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たくみくんと夏6



翌朝、いつの間にか帰ってきていた匠海に起こされ、貴子は引き摺られるように、慌ただしく店に向かった。

色々と考え込んで気に病んでみても、布団に入ってしまえば旅の疲れもあってか、貴子はぐっすり夢の中だった。


匠海の運転する軽トラに乗り込み、そう言えば、寝起きのすっぴんを匠海に見られたなと、今更気づいて軽く青ざめた貴子だが、運転席の匠海は、何の感情も持たない無表情さで、仕事の流れを説明してくれている。貴子はその説明に相槌を打ちながら、そりゃそうかと思い直す。匠海と自分とでは年齢が十くらい違うだろうし、おばさんと思われていても仕方ない年齢差だ、化粧をしていた所で、そもそも何とも思われていないだろう。やはり、昨夜の男女のあれこれは杞憂に終わり、女と見立てた自分を思えば、自意識過剰さに何だか恥ずかしくすらなってくる。


貴子は、ちらと匠海の横顔を盗み見る。昨夜は一体、いつ頃帰って来たのだろう、別のアルバイト先も蕎麦屋なら、深夜まではやっていないのではないか。だが、その目の下にうっすらと出来た隈を見れば、遊んでいたとも考えにくい。疲れている所で自分の寝起きの顔を見せてしまった事に、なんだか申し訳なさを感じ、貴子は車窓に顔を向けた。窓の外には、朝も早くから畑仕事をしている人々の姿が見える、いつもなら、貴子は寝ている時間だが、もう一日は始まっている。


店を手伝うからには、自分も気合いを入れなければ。貴子は気持ちを引き締めた。


だが、それでも、ふと思う。


キヨエが営む蕎麦屋、喜庵は、駅の近くにある。駅自体は大きなものだが、その周辺は静かなものだった。近くには、大きな総合病院や、バスのロータリーがあり、それ以外には、お土産店や喫茶店がちらほらと並んでいて、後は遠くに山々が見えるくらいだ。ここからでは、温泉も観光名所も、車を使わないと行く事は出来ない。

喜庵は、そんな駅前から、少しだけ外れた場所にある。それでも、邦夫の蕎麦の味は評判を呼び、客足が途絶える事はなかったというが、今では蕎麦の味も変わり、赤字ギリギリの状態だ。


そんな店に、誰かの手伝いは果たして必要なのだろうか。


貴子はそんな風に思っていたのだが、店に出てみれば、その思いはすぐに要らぬ心配だったと思い知る。


店に着いてすぐに開店の準備に取り掛かり、午前九時の開店から閉店まで、店は絶えず客で賑わっていた。

話を聞けば、この蕎麦を食べる為、キヨエに会う為に、わざわざ遠方からこの地へ足を運ぶ客も多いという。赤字ギリギリと聞いていたのに、これは一体どういう事なのか、問い質す間もなく注文は舞い込み、貴子にとって、てんてこ舞いの給仕デビューとなったのは、言うまでもない。




***



「ねぇ、全然聞いてないんだけど!いつからあんなに忙しいお店になったの?」

「ふふふ、びっくりしたでしょ」


仕事終わりにキヨエの病室を訪れた貴子は、にこにこのキヨエの笑顔に溜め息を吐いて、ぐったりと項垂れた。


「だって、ずっと赤字ギリギリって言ってたじゃん!何があってあんなに繁盛しちゃった訳?」

「それは、救世主が現れたからな!」


分からないと眉を寄せていれば、新たな声が聞こえてくる。振り返ると、そこには一輝がいた。一輝も、キヨエの見舞いに来たのだろう。


「いっちゃん、今帰り?」

「あら、いっちゃんも、毎日良いのにー」

「通り道だからさ。店もちょっと覗いたけど、お前のテンパりようは酷かったな」

「笑わないでよ!こっちは必死なんだから!もう、毎日あれをこなしてるなんて、本当に尊敬する」

「匠海の奴も心配だったけど、あいつ、貴子の事も上手くフォローしてたな」

「ふふふ、ばぁちゃんの見立ては悪くなかったでしょ?貴ちゃんは一生懸命だから、匠ちゃんも悪い気はしないと思ったのよね」

「そうなのかなー、何も言われないのは逆に怖くもあるけど…匠海くんて、見かけによらず遠慮してそう」

「そりゃあるな」

「いいこなのよ」

「それは良く分かった。ねぇ、それで救世主って?」


尋ねれば、キヨエはそっと優しく微笑み口を開いた。


「これも、匠ちゃんのお陰なのよ」

「匠海くん?」

「そう、お蕎麦の味がね、おじいちゃんの味みたいだって常連さんが言ってくれてね、それからは人伝にうちのお蕎麦の事が伝わったらしくてね」

「そうだったんだ…」


確かに、お昼の賄いで食べた匠海のお蕎麦は、驚くほど美味しかった。心のどこかで、匠海が本当に蕎麦を打てるのかと少なからず疑いを持っていたのかもしれない、それもあってか、その味わいは衝撃を持って貴子の舌に伝い、心を満たしていった。蕎麦の味わいが深くて、それから懐かしい味がしたからなのだが、あの感覚は勘違いではなかったようだ。蕎麦を口に含んだ途端、祖父の邦夫の難しい顔が浮かんで、武骨な手で頭を撫でられた時の記憶が甦り、つるりと喉を通る頃には、何だかじわりと涙が浮かぶようで、貴子は慌てて涙と共に蕎麦を飲み込んだ。

邦夫との思い出は少ないけれど、でもそれは、いつの間にか忘れてしまっていただけなのかもしれない。貴子の中に巡るのは、邦夫の優しい手の温もりだった。


今までキヨエの為に通っていた常連客も、きっとその味に感動したのだろう。

因みに、匠海のお手製のいなり寿司もいただいたのだが、これもまた美味しかった。味の染み込んだお揚げは、甘過ぎず、さっぱり食べられる。おいなりさん好きの貴子としては、これが賄いで食べられるなんてと、心踊る体験でもあった。



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