶつけ合えない、心と心の絶叫を。
父は、受け入れたのだ。全身全霊で。
私一人で、遺体を確認させるのを。何人もの大人たちが躊躇した、あの体は。
運命を呑み込み、彼らを抱擁した証なのだと。
そう思わなければ、残酷すぎて。
父のためにも、彼らのためにも。
自分を、ギリギリのところで必死で守るためにも。
そう思いたいのかもしれないけれど。
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
……何百回問いかけても。
何千回問いかけても。
何万回、天へ叫んでも。
答えは、見えない。
わかっているのは。
どうしようもなく、愚かだということ。
何が愚かなのかも、説明できない。
私には、わからない。
何もかもについて、失望している。
救いようがなく、惨めで。
切なくて、切なくて、烈しい衝動に駆られて。
泣き叫びたいのに。
涙さえ、出てこない。
私は、何を、信じたらいいのだろう。
何にも、掴まれない。
音を立てて、ばらばらに崩れていく。
楽しい夢を、形にする、メリーゴーランドも。
破片になって。
あの日、真実を知らされた日。テレビで見た、飛行機の残骸のように、散らばっている。
指切りをした、約束が。
お父さんがかけてくれた魔法が、壊れてしまったと、思った。
沈黙を破り、氷馬が、私を見おろしながら言う。
「君は、ここにいることを選ばなければ、《組織》に滅ぼされる。彼らにとって湘馬の血を引くものは、味方にならないのであれば、目障りな敵だ。他の組織に拾われて、自分たちの敵になることを、彼らは恐れている」
「私は」
力なく、首をふる。
「なれない。あなたたちと同じには……できない。誰かの人生を支配したり、生死を操る者にはなれないし、なりたくない。ならなければ、ならないなら」
いっそのこと、いますぐに、殺してよ。
声なくつぶやいた言葉が、冬馬が吐き出した想いと同じであることを、つぶやいてから知った。
「再びここを出て、私たちから離れたと知れば、彼らはまた、君を殺そうとするだろう。私も二度は庇えない」
「もういい」
氷馬の言葉を最後まで聞かずに、耳を塞いで、強く首をふる。
「もういい。もういい。それでいい。もうたくさん。これ以上、なにも聞こえない。なにも、聞きたくない」
もう、何も。
受け容れられない。
「なつめ」
奮えて、身悶える私の。尋常じゃない心の錯乱を察した冬馬が、傍にきて、私の両腕をつかんで抑えようとするけれど。
それは、私の感情を、激昂させる力でしかなかった。
けれど、振り払おうとしても冬馬の力は強くて、私の抵抗は敵わない。
「離して。触らないでっ! お父さんを殺した手で、私に触らないで!」
言い放ち、彼を睨み上げる。
憎悪の激流が、私のなかを駆け巡る。
「人殺し」
冬馬の目を凝視して、私は叫んだ。
声に出してそう叫んだ私の心のどこかから、鮮血が吹き出している。
「あなたたちは異常よ、化け物よ。人間なんかじゃない! 人殺しっ! お父さんを返して! 返してよっ!!」
両目を見開いて息をのむ冬馬の、美しい瞳に鋭い闇が走る。
墨汁の雫を吸い込んだ染みのように、それは広がり。
彼の無常の仮面が、私の一撃で粉々になったことをはっきりと見て取った。
冬馬の手から力が抜けた瞬間に、腕を振り切る。
狂気の塊になった自分をどうすることもできずに、私は走り出した。
靴も履かずに外へ飛び出して、自分がどこへ駆けていくのかも考えず。
闇雲に庭を横切り、夜の森へと飛び込んでゆく。
季節外れの雷雲が空に立ち込め、不気味な気配を呈している。
乾いた轟音が次第に力を増して、大気を切り裂くように暴れ始めている。
東京にいたころは大の苦手だった雷のなかを、裸足で雪を踏みしめ、木の根に躓きながら、がむしゃらに歩き回るしかない自分。
私は、どこへ行こうしているのだろう。
辿りつける場所なんか、ないのに。
わたしのいるばしょは、どこにもない。
このせかいの、どこにも、ない。
どこへも、いけない。