僕の夢、君の夢。
1
世界という名の鳥かごの中で僕達は生きている。鳥かごすなわち行動範囲の限られた世界。
限られた世界?
僕はふと疑問に思った。限られた世界ってなんだよって。
確かに、人間が生きているこの世界にあるものは全て有限だとは思う。形あるものは、時間がたてば風化していき形も残らない。人間だってそうだ。今生きている人々(0歳児も含む)が百年後ぐらいだったら生きている人もいるかもしれない。でも、二百年後には今生きている全ての人が息をしていないわけで、無限の時間を持っているものなんて存在しない。
ということはあらゆるものに限界が有るわけだ。命に限界あるように一人の人間ができることにも限界がある。
限られた時間の中で、また限られた領域の中で人は生き、そして、死んでいく。
大半の人間は限界という枠の中で生活している。
僕もそんな人間の一人だ。檻の中に閉ざされた一匹の白い鳥。飛び立とうにも檻が邪魔で飛び立つことができない。
しかし、本当にそうだろうか。今はまだその頑丈な鋼鉄の檻を壊すほどの力なんて持ち合わせてはいないかもしれない。でも、これから先も一生その檻から出ることができないなんて誰が決めただろうか。どんなに頑丈な檻だろうが壊すことは可能だと思う。そして、限界という巨大な枠を打ち破り、白い羽をいつか羽ばたかせようと必死になってもがき、苦しみ、足掻いている。それが、人間という生き物であると僕は思う。
そんな僕は、小学校の頃、宇宙飛行士を目指し始めた。
僕が宇宙飛行士を目指し始めたのは、小学校四年生の夏休み頃だった。きっかけは二つある。一つ目は、単純なもので親に連れられて行った宇宙ミュージアムで見た展示や映像がとても魅力的だったということ。二つ目は、宇宙には人間の限界を超える何かがあると直感したことだ。
小学四年生というのはまだまだ子供で、多くの物の影響を受けやすい時期だ。今になって思えば、「宇宙に行きたいと」いう思いは一時的なもので直ぐに消え去り、また別の事に興味が移るということもあったかもしれない。それでも、僕は、高校二年の今まで宇宙飛行士以外の夢を抱いたことはない。別に宇宙以外に興味を抱かなかったわけではないが、やはり最後には宇宙に触れてみたいという思いが残り、ほかの興味は消えてなくなってしまうのだ。
その大きな要因は、なんといっても、小学校六年生の時にアポロ十一号が成し遂げた世界初の月面着陸を学校の図書室に置いてあった宇宙図鑑を見て知ったことだと思う。それまで、人類が一度も成しえることが出来なかった、月への着陸を、命を懸けて達成した、船長ニール・アームストロング、司令船操縦士マイケル・コリンズ、月面陸船操縦士エドウィン・オルドリンの三人の偉大な宇宙飛行士に憬れを抱いた僕は、その時にはもう宇宙飛行士になり日本人初の月面着陸を成功させたいという思いでいっぱいだったのだ。
2
昼休みに屋上で温かい日の光を浴びながら本を読んでいたら友人の河野が声をかけてきた。
「なぁ、浩平。今日の放課後って暇?」
河野も僕と同じで宇宙を目指している。将来の夢は宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究員になることらしい。
将来はお互いに同じ職場で働きたいものだと何度も話し合ったくらいだ。
「別にどうしてもっていう用事はないけど、どうした?」
「なんか、吉野と堤が一緒に私立図書館行かないかって言ってるんだけどどうする?」
この町の私立図書館はものすごく大きく本の数も種類も膨大で、それこそ、僕の好きな宇宙に関する本なんて読み切れないくらいの量がある。だから、暇さえあれば行っているといった具合だ。今日も今読んでいる本が残り数ページで読み終わりそうだったので図書館には行こうと思っていたからちょうどいい。
「いいよ。今日どうせ行くつもりだったから」
「了解。二人には俺から伝えておくよ」
「わかった」
それから、河野は、「じゃあ、放課後」と言って屋上を後にした。僕は、腕時計の時間を確認し、まだ昼休みの時間が残っていたので、読みかけの本を開き文字の羅列に再度目を向けた。
最後の授業が終わり、クラスの皆が様々な会話をしながら教室を出ていく。明日には、全員が今日と同じ制服を着て所定の位置に座り今日と同じように授業を受ける。それが、なんとなく神秘的な光景のように感じられた。同じようで同じじゃない日々が重なり合い溶け合って今の僕らは存在している。過去は、二度と戻ってはこないけれど、過去なしでは現在は成り立たない。人間も宇宙と同じで不思議なものだと僕は思った。
校門には、吉野と堤それに河野が待っていた。
僕を合わせたこの四人のメンバーは、小学校からの友達同士で四人全員が宇宙に興味を持っていたことから意気投合し仲良くなり始めた。
親友の河野幸助は運動神経がよく中学の頃はバスケ部のエースで全国大会まで出場したことがあるくらいだ。
足の怪我か原因で高校ではバスケはやっていない。本人は、勉強に集中できるからむしろ好都合だと言っていたが本心がそうじゃないことくらいずっと一緒の僕には分かってしまう。
時々、体育館でうまいシュートのやり方を教えてもらったりしている。
堤薫は、おとなしい感じの女の子でこの四人の中ではずば抜けて頭がいい。試験の直前になると四人で勉強会をしたりするのだが堤がほぼ教師的な感じ(教え方がめちゃくちゃうまい)で教えてくれるので毎回四人とも学年順位は上位の方だ。
そして、この四人のなかで一番個性が強いのが、吉野あかりだ。天然なのか抜けているだけなのか、もしくは破天荒性も入り混じっているのかもしれない。つまり普通とはかけ離れている存在だった。とりわけ、このメンバーのムードメーカー的存在であったことは確かだ。その中で、吉野だけがとても不機嫌そうな表情をして待っていた。僕が来るといきなり
「浩平君遅い!私達何分待ったと思ってるの!」と怒り出した。
「まあまあ、浩平の担任、学校内でも一番終礼が長いこと吉野だって知ってるだろ?」
「そうだよ。あかりちゃん。別に菊池君が意図的に遅く来たわけじゃないんだから」
すかさず、河野と堤がフォローを入れてくれた。あんまり、意味はなかったけれど。
「そうだとしても、ちょと、おなか痛いですとか、今日はちょっと用事があるので、とかなんでも適当に言い訳作って早く来れるでしょう。先生の信頼と小学校からの友人達との友情どっちが大切なの!」
無茶苦茶過ぎるだろうとは思うけれど、よくよく、考えてみると確かに友情の方が教員との信頼関係よりも優先度が高いようなきもしなくもない(五分五分といったところ)ので真っ向から反論することはできない。
「遅れて、ごめん。今度からは、できるだけ早く来るようにするよ」
吉野が無茶苦茶なのはいつもの事なので毎回付き合っていたら疲れてしまうから、大抵軽く誤って、受け流すようにしている。
僕から見て、吉野あかりという存在は、自分の内側にある感情を押し込めてしまわずに口に出して表現することが出来るやつという認識だ。よく言えば、明るいやつ。悪く言えば、うるさいやつってことになる。まあ、僕自身は吉野と真逆の人間といってもおかしくない人種だったから、つり合いが取れているといえばそういうことになるのかもしれない。
それから、僕達は片道歩いて三十分かかる私立図書館に向かい始めた。吉野は最初の方、まだ納得いっていないような表情だったが(誤ったはずなんだけど)、話の流れで宇宙クイズをやり始めようとしたら、さっきまでの険悪な表情は消え去り真剣そのものの表情で堤が出題する質問に耳を傾けていた。
「じゃあ、第一門、宇宙が誕生した原因は何でしょうか?」
「ビックバンによる超巨大なエネルギーの膨張」
僕は、口早に答えを言った。この問題は初級中の初級で、宇宙好きの人じゃなくても常識的に知っているレベルの問題だ。
「菊池君正解。一ポイント。」
このメンバーで集まってどこかに行く場合は大抵宇宙クイズをする。今回で数え間違っていなかったら百十三回目だ。
「次いくよ、第二問、有名な夏の第三角形は、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガで構成されていますが、では、春の第三角形を構成している三つの星の名前は何でしょう?」
僕が必死になって頭の中にある春の背座表を思い出そうとするがなかなか思い出せないでいると吉野が
「デネボラ、アルクトゥルス、スピカの三つ」
と、さっきの問題の僕のように口早に答えた。
「あかりちゃん正解。一ポイント」
手を握りしめガッツポーズをとる吉野、どうやら今回の勝負には絶対に負けたくないらしい。ちなみに、この宇宙クイズは、チーム戦で吉野と堤、僕と河野がチームを組み毎回質問は各チーム二問ずつ行い計四問、同点だった場合は引き分けとなるが、どちらかのチームが勝ちもう片方のチームが負けた場合は、負けた方が勝った方の言うことを人数分なので二つ聞かなければならないことになる。大体は、アイス奢ったりだとか宿題を代わりにやったりだとか(これは吉野しか言わない)、そんな程度のものだ。
もしかしたら吉野のやつ何かしらの溜まりに溜まった宿題を僕にやらせるつもりじゃないだろか。普通ならそんな事あるわけないと思うが、吉野に関して言えばありえる。
「じゃあ、次は、俺が質問する番だな。さっそく、第四問、オリオン座は全天で最も美しい星座といわれている。その名はギリシア神話の狩人オリオンに由来しているが、そのオリオンは誰と誰の子供か?」
河野は待ってましたとばかりに先ほどまで頭を悩ませながら考えていた質問を言った。
「は?それ宇宙関係なくない?」
僕は唐突に出てきた宇宙に直接関わりのない質問に疑問を呈した。
「いやいやいや、浩平。オリオン座ってところにちゃんと宇宙との接点があるじゃないか」
確かに、オリオン座は宇宙にあるけれど、質問の聞いているものは神話の内容じゃないかと心の中で思ったが、これ以上何を言っても意味がないので一応考えてみることにする。
「海神ポセイドンと女神エウリュアレの子供」
吉野がぼそりと今度はゆっくり目に答えを言った。まるで、僕が星座に関することとそれに付随する雑学はなにも答えられないから余裕と言わんばかりだ。
まあ、正直、星座に関してはまだ齧った程度の知識しかない。
「吉野正解。計二ポイント。これはもしかしたら番狂わせが起きるかもしれないですね」
なぜか、面白そうに言う河野。番狂わせとはその通りの意味で、僕はこの宇宙クイズ対決で吉野に負けたことがないのだ(堤にはよく負ける)。だが、今回は嫌な予感しかしない。なぜなら、三問中二問が吉野有利の問題だからだ。それは、吉野がこの四人の中でずば抜けて星座に関する知識が最も高いということだ。三問目の問題なんかを簡単に答えられるあたりがその証拠だろう。
「よっし!今回ばかりは絶対に負けないからね」
目に炎が宿っていると表現してしまうとおかしいかもしれないがそれくらいの真剣さは感じた。そんなに課題が溜まっているのかと思ってしまうくらいに。
「僕も負けるつもりなんてないけど」
本当は負ける気しかしないけど。こんな真剣な表情されたら次もまじめに考えないわけにはいかないだろう。僕はいつも自分が無理そうだと感じたらあきらめてしまう性格なので本来ならば投げやりになるところだが仕方ない。(なぜか、宇宙飛行士になるという夢だけはあきらめないでいる。ということは、もしかしたら自分自身のどこかに無理ではないだろうという思い、もしくは、一生掛けてでも持ち続けるという思いがあるのかもしれない)
「ラスト問題、星座の中にかんむり座と呼ばれる星座がありますがその星座内に一つだけアルファ星があります。その名称は何でしょうか?」
「ゲンマ」
今回の宇宙クイズの勝負は吉野の即答をもって、吉野、堤チームの勝利ということになった。
「なんでそんなに星座に詳しいの?」
僕は、今まで別に聞く必要もなかったことを聞いた。誰だって好きなことだからその分野に詳しくなっていくだけなんだけれど、吉野の場合は何か違うのかもしれないと思ったからだ。
「だって、小さい頃は星を見ることだけが幸せな時間だったから」
それを聞いた僕は即座にこう考えてしまった。だったら、星を見ること以外は幸せではなかったのかと。このグループができたのは小学校五年生の頃でそれよりも前の事はあまり知らない。少なくとも、出会った頃は何かに思い悩むようなやつだという印象はなかった。
「そんなことより、今回は私達が勝ったんだから言うこと二つ聞いてもらうからね」
そうだった。いったいどれだけの課題が溜まっているのやら。
「はいはい。わかってるって」
僕は、別に約束事を無下にするような人間じゃないのでその点は大丈夫だ。
「じゃあ、まず私から、来週の土曜日の夜って空いてる」
堤がそう提案してきた。僕は頭の中で一週間サイクルの予定表を広げ土曜の夜には何も用事がないことを確認する。
「僕は、空いてるけど河野と吉野は?」
「私も空いてる」
「俺も右に同じ」
どうやら、全員が土曜日の夜は空いているようだ。堤はいったい何をするつもりなのだろうか。
「じゃあさぁ、みんなで、天体観測をしようよ。今週の天気予報だと土曜日は一日中晴れみたいだから絶対きれいだと思うよ」
なるほど、天体観測か。このメンバーで天体観測が嫌いな奴なんていない。僕と河野と吉野はそろって手でグットサインを作った。僕の脳内予定表の土曜日の欄に天体観測の文字が追加された。
「私は、まだ考え中だから思いついたら言うね」
あんなにも今回の勝負に真剣だった吉野が考え中だったことに対して僕は率直に意外だと思った。
「わかったよ。じゃあ、思いついたら教えて」
そんなこんなで、話ながら歩いている内に目的の私立図書館に着いた。まず、僕達は座る席を確保した。今日は平日だったので席は思いのほか空いており、四つ席が空いている場所も簡単に見つかった。休日だったら、朝早くに来ないともう座る席が無いといった状態はよくあることだ。
「今日は人が少なくてよかったな」
確かにその通りだと僕は思う。人が多い所はあまり好きじゃない。大手ショッピングモールなんかはもってのほかだ。
席に着いてから三週間前に迫った期末試験に向けた勉強会が行われた。いつものごとくわからないところは堤に聞きながらやっていく。まあ、三週間前だからそれほど熱のこもった勉強会ではないけれど。
数時間が経ってそろそろ閉館の時間が近づいてきたので僕は、借りていた本を返し、新しい本を借りた。
それから、僕達は帰る支度をして私立図書館を出た。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「じゃあね」
「さようなら」
帰り道は四人とも違うので、それぞれ別々の方向に歩き出す。そして、また明日、学校で顔を合わせる。
時刻は午後八時。辺りはすっかり暗くなっており電灯やネオンライトの色が景色に染みこみ街を歩く人々を照らしていた。
人間という生き物は常に同じような日々を繰り返しているようでそうではない。同じようでどこか違う日々。正しいことや間違っていることそれらを見極めながら淡々と日々が流れていく。痛みや苦しみだって数多くありその反面、嬉しいことや楽しいこともある。その一つ一つが人間という存在を形作っていくのだ。
3
土曜日の朝。僕は、オレンジジャムを塗りたくったトーストを齧りながら今日の天気予報が流れているテレビ画面を眺めていた。堤が言っていた通りに今日は降水確率ゼロパーセントで一日中快晴らしい。僕は、少しほっとした。どしてかわからないけれど、今日は何か特別な日のように感じられた。
それから僕は、この前、私立図書館で借りてきた本を読んだり、週末の課題なんかをやったりして過ごした。
ふと、時計を確認すると時刻は午後五時。どうやら、昼食を食べずに本を読みふけっていたようだ。そろそろ準備しようと、椅子から立ち上がり服を着替える。大き目のバックに、懐中電灯、星座早見板、レジャーシート、方位磁石、双眼鏡、カメラなどの天体観測で使用する荷物を入れた。経緯台式の屈折望遠鏡は大きくて入りきらないので、専用のカバーに入れて手に持つことにする。昼食を食べていなかったのだが別段おなかはすいていなかったのでチョコレートを飽和状態のバックの中に無理やりねじ込んで行くことにした。
集合場所のバス停には、すでに河野と堤が来ていた。
「ごめん、待った?」
「いや、俺らも今来たところ」
「ならよかった」
僕は、ほっと胸を撫で下した。待ち合わせの時間は午後六時で、今は六時五分。集合時間は五分前に集まるのが基本なのだが、意外と荷物が重く歩くのが遅くなってしまったのだ。
「吉野は?」
「なんか病院に行ってから来るって」
堤は別に何事もないかのようにさらりと言った。しかし、僕にはある種の奇妙さを感じた。だって、元気の塊と言っても過言ではない、あの吉野が病院に行くなんて、これまでに一度だってそんなことはなかった。
「なんかあったの?」
「おばあちゃんが最近入院したらしくてそのお見舞いらしいよ」
「なるほど」
僕は、納得したように返事を返したが、心の奥に実態の掴めない奇妙さが黒い液体として流れ込んできて容量をいっぱいにしてしまったような感覚に陥った。
正直その原因が何なのかその時の僕は検討さえつかなかった。
それから、僕らは吉野が来るまでバス停で待った。
「ごめん、遅くなって」
僕が、自分の心の中にある得体のしれない何かを排除できないでいると、息を切らした吉野が走ってきた。
四人集まった僕らは、目的地の河内峠という山の中腹にある草原近くまでバスに乗って行った。
目的地までは、バス停から少し離れているので、僕らはバスを降り少しの山道を登った。周りは一面森で僕ら以外に歩いている人はいない。時折、吹きすさぶ風が木々を揺らす音が耳に入ってきて心地いい。歩きながら、会話をしている時ももちろん楽しいのだが、会話と会話のわずかな間に広がる静寂な時間も僕は好きだ。
どんな些細なことであっても笑いあえる友人がいるというのはとても幸福なことで、僕なんかにはもったいないくらいだ。宇宙は僕に興味を与えてくれるだけでなくそれ以上のものまでくれた。
「ふぅ。やっと着いた」
吉野がやたらめったに重そうなカバンを背中からおろし休憩所の石製の椅子に腰をつけた。
「別にそんな歩いてないだろう」
「河野は、もともとバスケやってたんだからこれくらいで疲れないのは当たり前なの、常人と一緒にしないでよね」
「なんか、癪に障る言い方だな。俺が普通の人じゃないみたいな」
まあ、元エースで全国大会にまで出るような人は普通じゃないと思うけどな、という突っ込みは、心にしまったまま僕は、バックの中からレジャーシートを取り出して広げ、次に、持ってきていた経緯台式の屈折望遠鏡の組み立てに取り掛かった。とは言っても三脚を広げ鏡筒を経緯台に取り付けるだけだからたいして時間はかからない。
まあ、今の時期は夕暮れも早いのでもう少しすればあたり一面に星の海が広がる。
僕らは、夕日が完全に暮れるまで、いろんな話をした。宇宙についてはもちろんだが将来についてのことなんかも話した。
「浩平は大学とか決まってんの?」
河野が、微糖の缶コーヒーを片手に聞いてきた。
「まあ、ある程度ね。僕の夢的に自然科学系の大学に行かなきゃいけないからそのぶん行ける大学も限られてくるから」
「なるほど。俺の方は割とそうゆう制限みたいなのがないから、どこ行こうか迷ってるんだよな」
JAXS職員の採用方法は、新卒、経験者、教員職などに細かく分けられており、新卒で入社した場合は事務系職員と技術系職員の二つの選択肢があるので、必ずしも理系出身でなければ入社できないというわけではないので選択の幅は広がる。
「堤と吉野は?」
「私は、薬学部が有名な大学かな。宇宙関連の仕事、してみたいっていう気持ちもあるにはあるんだけど、やっぱ薬の研究してみたいって思ってね」
人を直接助ける仕事か。思いやりの強い堤にはうってつけだと僕は思った。
「私は、まだあんまり考えてないや」
吉野が小声でそう言った。
「そうなのか。まあ、まだ時間はあるしな」
手に持っていた缶コーヒーを飲みほした河野がそう言った。
よく人生は一度きりだという。(仏教的思想は除く)一回限り。やり直すことができないもの。だから、大人はよく嘆いている。小さい頃にもっとこうしていればよかったと。だけれど、僕は、そうは思わない。今ある環境が自分にとって不釣り合いな場所だったら、自分が本当にいるべき場所を探しに行けばいい。必ずしも今いる場所が本当に自分が居るべき場所かなんてわからないのだから。人の人生がまっすぐである必要性なんてどこにもない。曲がりくねってまたくねってさらにくねったその先に何かしらの掴みとれるものがあると僕は思う。それがどんな小さなものであっても自分が望みそして手に入れたものならそこにはとてつもなく巨大な価値がある。
「僕が思うに、どんな道を選んでも吉野だったらうまくやってけるような気がする」
柔軟性というか応用力というかそんな力が吉野には備わっているように感じる
「たしかに、それはあるな」
河野も僕と同じように感じているようだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるだけでもなんかやる気出るよ」
なぜか、今日はいつもと雰囲気が違うと思った。
そんな話をしているとすぐに時間は過ぎていき、真っ赤な夕日は完全に山の影に隠れていった。そして、広がる星々の海。
今の時期だと見られるのは、やぎ座、みずかめ座、うお座、くじら座、アンドロメダ座、ペルセウス座なんかだ。
僕らは無言で星を眺める。
こんな時間がずっと続けばいいと思った。
けれど、そんなことはあり得ない。始まりがあるものには終わりがあるのは当たり前のことだしそもそも、終わりがないならば始まりなんてありはしないわけでそう考えてみると終わりは、あって欲しくないものなんかじゃなくてないといけないものだってことになる。
「月がきれい」
静寂の中に、吉野の声が響く。今日は満月だ。吉野の言葉を聞いて僕は、夏目漱石がI love youを月が奇麗ですねと訳したという僕らにとって何の意味もない話を思い出した。まあ、吉野はあまり小説を読まないから知らないだろうけど。
「あ、そういえばみんな覚えてる?小学校の頃、浩平君が将来宇宙飛行士になって月に行く夢がかなったら、月から私達三人を見つけるんだって言ってたの」
僕は、小学校の頃の記憶が入った抽斗を開けて見てみたけど、言ったような、言っていないような曖昧な感じしか残っていなかった。
「浩平そんな事、言ってたのかよ」
どうやら河野は僕がそんな事を言ったということは覚えていないようで安心したが、半ば笑いを堪え切れないといった表情だ。
「それ覚えてる。いつか絶対アポロ18号に乗って宇宙に行くんだとも言ってたよね」
堤が覚えているのなら間違いなく言ったのだろう。言っていないと拒否しようと思ったが確実な証拠が出てきてしまった以上、覆すことはできない。
「まあ、でも小学生の時の話だからね。そもそも、地球と月の距離は38万4400メートルもあるんだから、月から見えるのは青い海と半面のリアル世界地図だけだよ」
まあ、普通に考えればそんなこと誰にだってわかるのに小学校の頃の僕にはそんな頭さえなかったのだろう。
1961年に有人飛行に成功したソ連の宇宙飛行士、ユーリイ・ガガーリンが言った有名な言葉に「地球は青かった」というのがある。陸地と海の割合比が3対7だから、そう見えるわけで、月から見えるのは地球の半面でしかも陸地はそれの3割程度なのだから日本が含まれる確率もさらに減る。物理的に不可能なのだが、もし仮に世界で、最も高性能と呼ばれる超大型望遠鏡(実際には日本、アメリカ、中国、インド、カナダの五か国共同で絶賛建設中)「TMT」(史上最大の30メートル)を月に持っていくあるいは月で建設したとして、それをのぞいてみたとしても人ひとりを見つけることなんてできない。
「じゃあ、それ、この間の宇宙クイズの勝利チームがもらえるなんでも言う事一つ聞いてもらえる権利使うから叶えてよ」
僕は、一瞬吉野が何を言っているのか分からなかった。
「えっ。それっていうのは何?」
大体予想はつくが念のために聞いておく。
「だから、浩平君がまず、宇宙飛行士になる。それからアポロ18号に乗って月に行くこと。最後に月から、私達三人を見つけるっていうこと」
いつもと何か雰囲気が違うと思っていたがそれは間違いだったようだ。いつも通りの吉野が僕の目の前にはいた。
「いや、絶対叶えるなんてことは言えないよ。それに、最後のやつなんかは物理的に不可能だし」
そうだ。この世界に生きている全ての人が自身の夢を叶えられるなんてそんなにこの世界は生易しいものじゃない。成功する人もいれば失敗する人もいる。そりゃ、誰だって成功することが決まっているのならば、どんなことにも挑戦するだろう。しかし、現実はそうじゃない。どんなに努力したって叶わないことはある、それでも、成功することが決まっている場合と同じモチベーションを保って努力することのできる人にしか、栄光の女神は微笑まないのも事実だ。だから人生は難しい。
「そんな、マイナス思考の浩平君にぴったりの言葉を教えてあげよう!」
吉野は、とても大きな声で言った。
「夢なきも者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なき者に成功なし
故に、夢なき者に成功なし
by吉田松陰
だから、大丈夫だよ。夢のある浩平君なら絶対に叶う。それにこの夢が叶うのは私の夢でもあるんだよ」
「は?いやいや、夢を持っているからって絶対叶うわけないよ。それと、なぜ吉田松陰?そんなに歴史得意だったっけ」
「そこは、重要じゃないよ。それに、少なくとも浩平君は今、というか小学校の頃から夢を持ち続けている。私たちの周りにそんな人はあんまりいないよ。夢を持っているって事はそれだけですごいことなんだよ」
僕は、こんなに熱く何かを訴えるように話す吉野を初めて見た。いつものめちゃくちゃな吉野とはどこか違う。
「そうだぜ、浩平。大きな夢っていうのはそれだけで人を駆り立たせる何かを持っている。お前の夢はそんな簡単に叶うもんじゃないかもしれない、それでもその夢が見せてくれるものは必ず何かあると俺は思う」
「私もそう思う」
三人にこんなこと言われて僕は唐突に考えた。人は何の為に生まれてくるのかについてだ。僕はそれまで人が生まれてくることに意味なんてないと思っていた。400億分1の確率で生まれてくるという生物的な理解と、その意味を作るのはその人の生き方次第なのだという一方通行的な考えしか持ち合わせていなかった。だが、三人の話を聞いてそこにもう一つの考え方が浮かんだ。人は、一度きりの人生で何か夢にチャレンジする為に生まれてくるんじゃないのか、というものだ。別に、これが絶対的な考え方だといっているわけじゃない。僕の一方通行的な考え方が一つ増えただけ、ただそれだけのことだ。
「そんなに言われると、頑張らないわけにはいけないな」
「そうだよ。浩平君は頑張らなくちゃいけない。アポロ18号計画を叶えるために」
「なにそれ?」
「浩平君がいずれ乗るであろう、アポロ18号にちなんでつけた、夢の名前」
僕は、おかしくて笑い出しそうになった。
「わかった。じゃあ、その計画を叶えられるように努力するよ」
僕らはそのあと、少し星や月を眺め、最終バスに乗って帰った。これが、4人で行く最後の天体観測だった。
4
三年に上がった僕らに待っていたのは勉強漬けの日々だった。別段部活もやっていなかったので部活生達より早めのスタートを切った。
それからは、するすると時間だけが流れていった。
目を真っ赤に腫らした吉野がぽつりと呟く。
「今日でお別れだね」
卒業式の帰りに僕ら四人はよく受験勉強で使ったカフェに集まって最後のお別れ会的なのを開催していた。
「そうだな。なんか寂しくなるな。小5くらいからの付き合いだからかれこれ8年か」
「まあ、別に今生の別れってわけじゃないんだから、大丈夫だよ」
僕はできるだけ、悲しい雰囲気にならないような言葉を選んだ。
「そうだよ。これから、先も会おうと思えば会えるんだし」
どうやら、堤も同じ考えのようだ。
「そうそう」
そこから、言葉が続かない。みんな内心ではものすごく悲しい気持ちでいっぱいなのだろう。
ちなみに、僕と河野は宇宙という夢にできるだけ近い大学に合格することが出来た。そして堤も有名大学の薬学部に合格し、吉野は、最後の天体観測の日から、将来のことを考えて、保育士になることを決めたらしく保育士の専門学校に行くことになった。
それぞれがそれぞれの夢に向かって歩んで行く。またいつかどこかで会えるのを心待ちにして。
それから、僕らは、重い口を開き、これまでの思い出なんかを2時間くらい話し合った。話し終えた僕らは、店を出た。
「じゃあな、みんながんばれよ」
「河野だってね。それに、堤と吉野もね」
僕は、河野が誰にも負けないくらいの努力家であることを知っている。いや、河野だけじゃない。堤や吉野だってそうだ。みんな、誰からも見えないところでこれまで頑張っていた。だから、みんなにはこれからも頑張って夢を掴みとって欲しいって思う。
「いやいや。浩平君の夢はみんなの夢なんだから一番、責任重大だよ。アポロ十八号計画は人類にとっても大きな夢かもしれないけどそれ以上に私たちの願いでもあるんだから」
こんなことを言うやつは後にも先にも吉野ぐらいだろうなと僕は思った。
「わかってるよ」
「ならよし」
そう言ってほほ笑む吉野。
僕らは、それぞれの帰り道を歩く。悲しみと未来への希望を持って。
これから先何があろうと僕らは迷わない。今までの人生はとても短く、まだ世界の事なんてこれっぽっちも理解していないけれど。それども、僕らは歩き続ける。目の前の道が広がっている限りずっと。
5
あれから、15年が過ぎた。
僕は大学を卒業した後大学院に進み宇宙関連の研究者として働いていた。そして、宇宙飛行になるための試験をすべてクリアし宇宙飛行士候補者として選抜された。選抜された後は「アスキャノンクラス」というNASAの宇宙飛行士候補クラスに入り約1年半かけて合計1600時間のカリキュラムをこなした。それから、アドバンスト訓練期間という船外活動やロボットアーム作業などを約二年こなし、やっと宇宙飛行への切符を手に入れることが出来た。
正直言ってここまで来るのは正気の沙汰じゃないと思う。何度もやめたいと思った。どんなにやりたくても届かないことは必ず存在する。けれど僕はこの夢を投げ出すことはできなかった。それは、あの無茶苦茶で能天気な友人がもうこの世界にいないと分かった瞬間に僕の人生のレールが頑丈な一本道になったからだ。
河野から連絡がきたのは、大学二年の雪の降る日だった。
ポケットに入れてあるスマホが鳴ったので取り出し画面を確認すると河野からの着信だった。僕らは、その時それぞれの大学での授業やゼミ、サークル活動などが忙しくあまり連絡をとっていなかったので久々だなと思いながら出ると河野が陰鬱な声でこう言った。
「浩平。今から俺が言うことを冷静に聞いてくれよ」
「わかった」
河野の声が震えているのが電話越しに伝わってきたのでスマホを握っている手に力が入る。
「今日、吉野が死んだ」
人間は、自分にとって害あることを拒絶する習性がある。忘れなければ精神が崩壊してしまう、というところまでくると頭の中の記憶から精神に害のある記憶が無くなり、一部の記憶喪失が起こるように。しかし、僕の頭は河野の言葉を的確に理解できていた。吉野が死んだという事は分かった。でもなぜ死ななければいけなかったのかという、疑問と怒りの感情が湧き出てきた。
「なんだよ、それ。なんで、あいつが死ななきゃいけないだよ、こんなの、絶対おかしいだろ」
頭では事象を理解しているが感情は全くついてきていない。
「そうだな」
僕はそれから、数分かけて気持ちを落ち着かせることだけに集中した。しかし、そんなことはできるわけがなかった。人の死なんていつくるか分からない。そんなことは誰だって理解していることだ。今この瞬間にも隕石が僕の頭の上に落ちてきたなら、それだけで僕も死ぬ。「そんなことあるわけないよ」って周りの人間すべてが声を揃えて言ったって誰も未来の事なんて分からない。だから、人が死ぬという事はいつだって起こりうる。毎日、何千人もの人間が死んでいるこの世界で僕らは生きているんだ。だからって人が死ぬことに慣れるわけじゃない。ましてや、8年間も一緒にいた友人の死だ。どうしたらいいのか僕には分からなかった。
「なあ、河野」
「なんだ?」
河野は僕が気持ちを落ち着かせている間、通話をつないだままずっと待っていてくれたようだ。
「僕は、これからどうすればいい?」
「そんな事、俺に聞かなくてもわかるだろ」
僕は、少し考えてその意味を理解した。
「確かにそうだな」
「明日の葬儀出れそうか?」
「出るよ。一つだけ聞いてもいい?」
「ああ」
「吉野は病気だったのか?」
「ああ、小学校の時からずっとだ。心臓に重い病気を抱えていた。高校一年の時に俺と堤には知らせてくれたが、浩平には伝えないでくれと頼まれていた。宇宙飛行士になる夢を邪魔したくないって。本当ならば、夢が叶うまでと言われたんだが、さすがにな」
あいつの行動理由が、生きていた意味が、どうゆうものだったのかぼんやりだが分かった気がする。僕の夢が叶うのが自分の夢だと言ったあいつは生きている一瞬一瞬を大切にしていた。全力で生きていた。
「そうか」
「じゃあ、明日、葬儀場でな」
そう言って、河野は通話を切った。
僕は、椅子にどっと腰を下ろした。体の芯みたいなものがねじり曲がってしまったような気がした。
次の日、葬儀に参列したし際、河野と堤は泣いていた。特に堤は亡くなる直前までそばにいたらしくその時からずっと泣き続けていたみたいで目が真っ赤になっていた。
しかし、僕は、涙を一滴たりとも流さなかった。というか、流せなかった。流してはいけないと思った。僕には。もうこの世界にいないあいつとの約束がある。それを成しえるまでは涙は不要なものだった。
6
明日、ついに子供の頃に思い描いた夢が始まる。
もう、自分自身の夢だけではなくなっているけど。
僕は、テーブルの上に置いてある資料を手に取った。表紙には、でかでかと「アポロ18号計画」と書かれてある。パラパラ、とページをめくってみたが実感わかない。主搭乗員、ロナルド・サーナン、ハリンソン・エヴァンズ、菊池浩平。JAXAとNASAの協力により今回の有人宇宙飛行は行われる。最終目的は月面への着陸だ。
部屋の隅に積みあがった読みかけの本を眺め、グラスに炭酸水を注ぎ込む。その瞬間に出る泡音に耳を澄ましながら考える。ここまで、辿ってきた道のりがどうであれ今この場に立つことが出来ているという事実に対してこれから先の自分には何ができるのかと。
だが、そんなものは、今考えるべきではないと思い、思考を停止した。今はただ、明日から始まることにだけ集中していればいい。
何を思い、何を考えればいいのか、誰にだって分からなくなることがある。それでも時間だけは冷酷に過ぎていく、時間という名の命だけが減ってゆく。それが人生なのだろう。時間なんてものは、するすると流れていく、そんなもんだ。
電気を消し、ソファの上で毛布一枚を被って横になり僕は深い眠りについた。
僕は今、月面の上に立っている。1日目のロケットの打ち上げは成功した。それから、数か月の宇宙滞在を経て月面陸船と司令船が切り離され月面陸船だけが月の上に着陸した。
「どうだ。コウヘイ念願の月に降り立った感想は?」
同じチームで6歳年上のハリンソンが無線機で声をかけてきた。
「言葉にならないよ」
この場所に来たいと思ったあの頃は、ただ行きたいというそれだけの思いだったけれど今は違う。誰かの思いを背負うという事は簡単なことじゃない、それが死んだ人間の思いだったらなおさらだ。でも、たぶんその思いを僕が背負っていなかったらここに来ることはできなかっただろう。そう思った。それから、僕は約束の最後の一つが叶えられるかどうか確かめてみることにした。
「まあ、できるわけないな」
目の前に浮かぶ青い惑星その中から、人間一人を見つけるなんてことはできない。そもそも、そんな滅茶苦茶なことを言ったやつがもうあの青い惑星のどこを探してもいないのだけど。
急に涙が出てきた。今まで抑え込んでいた感情があふれ出てくるようにして。無重力の空間では液体が流れるという事は起こらない。けれど、宇宙服の中に98%が水でできている液体が溜まっていく。
「泣いているのかコウヘイ」
「ああ、こんな美しすぎる景色を見ることができて本当に生きていてよかったって思うよ」
「そうだな」
これから先も、死ぬまで人生というものは続いていくわけだけど、その中で僕らは何を見
つけることが出来るだろうか。誰にもない自分だけの何かを探す旅は終わらない。
【完】