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8 死神と刺客

     8 死神と刺客

 当たり前だが、俺の体にはその後も何も起こらず、果たして平凡に退院となった。そしてその翌日である今日は、執務室にて朝からせっせと補佐官としての仕事に励んでいる次第である。どういう術を使ったのか分からないが、ミネルヴァや俺がずっと休んでいたのにも拘わらず、こなすべき仕事は全く堆積していなかった。以前氷刃の語っていた、その鍛練の時間を無くさせるわけにはいかないから軍務官に振られる仕事は制限されている、と言う話、あれの都合なのだろうか。

 と言うわけで俺が早々に薄い書類の束を片づけ、ああ、今日は何をしようかと、建設的なことをして明日からの負担を減らすか、それとも仕事をしている振りをしてミネルヴァを()っ殺す算段でも練ろうかと、考え始めた矢先、丁度部屋の主が帰ってきた。彼女は朝一から会議に出ていたのだ。

「お帰りなさいませ。」

 俺が適当に言うと、ミネルヴァはいつもの様に席に着かない。

 首を傾げそうになる俺に対して、

「ケイン、こっちに来て下さい。」

 俺は立ち上がって、適当と思える距離を適当に取りながら氷刃と対峙した。その顔から話題の吉凶を占おうと思ったのだが、相変わらずの無表情が俺の想像を妨碍する。まあ、怒り狂っていないことだけはやはり何となく分かるのだが、

 その無表情の下半分が蠢いて、

「ケイン、『気をつけ。』。」

 俺は怪訝な顔を浮かべてしまいながらも、姿勢を正した。

 これを認めたミネルヴァは満足そうに頷いてから、手に携えていたらしい書簡を開き、こちらに見せつけて来る。そして俺がそこの字へ目を走らせるよりも早く、

「ケイン・バーレット。本日をもって、あなたを伍長に任じます。」

「はぇ?」

 白痴のような呻き声が聞こえた。遺憾にも俺の口からである。いやいやちょっとまて、そもそも俺は二等兵なる階級であったのだから、一つ上は当然一等兵なるものである筈で、つまり少なくとも単純な昇格ではなくて、

「三階級の特進ですね。おめでとう、ケイン。」

 あ、こりゃどうも、……ではなくって! この女、そこまでやるのか!

「ええっと、次官殿。自分を評価して下さることはとても嬉しいのですが、しかし、幾ら何でも三階級と言うのは、」

「よく見て下さい、」書簡がずいっとこちらに寄ってくる。「この処遇を決めたのは私ではありませんよ。今朝会議に出向いたら、勝手に決まっていたのです。」

 確かに、末尾に走っているサインはバンウィアー・ズィーズとなっているが、

「そもそも、あなたの二等兵と言う階級は適当に決められたものですからね。前も言った通り、あなたほどの実力がある者が普通の新兵と同じ階級に据えられているということがおかしかったのです。ですから、今回の特進はその補正と言うか修正含みだと思って下さい。……一応言っておきますが、遠慮しておきます、というのは認められませんよ?」

 俺は背筋をしゃきんとさせて、

「いえ、勿論誉れ高きことです。」

 ええい、何と厄介な、ただでさえ最近(まず)かったのに、

 女神の名を持つ魔術師が、その書類を引っ込めて徽章を差しだしてきたので、俺は恭しく受け取るしかなくなった。

「有り難う御座います。」

 ここまできてミネルヴァはようやく席へ向かいつつ、

「昇進と言っても、まあ、あなたのすべき仕事は変わりませんよ。名誉と給与の追加が得られる、位の意味です。そう気負わなくてもよいでしょう。」

 気負うと言うか、まあ、もっと実質的な不安があるのだが、しかし、

「ところでケイン、」未だに棒立っていた俺の背中に、その大きな机の向こうに座っているミネルヴァが、「今日は何か予定がありますか?」

 俺が振り返って曰く、

「いえ、何もありませんが。」

「そうですか。では少し頼みたいことがあるのです。」

「次官殿の為であれば、なんなりと。」と、心にもない台詞。

 しかしミネルヴァは困ったかのように少し黙った。

 それから、

「ケイン、私と言うよりも、バンの頼みなのですよ。今日の業務後、すなわち中食(ちゅうじき)後、彼の仕事を手伝って欲しいそうです。」

 円滑の為に、俺は素直に疑問とちょっとした不安を顔へ浮かべておいた。

「手伝う、とはなんなのでしょう。」

「ああ、いえ、大したことではないようです。私が担当している第七十二団から第百九十二団に関する資料が必要な仕事があるらしく、それらに目を通したいそうですが、如何せん、勝手の分からぬ人間にとっては、この部屋の棚から必要なものを探しだせというのは大変な話ですし、だからといって私にそんな雑用めいたことをさせるのもどうか、という問題があります。そこで、あなたの出番な訳なのですよ、ケイン。バンのちょっとした事務仕事を手伝ってあげて下さい。」

 また虹剣と一緒か。とにかく俺は肯んじようとして、しかし、躊躇った。

「次官殿、バンウィアー長官殿が書類仕事をするのを手伝えばよいのですよね。」

「はい。」

「しかし、その、単純な疑問なのですが、盲目の長官殿がどうやってそのような業務を果たすのですか。」

 ミネルヴァは、その異常な体重を支える為に頑丈に作られたのであろう、背凭れだけで肘置きのない、しかし充分過ぎるほどに重厚な椅子をちょっと仔細らしく揺すってから、

「ああ、その辺は大丈夫なのですよ。とにかく、お願い出来ますね、ケイン?」

「はい。勿論です。」

 俺は快活な返事を寄越した後、席に戻り、バンウィアーという男についてちょっと思索を巡らせながら仕事をしている振りに勤しんだ。


 当然のように仕事を午前中に終えた後、ミネルヴァに、あれ以降度々伴わされている、最初の日に行った食堂へとまた連れていかれた。快気祝いとして一品ぐらい頼んでみせてくれと言われたので、俺が生の野菜を盛ったものを註文すると、

「そういうものをわざわざ食べるという感覚、分かりませんね。私においては、まるで紙を食べているような感想と結果を与えます。」

 そう言いながら氷刃は、いつもポーチの中に入れているらしい、これ以上もなく煮詰めた蒸溜酒、というか最早酒精の原液の小瓶を取り出し、青い偽髪を揺らしながら一口呷った。その喇叭飲みすら絵になるのは、この女の腹立たしい美貌の為だろうか、それともハーゼルモーゼン人故の洗煉だろうか。とにかく、常人だったら一発で引っ繰り返ることになるその飲酒行為を、しかもこれから頼んだ酒も出てくるという状況下で行う感覚は、やはり我々尋常の人間からすれば分からないものであった。

 ミネルヴァの前に殆ど生の肉塊、俺の前に焼かれた肉の切れ端とパン、そしてサラダが並べられ、双方が手を動かし始める。むっつりだんまり食を進めることが多いミネルヴァであり、俺も何となくいつもそれに従っていたが、今日は色々と訊ねておきたかった。

「それで、次官殿はどこに旅行に出ていたのですか。」

「そうですね、まずエンドゥラに、続いてカイマイとケッツェローヌノ、その後はサヴォアジ、キン、ポアロラ、更にウィップニゴーヌ、サイトニュン、ニニヌスベルケル、後はヴォロ島に、」

 記憶を辿る氷刃が、ここで斜め上を見ながら口籠った隙に、

「ええっと、自分が入院していた五日間のことですよね?」

「そうですが?」

「また、随分と巡りましたね。」

「畜獣的、魔獣的、魔術的、あらゆる移動手段を用いましたからね。私であれば同盟国への入国は殆ど顔パスですし、楽なものです。」

「しかし、それにしたって凄まじい旅程ですよ。どこかでゆっくりしたわけではないのですか。」

 女神の名を持つ魔術師は、ナイフとフォークを手放し、柔らかく腕を組んだ。その肘の前に、遅れて運ばれてきた酒が置かれる。

「私は、()()()に入ってから四年ほどで軍務官となりましたからね。軍務官となってからは、少ないながらもほぼ毎日ある業務と、この国に腰を据えて威信を守ることが軍務官としての責務の一部なのだという風潮により、私は殆ど国外、いえ、最早都市外に出ることすらありませんでした。外向的な仕事は別にしましてね。また、軍務官に至るまでの四年間はやはり日々鍛練に明け暮れつつありましたし、しかも一種の〝お尋ね者〟であったわけです。うろうろ出来る余裕などありませんでした。そして、()()()に来るまではあの忌ま忌ましい」

 ここでミネルヴァは、本当に苛立たしげな間を取り、いつもの無表情ながらも、しかしやはり激昂の気配を感じさせたのであった。

「……忌ま忌ましいハーゼルモーゼンに住んでいたのですから、物見遊山の外遊など夢のまた夢であったわけです。半分王族であった私の家ですら、国の外に出るなど考えられない、そういう閉鎖的な国勢でした。

 つまり、私は殆ど世の中を知らないのですよ。普通の人間の倍も生きているのにね。」

 その奇妙な計算感覚を聞いて、憎いハーゼルモーゼン的な時間軸が、しかし身に沁みているのだな、と俺は思った。

「ですので、今回の旅行では、本当に出来る限り多くの土地を訪れることを目的としまして、実際、そうしました。」

 氷刃は、表情を作れない代わりのつもりなのか、目を外し、首を悩ましげに傾げ、ちょっと息を吐いた。完全な肌と小振りな顎が、まるでこの食堂の雑踏的雰囲気をぴかぴかと撥ね除けている様に見える。

「世界各所の、壮大にして美しい、あるいは逆に神々しいほどに汚らしい、とにかく素晴らしく力強い光景達は、いかに、私が井の中の蛙であったかを知らしめましたよ。」

 外れとはいえ王女の娘であり、つまり上流階級の娘であり、時折暴力沙汰を起こしつつもそれなりに箱入りとして育てられていたミネルヴァは、――いや、カッティーナは、その直後にこの軍に入ったわけだ。雷帝や、いま氷刃本人も語っていたように、凄まじい真剣さで日々の鍛練を行っていたのであれば、成る程遊んでいる暇など殆どなかったに違いない。男も、体だけでなく心の意味でさえ、ザナルドしか知らないのではなかろうか。世界第二の魔術師という高みへこの女を運んだ情、覚悟は、その成果の代償に、この女から俗的人間らしい経験を根こそぎ奪ってしまっているのかもしれない。そういう、一切の猶予も認めない、ぎっちり朝から晩まで職務と修練でぎちぎちに詰まる雰囲気は、この女の著作からも感じ取られたことだった。

 その後、各旅行先での話について俺が訊くと、ミネルヴァはいつも通りの物静かな口調で、しかし何となく楽しげに感想を述べ連ねた。エンドゥラの力強き火山、カイマイの緑に囲まれた空色の湖、ケッツェローヌノの埃っぽい職人通り、水の都サヴォアジ、キンの黄金城、ポアロラの七つ天橋、ウィップニゴーヌの容赦なき沙漠、芸術の殿堂ことサイトニュン大学、ニニヌスベルケルの怪しげな古代遺跡、ヴォロ島に渡るときのキメイラ獣の背中、ヴォロ島の夕日に染まる砂浜、ナナメイの港で見かけた女王号の白亜の船姿、フルニーの塔、ロッシェン燈台から靄の中を翔けて船乗りたちを助ける光。いかにも取り留めのない話を続けるミネルヴァは、いつも装っている寡黙をついつい裏切りつつあるということなのだろうか。生まれて初めて世界を見たことの興奮が、命懸けで鍛えた演技力を打ち破りつつあるのだろうか。

 食事の終わりに、ミネルヴァがぽつりと、

「そういえば、言いそびれていたことがありました。ケイン、あなたは今日用事がないのですよね。」

「ええ。」

「でしたら、バンの手伝いが終わった後、(うち)に来ませんか。私からもきちんと礼をしたいのです。」

 俺は恐縮を演じる必要を得た。

「それは、何と畏れ多い。しかも、既に次官殿からは褒美と言うか、お金を頂いておりましたが、」

 何のことだか本気で分からなかったようで、ミネルヴァは一瞬間を置いてから、

「ああ、何をあなたは言うのでしょう。ケイン、あんな小遣い金を渡して、私が満足と言うか、それで良しとすると思ったのですか? 心外ですね。」

 あの金額が小遣いかい。

「とにかくあなたにはきちんとお礼をしたいのですよ。(うち)で夕食を振る舞わせて下さい。ああ、御安心を。(うち)の使用人たちは私のザンの世話をも焼いているのですから、あなたの口に合うものがちゃんと出せますよ。山盛りの葉っぱとかね。」

 俺は少し笑ってから、

「別に、野菜ばかり出されれば幸せと言う訳ではないですよ。特に、俺のような若造は。」

「きっとそうなのでしょうね。とにかくケイン、来てくれますね?」

「それはもう、勿論です。」

 ミネルヴァの情報に餓えている俺に、断る理由はなかった。その邸宅の様子から何か得られるかもしれないし、雷帝と氷刃が顔を突き合わせる様も、良く考えればこれまであまり見ていない。有意義な食卓になりそうだ。


 そんな食事の後、ミネルヴァと別れて一人執務室へ戻った俺はぎょっとした。急いでその扉の前へ駈け寄る。

「これは、申し訳ありません、お待たせしてしまったようで。」

 扉の前で待ちぼうけていたバンウィアーは、至って尋常に、

「ああ、いや。俺が早過ぎただけだから気にするな。まあでも、早速開けてくれるかね、ケイン。」

「はい、只今。」

 俺はしずしずと鍵を錠前に差し込んだが、しかしそこで手を止めた。

 振り返って曰く、

「長官殿、お一人ですか?」

「ん? ああ、お前が居てくれれば足りる用事だからな。」

 てっきり、補佐官と言うか秘書と言うか、とにかくそのような人間の手厚い庇護によって盲人バンウィアーの書類仕事がなされると思っていたので、俺は拍子を抜かしつつ、同時に、自分が何かややこしいことをさせらされるのかと恐々とするのであった。

「おい、開かないのか?」

 別に苛立ちはそこに無かったが、俺は慌てて、

「ああ、はい。只今。」

 俺に続いて部屋へ踏み入ったバンウィアーは、首というか胸というか、とにかく鎖骨の狭間辺りに手を宛てがい、ぎゅっと握った。それと同時に、舌を頻りに打ち鳴らす。成る程、真珠色の魔具の刻む音では頼りない場合にはそうするのか。

 速やかに部屋の全容を得たらしい、光ではなく魔を見る剣士は、

「ミニーから、アイツの机を使っていいと言われているが、何かややこしいものが乗っていたりするかね。」

 ちらと見て、

「あなたにも見えている、いや、聞こえているかもしれませんが、」

「言い換えてくれたのは結構だが、それはそれで言葉がおかしくないかね、ケイン?」

「そうですね、では、『認められている』?」

「それだと『見えている』と殆ど代わっていないのだろうが、とにかく、俺が知覚していると思しき代物とは、何だ?」

「その、机の上に書類の山が二つ並んでおりまして、」

「ああ、それなら気が付いているよ。うっかり触ったら雪崩れそうだな。」

「そうですね、お気をつけ下さい。後は特にありませんね。いつもなら転がっている筈の細々した品は、次官殿が片づけたようです。」

 ここで、俺がつい首を傾げた。

 音なり魂の観察なりでこの動作に気が付いたらしいバンウィアーが、

「どうした?」

「いえ、あまりに片付き過ぎてペンもインクもない有り様なのでお持ちしましょうか、と言おうとしたところで、あなたが手ぶらで来ていることに気が付きまして、」

 虹剣は頷いて、

「ああ、構うな。書き仕事は帰ってからするよ。物覚えには自信があるからな。」

 俺はちょっと考えてからようやく納得した。

「まさか、必要な記録を全部見て記憶してしまうつもりですか?」

「勝手の分からない机でせっせと作業するより効率的だろ? 折角生まれ持った記憶力なんだ、活用しないと損さ。」

 バンウィアーはそう言うと、相変わらずその盲目性を疑わせる、はきはきした歩調で勝手に歩いていき、いつもミネルヴァの腰掛けている椅子の脇に立った。そして右手で口を覆いながら、「この部屋は臼砲の弾でも飛んでくるのか?」と言いつつ、その大き過ぎる椅子に何とか腰掛ける。いかにも居心地悪そうにその眉根が寄った。

「さて、ケイン。そろそろ始めよう。これから俺の指定する記録を持って来てくれ。」

「はい。」と俺が机の反対側から歩み寄る。

 座り辛い筈の椅子の上で、足をどうにか組むことで優雅を装ったバンウィアーは、見たことのない俺の顔を、一本の指でぴしゃりと指した。上官だからこそ許される振舞を始めてされた気がする。

「まず、キリウス暦七五一年での兵站の記録を持って来てくれ。」

 遺憾にも氷刃の小間使いが板についてきていた俺は、速やかに然るべき綴本を取ってきたが、

「ええっと、長官殿、どうすればよいでしょうか? お渡しすれば、」

「いや、そのまま持っていろ、というか、当該頁を開いてくれ。で、魂、というか胸の前で拡げるんだ。そしてもう二歩こっちに寄れ。」

 俺が首を傾げつつ従うと、虹剣は服の内にしまってあったらしい、緑色の液溜めを伴った霧吹きを取り出した。そして俺に反応する猶予すら与えず、ブシュ、

「っと、」

 貴重な古書に水を()ちかけられたと思った俺は――ミネルヴァの逆鱗にも怯えつつ――呻いたが、

「ああ、案ずるな。こいつの溶媒は紙もインキも侵さん、……筈だが、」

 光ではなく魔を見る剣士が僅かに自信をなくしたので、俺は自分の胸許を確認し、そしてほっとした。

「確かに、湿っているだけで何ともありませんが、」

「よし、では次の頁を開いてくれ。」

「はい?」

 俺がまた従うと、虹剣は再び霧吹きで液体を()ちかけてくる。その、画材のような、弱くない香りは、確かに水の液でないということを俺に理解させた。

「長官殿、何をしているので?」

 既に乾きつつある見開きを虚しい青い双眸で睨み続けていたバンウィアーは、俺の顔の方に偽りの視線を向けて、

「ああ、説明しておいた方が良いか。この液体には、〝風〟の魔荷(チャージ)が仕込んである。で、紙には染み込みやすいが、インキには弾かれやすい溶媒を使っているんだ。」

 ちょっと考えてから、

「ふむ、つまり、あなたの〝識眼視界〟の中で、文字の部分だけが浮き彫りになるわけですか。」

「逆だ逆。言うなら〝沈み彫り〟だな。」

「ああ、そうですね。成る程、色々考えられているのですね。」

「こちとらお前が生まれる前から盲人として、そして軍務官として働いているのだ。そりゃ洗煉されるさ。ああ、で、次は、ウィップニゴーヌ戦役の資料を粗方持って来てくれるか。」

 俺は、一応振り返って見せてから、しかしやっぱり回れ右をし、

「申し訳ありません、長官殿、その、」

 光ではなく魔を見る剣士はこれだけで察したらしく、呆れ顔で、

「キリウス暦七三十二年だ、馬鹿者。」

 その気の抜けた窘めに対して、

「諒解であります、親愛なる長官殿。」

 と、俺もやや慇懃無礼な滑稽で返すのであった。


 その揮発性にも拘わらずすっかり俺が画材臭くなった頃、虹剣がぽつりと言った。

「ケイン、何時だ?」

 ここは普段ララヴァマイズ軍務次官(と俺)が居る部屋であり、当然振り子時計の針に魔力を仕込んであったりはしない。と言うわけで俺が読む。

「――――ですね。」と、午後三時に相当する時刻。

 これを聞いた虹剣は、両手の指を絡ませつつ伸びをした。その童顔が心地よさそうに歪む。

「頃合いかな。ケイン、少し休もうじゃないか。茶でも淹れてくれよ、お前の分も合わせて。」

 俺は困る。

「ええっと、しかし長官殿、ここにはそう言う道具や茶葉がありませんで、」

「そりゃ無いだろうな、ミニーにとっては暖かい下剤なのだし。だから、俺の部屋に一度戻ろう。」

 大袈裟な椅子に苦労しながら勝手に立ち上がった虹剣は、俺が未だに渋面のままでいるのを魂の観察を通じて知ったらしく、

「どうした?」

「実はもう一つ懸念がありまして、」

「何だ?」

「自分は、次官殿に仕えてからはともかくとして、少なくともそれまでは上品な人間ではなかったのですよ。」

「案ずるな、言葉と雰囲気の端々に醸し出されているよ。それで?」

「ということは、当然茶だなんてものを淹れたこともなく、そして、次官殿の元に居る限り、その必要も得られず、」

 バンウィアーが机の向こうから回って来ながら手を振った。

「ああ、成る程な。淹れ方が分からんのか。お前が軍人でなかったり、あるいはここが軍舎でなければ俺が淹れるなり教えてやるなりしても良いが、しかし、残念ながらそうでない以上、俺とお前は上官と部下の関係な訳だ。

 まあ、何とかして淹れてみろ。どんな代物が出てくるか楽しみだ。」


 しばし後、俺がアップルティ用の茶葉を煮たくった結果得られたものが注がれたカップを口許へ寄せたバンウィアーは、眉間に皺をびしびしと刻んだ。この、いかにも黒過ぎる液体の様子が見えているわけもないので、きっと、林檎の乾燥砕片がこれでもかと沸き立たせた果実臭が顔面を叩いたのだろう。

 虹剣はいかにも嫌そうに口を付けて、すぐカップを皿の上に戻すと、

「ケイン。一口飲んだら、そこの保冷庫からミルクを取ってこい。」

 どれどれ。………、うん、成る程。

 俺の腰はとても軽かった。

 白の侵掠によっていくらか色も味もまともとなった紅茶、のようなものを数口飲んでから、

「ケイン、どうやって淹れたんだ?」

「ええっと、二杯分の水に茶葉を入れまして、」

「……どれくらい?」

「五六杯でしたかね。」

「……で?」

「それで、見た目が変わらなくなるまで煮立てました。」

 この世で最も強力な魔術師が、目を閉じて首を振る。

「まず、茶葉はその半分くらいで良い。が、それよりも何よりも、茶というのはな、茶葉を煮るんじゃない、沸いている湯を茶葉に注ぐんだ。それで充分だ。」

「ああ、そうなんですか。」

「水と一緒に煮たりしたら、そりゃ何もかも濃すぎるに決まっているだろ。しかも、特に渋味が強調されるわけだな。まあ、今回は俺が無理して淹れさせたわけだから文句は言えんが、しかし、実際お前の主が誰かを持て成すことになったらどうするんだ?」

「ミネルヴァ・ララヴァマイズ曰く、優しい隣人が秘書を貸してくれるであろう、と、」

 バンウィアーは鼻から息を漏らして笑い、

「そりゃ頼まれれば貸すがよ。全く、ミニーはそのあたり磊落というかなんというか、」

 その時、部屋の扉が三度叩かれた。バンウィアーがすぐに「誰だ?」と声を張った為、俺は部下としてそのノックに応対すべきか、招かれざる人員としてだんまりしているかを悩まずに済む。

 返事を聞いただけで勝手に入ってきたのは、女であった。俺や虹剣よりも背が幾らか高そうなその女は、どうも軍人に見えない。その、権威を装う為と思しき、只管に大袈裟な、巨大なクリーム色の花びらを幾重にも重ねたような衣服は、仮に魔術師だとしても、あまりに戦闘に差し支えのある恰好にしか思えないのである(どっかの赤毛はもう少し着た方がいいとは思うがね。)。その顔は、三十台くらいの女に見え、あまり美人な方ではなかったが、しかし、いや、だからこそなのか? とにかく強かさと厳しさがその優雅な笑顔の奥に忍び込まされているような気がした。

 誰だこいつ? と俺が思う間に、

「これはアアリスさん、何か御用で?」

 虹剣が立ち上がってそっちに向かいだしたので、俺も急いで席を立つ。そうか、最高位の軍人バンウィアーの執務室に、無礼千万で侵入出来る人間など、同僚の他には一人しか居ない筈であった。虹剣の妻、というか女主人、下院議員アアリス・ズィーズ。あのミネルヴァを優に凌ぐ戦士であるバンウィアーを婿にしたこの女は、やはり只者ではないのであった。〝議場の死神〟の異名を持つズィーズは、議員の仕事はさておいて――そもそも真面目に本来の職務のみに取り組んでいる議員なんてものは古今東西存在しない気もするが――他の功績が著しく、政治家の分際で不老者に選ばれたとんでもない女である。一応、下院の平議員以上にはならないということで、永遠の独裁的政治力が発生しないようにしているらしいが、大体、逆にこの女が落選したらどうするつもりなのだ。まあ、実際のところは百年近くにわたって得票率ほぼ百%で当選しているらしいがね。不老者の資格を与えられるほどの功績と名声が、この女を名誉永世議員のような存在にしていた。実権が然程ないことも含めて。

「用事、という程のこともありませんがね。丁度良い時間にあなたの部屋の前を通り過ぎましたので、もし切りが良ければ一息入れませんか? と言いに来たのです。」

「ああ、ああ、そうでしたか。そうでしたか。いや、御覧の通り、丁度俺たちもでしたよ。」

「それは都合よいですね。御一緒しても?」

「ええ、はい、勿論ですとも。」

 俺はがちゃがちゃ揺さぶられた気分になった。死神と虹剣の会話によって乱されるのだ。理由を一瞬考えた後に納得する。おかしい。ズィーズ議員が言葉を発すると何となく安心あるいは油断させられるのに、バンウィアー長官が言葉を発すると不安ないし心配になるのだ。まだ会ったばかりで良く分からないが、恐らくは海千山千の強者であろうアアリス・ズィーズと、存外取っつきやすく、しかも素直に感情を顔に出す傾向のあるバンウィアー・ズィーズ、何故この二人が違った印象を俺に与えるのか。答えは、もしかすると明白であるのかもしれない。俺はゾクリとした。

 俺が落ち着きを得ない内に、ズィーズ議員がこちらに寄ってきてしまう。俺は窮した。ええい、どうすればよいのだ。

「おや、丁度お茶を淹れていたのですか。私にも頂けますか。」

「幸いなことにアアリスさん、もう空っぽなのですよ。」

 死神が夫の顔をじっと見て、

「意味が分かりませんがね。」

「聡明なるあなたであれば、こう言い添えることで理解して下さるでしょう。アアリスさん、申し訳ないのですが、茶を淹れてもらえませんか? 早急に口直しがしたいのです。」

 アアリスは、その細い目の中の瞳を、ぐいっと動かして俺の方を見た。

「バン、あなたの口を侵したのは、そこの彼の仕業でしょうか。」

「ええ。俺が面白がって無理に淹れさせたので文句は言えませんが、

しかし、偉い目に遭いましたよ。ああ、そうだアアリスさん。折角ですので、そこの彼に茶の淹れ方を見せてやってくれませんか。ミニーの下についていると、どうも知識が偏るようでね。」

 この会話の間、俺の心は全く揺さぶられなかった。不安を覚えなかったのだ。ということはつまり、やはり、しかし、こういう機微や苦悩すら、もしや虹剣の()にかかれば詳らかにされてしまうのではなかろうか、しかし、だとしたら、

「ああ、あなたがあの、ケイン・バーレットですか。」

 俺ははっとしてたじろいだ。

「自分のことなどを、御存知で?」

「ケイン、それは『お前は白痴ではなかったのだな。』と同じ質問ですよ。あなたは今や有名人なのです。先日の、ミネルヴァの命を救った英雄劇の主人公として。」

 (はた)から聞いている分には何も思わなかったが、しかしこうして直接投げ掛けられてみると、何となく背中が寒くなる声であった。もともとこう言う声音なのか、それとも人間としては永すぎる生涯が喉に歴史を刻んだ為か、死神がその生涯であまりに多くの人間を言葉という大鎌で刈った為か、あるいは、今俺が不安に苛まれている為なのであろうか。

「とにかく、バン、彼を連れて紅茶を淹れてくればよいのですね。」

「お願い出来ますか? 茶葉や器具、そして湯を沸かす場所は、そのケインに聞いて下さい。」

「分かりました。では、案内して下さいケイン。」

「ああ、はい。」

 俺は、茶葉の箱を摑んでから、部屋を出ていく死神の背中を追った。有り難い。この死神が扉を開けて入ってくるまでその正体を判別出来なかった以上、虹剣の識眼は部屋の外まで及ばぬ筈なのだ。つまり、こうして部屋を出てしまえば、俺は素直に悩み、魂を顫わせることができる。この、窮地と思しき状況を打開する策を練ることが出来るのだ。

 先程から俺を苦しめている懸念、それは、この夫婦が、俺のことを何らかの原因によって怪しみ、その真の目的を――それが存在するならば――暴いてしまおうと企んでいるのではないか、というものだ。だって、死神を執務室に招き入れた時の虹剣はいかにも演技臭いゴトゴトした声音であったのに、その後俺がまともに淹れ損ねた紅茶に話題が及ぶと、普段通りの滑らかな口調に戻ったのだ。これは、そう、午後のお茶を口実にして、俺のことを夫婦で挟み込むという算段があったのだと考えるのが自然ではなかろうか。議員として、死神として、恐らくは心にもないことを口にする機会が多いアアリスはその洗煉された演技力でそつなく俺を騙しかけ、強者としては幾らか素直すぎるバンウィアーの方が、拙くも俺に違和感と不安を与えてしまったのではなかろうか。そう考えると色々なことにおいて合点が行くのだ。何故、バンウィアーは俺と二人きりになった? 何故部屋を変えてまで、しかも未経験の俺に淹れさせてまで茶を飲みたがった? そして何より、今俺が湯沸かしの部屋まで案内しているこの女、死神だ。何故この女は、ここに居るのだ? 不老者であろうと英雄であろうと、何故一議員がこんなところ、軍務官や軍務補佐官の執務室が並ぶ、()()()において最も厳めしい廊下をたまたま通る機会を得るのだ? もしも然るべき理由があるとすれば、精々夫であるバンウィアーへの用事だろうが、しかし、その唯一の可能性はアアリスの言葉によって否定されているのだ。つまり、実際にはついでなどではなく、この部屋に来ること自体を目的としていた可能性が高い。そう、魂を見ることで感情を察するバンウィアーと、数多の人間の欺瞞を切り裂き、小悪党から大悪党まで地獄に叩き落としてきたアアリスとで俺を挟み撃ちにすることで、ケイン・バーレットという人間を改めてしまおうという企みがあるのではなかろうかと、俺は思うのだ。


「普段は家の使用人に任せきりですのでね。たまには自分でこうするのも楽しいものです。」

 言葉の大鎌で人を刈る死神は、()()()()ではありふれたものだったのだろう、俺が先程四苦八苦した魔導式焜炉を綽々と使いこなし、その火の上に、たっぷりと水を湛えた背の高い薬鑵を乗せた。

 俺が歯切れ悪く、

「ええっと、ズィーズ議員殿?」

 死神はその顔をこちらに向けて、微笑みつつ、

「はい、その呼び方で構いませんよ。」

「では、一つお訊ねしてもよいですか?」

「ええ。」

「何だって、そんなに大量の水を沸かすのです? 三杯分を優に越えている気がするのですが。」

 議員は、ふふ、と笑って前を向いてしまう。

「成る程、あなたは本当に紅茶に疎いのですね。」

「お恥ずかしながら。」

「まあ、見ていれば分かりますよ。」

 それきりアアリスは黙り込んだので、俺も黙り込んで考えることが出来る。この女、アアリス・ズィーズは奇特な経歴の持ち主であった。当時、早世した父親から地盤と支持者を受け継いだ、一人娘のアアリス新人議員は、何と、自らの所属する誠心党の党首を収賄行為で弾劾したのだ。確かに父親は文官ないし軍官の不正を見抜いて弾劾することを得意とする議員であったのだが、よもや身内にその刃を向けるとは、きっと当時の議会は、敵対する憂慮党も含めて、ひっくり返ったような騒ぎになったに違いない。その後当然の如く離党したアアリスは、世にも珍しい無党議員として、最早何ら(しがらみ)なく好き勝手に活動を行ったのだ。もともとズィーズ家は相当の名家であり、寝ていれば勝手に資産が増えるような境遇であるらしく、アアリスは無尽蔵の資金を有し、また、その潔さに魅せられた者らからの圧倒的支持を得ていた。汚いことをしている役人や政治家が処分されて気分が良くならない民衆というのは稀であろうから、その人気も当然なのだろう。結果誰にも止められなくなったアアリスは、誠心党の議員も憂慮党の議員も分け隔てなく、時々には思いだしたように弱小党の議員の社会的生命を絶ち、また情報が手に入れば議院以外の高官をもビシバシ糺弾していき、そしてついには()()()が、不老者として、すなわち英雄として認めねばならない存在になったのだろう。このアアリスがその力によって、不老者を決定する機関(具体的にどこなのか知らない)に圧力をかけたということも疑りたくはなるが、きっと違う。何せ、アアリスを買収しようとしてそのまま汚職で逮捕された人間は数も知れないそうだから。きっと病的な清廉さこそが、この女を死神たらせ、ついには、若かりしバンウィアーを救うほどの、国外にも渡る情報網を育ますことになったのだ。

 水が沸いた。死神は薬鑵を火から上げると、焜炉の脇に用意しておいたポットとカップに、その白湯を注いだのである。

「こうして、」次の手を動かしながら、「まず道具を暖めるのです。いきなり本命の茶や湯を注いでしまうと、冷めてしまいますから。」

「ああ、成る程。」

「そして茶葉を、そうですね、注ぐカップ数と同じ杯数くらい、空にし直したポットに投じます。そうしたら改めて、勢い良く湯を注ぎ込むのです。」

 言葉の通り、死神は、安い曲芸でもするかのように、高く掲げた薬鑵から湯をティポットへ注ぎ込む。

「こうすることで茶葉が躍り、味が良く出ます。また、沸騰する直前か直後の湯を使うのが基本です。煮すぎると味が落ちますので。」

「躍る方は分かりますが、水を煮立てすぎると良くないのは何故でしょう?」

 死神は首を傾げて、

「残念ですが、原理はちょっと分かりませんね。バンのように自然科学に明るいものなら知っているのかもしれませんが。ああ、そして、適当量の湯を注いだらこうしてすぐに蓋をして、待ちます。――――くらいですかね。」

 三分に相当する時間を述べたアアリスは、その時間に対応する砂時計をひっくり返した。三分か。死神に訊いてみたいことが幾つかあるのだが、流石に短すぎる。ここは、自分の中で情報を整理して過ごすか。

 この、言葉の大鎌で人を刈る死神は、当然の如く大量の敵を作った。しかも政党からの庇護も得られないという状況である。資金は自前で賄え、票は勝手に民衆から集まってくるから良いのだろうが、問題は、もっと低俗というか露骨というか、そういう手段を介しての攻撃だ。そう、丁度先日どこかのミネルヴァが襲われたように、このアアリスも何度も暗殺の対象にされているのだ。しかもこの女には、「誅伐は足によってなされる」とか何とか言って、如何わしい場所へ自ら取材調査に出かける習慣があるらしい。こんな危なっかしい女が未だに生き残っているのは、それなりの理由があり、

「時間ですね。」

 その呟きに気を戻された俺が見ると、確かに砂時計が落ちきっている。

「後は簡単です。軽く茶葉を混ぜてから注いでいくだけですね。公平に、そして一滴も残さないように注いでいくのですが、この、一滴も残さないということには気をつけて下さいね、最後の一滴が最も風味豊かなのですから。」

 せっせと教授と実演が始まってしまったので、俺の思索は中断させられざるを得なかった。

 

「流石ですね、アアリスさん。」

 最初に俺が拵えた泥水とは異なり、澄んだカラメルのような色と、言われて気が付く幽かな林檎の香りを持つその液体を一口飲んだ虹剣は、とても嬉しそうにそう呟いた。作法など知らないが、最後に口を付けようと思っていた俺は、死神にやや遅れてカップを口に運ぶ。成る程。正直俺の好みからすれば上品すぎる味だが、しかし、暖かい茶が喉をゆっくりと降りていき、続けて行う息に乗じて快い香りを呼び起こしてくる様は、まあ、悪くない。

「どうですか、ケイン?」と死神。

「ええっと、ああ、はい、とても美味しいです。」

 俺は、目一杯緊張した振りをした。俺の予想というか不安が正しければこれからとんでもない詰問が行われるわけだが、その切り出しの瞬間にいきなりどきまぎするようでは、素人相手でも半ば白状したも同然である。ましてやこの二人相手、そんなへまは絶対に犯せない。特にバンウィアーだ。俺も見た目の装いはそこそこ得意になってきたが、しかし、魂の方まで演技を張れるわけがない。故に、半ば自己暗示を試みてでも、俺はこの時点から大いに緊張している必要があるのだ。

「ケイン。」カップを下ろした死神。「折角会ったことですし、あなたに訊いてみたいことが幾つかあるのですが。」

 それ来た!

 魂の方は知らないが、顔面の方では平静を装いつつ、俺もカップを皿に戻して返す。

「まさか、自分を取り調べるおつもりで?」

 このカウンターに、流石、言葉の大鎌で人を刈る死神はその弱い微笑みを微塵たりとも揺るがさなかった。だが、ああ、夫のほうは駄目だ。あからさまに目を見開いて、一瞬ではあるが、しかし確かに固まってしまったのである。間違いない、俺は今ピンチだ。魂の蠢きを見抜くことが出来、また最も聡明な頭脳を持つバンウィアーと、嘘と欺瞞の世界を戦い抜いてきた、議場における最強の〝戦士〟アアリス、この世界で最も恐ろしい夫妻相手に隠しきらねばならぬ。俺の目的、ミネルヴァの謀殺を。

 ふふ、と笑った死神は、

「いきなり何を言うのです、ケイン? 驚きましたよ。」

「あなたこそ(とぼ)けますね。死神アアリスの永い議員生活において、質問しただけで警戒されるのは、日常茶飯事であったと想像されますが。」

 また死神が笑う。

「噂通り、はっきりとものを言う青年ですね。まあ、構いませんよ。

 しかし、私は本気で驚いたのです。確かに私が標的とし得る役人や議員があからさまな緊張と敵意を向けてくることはしばしばですが、しかし、……ああ、言っては何ですが、一兵卒に過ぎないあなたの様な存在からそう怖がられることは中々ありません。もしや、何か、後ろめたいことでも。」

 笑顔は崩れていないが、しっかりとカウンター仕掛けてくる。とにかく応じねば。

「まず、自分はもう兵卒ではないのですよ。今朝、伍長に昇進しまして、」

「ああ、それはおめでとう御座います。しかし今の場合、本質的には変わりません。」

「その通りです。自分が過敏に反応したのは多少の理由があるのですよ。自分はヴェルガノから渡ってきたばかりなので、あらぬ疑いが掛からないかいつも怯えているのです。ヴェルガノとこの国は、正直仲が宜しくありませんので。」

 その為に過剰反応した、という下り以外は真実だ。つまり、俺はヴェルガノの多くの国民と同じように()()()を嫌っているからここに来たわけだし、また、余計な容疑を懸けられぬようにしているのも本当の話である。このように、欺瞞を構築するのに使う嘘は最小限にしろ、というのはボスからの教えだ。

「成る程。しかし、あなたを疑う者はもうこの国に居ないのではないですか? 何せ、ララヴァマイズ将軍の身を護ったのですから。」

「有り難う御座います。しかし、慎重癖が染みついてしまっており、中々抜けませんで、」

 ここで、氷刃の部屋にはなくこの虹剣の執務室のみに存在している、我々が掛けている応接テーブル、その上に転がっていたティスプーンを死神の指が軽く弾いた。そうしてくるくる回るスプーンが、周期的に魔晶燈からの照り返しの具合を変えて一瞬一瞬俺の目を灼こうとする様は、当人が意識したのかは別として、とにかく死神が鎌を抜く合図となった。

「しかしケイン、分かりませんね。そんなヴェルガノに居たあなたが、何故わざわざ()()()()()()に仕えようとしたのでしょう?」

 心臓の鼓動が二拍乱れた。身動いでしまうのだけは、懸命に我慢する。

 死神の言葉は止まっていない。

「私は一応政治家ですからね。各国の情勢は頭に入れております。ヴェルガノには、そう、強烈にこの国を敵視する地下組織が幾つかあった筈です。」

 クソ、俺の正体はまさにそれだよ!

「ええ、そう聞きますね。しかし、自分はそういうややこしい連中とは無関係です。ヴェロ・ポックという、こちらからみれば父の知り合い、次官殿からみれば信用している編輯者、彼が架け橋となったので、自分はその縁に乗ったまでです。」

「そうですか。しかし不可思議ですね。あなたがそのような組織に与していないにせよ、ヴェルガノには強烈な国民感情、この国への憎悪がある筈なのです。だって、論理的に考えてもそうでしょう? そのような組織が()()組織ではないといけないということは、少なくとも表向き、ヴェルガノは()()()と戦争をしようという気、表立って敵対しようという気がない筈ですよね。だからこそ、この国に対抗せんとする組織が違法扱いされ、地下に潜らざるを得ないのですから。

 そしてこの論理は、実際に正しいのです。ヴェルガノは……ええっと、」

「十六年前ですね。」と虹剣。

「ああ、そうです、とにかくその時期にヴェルガノ政府は()()()に対して屈服していることになっているのです。その腹までは知りませんがね。そしてそのような政府の意向に反してまで複数個の地下組織が()()()を打ち破らんとしている以上は、その国民の間に強烈な意志、敵愾心あるいは彼らなりの義憤がある筈なのです。そこの出身であるあなたが()()()に来たということ、奇妙に感じてしまうのも当然とは思いませんか?」

 最初に思いついた返事は、激昂することであった。そんな誹りは幾らあなたでも許し難い、と。しかし、本気で苛ついていないのにそんな行動を起こしては、バンウィアーに不審がられるかもしれないし、もしもこの矛盾を見逃してもらえても、結局賢い選択ではないだろう。何せ、痛い所を衝かれた悪党と同じ反応になっちまう。

 俺は茶を一口飲んで時間を稼いだ。少々無礼なことを言われていることになっているのだから、この間の取り方は不自然でないだろうし、また、光ではなく魔を()る剣士に、やや動揺している俺の魂が見えるのも自然なわけだ。

 少し強めにカップで皿を叩いてから、

「心外の極みです。俺は、そのような奴らとは無関係です。そもそも、国内の人間の意思が統一されるなどということなど有り得ないのではないですか? だってそうでしょう、あなたが、議場の死神が手に掛けてきた悪党たちも、広い意味で言えば()()()に反抗する連中であった筈です。そのような下らない人間と、あなたやバンウィアー長官殿が同じ人種であるわけがありません。」

 死神は間を取ってから。

「やや乱暴な論理ですが、私やその夫をさり気なく褒めそやそうとしているのは好印象ですね。しかし残念です、そのような御為ごかし、私には通じません。」

 俺はドキリとしたが、

「しかし、そもそもは私が無礼なことを言ったからなのですから、仕方ありませんね。許して下さい、ケイン。」

 俺は素直にほっとした、ほっとすべき場面であるのだから。

 死神がまたカップを持ち上げる。ここで、俺の方から切り出した。

「ズィーズ議員殿、実は自分からも、あなたにお会いしたらお聞きしたい事があったのですが、」

 死神は半ば閉じていた目を、カップを口許にやったまま開き直したのみであったが、虹剣の方は、しっかりと意外そうな表情を見せてくれた。この無学な俺が、政治家ズィーズ議員に質問を投げかけるとは思いもしなかったのだろう。

「なんでしょうか? 議会のことに興味がお有りで?」

 俺は切りだす。こっちからの質問で時間を稼ぐことで、この危険すぎるお茶会をさっさと終わらせたいのだ。ポットは空、茶菓子もない、そして仕事の合間の休憩ということになっている。これらを考えれば、二三人、あるいは一人のカップが空になるだけで散会になってくれる可能性は低くない。まさかわざわざ淹れ直しはしないだろうから。

「いえ、正直、〝アアリス・ズィーズ議員〟には殆ど興味がないのです。ああ、勿論、英雄の一人としては敬拝させて頂いておりますが、」

「本題をどうぞ。」

「では。自分は、〝魔術師アアリス・ズィーズ〟にお訊きしたいことがあるのです。」

 カップを下ろした死神が右の口角を上げた。

「魔術師、と言われましてもねえ。確かに一応私にも魔術の心得はありますよ? しかし、あなたの主のほうが余程お詳しいでしょうに、」

「ところがです。」俺が割り込んだ。「ララヴァマイズ次官殿は、所謂〝自然派〟なのですよ。」

「自然派?」

 今度は虹剣が割り込む。

「簡単に言えば、余計な事を考えたり憶えたりすることは邪魔になる、と考える清教徒的魔術師のことです。つまり、ミニーは門外の魔術や理論一般に対して非常に疎いのですよ。」

 死神は両肘を着き、十指を絡めて橋のようにした。彼女のティカップが天井の魔晶燈から遮られ、カラメル色だったアップルティが清宵のように暗くなる。

「成る程。ということはケイン、あなたがララヴァマイズ将軍以外の魔術師に質問を投げ掛ける、という事自体は自然なわけですね。」

「その通りです。」

「しかしケイン、やはり不思議ですね。何故、数多の魔術師が集う()()()の人間を差し置いて、しかもあなたはとりわけ最高級の魔術師に囲まれているのにも拘わらず、この私に、議員生活の傍らに魔術を学んだだけの女に、そのようなことを訊きたがるのでしょう。」

「専門性と、実績ですよ。永すぎる、好奇心が強すぎる、そして敵の多すぎる生涯で出会した数多の危機を、その()()()()の腕前で美事切り抜けてきたあなたにこそ、自分はその委細、極意について訊ねてみたいと思っていたのです。」

 ちょっと間があって、

「成る程。確かに、障壁魔術を実戦で用いた回数で、私の右に出る者は居ないでしょう。最近は戦争沙汰がないことと相俟ってね。」

「あなたなら、矢や銃弾や魔術一般を完全に禦ぐことが出来る障壁を展開出来る筈ですよね。」

「二三撃であれば、絶対に大丈夫でしょう。回数が重なってくると厳しいかもしれませんが、そもそも貼り直しも出来ます。」

「そのような練達の障壁魔術師であるあなたに、自分は色々お訊ねしたいのですよ。」

「何故でしょう?」

「きっかけは、先程議員殿も言及した、先日の暗殺未遂事件です。あの場で自分は腸……でしたっけ? 名前はとにかく、腹の臓器を散々に痛めつけられ、治療されなければ死に至るところでした。」

「しかし、あなたは治療を施されて生きています。」

「勿論そうです。しかし際どい話だったと思うのですよ。何らかの理由で治療が遅れていたら、何らかの理由でへぼな医者が宛てがわれていたら、あるいは、何らかの材料によってあの男の攻撃が幾らか鋭かったら、自分は命を落としていたでしょう。」

「そうかもしれませんが、成る程、あなたは自らの安全の為に、障壁魔術を修めたいと思っているのですか?」

「いいえ、違います。そんなことは、あなたの様な偉大なお方に話を聞かなくとも可能な筈です。市井にありふれた魔術訓練用の書に頼ったりすればよいのですから。」

「ごもっとも。そのような瑣事をあなたから申し付けられなくて良かったです。」

「つまり、あの事件はきっかけに過ぎないのです。そう、生死とは案外際どいものであるということを自分に確認させ、そして、実際あの場では自分が余計なことをしなくとも次官殿は十中八九平気であっただろうという、思いを齎したことが、」

「結果論だ。」遠慮していた虹剣が言葉を発した。「確かにあの程度の炸裂ナイフによるつまらない攻撃など、ミニーには全く届かなかっただろう。しかし、ケイン、それは結果論なのだよ。お前が飛び出した時点では、あの男の攻撃の威力や性質がまるで分かっていなかった筈だ。つまり、もしかするとミニーに死、あるいは不可逆的負傷が齎されていたかもしれない。お前はその可能性を潰したのだ、ケイン、あの日の行動は確かに誇るべきことなんだ。」

 虹剣がまた指を指してきた。俺ではない、俺の襟、そこにくっついている伍長を示す襟章を指している。声の出所や魂の位置から襟の場所を見つけたのだろうか、とどうでも良いことを思いながら俺は、

「有り難う御座います長官殿。しかし、本筋はそこではないのです。何故我々は、あの炸裂ナイフによる氷刃殺しがどうせ無駄に終わっただろうと確信しているのか、そこが重要なのです。」

 やや前のめっていたバンウィアーが、背を向こうに戻しつつ、

「それは、ミニーの造氷術の力故だろう。中でも、飛来物に反応して氷壁が形成されるあれだな。」

「そう、それです。で、ララヴァマイズ次官殿は、その自動形成氷壁を〝障壁〟と呼んだのです。」

 光ではなく魔をみる剣士が、口を一度右手で隠し、再び露にしてから、

「成る程。つまりケイン、お前は、自分というよりもミニーの身が心配で、障壁魔術についてのことを知りたがっていたと、」

 ここからが正念場だ。そろそろ、心にもない返事をしなければならなくなってくる。虹剣の魂観察によって動揺を認められぬよう、堂々とせねばならぬ。そしてまた、このような気負いも最小限にせねばなるまい。視界の得られない綱渡りの始まりだ。

「はい、次官殿のことが心配になりまして、というのも、実際、次官殿のその障壁がなんら効力を示さなかった場面に出会したことがあるのです。」

 俺は、あの暗殺劇の少し前にあった、氷刃砂(まみ)れ事件のことについて語った。

 聞き終えた死神が、気の抜けた笑顔で、

「あらあら、災難でしたね、と言うべきなのか、仲が良いのですね、と言うべきなのかは分かりませんが、とにかく存外愉快そうに訓練をなさるのですね。」

 こんな、親戚のクソ餓鬼共を慈しむような口調で沈黙の魔術師たちの戦いを称するのは、この死神くらいだろう。

 バンウィアーは目を閉じて首を振りつつ、

「勘弁して下さいよ、アアリスさん。我々は、必死に、真剣に練修を重ねているのです。たまたまですよ、そんな塩塗(まみ)れの事態は。」

「ええ、きっとそうなのでしょうね。」

 俺が、

「とにかく次官殿は、ムーン大将殿の、箒を犠牲にするほどの威力の一撃をきちんと禦いだのにも拘わらず、そのような砂掛けは通ってしまったのです。つまり、後者では氷壁が形成されなかったのです。

 こうして自分は不安を覚えたのですよ。あの自動形成氷壁は本当に頼れるものであるのか、と。またあのような事件が起こったら、今度こそ次官殿に危害が及んでしまうのではないか、いや、もしかしたらあの日すら、次官殿は意外と危ない状況であったのでは、と。そう、今バンウィアー長官殿が言及したように。ただ、そのロジックは、攻撃が鋭かったかもしれないという確実な非現実ではなく、防禦が甘かったかもしれないという、有り得なくもない話な訳で、より厄介なのです。」

「ふむ。」

 そう頷いた、言葉の大鎌で人を刈る死神は、夫の顔を見て、

「実際どうなのですか? その、ララヴァマイズ将軍の造氷術というのは、ケインが心配しているような、危なっかしい代物なのですか?」

 虹剣は視線を返さなかった。考え込んでいるようなので、目を向けられたことに気が付かなかったのかもしれない。これがすなわち、識眼をついつい疎かにして思索に励んでしまっている、という意味であるのならば重畳なのだが。

 ようやく剣士が口を開くと、

「分かりませんね。試合相手というか好敵手というか訓練相手というか、とにかくミニーと戦ったことは数もしれない位ありますが、しかし、自分とあいつの戦いでは、そのような現象、なんとなく自動形成氷壁を突破出来た、ということはなかったように思えます。

 まず、ミニーとの戦いでは、開始直後より向こうから激しい攻撃が繰り返されることになります。だから、こちらからの牽制的攻撃がミニーに当たっても、正直よく分からないのです。砂の如くちっぽけな流れ弾による攻撃でしたら、もらっても、ミニーはすぐに治療出来ますし。

 そして、俺はまともな視界ではなく識眼や音によって状況を把握しながら戦うので、ますます、そのような瑣末な話には気が付けないでしょう。まあ、砂が障壁を突破出来た理由が、その力なさ故なのかは分かりませんが。

 後は最後に、俺とミニーとの戦いでは、というか、大抵の強者と俺との戦いは、〝欠虹(けっこう)〟を仕上げる前に俺が無力化されるかどうか、というものでしかない、という事情があります。だから、俺は牽制目的でしか攻撃を行わないのですよ。つまり、つまらない攻撃か、必殺の〝欠虹〟しかないわけで、俺から彼女にいい感じの一撃が入ることは有り得ません。故に俺はその自動形成氷壁の何たるかを、いまいち分かっていないのです。

 勿論、チームメイトとしては幾らか話を聞いていますが、しかし、ミニーは自然派ということもあり、自分の魔術について必要以上のことを知ろうとも語ろうとしないのですよ。だから、彼女自身の身を護ることにしか役に立たない障壁魔術の詳細については、この世の誰も、あまり分からないのです。」

「ふむ。」死神が口を開いた。「では仕方ありませんね。私の推測で語るしかないでしょう。私はあまり見たことがないですが、しかし確か、そのララヴァマイズ将軍殿の形成する氷は、あまり透明度が高くないのでは?」

 俺が答えた。

「透明度、という言葉に議員殿が何を期待しているのかは分かりませんが、普通に水を凍らせた物と比べると、だいぶ青みがかっていますね。また、わざとなのかもしれませんが単一的な結晶ではないらしく、屈折や反射の気配が激しいです。『透明か否か』と訊かれたら『有色透明である』と答えるしかありませんが、しかし、『空気の如く視界を遮らないか』と訊かれたら『ノー』です。」

 死神はまた茶を一口含み、そして――恐らく(ぬる)さに――眉を顰めてから、

「成る程、やはりそうでしたか。となるとそういう理由もあって彼女の障壁は常時防禦型ではないのでしょうね。」

「常時防禦型?」

「ええ。例えば、私は常に障壁を纏った状態で出歩いていますので、今現在もそうしています。そして、ララヴァマイズ将軍と異なり、既に防禦態勢が整っているのですよ。」

「ええっと、」

 死神は、指を全て伸ばして左手を立てつつ、軽い詫びでもするこのような按排で、その小指をこちらに向けてきた。そうして薄っぺらくなった、これまで奪ってきた無数の社会的生命の返り血の香りを感じさせない、上流夫人の如き(実際そうなんだが)左手の、平に、右手の人指し指をぶすっと刺し当てる。

「障壁といっても色々あります。このように攻撃された場合に、初めて物理的意味を為す障壁もあれば、事前に、つまり攻撃が届く前から充分に逞しい障壁もあるのです。あなたの主が前者、私が後者です。見ても分からないかもしれませんが、今、私を覆う橢円体の障壁が張られている訳でして、これは殆どあらゆる性質の飛来物や攻撃を防ぐことが出来ます。一切の、障壁の内側への侵入を妨げているわけですね。」

 俺は素直に首を傾げた。

「しかし議員殿、それだとおかしくないですかね。」

「何がでしょう。」と性懲りもなくカップを持ち上げる死神。

「まさにそれですよ。」

 冷めかけた茶に口を付けかけた死神の動きが止まった。

「例えば、橢円体という表現がどこまで正確なのかは知りませんが、とにかくあなたはある一定の形状の障壁に覆われており、あらゆる物理的侵入を妨げていると言いました。しかしでは何故、あなたは紅茶が飲めるのでしょう。何故カップやスプーンを握れるのでしょう。それらはあなたの体に近づけない筈ですのに。また、何故あなたは平気な様子で腰掛けているのですか? ソファも、テーブルも、障壁に弾かれるべきでしょう。

 更に言えば、あなたの声が聞こえたり、あなたが呼吸を出来ていることもおかしいですよね。空気が行き来してしまっているように思えます。」

 結局冷たいカップは再び皿の上に戻された。

「あなたは面白いですね、ケイン。その通りですよ。私のような常時防禦型の障壁は、この世の全てを拒絶し兼ねないという問題があります。故に扱いが難しく、故に高度とされているのです。つまり、あなたの言うような問題を解決せねば実用に堪えないわけですね。」

「具体的に、どうするのでしょうか。」

「話は簡単ですよ、実行の困難さからすれば皮肉でしょうが。つまり、障壁の通過を、特定の物体ないし物体でないもの――声とか――に対してのみ許可するのです、必要に応じてね。

 すなわち、私がソファに座りたいと思ったらその透過、接近、そして接着を許可します。紅茶が飲みたくなったら、そのカップやティの通過を許可するのですよ。だから、例えばあなたがお手許の紅茶を私に浴びせかけようとしても、それは私の障壁の形状を露にするに留まります。ほら、お伽話にありますよね、無色透明な幻影魔獣が、勇敢な男の子が()ち撒いたトマトピューレを浴びて、真っ赤なシルエット姿を曝してしまう、という、」

 俺は、まあ、余計な嘘を付かないという方針に従っておくかと思い、

「そういう童話は、聞いたことがありませんね。」

「あら。それは残念ですね、バン?」

 しかし、虹剣は最早首を傾げていた。

「俺もちょっと存じませんが、」

 死神は目を閉じつつ肩を竦めてから、

「全く。()()()、というか()()()()は世界中の人材が集まりますから、私のように地元のものでも、このような文化的すれ違いを時々経験するのですよね。」

 文化とか出身の問題なのか? 年じゃないのか?

「とにかく、議員殿、あなたのお話は何となく分かりました。」

「では、実際にその紅茶を掛けてみますか?」

「あなたの障壁魔術の腕前は疑いませんが、しかし、長官殿のお部屋を紅茶(まみ)れにするわけには参りません。」

「賢明でしょうね。」死神は笑った。「つまり、私のように障壁を専門としつつしかも永く経験を持つ者、言い換えれば玄人、のみに許されるのが、常時防禦型の障壁なのです。また、私があらゆる意味で戦士でない、というのも有利な材料です。何せ、ちょっと考えてみて下さい。一所懸命敵と戦って、つまり剣なり魔術なりを振るっている時に、そんな繊細な障壁の許可操作が一々出来ると思いますか? しくじれば、武器が自分の障壁によって外側に弾き飛ばされ、またもっと酷い可能性として、自らの放った火球が自らの障壁によって内側に弾き飛ばされて黒焦げ、というケースすら考えられるのです。」

「成る程。」俺は素直に感心した。

「と言うわけで、一般の魔術師は、つまり障壁を専門にするわけでもないし戦闘を行わないわけもない魔術師は、常時防禦型ではなく、応答型の障壁を使います。丁度、ララヴァマイズ将軍殿もこのケースに当たるわけですね。彼女にとってその氷壁の自動形成は造氷術というあまりに偉大すぎる魔術におけるほんの端くれに過ぎず、また当然武器や魔術を用いての攻撃も行うわけですから。」

 俺が、温い、いや最早冷たくなっている茶を一口飲んでから、

「しかし議員殿、それでは説明になっていませんよ。」

 死神はちょっとだけ、虹剣は強か、目を見開いた。恐らく死神は、驚愕して見せた方が自然だと考えてそういう相好を見せ、また、事実少し驚いたのかもしれない。

「どういう意味でしょうか?」

「先程あなたのお訊ねになった話が、いま語られた理由には含まれていません。『造氷術の氷は透明か?』というあれです。恐らくあなたは、氷で常時身を覆っては周りが見えなくて困るだろうし、また周囲からも何事かと思われるだろう、と述べる筈だったのでは?」

 一瞬間があってから、嬉しげに、

「あなたの言う通りですよ、ケイン。そう、そう申し添える予定でした。戦闘時ならいざ知らず、こうして息を抜いている間も氷付けでいるだなんて有り得ません。そもそも、まともな神経であれば執務室で魔術を振るうことなどしないでしょう。」

 俺は、ミネルヴァとの初対面の時に演じたドタバタ劇のことを思いだしたが、無為に話を混乱させるだけだと思い、口にするのは踏みとどまった。このどうでもいい逡巡が、虹剣に余計な印象を与えて、その化け物じみた頭脳を少しでも混乱させてくれるとよいのだが。

「議員殿、もう一つお訊きして宜しいでしょうか。」

「政治のことでは答えられないこともありますが、魔術のことであればなんなりと。」

「有り難う御座います、当然魔術に関してです。あなたは、アアリス・ズィーズ議員は、サイレントですか?」

 夫婦が揃ってぷっとした。もともと細い目を更に細めた死神が、右手の、曲げた親指以外の四指を顳顬の辺りにやりつつ、

「何を突然言いなさるのでしょう、ケイン。沈黙の魔術師というのは、まさに超一流の魔術師にのみ許される高み、領域なのです。悪党を鉄格子の向こうないし絞首台に送るので忙しい私が、つまりそんなことにかまけている私が、幾らか永く生きているとはいえ、何故その聖域に踏み入ることが出来るでしょうか。」

「自分がそう思った理由は二つあります。まず、本来学者である筈のムーン大将は、しかしあまりにも巧みに魔術を行使します。実際次官殿に怪我を負わさせたのですから。つまり、一流の学者とサイレントという、ふたつの窮みを得たウィッチ・ムーンという不老者が現に居るのですから、あなたももしかするとそうなのかもしれないな、と思ったのです。」

「成る程、しかしケイン。サイレントになる要件の一つとして、絶対的な魔力量、という物があります。障壁を張るだけで満足している私の魔力量は、まあ、あなたよりは多いかもしれませんが、しかし、()()()()に数多転がっている中級魔術師のそれにも及んでいない筈です。高みなど、烏滸がましいにも程があります。流石にナンセンスですよ、ケイン。」

「そうですか。しかし、もう一つの理由は今少し興味深いと思いますよ。」

「なんでしょう?」

「何故、あなたは現在も障壁を纏っている筈なのに、尋常に話せているのですか? 平たく言えば、何故詠唱を続けていないのですか?」

 言葉の大鎌で人を刈る死神は、また笑った。その、目が殆ど閉じきってしまう笑顔は、老猫のように見えなくもない。

「障壁魔術は、一度唱えたらその後ずっと持続するのですよ。操作の際にも特に詠唱は要りません。だからこそ私は普通に紅茶を飲むことが出来るのです。」

 俺は、ぶくぶく泡を吐きながらカップに口を付ける様を想像してちょっと笑ってしまった。

「成る程、有り難う御座います。」

 これは心からの感謝だ。辛くないトビナビ菜の見分け方は作っている農家に聞け、という金言の如く、障壁の専門家たるこの死神は多くの有益な情報を齎してくれたぞ。

 俺は、これ見よがしにチラと時計に目をやった。アアリスが来てから、もう一時間半に相当する以上の時間が経過している。釣られて時計を見てしまった死神が、ほんの一瞬顔を顰めた後に、手許の冷えきった紅茶を眺めて更に表情を渋くしてしまったことは、もしかすると、欺瞞の世界に生きる彼女が、この部屋で唯一露にした本心であったかもしれない。

 一休みにしては長すぎる時間と紅茶の冷却に強いられ、死神は尻をしぶしぶげに持ち上げた。俺から話を聞く口実が無くなったのだ。

「済みませんね、長居しすぎたようです。」

「ん? ケイン、何時だ?」と座ったままの虹剣。

「――――ですが。」(結局ここの時計も読めないのかよ!)

 ぎょっとしたバンウィアーが、

「ああ、確かにそれは長すぎたな。別に、一日にどれだけ働いていけと決まっているわけではないが、しかし幾ら何でも(まず)かろう。」

 虹剣は一応言葉にそぐう感じで顔を歪めているが、本心はそうであるまい。うっかり俺に話させすぎて、時間を喰われ、この挟み撃ちが殆ど無為に終わってしまったことを悔やんでいるのだろう。俺は安堵しそうになるのを必死に押さえ込んだ。この試みが上手くいくかは分からないが、しかし幾らかでも安堵の念が和らげば、それが大人物アアリスが去っていくことによる緊張の緩和だと、バンウィアーが勘違いしてくれる可能性が高くなるだろう。何せ、虹剣は死神の夫にして信奉者なのだから。もともと篤い信仰を抱えていた者が無神論に鞍替えることで生まれる、精神的な欠乏や歪みを、この男はこの上なき恩人たるアアリスへの帰依によって補塡しようと、無意識に考えているのかもしれない。――一応死()だし。


 ミネルヴァの資料を漁りたいという事情は一応本気であったらしく、氷刃の部屋に戻った後も、俺は画材臭くなりながら光ではなく魔を見る剣士を手伝った。初めは下らない仕事だと思ったが、ええい、流石に腕やら足やらが疲れてきたぞ。ううんと、

「何だ? 頻りに時間を気にしているようだが。」

 俺はびっくりした。

「え? そんなことも魂の蠢きの観察で分かるのですか?」

「いや、全然分からん。ただ、お前が時計の方へ何度も首を曲げている様子は何となく分かる。本とか魂の位置が動くからな。つまり、お前は盲人相手だからと油断して、本を胸の前で掲げながらそっぽを向き、しかも時計を注視しやがったわけだ。」

 おいおい、とんでもない奴だな。とにかく恐縮しておかねばなるまい。

「申し訳ありません。」

「今回は俺が無理に手伝わせているから憤る義理はないし、また、そうでないにせよ俺は気にせん。しかし、礼儀というものは大事だぜ、ケイン? ミニーに恥をかかせん様にな。」

 顔が餓鬼にしか見えず、しかもまったく威張り散らさないこの上官様に窘められると調子が狂う。まあ、実際俺はとんでもない無礼を働いていたわけだが。

「それはともかく、ケイン。何故時間を気にする? 女か?」

「まあ、女といえば女ですが、長官殿が言う所の意味ではないでしょうね。ララヴァマイズ次官殿に呼ばれているのですよ。夕食を食べに来い、と。」

 バンウィアーは首を傾げた。

「今日か?」

「ええ、今日ですが。」

 ますます怪訝そうに、

「今日ねえ、ふうん、何だってミニーは、それもハーゼルモーゼン人故の感覚なのか? 何せ一応食事に絡むのだし、」

「あの、何事でしょうか?」

 青髪の剣士はちょっと躊躇ってから、

「何が起こっているのか良く分からん。だから俺は干渉しないことにする。でだ、ケイン。そういう事情があるなら、今日はここまでにしよう。」

 また恐縮の必要に駆られる。

「え? 良いのですか?」

「ミニーからお前を貸してもらっておいて、アイツの思わくを台無しにするわけには行かないだろう。道義に反するし、アイツを怒らせる真似は決してしたくない。さあ、片づけと戸締まりをしよう、ケイン。」


 まだ太陽が沈み始めで、まるで押し出されたかのように反対側からあまり欠けてない月が昇り始めた時刻、俺は軍舎を出、ミネルヴァとザナルドが住まう邸宅にやって来た。この、盆の上に広がる水の如く些少の面積をも逃さんとばかりに道と建屋できっかり埋め尽くされている都市においても、その邸宅の門を開くと扉に半ば直結してしまう様は奇異に感じられる。つまり、前庭を備えていないことが不自然なほどに立派な屋敷であったのだ。窓の数からすれば、その部屋数は十を下るまい。しかも二階建てなので倍だ。消燈が面倒なのか見え張りなのか、とにかく各部屋の魔晶燈は蓋されていないようで、夥しい窓々のそれぞれが存分な光量を放っているように見える。日の沈みきらぬうちからこれなのだ、宵が更ければさぞかしきらびやかとなるに違いない。取り敢えず今は、煉瓦のように赤い空を背景とする、黒と見紛わんばかりの茶の屋敷が、主らが日中留守にする為に夜行性が染みつき、故に未だ寝惚けたままであるにも拘わらず、しかし、甚大な厳めしさと絢爛さを誇っているように感じられた。龍の寝息を浴びるような感覚。

 門の鍵は開いていた。というか、門扉そのものも半ば開いていた。いつもこうなのか、それとも来客の予定がある時のみにそうしているのかは知らないが、とにかく俺は、勝手に敷地内へ入り、邸宅の扉の前に立つ。金持ちに見られる、扉をでかくしておいた方が良いという風潮は何なのだろう。馬車でも乗り入れるつもりなのか? 俺はそんなことを考えながら、獅子の意匠が施された、金ないしそれを主成分とする合金製と思しきノッカーを、三度優しめに叩いた。優しくしたのは気を使ったからではない、豪華さが俺を萎縮させていたのだ。最近は龍の意匠のノッカーが流行っている筈だが、そうしていないのは氷刃の龍嫌いもあるのだろうかな、なんてことをしばらくの間ぼんやり考えていたのだが、しかし何も起こらない。再び叩く。今度は強めに叩いたので、机の角のように直角的な唸り声が獅子の口から三度轟いた。おかしい。まともな強さで叩けば聞き逃さない位置に使用人の某かが待機しているものではないのか、と思い始めた頃、忙しげな跫音が聞こえ、嫌な予感がした俺はちょっと扉から退いた。予感は的中し、勢い良く獅子の扉がこちらへ開かれる。もしもあのまま佇立していたら、門扉まで弾かれていたかもしれない。何せ、扉を開いたのは、

「ケイン、もう来たのですか。」

 主が、ミネルヴァが、直接出て来たことに俺は驚きながら、

「きちんと時間を決めておりませんでしたので、遅すぎて料理を冷ますよりはマシであろうと、考えられる限りの早い時間に参ってみました。俺を入れることで都合が悪ければ、そこら辺で時間を潰してきますが、」

「ああ、いえ。上がって下さい。」

 氷刃の背を追いながら考える。身体能力から考えればそんなわけもないのに、ミネルヴァの息が上がっているような感じを受けるのは何故だろう。何となく動揺しているような雰囲気を覚えるからだろうか。そしてその知覚は、俺のあるかなしかの識眼視界によって得られているのだろうか。何せ、その顔はいつも通りの完全な無表情であったのだから。いつも通り? 本当にそうだっただろうか、忙しげに(そびら)を向けられてしまったのでよく認め損ねたが、何か、いつもと違う相好であったように思えなくもなかった。何だろう?

 扉をくぐった後すぐ、正面の、これまたどんな魁偉な魔獣を上らせるつもりなのやらと思わされる豪勢な階段を進まされて、突き当たるので左に折れながら絨毯の敷かれた廊下通路を歩き、吹き抜けとなっているホールに向けてヴェランダの様に張りでている、丸テーブルと椅子がちょこなんと並んでいる場所に誘われた。

「ここでちょっとだけ待っていて下さい。」

 そう言うと、ミネルヴァは廊下通路をぐるっと進み、あまりに(まわ)らされる為に入り口側に近くなっている扉を開け、その奥に入っていった。床に対して水平に壁から生えている廊下通路、そこから更に生えているこの場所、すこし強度が心配になったが、しかし俺の三倍の体重があるミネルヴァの為の屋敷であるのだからそこらへんはしっかりしているだろうと思い、腰を下ろした。痛い。というか狭すぎる。膝を叮嚀にテーブルの下へと潜らせないと着席出来なかったし、左右も、ホール側の肘が欄干の隙間に挟まるぐらいに頑張っているのにも拘わらず、反対側の体が強か廊下通路へと食み出る。狭さと、拷問用かと思しき木椅子、そしてこんなちんけな場所にあるということで、俺はようやく納得した。この椅子とテーブルは、飾りなのだろう。だってそもそも、来客をちょっと待たせる場所が二階にあるというのもおかしな話だ。下を見ると、ほれ、ちゃんとクロスのかかった角テーブルと、立派な施しのなされた椅子が広いホールに並んでいるではないか。なんだこりゃ。氷刃は何故俺をこんな訳の分からない所に捻じ込んだ? 普段の応対は使用人に任せているから頓珍漢を働きつつあるということなのか? と言うかそもそも、使用人の姿が見えないぞ。どうなっているんだ? 茶を出せとは言わないが、しかし、それぞれの仕事はどうした? あと、ザナルドは何処に居るんだ?

 そうこう考えている内に、ミネルヴァがあの扉から出て来、こっちにまた戻って来る。

「お待たせしました。まだ食事の用意は出来ていませんので、取り敢えずあの部屋で休んでいて下さい。」

 ミネルヴァは、今度は俺を引き連れて同じ経路を辿り、同じ扉の前まで俺を誘った。

 そしてそのまま扉を開きつつ、

「さあ、この中です。」

 何で一度待たせたのだろうな、と思いながら俺はミネルヴァに礼のような挨拶をなそうとしてその顔を見、先程覚えた違和感の正体に気が付いた。成る程、ルージュだ。毀たれ得ぬ若さにも裏付けされた完全に白い完膚と整った目鼻を持つミネルヴァに、唯一ケチをつけ得る場所、色のやや悪い唇の上に、穏やかな色の紅が塗られている。とにかく俺は部屋へ踏み入り、ぎょっとした。その部屋の光景というか、その部屋に有ったものというべきか、とにかく、何だこれは、いや、まさか、

 どん、と背中が押された。二三歩進まされた俺が目を剥いて振り返ると、後ろ手に扉を閉める、氷刃の姿。何だ? 何事だ? まさか、

 本来であれば、俺は命の危険を覚えただろう。こうやって人目の決して届かぬ場所に追い詰めるということは、正体を知ったミネルヴァがレジスタンスの尖兵を絞り上げようとしているかのようであるから。しかし、俺はそういう状況であるとは思わなかった。だって、ミネルヴァは些少なれど珍しく化粧を施していて、また、今俺の斜め後ろ辺りに鎮座しているものといったら、

 そういう仕様の魔具であったらしく、女が杖を少し振り上げると、天井の魔晶燈がちょっと唸り、ふっと暗くなった。窓がないのか封じられているのか、とにかく完全な闇に突如覆われた俺は、身動ぐことすら叶わなくなる。だって、氷刃がいきなり躍りかかってきて、俺を、先程から異常な存在感を示しているベッドの上に押し倒したのだから。呻こうとした俺の顔の前に、存在感が襲って来、まもなく、俺の唇はルージュの味を憶えさせられた。

 そのまま散々に、奥歯が曇るような勢いで口内を蹂躙された後、ようやくミネルヴァの口が俺から離れた。目を見開けど、何も見えない。ただ、珍しく、しかし今度は間違いなく上がっているミネルヴァの吐息を浴びせられる。肉と酒ばかり口にしている女神の息は、しかし何故か蠱惑的な香りを持っていた。

 あまりの展開に俺は何を言ったものかと、誰にも見えない間抜け面のまま、闇の中で考えようとしたのだが、しかし、またすぐに口を塞がれてしまった。そのあまりに強靭な力で、俺の両手首は片手の内に収められてしまい、ミネルヴァは残った方の手で、俺の衣服を剥ごうとしている。俺はどうすべきなのかを散々に考えたが、しかし、結局どうすることも出来なかった。


 何がとは言わないが四回した。まあ、悪くはなかった。というか、これまでで最高だった。

 氷刃がまた魔術でどうにかしたのか、天井の魔晶燈が再び点いて、俺達を明るみの中に引きずり出す。色々と器用な魔晶燈であるらしく、通常の光量と比べると明らかに幽くなっているその明かりは、俺の目を灼かないままに、男女の姿を露とした。やはり完全で白い肌に覆われた背を向けて腰掛けている女と、手籠めにされたばかりの生娘のように息も絶え絶えで横たわる男。そう言えば、初対面の日もこんな感じでノックアウト状態にさせられていた気がするな。

 流石に強姦の負い目を感じているらしいミネルヴァが、普段以上に寡黙な雰囲気を背中から漂わせているので、俺が、息切れに喘ぎながら口を開いた。

「成る程。長官殿が言っていたのは、モルディア軍務官が留守の日に俺を招いてどうするんだ、という意味だったのですか。」

 氷刃の一糸纏わない体がぴくりと顫え、こちらに振り返った。そして四つん這いの姿勢となって、俺の顔にその顔を寄せてくる。拭いでもしたのか、顔中が紅で汚れていたりはしなかった。

「バンと、何か話したのですか?」

 俺は、氷刃の、脂肪が淘汰されるハーゼルモーゼン人らしく全く膨らんでいない、しかし男性的でもないので乳児のように見える真っ白な胸をちょっと拝み、先程までの媾合の具合を思い返しながら、

「恨まないで下さいよ。こんなことになるとは思いもさせられなかったのですから。」

「それは、そうですね。」

 女は口籠ってから、

「いえ寧ろ、恨まれるべきは私でしょう、こんな、無理矢理、」

 本来憎い存在であるミネルヴァだが、しかし、いい思いをさせてもらったという恩義が俺の容赦を誘った。

「どうかそう萎縮しないで下さい。驚きましたが、それだけですよ。」

 ミネルヴァは上体を起こして、

「有り難う。」

 まあ、実際、これだけの美貌と若さ、そしてあれだけの具合を持っている女と致すこと自体は、この上ない経験であった。胸がないのが玉に瑕だが。

 女がまた背を向け、立ち上がった。いつぞや、ミネルヴァの肢を昆虫魔獣のそれのようだと形容した気がするが、胴体もそういう感じに見えなくもない。女の胴体が昆虫の胴体に似ているというよりは、寧ろ、やはり昆虫の肢に似ているのだ。(つや)やかで、その下に骨格など器官の存在を期待させないつるりとした皮膚が、丸い肩から腰へきゅっとすぼまって続いている。そこから小さい円らな尻が続き、そしてやはり昆虫らしい細脚へと伸びていくのだった。光の加減の問題かもしれないが、その後ろ姿は、膕にすら皺を認めることが出来ない。この不自然なまでの美は、女が常日頃自然を殺し、つまり人工的な表情や言葉遣いに努めていることと関係があるのだろうか。

 女が背後の天井、魔晶燈の有る辺りを振り返らぬままに指さし、その人指し指を軽く振ると、か弱かった光量が完全となった。その明かりを照り返している小さい白い臀部に、皮膚のすぐ下で青い血管が迸っている様が浮かび上がって来る。その、太い血管が枝分かれて細くなり、ついには消え入る様は、稲妻の翔け巡る様を俺に聯想させた。明るく白い雲に暗く青い稲光という、本来の雷雲の色みとは逆の様になっていたけれども。あべこべの稲妻。雷帝の伴侶としては、相応しいのかもしれない。もっとも、あの男に捧げるべき操は今裏切られたわけだが。

 女がこちらへ振り返った。いつも通りの無表情の下で、乳児のように汚れを知らない乳房、いや、何も膨らんでいないから胸板と言うべきか、とにかくそこで、一双の、生まれたての犬の鼻のような色をした乳首が、俺の方をじっと見つめている。

「何も、私はあなたを何もかもにおいて騙すつもりではなかったのですよ。拙いながらも、私の手料理を出すつもりではあったのです。」

 女はベッドを回るように二三歩歩いた。その髪色の人工性を納得させる、黄金(こがね)色の恥毛が、瑞々しい太腿の動きによって見えつ隠れつする。

「しかし、頑張りすぎましたね。申し訳ないのですが、そろそろお暇して頂かないといけません。ザンが帰ってくるのは明日ですが、しかし、それよりもずっと前に使用人たちを邸の中に戻さないと、元通りの状態で彼を迎えられませんから。」

 俺は首を動かすだけで時計を探し、すぐ見つけた。成る程、これは随分と励んでしまったようだ。

 俺は上半身を起こしながら、女に問う。

「先程も言いましたが、自分としては何も悪く思っていないのです。本当はあなたについて、その体躯や伎倆を褒めそやしたいぐらいなのですが、生憎、どうしても下品な表現になってしまうので控えます。とにかく自分は良い目に遭わせてもらったのです。

 しかし、」

 次官殿は、と寝たばかりの女を呼ぶのは何となく憚られ、一度口籠った。

「……しかし、()()()はどういうことだったのですか? モルディア軍務官と永すぎる婚約関係に、つまり、強すぎるくらいの愛情で軍務官と結ばれている筈のあなたが、何故、自分と?」

 これを聞いた女は、急に振り返って、ずんずんとこっちに寄って来、ベッドに上がってまた四つん這いとなり、俺に顔を近づけすぎた。鼻を鼻がぶつかりそうになり、互いの吐息が交錯する距離、女は、囁き声で、

「あなたとしたかったからです。いけませんか?」

 もしもこの女との因縁がなければ、俺はこの言葉で完全にノックアウトされ、下手すれば押し倒そうとしたかもしれない(まあ、押し倒しかえされるんだろうが。)。しかし、俺はこの女を殺す為に人生を歩んできたのだ。その思いを懸命に振り絞って、何とか俺は自分を保つ。溺れている場合ではないのだ。

 しかし結局俺は紅潮しつつどぎまぎしてしまったので、女は満足そうな間を取って離れた。

 ちょっと間があってから、

「先程も言いましたが、もうすぐ暇を出した使用人たちが帰ってきてしまう時刻なのです。あなたを出送らねばなりません。……ケイン、立てますか?」

「ええ、何とか。」

 ベッドからすぐに降りた俺を弄するかのように、膝がガクガク笑った。

 

「では、また明日執務室で会いましょう。」

「はい、御馳走様でした、とても美味しかったです。」

 俺の言葉を一瞬下世話この上ない意味にでも取ったのか、女は無表情のまま、びっくりしたような間を取りつつ口を開いたが、しかし、すぐに、食事に招かれた部下の演技を行っているだけと気が付いたらしく、恥ずかしげに小さく何度も頷きながら背を向け、龍の意匠がない扉を閉めた。

 門を出て、適当に閉め、しばらく道を進んで振り返った。訪れてた日暮れ時には寝惚けていた屋敷が、充分な夜を迎えたことで、案の定灼々としている。しかし、これでも完全な覚醒ではないのだろう。使用人たちが戻り、甲斐甲斐しく仕事をし、彼らが、男の方の主を迎える。そして二人の主の媾合によってあのベッドが軋むその時こそ、きっとこの、闇に溶け入っている邸宅は目を醒ますのだ。


 俺は兵舎には戻らなかった。行くべき先が有るのだ。今宵のミネルヴァの行動の意味を理由に関して何となく想像を巡らしながら、重い足や腰を引き摺りつつ、目的地へと向かう。

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