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9 同志と刺客

     9 同志と刺客

 ここに来て初めて、時間が殆ど動かないままに節を跨ぐことになった。俺はミネルヴァの屋敷を出た後、あの男の部屋に向かい、辿り着いたところである。ノッカーなんてものが有るわけもないので、バンバンと扉を三度叩く。

「ヴェロ、居ますか?」

 反応がないので四五六度目を(はた)いてやろうと右手を振り上げたところ、健気な跫音が聞こえてきた。俺は、まるで家主を出て来ざまに殴り掛からんとしているような恰好を慌てて(ほど)く。


 中に招かれた俺は、すぐにソファへ腰を落とした。文字に起こしにくい、獣の発情声のような呻きが、困憊した俺の口から天井に向かって勝手に飛び出ていく。つまり、俺の首は勝手に上を見上げていたのだ。

「お疲れのようだが、今日はどうしたのかな?」

 俺とヴェロの蟠りはとっくに解消している。俺はともかく、清潔過ぎる編輯者は大人だからな。

 俺は、言葉を返す代わりに、眼球の動きだけで部屋の中をぐるりと睨め回して見せ、その後編輯者の顔を見つめた。

 その男曰く、

「ああ、今日も盗聴などの心配はない筈だ。」

 俺は一つ息を付いて、

「聞いてくれよ、ヴェロ、今日はあまりに多くのことが有りすぎた。」

 口調を整える気力すら残っていなかった。


 相槌を打ちつつ全てを聞いていた編輯者の開口一番は批難であった。

「ケイン君、君は自分の立場が分かっているのかい?」

 言葉を続けようとしたヴェロを俺が手で制す。

「ああ、分かっているよ。(まず)いんだよな。」

「そう、(まず)い。ただでさえ、君は、馬鹿者――ということになっている、我々からすれば哀れな士――の襲撃から氷刃を護ってしまったんだ。僕はもう君を疑わないが、しかし、他の同志たちはどうだろうかね。君のことを、薄汚い裏切り者、この国に寝返った卑怯者だと思ってしまっているだろう。そんな状況の上で、更に君は氷刃と性交をしたというのか。ケイン君、一体どういうことなのか説明してくれ。僕が君を軽蔑せずに済むように。」

 ヴェロの苛立たしげな攻撃に対して、しかし今回は憤るわけにも行かず、俺はたんたんと、

「どっちも不可抗力だったんだよ。あん時に言った通り、俺がたまたま転びかけたらナイフを持った野郎が勝手に突っ込んできて、また、今日のセックスについては完全に強姦だ。極上の器量を持つ女とするという意味で良い思いをしたことは認めるが、しかし、俺から望んでやったことじゃあない。」

「するとなんだい、僕が見舞いに行った時に君が語ったところは、必ずしも演技ばかりではなく、大いに真実だったのか。」

「その通りだよ。つまり、俺が居なくとも、結局ミネルヴァには傷

一つ付かなかっただろうさ。だから、俺は、我々の志に対して裏切りや失態を行ったとは決して思っていない。寧ろ、あの女に、それこそベッドに誘い込むくらいに好ましく思われるという、大いなる成果を得たと思っているんだがね。」

「成る程、だがケイン君。僕がそれを聞いて納得することは可能だが、しかし、他の同志たち、()()()に入ってすらいない同志たちはどうだろうかね。あの暗殺騒ぎ、未遂で終わった以上流石に世界的には取り扱いが小さい事件だったろうが、しかし、血眼になってこの国の情報を探している者にとっては、もう煩すぎるくらいに騒がれた筈だ。絶対に我々の本部は、君の仕出かしたことを、しかも誤解と共に認識している。命を張ってミネルヴァを護りやがったのだ、と。」

「ああ、そうなんだよ。」俺は座り直した。「俺はボスに信頼してもらっている筈だから、しばらくの間は平気だろうが、しかしいつかは大変なことになっちまうかもしれない。同志に殺されるだなんて絶対に御免だが、だからといって誤解を解こうにも、手紙みたいな危なっかしい手段でコンタクトを取るわけにも行かないし、どうしたものかね。」

「君か僕が、本部に戻って直接釈明するか?」

「まず、俺は無理だ。氷刃の用事に伴ってでないと国外には出れんし、口実がないとそもそも都市外も厳しい。」

「ミネルヴァに伴いながら戻るというのは、」

「無茶に決まっているだろ、そんなもの。だいたい、あの女が外遊に、しかもヴェルガノに出かけるのがいつになるのかが分からん、下手すりゃそんな機会一生来ないぜ。無理なことだらけだ。」

「だろうね。となると、僕が行くしかないのかな、」

「いや、絶対にやめておけ。」

「何故?」

「言っただろう? 俺は死神に目を付けられているんだよ。ということは、ヴェロ、当然アンタだって目を付けられている筈なんだ、アンタはケイン・バーレットからして、死神の手の内に、すなわち()()()()に居る、唯一の旧知人なのだから。」

 さっきから狭い部屋の中を器用に行きつ戻りつしていた、清潔過ぎる編輯者は、俺の前辺りのソファに座り、口を手で覆ってしばらく考えた。

 その後、忌ま忌ましげに、

「これは参ったね、ケイン君。君は、まず同志たちから裏切り者であると疑られ、そして、()()()からは密偵か何かではないかと疑われている、と。前者の誤解を解消する望みはなく、また、後者の追求は誤魔化しきることが困難だ。なにせあの死神直々なのだからね。君がいかに今日上手くあしらったとしても、どうせ満足するまで、つまり君がお縄に付くまで死神は君から離れまい。」

「君、君、って、ヴェロ、アンタもヤバいんだぜ? 分かっているのか?」

「分かっているとも。君が裏切り者ということになれば、僕は裏切り者ないし裏切りを見抜けなかった無能とされ、同志たちの手により粛正されるだろう。君が死神に捕まった場合も、絶対に僕は拘束される。君を軍に紹介したのは僕なのだから、疑わしいことこの上ない。」

「そうだ。だから結局俺達は共に、味方と敵双方から挟み討ちにされている絶望的状況であると言える。だから俺はここに来たんだよヴェロ。もう、いつか果たすだなんて優長なことは言ってられない。一刻も早く、あの女、ミネルヴァ・ララヴァマイズを縊り殺す方策を得ねばならない。さあ、頭を捻ろうぜ、ヴェロ!」

 しかし清潔過ぎる編輯者の顔は渋かった。俺がそれを訝り始めた頃、

「ケイン君、もしかすると、他にすべきことが有るかもしれない。」

「他に? 何だそりゃ。」

「自決だ。」

 間抜けな絶句がしばらく俺の口から放たれてから、

「あぁあ? 何だそりゃ。」

「真面目な話だよ。君は、あの軍の訊問の恐ろしさを知ってるかい?」

「何も知らんが、しかし、俺の口を割らせることが出来ないってことくらいなら分かるぜ。アイツらの為に何かを吐くぐらいなら、どんな目にでも遭ってやるし、死んでもやる。」

 編輯者は(かぶり)を振った。

「その言葉は頼もしいことこの上ないよ、ケイン君。しかし、駄目だ。君がいかに鞏固な精神を持っていようと、そんなものは何の役にも立たない。この国では、自白剤の使用が公然と行われているんだから。」

「自白剤? 水剤(ポーション)みたいなものか?」

「水剤と言えば、水剤だが、しかし、きっと君が想像している、飲んだ者が正直者になる摩訶不思議な液体、ではないよ。」

 図星であった俺は、子供っぽく眉を寄せつつ、

「じゃあ、どういう効能の水剤なんだ?」

「簡単にいうと、半ば廃人にするんだよ。訊問相手の意識や意志力を削いで、例えば君の語っていたような覚悟なんてものを全部消し飛ばしてしまうのさ。」

 俺は顔をくっしゃくしゃに歪めつつ、

「全く、本当にロクでもない連中だな! まあ、ともかく、確かにそれを聞くと、アンタの言う自決も現実的な選択肢の一つには思えてくるよ。俺とアンタが捕まったら、何もかも全部喋らされて、つまり同志たちの名だの居場所だの、そして本部のことまで知られる、と。つまり、この部屋に居る俺達二人のみでなく、我々全員の破滅だ。」

「正確には、それすらもどうでもいいことだろう。寧ろそれのよってこの国の増長を止められなくなる、というのが大問題な訳だね。」

「そう、その通りだヴェロ!」

 俺は一度視線を外してから、再び清潔過ぎる編輯者をじっと見つつ、

「だが、だからと言って自決なんかに賛成しないぜ。だって、こんな機会またと有るか? 諦めていた、あの軍の最高官達に近づくということが、ひょんなことから達成され、しかも、その瞬間に補佐官の交代が発生し、またこれもたまたまなこととして、氷刃が諧謔の様な行いとして軍属以外の人間を拾ってみようかという戯れを起こし、また、そうして取り入ることとなった俺に、炸裂ナイフを握った男が突っ込んできたんだ。どれだけ数奇な命運を辿っている分かるだろう? もう今後、我々の同志がここまで氷刃に信頼されることはまず不可能だ。しかも、俺だけでなくアンタもそれなりに信頼されているんだ。これ以上の条件なんてほぼ有り得ないし、また万一、もしも数十年後に同じような好機が巡ってきても、そん時にはミネルヴァがより強力な魔術師、強力な戦士となってしまっている筈なんだよ。なあ、ヴェロ。きっと今しかないんだ。あの澄ました顔を平らな胸から切り離してやる機は、今この瞬間しかないんだよ!」

 浮き上がるかという勢いでテーブルを叩いた俺に呼応するかのように、ヴェロが力強く頷く。

「君がそこまで言うなら、僕も乗ろう。乾坤一擲の大勝負だ。二人で智慧を絞り、あの氷刃を、必ずや仕留めてみせようじゃないか。」

 俺は、自分のせいで劈かれたままの耳でこの言葉を聞き留め、しっかりと頷き返した。


 しかしまもなく、この輝かしき意気は思いきり毀たれることとあいなったのである。その経過を左に示そう。

「ではケイン君。ミネルヴァに正面からぶつかっては誰も敵わぬ以上、何らかの隙を衝かねばならぬわけだが、その為には上等な策と、そしてその策を練る為の、彼女の戦闘能力の把握が不可欠だろう。」

「ああ。」

「というわけで、彼女について分かっていることを一通りおさらいしておこうではないか。僕が知らずに君のみが知りえたことも多いだろうしね。まずは、身体面から語ってもらえるかな。」

「基本的なことはアンタから聞いていた通り、極端な肉食のざる女で、凄まじい筋力を持っている。例の新聞記事の、片手で男の首を潰して切り離したという所業は事実だ。で、それ以上に知りえたこととしては、例えば、前に俺があの女の腕をへし折ろうとしたんだが、」

「ちょっと待ってくれケイン君、どういう状況だいそれは?」

「ミネルヴァがへし折ってみせろと、腕を寄越してきたんだよ。とにかくその結果、全く歯が立たなかった。骨は知らんが、少なくとも筋肉は鋼のように硬かったな。また、腕だけでなく全身隈無くそんな調子に思えたぜ、さっき裸同士で戦った限りではよ。」

「つまり、彼女の全身が鋼の筋肉で覆われている以上、武器なり拳なりでまともに損傷を与えることは難しいわけだね。」

「刃物ならもしかするかもしれないがな、しかし、そもそも自動形成の氷壁が有る以上、あらゆる物理的攻撃が叶いにくい。」

「造氷術の話題が出たね。ではケイン君、そっちについて考えてみようか。」

「ああ。俺はミネルヴァの戦いを二度見たんだ。どっちも訓練というか手合わせというか、そういう性質のものだったが、しかし、後に被害を残さないという気遣い以上の手心は一切感じられなかった。ありゃ、殆ど本気の戦いだったと思う。一度目が氷刃と魔女、二度目が氷刃と陽炎の戦いだった。

 一度目では、開幕、氷刃は氷で〝城〟あるいは〝砦〟を拵えた。自分の体を完全に隠し果せる、あまりに分厚い氷壁で全方位を囲ってしまったんだ。あれは普通、どうしようもないだろうな。こっちからの物理的攻撃が跳ね返されるのは勿論、熱による攻撃も〝氷喰い〟で潰されちまう。俺やアンタでは、太刀打ち不可能だ。」

「魔女は、どうしたんだい?」

「ああ、ウィッチは、操箒術で舞い上がってから、召喚魔術によって巨体を誇る魔獣を喚び出した。そいつをミネルヴァの氷城に向けて落下させたところ、氷刃は大事を取って、氷を全部撤収させた後にその場を離れたんだ。」

「と言うことは、その魔女の一撃が功を奏すべきだったのかは分からないにせよ、しかし、その可能性を惟ねばならない程の脆弱性を氷刃の氷は持っているわけだね。」

「『湖の水も一所懸命手で搔き出していればいつかは涸れるのだから、その水量は無限ではない。』位の虚しさを覚えるのは俺だけだろうかね?」

「いや、僕も同感だよ。結局僕達二人では、ミネルヴァの氷を壊すことは難しいのだろうな。」

「しかも、例の障壁、氷壁の自動形成だが、死神曰く、ああいう魔術は一度唱えておくと相当の間持続するらしい。ミネルヴァが起き抜けや寝る前に唱えていたりしたら、いつ挑み掛かっても引っかかるわけだ。」

「油断を誘っても、あの造氷術には隙が発生しないということか。対抗するのは厳しいね。」

「では、造氷術に関してはひとまずそういうこととして、後の魔術といえば、今チラと言ったが、〝喰い〟だろうな。」

「僕の知る限りでは〝氷喰い〟、〝水喰い〟、〝火喰い〟の三つだが、」

「ああ、それだけの筈だ。窮理魔導学者に、〝喰い〟の原理を訊いてみたが、全く捗々しくなかったね。わけが分からん、と言うことだけは分かったが。」

「その学者が無能であった可能性は?」

「バンウィアーとウィッチだぜ? 有り得ないね。」

「成る程。しかし、ケイン君、その二人に話を持ちかけたのかい? 主の魔術を解体しようという試みをそこらへんに曝すというのは、あまりに大胆だと思うのだが、」

「いや、俺も、虹剣の方には怪しまれ得ると思って、純朴な学者である魔女のほうにだけ訊ねたんだよ。かなりの信頼を得てから、しかも、あくまで自然にな。しかし、ああ、あまりに自然すぎてあまりに純朴すぎたか、あの女、何の気兼ねもなしにバンウィアーにその問題を、そういえば〝喰い〟ってどうなっているのかしらねぇ、という問いかけとして回しやがったらしいんだ。その当時は、ああ、虹剣に話が行っちまったが何も起こらなくて良かったと思っていたが、しかし今になって考えると、これが死神の出動の遠因になったのかもしれないな。」

「そう言えばその新聞に出ているケインって新参が何となく怪しいからちょっと訊問して見てくれませんか、とバンウィアーが妻に頼んだ、と。まあ、確かに君の質問は迂闊であったのかもしれないが、過ぎたことは仕方有るまい。話を進めよう。」

「ああ。つまり何が言いたいかというと、結局〝喰い〟はどうしようもない、ということだ。氷、水、火での攻撃は無意味というか逆効果だし、また、奴の魔力切れを狙うのならば、冷気や熱気もない場所を選ばねばなるまい。」

「湿気はどうなのだい?」

「分からん。〝水喰い〟は一度も見たことがないんだ。まあ、そもそもあの女に魔力切れを期待するのはおかしい気もするし、もしも必要になったら改めてそれについて考えよう。」

「では、今はミネルヴァの修めている別の魔術について語ろうか。後は何が有ったかな。」

「俺が知る限りでは、取り敢えず、 "ジャガコウィス" と "キキヴフラ" と "レントゥスニ" だな。」

「ええっと、それぞれ最高位の、魔力収奪呪文と、治癒呪文と、氷牙呪文だったかな。」

「その通り。勿論造氷術が有る以上、レントゥスニは今更使わんだろうが、残り二つが大問題だ。 "ジャガコウィス" に関しては、あの魔女の魔力を一発で涸渇させた程の超兇悪威力なわけで、そうなってみると、きっと "キキヴフラ" の方も、いかなる大怪我からも瞬時に恢復してしまう威力に違いないんだ。」

「と言うことは、一撃で氷刃を斃さないと(まず)いわけだね。ちょっとでも敵意を感じ取られたら、君の、魔女に比べたらあまりにも少ない魔力が一瞬にして吸い上げられ切ってしまい、また、何とかそれまでに負わせた怪我も簡単に治されてしまう、と。」

「その通りだ。つまり、世界で最高の身体能力と世界で最高の魔力、そして最高級の実戦経験を持ち、しかも造氷術や、少ないながらも効果的に選択された基本的魔術を修めている、一分も隙のないように思えるあのミネルヴァ・ララヴァマイズを、俺達は一撃の下に仕留めねばならんのだ。」

「ふむ。話せば話すほど気が滅入ってきたが、しかし、立ち止まるわけにも行くまい。ええっと、ケイン君、他の魔術はどうなっている?」

「詳しくは知らないが、治癒呪文に手を出している以上、治療系魔術一般に興味を覚えている可能性が高い。消毒呪文と水撃呪文は使えるだろうな。」

「消毒はともかくとして、水撃は何なのだい?」

「清浄な水がない時に傷口を洗うのに使うんだと。まあ実際、〝水喰い〟の開発にも水と魔力の関係の理解が必要だったろうし、そこそこ修めている筈だ。

 しかしこれはどうでも良くてな、寧ろ(まず)いは、消毒呪文のほうだよ。」

「傷の治療に使うのだろう? それがどうしたのかな?」

「ああ、その用途ならやはりどうでも良いんだが、問題は、高位の消毒呪文では、そんなケチ臭いこと以外にも色々出来てしまうということなんだ。例えば俺が毒を盛ったとしても、コロリと無効化されちまう。なあヴェロ、飲んだ瞬間に意識なり生命なりを失う毒物に心当たりは有るか? いいか? 厳密に、()()()()()だぞ?」

「いや、ああ、済まないが、ないな。」

「俺もない。今から探しても、どうせそんなものは禁制品になっているに決まっているんだ。世界中に恢々たる、そして()()()()に緻密たる網を張っている死神に目を付けられた俺達がその素敵な毒薬を探したり求めたりすれば、そうとう慎重な手段を取らないとゲームオーヴァーになっちまう。だからといってだらだら過ごして日付を喰えば、それはそれで(まず)い。何が言いたいかというと。つまり、毒薬は使えなくなった、ということだよ。

 で、あとミネルヴァの魔術で気をつけねばならないのは、あの魔銃だろうな。他のあらゆる攻撃手段を封じても、アレが有る限り一瞬の内に消し飛ばされて終わりだ。学院の講義で聞かされたが、光ってのは何よりも早いんだろ? ミネルヴァの伎倆で放たれたら、俺達では回避不能だな。しかも、その気になれば目潰しにも使えるようで、これもまた厄介だ。」


 と言うわけで俺と編輯者は元気を無くしたのであった。八方塞がりに陥って喜ぶのは現実を知らない馬鹿だけだ。

 ミネルヴァについて考えてみても埒がいまいち明かないので、気分を変えがてら、他の軍務官について考えてみようかとヴェロに提案した。

「確かにまあ、これから焦って氷刃への襲撃を行う以上、日取りが満足に選べず、充分に彼女を孤立させられない可能性は大いに有るね。となると、救援に来るであろう彼女のお友達への対策を練ることは満更無意味ではないか。

 ではケイン君、まず彼女の実質の夫、〝雷帝〟ザナルド・モルディアについて考えてみようか。」

「いや、実はさ、」俺は足を組んだ。「雷帝については対策が思いついている。稲妻を纏うことによる護りを逆手(ぎゃくて)に取ることで、あの顔を吹き飛ばしてやる方策が思いついているんだ。あと、陽炎に関してもどうにかなるんじゃないかなと思っているよ。」

「それは頼もしいね。」

「とはいえ、空手ではどうにもならんから、あとでアンタに必要な魔具を買ってきてもらおうとは思っているがね。俺自身が行くよりマシだろうし。」

「ああ、任されよう。」

「だから、問題は残りの二人、〝狩人〟と〝虹剣〟だ。」

「では彼らについて考えようか。取り敢えず、〝虹剣〟バンウィアーの魔術に関して、結局君は何か知りえたのかい?」

「まず、〝自然派〟のミネルヴァとは異なり、バンウィアーは一般の呪文を殆ど全て最終段階まで修得してしまっているようだ。得意不得意を見出して付け込むのは難しい。特に、光の系統の魔術も修めてしまっているというのが厄介だ。」

「何故だい?」

「少なくとも陽炎は、魔術によって光を放ち、相手を眩惑させることが出来るらしい。この手の戦術で煩わしいのは、自分の目を保護しないとこっちも(めくら)めくということだろうが、しかし、あの男ならそんな心配がない。サイレントとしての速度を完全に活かした神速のまま、不可逆的な失明を齎す光量を放つことが出来るだろう。だから、間違いなく修得していると思うのだ。」

「成る程。」

「まあ正直、今後失明するということについては文句ないがよ、成功しようがしまいがどうせ死ぬのだから。というか、アンタから聞いた自白剤の話からすると、成功裡に終わった瞬間に自決すべきなのだから。しかし、こっちが全身全霊を懸けて瀕死に追い込んだミネルヴァへの救援が成功されては困るんだ。あの女が息絶えるまでは、俺達は尋常な目明きでなきゃあならん。」

「ふむ。しかし、正直その目潰しに関しては瑣事だろう? あの、子供にしか見えない男を、氷刃を歯牙にもかけぬ絶対的魔術師としたのは、その異名ともなっている、〝虹剣〟という魔術なのだから。ケイン君、君はあの男の戦いざまを見たことがあるのかい?」

「残念ながら、一度もなかった。だから、虹剣という名の魔術に関しても見たことはない。しかし、アイツの従者ごっこみたいなことをさせられたのは二回ほどあったから、ある種の確信を得ることは出来ている。あの男の、音と識眼視界による状況把握は完璧だ。盲目性に付け入ることは不可能だろうね。」

「本当にそうかな。」編集者は指を絡めた。「だって、我々は目で状況を把握し、虹剣は耳と識眼で状況を把握するんだ。前者のみが機能して後者が死ぬ状況というのは、幾らでも有り得るんじゃないだろうか。」

「まあ、確かに音に関してはどうにかなるかもしれないと思っているよ。轟音を放ち続ける魔具を起動して転がしゃ良いんだもんな。ヴェロ、それについても調達を頼んだぜ。」

「ああ。」

「ただ、識眼の方は厄介でね。どうした物か」

 沈黙が発生した。俺が口を開いたまま絶句したからである。

「どうした?」

「ああ、いや。話しながら、バンウィアーの召使いをさせられていた状況を思い返していたんだが、それによって思いついたことが有るんだ。よし、案外いけるかもしれない。」

「ふむ、どういう手段で識眼を無効化出来るというのだろう。」

「それよりもヴェロ、話を逸らしちまった。今は、魔術の方の虹剣について論ずべきだろう。」

「ああ、そうかもしれないな。ではケイン君、虹剣について説明してくれるかな。」

「任せろ、と、言いたいところだが、細かい所までは理解が及ばなかった。虹剣の類いは、〝理窟派〟的に魔術を開発しようという試みのほぼ唯一の成功であり、つまり窮理魔導学を完全に修めていれば理解出来る筈なのだが、しかし、そこまではどうにも学びきれんかったね。」

「仕方有るまい。君の使命は学者になることではないのだから。では、君の理解の及んだ所までを説明してくれよ。」

「まず、ヴェロ、正八面体って知っているか?」

「正三角形六枚、稜十二本、頂点六つからなる図形だね。」

「いや、ああ、済まん。それは多分あっているんだが、俺が言っているのはそういう只の幾何体じゃない。バンウィアー・ムーンの正八面体って奴だ。」

「何となくは知っているよ。六つの属性を綺麗に排置した物だね。」

「そうだ。で、あの正八面体が示す通り、火と水は反撥し、光と闇は反撥し、また風と地は反撥する。それ以外の属性間では一切の特異的関係が成立しない、これが、今主流となっている、六属性説ないしそれに近しい学説の肝であり、とにかく殆ど揺るぎない自然科学的事実であると認められている、そうだ。……ついて来れているか、ヴェロ?」

「多分ね。」

「充分だ。でだ、しかしバンウィアーの頭による指揮を与えられつつ、ウィッチの手先のよさと根性で続けられた実験によって、その後更に細かい事象が見出されている。そもそも、今言った単純な反撥というのは、火の魔荷(チャージ)を帯びた鉄球と水の魔荷(チャージ)を帯びた鉄球との間に働くきわめて弱い力を、ウィッチが捩れ秤という、糸が捩れたり戻ったりする現象を利用した窮めて高精度の機器を用いてデータを集め、その結果をバンウィアーが理性的に処理することで、初めて世の中に納得されたものなんだ。このような研究はその後もしばらく続けられ、とうとう、〝虹剣〟の礎となる理論というか、現象が見出された。六属性の内の五属性の魔荷(チャージ)を適当に近傍に配置すると、欠けている一つの属性への強烈な引力が働くんだ。この現象を裏付ける理論のほうは、テンソルとかいう訳分からんものが登場してきて、俺には――多分魔女にも――とうとう理解出来なかったわけだが。」

「ふむ。しかしケイン君、僕にはその現象の特異性がよく分からないね。通常斥力ばかりが働く異種魔荷(チャージ)間で、引力的な相互作用が働くというのが問題なのかい?」

「いや、方向の問題じゃない、その性質が問題なんだ。さっき言った、反撥する属性を帯魔した鉄球の実験では、球同士が力を及ぼしあって終わりだ。しかし、この五属性と残る一属性との間の相互作用は、魔荷(チャージ)そのものが動いてしまうのだと。つまり、凄まじい勢いで引き寄せあう鉄球達を何とか固定していても、いつの間にか各球の魔荷(チャージ)が消えているんだそうだ。」

「各球ということは、六つ全ての属性の魔荷(チャージ)が中和されるのかい?」

「ああ。んで本人曰く、魔女はこの実験の際に手を火傷したんだとよ。」

「そりゃ、何でまた、」

「六つの球が、つまり魔荷(チャージ)を失った球が、それぞれ凄まじい高熱を帯びていたらしいんだ。すなわち、六つの属性が中和される時、それは単純に消えてなくなるのではなく、熱なり何なりのエネルギに変換される、と。

 この実験結果は、バンウィアーが既に開発し、軍務官の座を奪うのに大いに役立てた魔術、〝虹剣〟を説明することが出来た。つまり、あの男の言う、剣の上に六つの属性を束ねて相手に叩きつけることで、凄まじい威力を発揮することが出来るのだという話を、だ。まあ、バンウィアーの言っていることは本当ならば、投じた魔力が全部きっかり熱的なエネルギに転化するんだから、そりゃ超効率的になるよな、と。」

「しかし、その話が本当ならば、虹剣はどうやって、その中和されるべき六種の魔荷(チャージ)を、敵に叩きつけるまで保存しているんだ?」

「ここらへんからはやや眉唾というか、バンウィアー本人の感覚以外に論拠のない話になってくるんだが、アイツと魔女が主張する七属性説における第七の属性による魔荷(チャージ)を、その六つの属性の間に挟み込むのだそうだ。それで接触や即時の中和を防いで時間を稼ぎ、敵に叩きつける、と。

 で、この、有るのかないのかすらまだ決着がついていない第七属性の魔力を尋常に生成し、操り、そして、他の六色の属性の魔力を同時に操るという神業を達成してしまう才能は、その魂の無色性によっているのだ、とウィッチとバンウィアーは主張しているわけだな。自分の魂の色が六属性から外れているからこそ、その人の手に負えぬ魔力を操り、かつ、平常の六属性においても繊細な操作が可能となる、と。まあ実際、アイツが魔力を操る才能が常人離れしているのは事実だよ、それこそミネルヴァと常人の筋力差くらいにはね。だって、()()を用いるのは比較的優しいが、しかし、〝()()〟そのものを理性的に捻り出したり籠めたり操ったりなんてのは、非常に難しいんだ。単一の属性を鉄球に籠めることすら、数年の修業が必要だという。なのに、バンウィアーは七つの属性を平然と、しかも戦闘中という様々な事象に気を配らねばならぬ状況において、睫毛を切り落とすような正確無比で制禦してしまうんだ。これは確かに、魂の特殊性という説明が有った方が心地よい。」

「よく分からないが、しかしケイン君、おかしくないだろうか。君は、その魔女が火傷した実験においてバンウィアーが〝虹剣〟を開発したと言ったと思うが、しかし、それでは時系列が合わないよ。だって、彼が魔女と窮理魔導学を拓いたのは、長官となってからずっと後なのだから。」

「ああ、いや、少し違う。〝虹剣〟、すなわち剣に七種の魔荷(チャージ)を纏わせて行う攻撃は、その火傷の実験によって説明されたんだ。つまり、火傷の実験から発展した理論によって開発されたのは別の魔術になる。それが〝欠虹(けっこう)〟だ。」

「名前くらいは聞いたことがあるね。」

「俺も実際に見たわけではないがね、しかし、まあ、ミネルヴァですらあの男に敵わなくなるのが納得の魔術だよ。〝欠虹(けっこう)〟は、通常の虹剣から一つの属性が抜け落ちた状態の構成からなる。つまり、剣の上に五種の通常魔荷(チャージ)が、第七の色の魔荷(チャージ)によって縛められることで辛うじて共存している状態なんだ。」

「するとどうなる?」

「だから、魔女が火傷した実験と同じだよ。欠けている属性への、例えば火水闇光風からなる〝欠虹(けっこう)〟であれば残る一つの〝地〟の属性の魔荷(チャージ)への、強烈な引力が発生するんだ。魔荷(チャージ)を帯びている物体を引き寄せるのではなく、寧ろそこから魔荷(チャージ)そのものを引き剥がそうと企むわけだな。本来なら欠虹側の魔荷(チャージ)も熱に変換されつつ霧散することになるが、しかし、バンウィアーによって絆される為に、何とかその状態を維持する、と。……ヴェロ、まだついてきているか?」

「恐らくね。ただ、疑問も有る。」

「何だよ?」

「それがどうしたのだ、という疑問何だがね。君の言う状況では、地の属性を持つ魔荷(チャージ)の働きがおかしくなり、ひいてはそれを用いる魔術が使えなくなるのだろうが、その程度の成果が、あの男を氷刃を凌駕する戦士に持ち上げたのだろうか。」

 俺はちょっとだけ黙り込んで、整理をしてから、

「幾つも誤解が有る。まず、ヴェロ、アンタはきっと、地の魔力を用いる魔術というのが全体の六分の一程度だと思っているのだろうが、それは誤りだ。厳密に一種類の食材で作られる飯が殆ど存在しないのと同じで、全ての魔術は複数の属性の魔荷(チャージ)が複雑に絡み合って成立していると――少なくとも窮理魔導学的視点からは――理解されている。そして第二に、地の魔力はかなり重要だ。別に地面を揺るがすだけじゃない、身体能力の強化にも地の属性は強く関わっていて、自己治癒能力もこれに含まれると考えると、殆ど全ての戦士的魔術師が大きく地に依存することになる。同じように、一定以上の魔術師にとっては無用な属性というものは存在しない筈なんだ。だから、バンウィアーが何かの属性に対する欠虹を剣の上に張ると、その近傍では殆どの魔術師が困ることになる。自分の魔術が厳密にはどのような属性から成り立っているかを知っている奴なんて、それこそ一部の窮理魔導学者しかいないからな。どの呪文ないし魔術がいつも通りに使えるのかすら判断出来なくなる。

 そしてなによりも重大な誤解は、そのような魔術へ妨碍だなんてオマケにしか過ぎない、ということだ。なあヴェロ、この世で最も身近な魔力って何だと思う?」

 清潔過ぎる編輯者は少し考えてから、

「分からないね。何のことだい?」

「何言ってやがる、これだよ、これ。」

 俺は、恰も相手を安心させる為の仕草であるかのように、自分の胸骨をどんどんと叩いた。

 少ししてヴェロは納得し、

「そうか、魂か。」

「その通り。つまり、地を目標とする欠虹の前に、地の魂を持つ人間が対峙すると、その魂自体がバンウィアーの方に引き寄せられるんだ。本来決して経験する筈のない、魂が引き摺られるという悪夢だ。そうすると、もう、この世の終わりと出会したかのような絶望感と不快感を覚え、その場に突っ伏すことになるらしい。そのまま時間が経過すれば、まもなく魂の大部分あるいは全部がバンウィアーに吸い取られ、廃人を経由して死亡することになるそうだ。また、バンウィアーにその剣で叩きつけられれば、とんでもないエネルギの発散が生じ、犠牲者は跡形もなくなるんだと。魔女曰くな。

 つまり、魔術師であるか何て関係なく、あらゆる人間は欠虹に対抗出来ないんだよ。だからアイツは最強の戦士とされているし、俺も殺そうとだなんて夢にも思わない。氷刃ですら、あの男と比べたら小娘みたいなものだ。」

「成る程。して、具体的につけ込みうる隙は彼に有るのだろうかね。」

「さっき言った方法で耳と識眼を潰す。その後は、日頃訓練で虹剣に挑んでは返り討ちにされている高官たちの方法を模倣するより有るまいな。何せアイツらは何十年も創意工夫を凝らして、今の方法に辿り着いているのだから、俺達の発想がそれを凌駕出来るとは思えない。」

「で、その方法とは?」

「欠虹の成立には少々時間がかかる。その前に先制攻撃を浴びせかけて潰す、という、言葉にすればシンプルこの上ない戦法さ。」

「ふむ。あまりにシンプルすぎて、不可能性を如実に感じることが出来るね。」

「まあな。確かに虹剣は殆ど全ての呪文を修得しているのだから、そんな器用な奴を速やかに無力化するというのはあまりにも馬鹿げた話ではある。しかし、そこしかないとも思えるんだ。」

「手厳しい話だね。ところで、残りの一人、〝狩人〟についてはどう思うんだい。」

 俺は、〝狩人〟ことダニウェット・グラシュ軍務官の顔を思い出そうとして、叶わなかった。

「殆ど会ったことがないが、まあ、良くも悪くも問題なかろう。」

「とは?」

「アイツは単純に剣士な筈だ。基本的には小細工も何もない、剣一本で戦う男であり、まあ、剣で魔術を斬る、みたいな意味の分からない業を可能とはしているらしいが、別に何かを調べるほどの相手ではあるまい。

 つまり、いい意味として、調べる必要のない相手であるから気兼ねしなくて良い、というものがあり、悪い意味として、小細工が通用しないからどうせどうしようもないんだ。」


 その後俺達は、窓から赤い日が差してくるまで議論を続けたが、何も捗々しくなかった。虹剣と狩人への対策手段が思いつかないのはまあいいとして、肝腎の氷刃への対抗策すら定まらないのだ。俺が唯一まともに使える魔術が、よりにもよって火球呪文であるというのが問題を更に困難にする。

 疲労と銷沈に頭の上を押さえつけられて、つい下げてしまっていた目線を上げた時に、清潔過ぎる編集者の乱れた髪を認めたことが、とうとう俺の諦めを誘った。

「なあヴェロ、」疲れ切った声。「アンタ、今日仕事あるのか?」

「ないね。」

「そうか。では、ゆっくり休んでくれよ。済まないが俺はそろそろ帰って寝ないといけない。職務中に()っ倒れては、徹夜で何を企んでいやがったのかと虹剣に訝られたり、まさか留守の間に人の女に手を出したのかと雷帝に怪しまれたり、また、やっぱり体の調子が悪いのかと過保護な氷刃によって病院に戻されたり、まあ、とにかくロクなことがない筈だ。済まんが、もう寝る。」

「ああ、無理しない方が良いだろう。僕も寝よう。しかし、ケイン君、」

「何だ?」

「何故、ミネルヴァは君のことをそんなに可愛がるのだろうかね。過保護気味に病床に縛めたのはともかくとして、半世紀に渡る婚約者を裏切るというのは尋常でないと思うのだが。」

 立ち上がった俺は、首をボキボキ鳴らしつつ、

「さあな。」

 言葉とは裏腹に、俺は、雷帝の語っていたことから二つ程思い当たっていた。ミネルヴァは、あるいはカッティーナは、両親を奪われた忿怒と怨嗟を、愛情への渇望にすげ替えてしまっているのだろうという話と、そして、愛は本来分類不可能なのではないかという話とをだ。つまり、歪んだ部下への愛情は、同じくらい歪んだ、男への愛情にもなってしまったのかもしれない。あるいは寧ろ、その忿怒と怨嗟が、直接性慾へと転化したのか。この性慾を軽蔑することは出来ない、同じように歪んだところを根柢とする、彼女の懐胎への宿望に由来している筈なのだから。理不尽に破壊された自らと両親との関係を、せめて手ずから自らの子に与えたいという思いを蔑むことは、幾ら俺でも、幾ら持ち主が氷刃でも、決して出来ない。


 赫々たる朝焼けで全てが火事の最中のように赤い、誰も居ない広い帰り道、俺は考えながら歩いていた。これまでに何か見落としてはいないだろうか。氷刃の弱点の発露を忘れてはいないだろうか。ええっと、ヴェロが指摘してきた、不可思議な出来事とは何だったろう。確か、まず、それほどの治癒呪文の使い手であるならば、何故ミネルヴァは腹を吹き飛ばされた俺の治療を自身で行わなかったのか、ということと、後は、何故試合開始の直後に、魔女の魔力をとっとと奪ってしまわなかったのだろう、ということを指摘された筈だ。前者は一応の説明がつく。過保護気味のミネルヴァが、万一にも自分の勝手な治療で可愛い部下を毒するわけに行かないと思い、近くに会った医院に担ぎ込んだということなのだろう。まあ、あれほどの魔術師でも場合によっては治療を躊躇いうるのだということは、有益な情報であるのだが。もう一方の、魔女へのジャガコウィスを渋った理由についてはよく分からない。野暮だろ、という説明も出来なくないが、ならば最後まで使うべきではなかったろうし、また、手加減という気遣いが相応しい場面とも思えなかった。しかも直前に魔女は氷刃を揶揄っていたのだ。あの短気なミネルヴァが、そんな気遣いをするだろうか。いや、もしかすると苛立ったからこそ、侮辱というか意趣返しというか、最初魔女に対して無礼てかかったのかもしれない。いや、しかし、あの氷刃が、苛立ちを原因としてそのような身勝手な真似をするだろうか。短気なれどその怒りを決して振りまかないという人格が、あの魔術師の人望を、英雄に相応しき名誉を与えてきたのではなかったか? あの女達はそういう名誉を何よりも重んじるのではなかったか? すると、何か説明がつくのか? 実的な理由で、氷刃は魔女の魔力をいきなり奪い尽くすことが叶わなかったのか?

 俺はふと足を止めた。蝶が一頭、看板の上に留まっていたのだ。俺の腰くらいの高さの、恐らく本来白いんだろうが、しかし朝日を存分に浴びている為に熟れた橙のような色になっている四角い看板の上で、同じく朝の侵掠をそのままにしている、その小さな蝶は、珍しく風流心を搔き立てられた俺が一歩近づいただけで、ひらりひらりと羽搏き始めてしまった。白い羽が、空気を叩く度に光を照り返す具合を変貌させ、ぱちぱちと、そこで何かが点滅しているかのように見える。俺はつい見上げてしまい、その蝶が、煉瓦で出来た二階建ての屋根の向こうに消えていくのを見届けた。

 また歩き出しながら考える。何故、俺は蝶にあそこまで心引かれたのだろう。何か、今考えていることと関係があるのだろうか。考えていることといえば、氷刃のことしかない。まるで一度寝た女にぞっこんであるかのようにミネルヴァの事ばかり考えている俺が、蝶に気を取られるということは、あの蝶は、ミネルヴァに何か関係があるのだろうか。ミネルヴァと蝶といったら、一つ思い出されることが有る。初対面の日、ミネルヴァは、恐ろしく似合わない蝶の髪飾りを氷で作ってみせた。その造形の精緻さに驚かされつつ、同時に残念な趣味を持っているのだなとも思ったわけだが、しかし、結局あれ以降でミネルヴァが髪飾りを作ったことはなかった。というか、身を着飾ることすら、今日というか昨日というか、とにかくさっきの強姦の前に引かれていた控えめなルージュしかなかったのだ。事実、氷刃自身も見てくれには全く構わないと述べていた。では、あの蝶は何かの意味があったのか。一応考えてみるか。ええっと、あの氷の蝶が象られたタイミングと、消されたタイミング、これらはどうなっていたかな、

 他に誰も道に居なくて良かった。「あぁあ!」と俺は叫んでしまったのだ、首の骨を素抜かれた様な驚愕に、ばさばさと音の鳴るような閃きに、そして耐え難き美しさによって、打ちのめされたのだ。自らが頭の中で紡いだ筈なのに、その論理はあまりに美しく、路傍の蝶だの、極上の女だのなんてものがどうでも良くなってしまった。これは、もしかするのかもしれない。勝てるのかもしれない、俺は、俺達は、我々は、氷刃の首を取ることが可能であるのかもしれないぞ!

 俺は、踵を返して編輯者を叩き起こそうと思ったが、思い直して、宿舎への帰途を急いだ。一度整理してから持ちかけるべきだろう。あまりにも満足させられた媾合と黝い徹夜により、沼に嵌まったかのように重かった俺の足腰の運びが、否応無しに軽やかとなる。ああ、どうしよう。この興奮をどうしてくれようか。寝られるわけがない。これほどの、これまでの四半世紀にも満たない人生で、しかし間違いなく最も美しい論を見出してしまったケイン・バーレットが、眠りに就けるわけがないではないか!

 俺は最早走った。せめて疲れ切ることで、そして興奮を足の裏から道路へと叩きつけて摩耗させることで、少しでも就寝の難易度を下げようと試みたのである。 

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