独4
私は逃げるため全力で走っていた。
そのため、目の前に人が立っていたのだが急には止まれず、相手も避けられず、正面から思いっきりぶつかってしてしまった。
そのはずみにぶつかってしまった相手の男は倒れ、眼鏡が地面に落ち、その瞬間、眼鏡のレンズが割れてしまった。
男は鼻のあたりから血を流しながら倒れており、端から見れば殺人現場さながらの光景だった。
「だ……大丈夫ですか……?」
私が声をかけても男は返事をしなかった。
「もしもーし……?」
え……?
これ、私ついにやっちゃった……?
血の気が引き、真っ青になっていると、男は普通に起き上がった。
「あ、大丈夫ですよ……ちょっと意識を失っただけで」
男は笑顔でハンカチで血……
いや、正確には鼻血を拭い、眼鏡を探し始めた。
「あの……眼鏡を壊してしまったのですが……」
「ああ、そうなの? 別にいいよ。安物だし。それに見えなくても何とかなるから……」
そうは言うが男は手を前に出し、恐る恐る歩いている。
「すみません! すぐ直しますから弁償だけは勘弁してください! お願いします!」
「いや、そこまでしなくていいよ。予備があるから」
男はポケットからおもちゃの星形のメガネを取り出して「ジャキーン」という効果音を口で言いながら右手を高くかかげてその星形のメガネかけた。
「うん、大丈夫だよ」
男は笑顔で親指を立てているが、しばらく様子を見ているとやっぱりオロオロ歩くので心配でならない。
「そういうわけにはいきませんから!」
そう言って、私は眼鏡のフレームと割れたレンズを持って男からだいぶ離れた物陰に隠れた。
本当はこの方法は緊急時以外は使っちゃダメで、人に見られてもダメなんだけど、今は緊急時だし、物陰なら人にも見られてないから大丈夫!
さあ、魔法の力でちょちょいのちょいと直して早くあの男性に眼鏡を返さないと。
「あれ……? リーシアさん? 何してるんすか?」
「……っ!」
私は背後から声が飛んできたので飛び上がって驚いて、その拍子にメガネのレンズを握りつぶしてしまった。
振り返るとそこには桑原君が立っていた。
「なっ……! 桑原君……? どうしてここにいるの……?」
恐る恐る聞いてみる。
「そりゃあ追いかけてきたんすよ。リーシアさんが突然走り出すから」
そういえば、眼鏡の男性にぶつかって、すっかりさっきの情報屋と……それと桑原君のことを忘れていた。
結局あの情報屋は一体何者だったのだろうか……?
あの言い回しはまるで私の一族の事情も知っているという感じだったし、あの不気味な笑顔がそれを裏付けているような気もした。
しかし、私の一族の事情はよっぽどの人物でないと知らないし、ましてや日本国内で知っている人間なんているはずがない。
あの、情報屋……もしかして……
「ところで、何してたんすか?」
あ、桑原君の方もどうにかしないと……
「ちょっと、向こうにいる人の眼鏡を壊してしまってね。はははー、私は本当にドジだなぁー」
「そうだったんすか。でも、そんなに割れてるんじゃあ直せませんよ。どうやって直そうとしたんすか」
桑原君は特に訝しがりもせず可笑しそうに笑った。
どうやらバレていない様子。
でも……
「どうしよう……」
眼鏡はさっきレンズを握りつぶして完全に使用不能状態。
桑原君が見ている手前、あの方法で直すわけにはいかない。
「ああ、そういえば、僕、腕のいい修理屋を知ってるんすよ!」
「それは本当か!? しかし……私の所持金は……」
私は財布の中身を思い浮かべる。
ああ、夫からもらったお小遣い程度の金額しかない。
もっとくれてもいいのに、あのけち……
「大丈夫っすよ。僕がなんとかタダでしてくれるように頼みますから」
しかし……タダより高いものはないと言うし……
かと言って、親切を蹴飛ばすような失礼な真似もできないし……
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおっかなー」
まあ、タダならいっか。
私は桑原君が進む後をついていった。
「ところで、リーシアさん。リーシアさんの喋り方ってどうして僕と他の人とで違うんすか?」
喋り方……?
ああ、そうか。
桑原君にだけ妙に馴れ馴れしい口調になっているわね。
「やっぱりちゃんと丁寧な言い方の方がいいかしら?」
「いや、直さなくていいっすよ? 僕はあの堅苦しい喋り方より、今の喋り方の方がリーシアさんらしくて好きなんすよ。美人で、優しくて、格好よくって、ちょっとドジな」
「ドジは余計よ」
私がそう言うと、桑原君は屈託のない笑顔を見せた。
本当に先ほどからまあ、笑顔の大安売りができること。
バーゲンセールか。
「いいじゃないですか。ドジでも。リーシアさんが完璧な人でも十分、魅力的っすけど、ちょっとそういうギャップがある方がまた違った魅力があって素敵っすよ」
「ねぇ、桑原君は私を口説いてるの?」
「違いますよ。褒め落としてるだけっす」
「それを口説いてると言うんじゃないかな」
「じゃあ、それでいいっす」
いや、私はいっこうにかまわないんだけど、私の夫はよくないと思うなぁ。
あの偏屈な夫は自分が女ったらしなクセに私が違う男と遊んでいるとやけに怒ったり、嫌な顔をしてくるのだ。
五十歩百歩だよ。
まあ、どうしてか私が五十歩譲って、そういうお遊びは控えてはいるんだけどねぇ……
「リーシアさん、着きましたよ」
私が夫のことをブツブツ言っていると、桑原君は立ち止まり、私の方をに振り向いた。
そこは見るからに廃墟だった。
朽ちた倉庫がいくつも並んでいて、落ちたパイプや板が散乱している。
「ここ……なの……?」
「はい、ここです。さあ、行きましょう」
桑原君は私の手を引いて廃墟の中にどんどん入っていった。
そのとき、私は立ち入り禁止の看板と危険を示す看板が見えていなかった。