練3
わたしは警視庁の前で鈴木さんが戻ってくるのを待っていた。
警視庁の前までやってきたのはいいものの、わたしはただの探偵。
警視庁が放火されるなんて事件があったから警備も厳しく、当然部外者をそう易々と入れてくれるわけもなかったので、植え込みのところで座っていた。
そこで偶然、見知った人物に出会った。
「お久しぶりです。樫尾さん」
わたしが声をかけたその人物はわたしよりも年上だが、年齢を感じさせないほどエネルギッシュで、数々の難事件の犯人を検挙してきたベテラン刑事、樫尾さんだ。
「おや、瀬野さんじゃないですか。どうしたんですか? こんなところで」
樫尾さんは穏やかな笑みを浮かべ、わたしの隣に座った。
わたしは質問に答えるべく、「高層ビル連続放火事件」の捜査の依頼を受けたことからここに至るまでの経緯を話した。
「なるほど……『高層ビル連続放火事件』ですか。これはまた厄介な事件ですね」
「そうなんですよ。もう、犯人の手がかりが全然出てこなくて。でも、ようやく今、手がかりのようなものを手に入れたんですよ」
「それが枝裁君ですか」
わたしは頷いた。
3ヶ月前、刑事を辞めた男は枝裁 梨緒という女のような名前だった。
鈴木さんから話を聞く限りでは不気味な人物。
そして、「高層ビル連続放火事件」の一番の容疑者だ。
「確かに……枝裁君は前から何を考えているか分からないことがありましたからね。私に『樫尾さんだけは絶対死なないでくださいね』と言ったり、被疑者や受刑者を見て『まあ、あんなの存在する価値すらないですけどね』と言ったりしてね」
樫尾さんは懐かしむように話した。
「でも、枝裁君も元はそんなことを言うような子じゃなかったんですよ。そう、あの事件。『警察官家族連続殺人事件』から彼は変わってしまいました……」
「警察官家族連続殺人事件」という言葉を聞き、わたしは顔をしかめた。
その言葉を言った樫尾さんも同じように顔をしかめた。
「わたしたちとしてもあまりいい気にはならない事件ですね……」
「警察官家族連続殺人事件」は16年前、日本を震撼させた未解決事件だ。
都内で同じ犯行グループによる警察官の家族を狙った連続殺人事件で、わたしが唯一解決できなかった事件だ。
そして、樫尾さんの奥さんと娘さんが犠牲となった事件でもある。
「その彼はあの事件に関係があるんですか?」
「関係があると言えばあるかなという感じですかね」
しかし、関係者の中には枝裁なんて名前はなかったように思える。
そもそも枝裁なんて名前を聞いたことがない。
「まあ、実は枝裁君は『樫尾 天明』として私の家に居候していたんですよ。天明なら私の家で見たことがあるでしょう?」
確かに天明なら記憶にある。
樫尾さんの息子さんで、あの歳でずいぶん大人びて見えた青年だ。
まさか、居候だったとは……
どうりで樫尾さんと似てないわけだ。
「枝裁君はもう家族も同然でね。私も妻も息子のように、娘も弟のように接していたんだよ。だから、枝裁君もあの事件で大切な家族を失ったと思ったんじゃないかな……それであんなに……」
樫尾さんはそこで言葉に詰まった。
よく見ると樫尾さんの手は震えるほど強く握りしめられていた。
普段、温厚な樫尾さんが怒るのは本当にまれで、見たことがある人は少ないだろう。
しかし、あの忌々しい「警察官家族連続殺人事件」で一度だけ、わたしは樫尾さんの怒りに満ちた顔を見ていた。
その表情を見ていたためか、わたしは顔をあげることができなかった。
「……では、私も捜査がありますので、これで。瀬野さんも捜査、頑張ってくださいね」
私が顔を上げられずにいると樫尾さんはわたしに気を遣ったのか、そう言って足早に去っていった。
そのあと、入れ違うように鈴木さんが警視庁の玄関から出てきた。
「どうしたんですか、瀬野さん? 大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫です……」
わたしはうつむいたまま答えた。
「ホントに大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。さあ、その枝裁のもとへ急ごうか!」
わたしは空元気を出して答えた。