第百七十八話 五つ星の条件
俺は迷宮国に来るまで、女性と一緒に風呂に入るというのは、一緒の部屋で寝るよりも関係性として進展が必要な出来事だと思っていた。
水着が調達できていたからいいものの、風呂となると水着ではさっぱりしないということもあってか、俺以外は身につけていない。ルイーザさんは湯浴み着を着ているが、湯船に浸かるときは脱ぎたいと言われてしまったので、俺はその辺りで退場する予定だ。
「ふぅ……なんじゃ、宿舎の風呂もそれなりに余裕があるではないか。さすが有望な奨励探索者じゃのう」
「スタンピードの件を評価してもらえて、『特別選抜探索者』の称号をいただけたんです。それも待遇に影響したのかもしれません」
『はぁ……ご主人様はもう少し淑女の嗜みというものを意識した方がいいんじゃないかな? 湯気が濃かったらいいってものじゃないよね』
「脱衣所から文句を言うな、甲冑など着ておるからいつまでも潔くないのだ」
『き、着てるわけじゃなくて我輩はリビングアーマーだからね。この鎧は身体の一部なんだよ』
シュタイナーさんは、セレスさんの大胆さについていけていなかった――セレスさんは湯浴み着も何も着ておらず、一足先に身体を流して湯船に浸かっている。少女の姿をしているとはいえ精神的には俺より年上の女性に対して、どんな態度が適切なのだろう。
「アトベ様、少し肩に力が入っているのでリラックスなさってください」
「は、はい……ルイーザさん、ありがとうございます」
風呂で背中を流される前に、ルイーザさんが指圧をしてくれている。これが恐ろしく心地よく、押されるたびに声が出そうになる。何か技能を使ってくれているようで、見る間に疲れが取れて楽になった。
「こうしてリンパを流すと、お風呂から上がったときにすっきりしますよ」
「そういうのは美容に良さそうで、女性も喜びそうですね」
「まとまったお休みが取れたら、希望があれば皆様にも施術してさしあげたいです。もちろん、アトベ様にもより本格的に……あら?」
「どうしました?」
ルイーザさんの手が止まる。ちょうど首筋を下に向かって流していたところで、かなり肩まわりが軽くなってきていた――彼女はしばらくしてからまた施術を再開してくれる。
「アリヒトのレベルが高くなったので、ルイーザが施術したときに経験が蓄積されやすくなったのじゃろうな」
「迷宮に入らないと、経験は積めないと思っていたのですが……」
「それは探索者の話じゃな。支援者は町で活動していても、毎日何らかの技能を使っておるわけじゃから、経験の減少は抑制されるし、逆に上昇することもある。なかなかレベルが上がるまではいかぬがな」
ということは、マドカも習得する技能次第では、町にいたままでレベルが上がることもあるのだろうか。迷宮内で得られる経験とは、大きく差はあるようだが。
「私、レベルが上がったのかもしれません。お風呂から上がったら確認してみますね」
「毎日頑張っていただいてますからね。それは良かったです」
回復系の技能を持っている人の場合、町で治療をするだけでレベルが維持できる、あるいは経験が積めるということなのだろう。箱屋のファルマさんは子育てで仕事を引退していた時期があり、レベルが下がってしまっていたようだったが、また元のレベルに近づいているということもありうる――八番区では特殊な箱が持ち込まれることは滅多にないだろうが、普通の箱でも経験は積めるだろう。
「しかし、適性が事象に影響を与える……と言ったが。ルイーザの場合は色々と卑怯じゃのう」
「そうかもしれません……迷宮にご一緒できないのに、こんなときだけアトベ様と……」
「い、いえ、それは……何も気後れすることはないと思いますが。むしろ、俺の方がここまでしてもらって申し訳ないです」
そう答えると、後ろにいるルイーザさんがくすっと笑った。
「私たちが部屋でどのような話をしているかを踏まえると、アトベ様は何もご遠慮されることはないと思います」
「そうさのう、皆若さを持て余しておるからの。キョウカとルイーザは特にそうじゃろうな」
「私から見ると、セレスさんも……と思うのですが、いかがでしょうか?」
「っ……けほっ、けほっ」
先ほど俺も不意を突かれてむせてしまったが、セレスさんも同じような反応をすることがあるとは――と、妙なことで親近感を覚えてしまう。
「……まあ、こうしていれば言い訳は効かぬかのう。キアラも言っておったがの、アリヒトはもちろん見た通り立派な青年なのじゃが、愛でたくなる純朴さがある」
「朴念仁というようなことは言われたことはありますが、それほど純粋でもないですよ。ごく普通の人間です」
『この状況で落ち着いてるごく普通な人って、たぶん自分が気がついてないだけで、前世は皇帝か何かなんじゃないかと思うよ?』
「安全なところにいるからと言って、調子に乗っておるな。キアラ、『マニピュレート』を解除してこちらに来い。これは主人としての命令じゃ」
『ごめんなさい、もう失礼なことは言いません。アトベ様、ごめんね?』
「いえ、気にしていないので大丈夫ですよ」
『マニピュレート』というのが、シュタイナーさんの甲冑を『リビングアーマー』にする技能ということだろうか。言葉通りに受け取ると、何かを操作する技能ということになるので、中から鎧を操っているのだろう。
「ふむ……これが皇帝の風格か。アリヒトならば職業に『皇帝』と書いても通ったかもしれんの」
「い、いや、そこは流しましたが、俺はそういう器ではないですから」
「ふふっ……テレジア様はどう思いますか?」
「…………」
シュタイナーさんが『皇帝』と言うのも、実のところ一理あると思ってしまう自分がいる。後ろにはルイーザさんがいて、テレジアはいつものように甲斐甲斐しく俺の身体を洗ってくれているからだ。
「テレジア様を見ていると、すごくアトベ様のことを想っているんだと分かります。触れ方に一番気持ちが現れるものですから」
「っ……」
ルイーザさんはからかうつもりではなかったのだろうが、テレジアの蜥蜴のマスクが真っ赤になってしまう。
「…………」
しかし彼女は俺を洗うことを続行する――勧めないと湯浴み着も身に付けないが、その大胆さはどういった心情から来るものなのだろうか。
亜人になる前も、あまり恥ずかしがらない性格だったのか、それとも隷属印によって変わったのか。
いずれにせよ、ルイーザさんの言う通りなのだとしたら、俺もテレジアのことをできるだけ思いやりたいと思う。
「……人が多いところだと、気になるからな」
「…………」
テレジアは答えないが、一旦手が止まる。やはり隷属印が上書きされ始めているなら、それを誰かに見られる可能性があるというのは、テレジアも避けたかったのだろう。
「髪で隠れて見えぬから、平気とばかり思っていたが。すまぬな、わしも配慮が足りていなかったようじゃ」
「……、……」
「む……それは、気にするなということかの」
「そういうことみたいです」
テレジアはこくりと頷く。セレスさんは安心したように微笑むと、湯船の中で寛いで足を伸ばした――白い足がにゅっと水面から出てくるが、やはり幼い容姿なので無邪気に遊んでいるように見える。
「ルイーザ、アリヒトに背中を流してもらってはどうじゃ。保護者としてわしが見ているのでな、行き過ぎにはなるまい」
「い、いえ、私は大丈夫です、アトベ様にそんなことをしていただくなんて……」
「…………」
隷属印の状態を確認したいということもあるが、何よりテレジアに感謝しているので、俺も同じことを返したいと思ったのだが――そのテレジアが、自分は後でいいというように控えている。
「ええと……ルイーザさん、俺も一応男ですから、恥ずかしかったら無理はしなくても……」
「……後でキョウカさんに何と言っていいのか……いいんでしょうか、本当に」
困っている素振りを見せつつも、ルイーザさんはそろそろと椅子に座って、俺に背中を向ける。
そして俺は気がつく――背中を流すとなると、湯浴み着を着たままというわけにはいかない。
「……よろしくお願いいたします、アトベ様」
◆◇◆
ルイーザさんはやはり肩が凝るのではないかと思っていたが、結論から言うとその通りだった。
「すみません、アトベ様……お気遣いをいただいてしまって」
「いえ、気にしないでください。こういうのは結構得意なんです」
施設にいたころ、年配の先生に感謝を伝えようとみんなで肩叩き券を贈ったことがあった。それを喜んでいてくれていた先生たちがどんな気持ちだったろうかと、今にして考える――駄目だ、感傷に浸ってしまいそうになる。
「アトベ様……先ほど、五つ星迷宮の探索許可について、条件を確認してみたのですが……」
「ルイーザ、言葉が途切れ途切れになっておるぞ。アリヒトがよほど上手いのじゃな」
「は、はい……すごく楽になります。いいのかしら、本当に……こんなことまでしていただいて……」
「肩が凝るのではないかと言ったのはわしじゃが、少し妬いてしまうのう。わしは肩が凝るようなことにはなりようがない」
「…………」
テレジアが自分の胸に手を当てている――レイラさんが知ったら、何をテレジアに意識させているのかと怒られてしまいそうだ。
「5つ星迷宮の探索条件は、五番区の迷宮二つを三層まで潜ること、一度の探索で貢献度3000以上を二度記録することです」
俺たちは今まで、一部の迷宮しか三層まで到達してはいない。迷宮国で最初に潜った迷宮『曙の野原』では隠し階層を見つけるところまで行ったが、終端まで攻略するには時間がかかるので、目的を達した時点で次の迷宮に挑戦してきた。
「三層まで潜り、帰還の巻物で戻ってくれば良いということじゃが、貢献度3000となると狙う魔物も考えねばならぬのう」
『名前つき』に遭遇しなければ、相当数の魔物を倒さなくてはならない――それは、五番区の魔物と戦って勝てる実力の証明となる。
(レベル10の魔物を三十匹狩って3000ポイント……『デスストーカー』はレベル11だったが、あんな怪物を二十匹以上も倒すのは相当骨が折れる。街に戻らずに狩り続けるにも、相応の実力が必要ってわけだな……)
エリーティアが言っていた、ルウリィから装備を奪おうとしていた探索者たちも、五番区でやっていけるだけの相応の実力があるということだ。
それでも『猿侯』の縄張りに入ったのは、リスクに見合うものが得られると分かっていたからか。それとも――従属させられた探索者と戦いたいと思っていたのか。
魔物に操られた探索者を、ライセンスは魔物と見なす。もし危害を加えてもカルマは上昇しないと考えられる。
これが、エリーティアが本当に危惧したことなのだろう。人間の敵は人間、俺たちはそんな場面に何度も遭遇してきた。
「五番区における累計貢献度二万ポイント以上という条件もあるのですが、特別貢献度が累計一万五千ポイントありますので、それを差し引いて考えることができます」
「特別貢献度が多いと、昇格条件を下げることができるということなんでしょうか。それは、次の区に進むときの条件にも加味されますか?」
「はい、おっしゃる通りです。長期に渡って探索を行わない場合などに、貢献度のマイナスを特別貢献度で相殺することも可能ですが、そのような状況にはなるべくならないことが推奨されます……アトベ様……」
「あっ……す、すみません。そろそろ流しますね」
真面目な話をしていて失念していたが、肩のマッサージはもう十分だろう。テレジアがお湯を汲んできて、ルイーザさんに渡す――流すときは確かに自分でやってもらった方が良さそうだ。
「アリヒト、さっきからルイーザの身体に生命力が少しずつ湧いておるが、何か技能を使っておらぬか?」
「前にいる人を回復する技能です。ルイーザさんに一時的にパーティに入ってもらったので、さっきからずっと効いているはずです」
「そうだったのですね……ときどき身体が温かくなって、肩もどんどん軽くなっていくので、アトベ様はマッサージがお上手と思っておりました」
せっかくなのでルイーザさんの疲労を取ろうと思ったのだが、考えてみるとこんなふうにして風呂に入っていたら、信頼度も上昇するのではないだろうか。
「わしも次の時は頼んでみようかの。いい仕事ができたら考えてはくれぬか?」
「それはもちろんです。風呂のときでなくても大丈夫ですが」
「遠慮がちじゃな……と、そんなことばかり言っていても呆れられてしまうのう」
『お風呂から上がったらミーティングだよ、ご主人様。新しい魔物の素材が入ってるって話だったから、さっきメリッサさんに貯蔵庫で見せてもらったんだ。色々提案できると思うよ』
「全く、お主らは毎回驚かせてくれるが、今回はさすがに肝が冷えた。なんじゃあの氷漬けの蠍の怪物は」
貯蔵庫に送られた『ザ・カラミティ』を、装備の素材として使う――どんなものができるのか想像もつかないが、あの装甲を防具に使えるとしたら強力なものができそうだ。
「では、就寝前にスタンピード鎮圧の際と、『炎天の紅楼』でのことについて報告をお願いいたしますね」
「はい、よろしくお願いします」
ルイーザさんは今はつけていない片眼鏡に手を添えるような仕草をする――初めて報告をしたときから思っているが、やはり仕事の話をしている時の彼女は生き生きとしている。
「……時間については大丈夫ですので。私、夜は強いほうなんです」
「夜の受付嬢とは、なかなかのものじゃのう……わしの職業は色気がなくて残念じゃ」
『ご主人様、そういうことばかり言うと男性は引いちゃうんだよ?』
引いたりはしないが、ここで何か言うとじっと見ているテレジアに示しがつかない気がする。セレスさんには今後は大人として節度を持ってもらいたい、と可能な限りやんわり伝えたいところだ。




