7 帝王と刺客
7 帝王と刺客
俺は未だに病床で寝ている。一度書店に行き、そこの品々の、技術的発展の齎した安さに驚きながら氷刃の自伝的作品を購入して、今それを読み終えつつあるところである。成る程、劇的な内容であり、また、適当なバランスでちりばめられた言辞的妙技が快い。これは、人気が出るわけだな。
俺はその本を閉じて、考え始める。さて、女神の名を持つ魔術師から強制的に喰らわされたこの徒な時間、あるいは時間の徒、残りをどう過ごそうか。もう一度氷刃の本を読み返すか? しかし、一度読んだことで得られたものは、流石に本質的な中身の半分は越えているだろう。まあ、仮に六割だとしても、しかし、それでも再び読んだ時に得られるものは残りの四割にまた六割を掛けての二割四分、最初の半分以下だ。なら、次の本を買いに行った方がよい。と言うのが、いつ本なんて読んでいるのかしらないが(自宅か?)とにかく氷刃の持論で、まあ、正論だと俺も思う。しかし、今から読んでミネルヴァを打っ殺すのに役立つ書物がまだあるだろうか。少なくとも大衆書店にはない気がするし、だからといって魔術的な専門書あるいは魔術書を買う気にはならない。店が遠いとか、値段の高さとか、難解さとか、どれを選んだら良いかさっぱり分からんとか、どうせ退院後に図書館に出向けば閲覧出来るとか、そういう理由でだ。
そうやって俺が悩んでいると、突然、この病室の扉が開かれた。窓の開け閉めが億劫がられた為に俺の吐気を一所懸命蓄えていた部屋の空気が暴力的に入れ替えられると同時に、一人の男が入ってくる。……おっと!
急いで居住まいというか寝住まいというか、とにかく正そうとした俺を、その男は手の動きで制してくる。
「楽にしてくれ。一応病人なのだろう?」
そう言いながら、そのマントに包まれた剣士、ザナルド・モルディア軍務官は、氷刃が使わなかった木椅子に腰掛けた。そうして並ぶ腿の片方にザナルドが絡めた指を乗せたので、ミネルヴァと違って身を包むようになっているマントから両肘が出てくる。その左肘から手首に渡って取り付けられている小楯が、天井の魔晶燈の光を捕らえ、返し、俺の胸許辺りを照らしてくる。
「ケイン君、君には篤く礼を言わねばならない。普段から私のミニーを助けてくれているばかりか、今回においては、その命までも救おうとしてくれたのだから。」
その、〝雷帝〟の異名にいまいち似つかわしくない紳士然とした声音が、萎縮しかけていた俺を調子づかせた。
「有り難う御座います、モルディア軍務官殿。しかし、」
「しかし?」
「意外でした。あなたが、自分のことを目に入れ、しかも、憶えていたとは。」
わざわざ長過ぎる高さで切りそろえられた前髪により両目を隠している雷帝が、少なくとも口許と息では笑った。
「成る程、ミニーやバンの言う通り、聡明にして果断な若者だ。確かに君の言う通り、私は正直君のことなんて眼中にも記憶にもなかったよ。この間の新聞記事を見て、急いで、名前を頭に叩き込んできたのさ。」
皮肉をきちんと解釈してくる辺り流石の年の功だなと、こちらからも感心しながら、俺が、
「軍務官殿。実際問題、あなたが見舞いに来てくれるとは、」
「〝来て下さるとは〟。」
「……来て下さるとは、思いもしなかったのですよ。何故ならば、先の通り、自分なんて憶えられていないと思っていましたし、また、てっきり、あなたは次官殿と共に居るのかと。」
雷帝は、ちょっと背を反らして間を取ってから、
「〝共にいらっしゃるのかと〟とすべきだが、まあ、君の言葉遣いを正していては切りがなさそうだからこの程度にしておこう。追々、洗煉し給えよ。それよりも、何故君はそんなことを言うのだい? 何故、私がミニーと共に居ると思ったのだろう。彼女は、今休暇を取って旅行に出ているのに。」
「寧ろそれ故ですよ。自由な時間が多い職とはいえ、休暇自体は滅多に取らない、あるいは取れない以上、その貴重な機会は出来る限り活用されるのが自然でしょう。つまり、五十年来の婚約者であり、最早並の夫婦よりも深い愛情を育んでいる筈のあなた方が、連れ立って旅行に出ないのが不思議だったのです。」
これを聞いたザナルドは、拡げていた腿を仔細らしく纏めて、つまり足を絡めた。
「別に深い意味はないさ、ケイン君。私の方が、どうしても外せない仕事、今処理しなければならない仕事を幾つか抱えていたから、彼女と共には行けなかった。それだけだよ。」
「ああ、そういえば、あの日、ウィッチ大将殿が不満げにしていましたね。あなたに約束を破られた、と、」
「そう、それも多忙故だよ。まあ、ミニーが代わりに彼女の相手をしてくれたようだからね。その点については良かった。」
ザナルドが、その髪の帳の向こうの眼球をグルンと動かして、明後日の方向を一度見た気がした。何故なら、いかにも悩ましげな間があったからである。
「さて、ケイン君。私は、君が退屈で死にかけていると想像しているのだが、」
「御明察です。」
「そうだろう。で、この退屈の原因はなんだろうか。」
俺は、流石に一瞬躊躇ったが、しかし結局、
「あなたが、自分の果断さを評価してくれたらしいことを鑑みてやはり率直に言わせて頂きますと、あなたの婚約者殿の過保護のせいですね。」
顔の前に庇を下ろした剣士が、歯を見せて笑った。
「全て君の言う通りだ。確かに私は君の態度に好感を覚えているし、また、君が殺人的な退屈に襲われているのは、どう考えてもミニーのせいだろう。
さて、つまりだ。私はウィッチに迷惑を掛ける所であったのをミニーに救われたばかりな訳だが、そこで、君、すなわち、ミニーによって大いに退屈させられている若者が現れたわけだ。ならば、今度は私がミニーの掛けつつある迷惑を解消せねばなるまい。と言うわけで、見舞いと礼を言いがてら、君と話をしに来たのだよ、丁度、私を苛んでいた仕事も片が付いたのでね。
ケイン君、この病室に他の患者は容れられているのかい?」
「いえ、今現在は自分だけですね。」
「では、気兼ねなく話せるわけだ。内容や時間を気にすることなくね。何せ、健康体の君が会話で消耗するわけがないし、また、耳や目を欹てる他所者も居ない、と。」
「ええっと、自分が元気であるからこそ自分の体力の心配によって時間が制限されない、というのは全く同意ですよ。しかし軍務官殿、あんまり長くここに居ると、医者達に嫌がられるのでは?」
「嫌がられるかもしれない。文句を言われるかもしれない。退席を要求されるかもしれない。しかし、私はその要求を突っぱねることが出来るだけの地位と名声を持っているのさ。」
俺は、顔を軽くひくつかせてから、
「流石に、御冗談ですよね。」
「二割程度は本気だよ。医療上の具体的な理由があれば、迷惑を掛けるわけにもいかないので退散するが、何となく、例えば面会時間は決まっているのだ、とかその程度の根拠であるならば、従わないかもしれないね。私は君と話したいのだし、君は無聊を慰めたい筈なのだから。」
ベッドに寝たままの俺は、肩を何となくそちらに寄せてから、
「モルディア軍務官殿、『名誉は振るうとその分減る。』と言う警句が自分の故郷にはありました。威張り散らすと結局名誉が毀たれる、という意味なのでしょう。」
「ほう、面白い言葉だ。」
「というわけでしてね、自分なんかと話す為に、あなたの英雄としての名声を切り売りすることはお止め下さい。どうせ、後日幾らでもお話は出来るのですから。」
「しかし、名誉も金と同じなのだよ。減らさなければ、すなわち有効に使わなければ宝の持ち腐れと言うものさ。私のミニーを護ろうとしてくれた若者の退屈を凌がせると言う、謂わばちょっとした恩返しは、私の築き上げてきた名誉の幾許かを支払う価値が充分にある。勿論、軍務官である私には、世界的な名声を得なければならないと言う使命はあるが、しかし、たまにはちょっとくらい私的に使わせて貰おうじゃないか。何せ、最愛の女性を護ってくれた男への報恩なのだから。」
ふむ、そうかそうか。さて、俺は止めたぞ。しかしその上から、どうしてもこの雷帝の方から話したいと言ってきたのだ。じゃああ仕方あるまい、と言う体で、俺は一切の責任を逃れることが出来るだろう。となれば、この男と話せることは幾重にも有意義であった。虹剣氷刃魔女に続いて雷帝からも好感を得ることは意味のあることの筈で、既に半ば達成されているこれを語らいによって後押しするのは面白いだろうし、ミネルヴァに関する話もちらりと聞けるかもしれない、軍務長官も編輯者もストーカーも知りえない、この婚約者しか知らないミネルヴァの側面が多々あって然るべきだ。後、重要なこととしては、実際暇で死にそうなんだよ、助けてくれ。
「では、モルディア軍務官殿、お訊きしたいことがあるのですが。」
「なんだろうか。」
「次官殿についてです。自分が仕えだしてしばらくしてからようやく気が付いたのですが、あの方、もしかすると物凄く短気だったりしませんか?」
顔の前に庇を下ろした剣士は軽く口を窄めて、
「何故そう思うのかな。怒鳴りつけられでもしたのかい?」
「いえ、全く。具体的な叱責や窘めを頂戴したことは一度もありませんし、また、あの白いお顔が尋常な表情を得たことすら見た事がありません。」
「だろうね。私ですら、ミニーが感情を表すのを一度か二度しか見たことないのだから。」
「で、しかし何故か、『あれ? 平然とはしているが、もしかすると怒っているのか?』と思わされる瞬間が、幾度もあったのです。最初は勘違いかなとも思いましたが、しかしやたら頻りに感じられるので、これは実際に機嫌を損ねられているのだろう、と。」
「ふむ。」
「そうなってくると、その、あまりにも、些細な原因で激昂する雰囲気が見られるのです。」
「例えば?」
「『頼んだ書類は取ってきてくれたか?』と訊かれて、『いえ、向こうの担当者が何かの用事で抜けているようなので。』と答えただけで、とか、ですね。」
雷帝がまた笑った。
「成る程成る程。まあ、そのくらいも有り得るだろうね。でも、君が何か謂われのない仕打ちを受けたりはしないのだろう?」
「確かにそれは全くないですが、というより軍務官殿、あなたの言葉からすると、やはり次官殿は大層短気なのですかね。」
「ああ、恐らくその様なのだよ。さっきも言った通り私も直接彼女の忿怒の発露を拝んだことは殆ど無いのだがね、しかし七十年以上も付き合えば分かるよ、無表情の下で、彼女はしょっちゅう密かに苛ついている。使用人が掃除をしている為に廊下が通り難いとか、そんな下らない理由ですら。」
「何故なのでしょうかね?」
「君が何の理由を訊ねているのかは分からないが、『何故君が、表情にも挙止にも現れないミニーの苛立ちを知覚出来るのだろうか。』という質問に答えていこうか。ええっと、ケイン君、君はキョウ理魔導学を学んでいるのだってね。」
指摘するか悩んでから、
「窮理魔導学のことでしょうか。」
「ああ、それだ。」
「はい、学んでおりますが、」
「となると、〝識眼〟の修得もしているのかな。」
「修得、とまでは行きませんが、それなりに練習はしましたよ。」
「そうか、ではきっとその成果なのだろうね。ほら、君もバンと共に語らったのだから、盲目の彼が表情の代わりに盗んでいるもの、感情を読み取る材料としているものを知っているだろう。」
俺は、耳の下、顎の骨が始まる辺りに手をやりつつ、
「胸の辺りに蟠る魔力、〝魂〟の状態から感情を読み取る、というやつですか?」
「その通り。君もきっとそれを無意識に行っているんだ。」
「しかし軍務官殿。その、魂の蠢きから感情を読み取ると言う所業は、魔女曰く〝透明な魂〟の持ち主である、つまり、自らの〝色〟に邪魔されない為に頗る明瞭な〝識眼視界〟を得られるバンウィアー長官のみが可能なことの筈では? そのような特殊な魂の持ち主は長官以外にいまのところ見つかっていないとムーン大将殿は語っていましたし、実際、自分の魂が帯びる属性は平凡に〝火〟です。」
「確かに君の言う通り、魂から直接感情を読み取るのは、通常、バンにしか出来ないことだ。しかしね、君がミニーに対してそれを行う際には、二つの好条件がある。一つは、彼女の魂が、君の火とぶつかる〝水〟である、ということだ。本来、魂の属性はその人格や魔術の修得に殆ど影響を及ぼさない、つまり、その人物の性癖や魔術の習熟困難さとの間に有意義な相関が見出されていない、せいぜい、最初に興味を持つ魔術が自分の属性の物になりやすい、というくらいだ。」
俺は、確かに明確な理由もなしにまず火球呪文の修得を志したことを思いだした――まあ、未だそれくらいしか会得していないが。
「しかし、窮理魔導学や識眼、という言葉が絡んでくると、話は変わってくる。つまり、そう、強烈な〝火〟のフィルター、色眼鏡をかけられた君の〝識眼視界〟は、それと補色のような関係にある〝水〟の魔力を認めることを最も得意としているのだ。――以上の話は殆ど魔女からの受け売りだがね。」
「成る程。しかしそれだとおかしいですね。」
「何がだろう。」
「その理窟ですと、自分はあらゆる水の魂の持ち主、つまり、この世の人間の約六分の一に対して読心術を行使することができる筈です。にも拘わらず、自分がそのような神秘体験を覚えるのはララヴァマイズ次官殿に対してのみなのですよ。」
「ああ、ああ、それもそうだろう。もう一つの好材料の方が余程重要なのだから。彼女は、ミニーは、世界で最も大きな量の魔力を保持というか生成と言うか、とにかく蓄えることが出来るとされている。ウィッチの製作した測定器を信じればね。これは彼女の旺盛な食慾とも関係しているのかもしれない。何せ、一部の学者たち曰く、魔力と言うものは食事の際に得られるものだと言うから。ああ、そう言う学者たちは、お伽話に出てくるような、霞でも食べているのだろうかと思わされる痩せこけた、しかし高位なる魔術師に対しては、その長い修練の成果として、食物から魔力を吸収する効率が非常に高いのだろうと言っているがね。彼らの言うことを全てを信じるならば、魔術師として熟練してきて、つまり老いてきて、同時に食が細くなることによって一種の釣り合いが起きてしまい、結果として人間の保持魔力量には限界が来るのだろうということになるね、つまり、そう言う心配がない魔獣、あるいは我々不老者は大いに有利と言うことになり、確かにまあミニーやドリス、バンの魔力量は、」
「ええっと、軍務官殿、」この男、脇道に逸れる悪癖があるようだった。「話を戻しても構いませんか? つまり、自分がララヴァマイズ次官殿に対して簡素な読心を行えるというのは、自分、ケイン・バーレットがどうこうと言うよりも、次官殿の魔力量の多さに起因するのでしょうか。」
「ええっと、ああ、その通りだ。魂として存在している魔力がそのまま魔術に用いられるわけではないことは、例えば〝闇〟の魂を持つ私が光や地の魔力を要求される雷撃呪文、ないし雷撃魔術を得意とし、また、火の魂を持つドリスが、火球系だけではなく光線呪文をも得意としていることから分かる。しかし、大きな魔力を振るうことが出来る者は、いかにも似合った、やはり大きな魔力を胸に魂として蟠らせるようなのだ。学術的に確定はしていないらしいがね。ああ、私や他の者がウィッチの開発した魔力量測定を完全に信用しきらないのはこの為だよ。ここが確実に証明されていないのも拘わらず、魂の魔荷の測定からその者の魔力量を決定してしまっているのだから。まあ、私も十中八九宜しかろうとは思うが、残りの一一に対する懐疑を忘れたくなくてね。」
ええい、相変わらず余計な言葉が多いな、
「つまり、ララヴァマイズ次官殿の魔力量が最大であることにおいては、一応、一抹の懸念というか、疑ることが可能な点があるが、しかし、その魂が凄まじい量の魔荷からなることは確かな事実であり、その結果、自分はその魂の唸りというか、身動ぎを比較的容易に知覚することになる、と。」
「その通りだ。加えて、彼女が度々本当に心の底から憤ることも関係しているのだろうがね。激しい感情は、魂の激しい蠢きに対応するらしいから。
以上の話は確からしい筈だよ。何せ、かつて実際にこの無意識の読心が問題となったことがあったのだから。一昔前までウィッチはミニーのことを酷く苦手にしていたのだ。ミニーは普通に話しているだけですぐに苛つくわけだが、バンには及ばないものの、常人の中では最高レヴェルの識眼の使い手であるウィッチは、その度に何となく気味が悪くなるわけだ、最初は、今語ったようなメカニズムが分かっていなかったからね。その後、ミニーの魂がすぐに燃え上がることを毎日見ているバンが事情に気が付いて、魔女の苦手意識と不安を解消してあげたわけだ。アイツは何に対してもすぐ血を上らせるだけだから、お前を嫌っているわけではないから気にするな、と。」
こんなところまでわざわざ話に来ただけあって、この雷帝は昔話が好きなようだ。こちらからそうしようとしない限り、話が進むまい。
「成る程、では軍務官殿、さっき自分が訊ねようとした質問をもう一度叮嚀に繰り返させて下さい。何故、ララヴァマイズ次官殿は、それほどにまで気が短いのでしょうか。」
「そんなことを私に聞かれても困るがね。ハーゼルモーゼン人の気質か、と疑ろうとしても、あの国の人間との交流なんて皆無に等しいのだから。しかし、少なくとも、彼女がその激情を直隠しにして、いつも平然とした無表情を纏う理由は分かるよ。ケイン君、君はその本を読んだのだろうか。」
シーツの上、俺の腿が埋もれているあたりに、例の氷刃の著作が乗ったままだった。
「はい、先程読み終えました。」
「そうか、では記憶が新しい内に議論することが出来るわけだ。君は、当時十四歳の娘っ子でしかなかったミニーの、いや、生名を使えば、『カッティーナ・ウォンゼ』の、涙ぐましい生活について知った筈だね。」
「長官殿からもその辺のお話は聞きましたよ。当時、というよりは今でさえも、ウィッグや何かの魔術によってその見た目を弄り、あのような真っ青の頭部を保持しているのだ、と。」
「そう、そのような変装によって彼女はハーゼルモーゼン人という国籍と言うか人種と言うか出身民族と言うか、とにかく出自を隠そうとしたわけだ。」
「周囲からの差別視を避ける為ですね。」
ザナルドが軽く手を振った。
「いや、それだけではないよ、ケイン君。例えば、その目的において名前を変える必要はないだろう? だって、『カッティーナ・ウォンゼ』と『ミネルヴァ・ララヴァマイズ』、共に聞きなれない姓名だ。ハーゼルモーゼン人と言う立場を隠すのにこの偽名が必要であっただろうか。」
「しかし、長官殿は、グズーフ族系を装う為に珍妙な名前が選択されたのだろうと言っていましたが。――ああ、『珍妙』と称したのは自分ではなく長官殿ですよ?」
「確かにそう言う受け取り方も可能だろう。しかし、『カッティーナ・ウォンゼ』そのままでも、同じような効果は得られたとは思わないかい? 聞き慣れない姓名であることには変わりないのだから。」
「まあ、確かに、」
「つまりだね、当時ミニーの行った甲斐甲斐しい変装劇は、周囲の目を欺く為だけではなかったのだよ。もっと遠くの、しかしもっともっと具体的な〝敵〟の目から逃れる必要があったのさ。」
俺は手を口の辺りに当てた。
「成る程。母国ですか。」
「その通り。実際、亡命の際に捕らえられた彼女の父母は速やかに処刑されているわけで、もしも自分が無事生き永らえているとあの国に知られたら、面倒なことが起こり兼ねなかった。勿論、ハーゼルモーゼンが今のミニーを取り戻そうとすれば、それは全面戦争に他ならないわけだから流石にしてこないだろうが、しかし、当時は分からなかったわけだ。ウチから密出国した女がそっちに紛れているから身柄を寄越せ、と言われてこの国が応じないとも限らない。ハーゼルモーゼンと仲が良いわけではないが、しかし、その良からぬ国から忍び込んできた良からぬ女なんて、国の中に入れておいても気味が悪いだろうからね。
つまりだ、今はともかく、当時のミニーの変装ごっこは命懸けであったのだよ。となれば、外見だけではなく、その挙止や振るまいまでも、別人物のそれを装わねばなるまい。」
「それで、感情を押し殺すようになったと?」
「その通り。君もその本を読んだのなら窺っているだろうが、若い頃のミニーは、というかカッティーナは、やんちゃでどうしようもなかったらしい。しかも著者自身が、自分の過去の振舞を恥ずかしく思いながら書いているのだから、恐らくは意識的あるいは無意識的に、多少の脚色と言うか糊塗が行われている筈で、きっと実際にはもっと派手な事件があったのだろう。」
俺は、母親を侮辱してきた学友達を病院送りにした若き日のミネルヴァの様を描いた場面を思いだした。動機は立派だが、しかし、二十人近くを叩きのめした挙げ句に退学だなんて、今のミネルヴァのいかにも洗煉された美的雰囲気とは全くそぐわない話だ。
しかしすぐに俺は気が付いた。そういう逸話に似つかわしいミネルヴァの姿を、俺は見たばかりではないか。
「軍務官殿、一つ訂正します。自分は、次官殿が感情を露にする様を一度見ていました。」
雷帝の眉が上がったことが、見えている顔のパーツの動きから窺われた。
「ほう、どんな感情だい? 喜びかな、それとも、」
「怒り、です。忿怒、激昂、憤慨、どれでも構わないでしょうが、とにかく、この上のない激情でした。」
「ふむ。さっきも言ったが、約七十年来戦友ないし同僚として顔を合わせ、そして約半世紀同じ邸宅に住むこの私ですら、一度か二度しか彼女の感情の発露をみたことがないのだ。何がそんな彼女を、完全なるポーカフェイスの彼女を、そこまで怒らせたのだい?」
「その理由ですが、自分にも把握出来ているかどうか、分からないのです。しかし、とにかくその起因となった現象を機械的に述べますと、部下の腹が炸裂ナイフで吹き飛ばされました。」
顔の前に庇を下ろした剣士がちょっと座り直した。
「ああ、そうか、あのヒーロー劇の折りの話なのだね。」
「はい、自分は意識が危うかったのですが、しかしその薄い意識の中で認めたり聞きとめたりしたこととして、あの哀れな男の末路と、そして、それを齎した英雄ミネルヴァ・ララヴァマイズの後ろ姿があります。」
「右手一本で首を握り潰した、と、記事やミニーの口からは聞いているが、」
「事実です。しかし問題は、それを為した次官殿の様子ですよ。まるで質量によって周囲を打ちのめすかのような、とんでもない声量。聞くに堪えない猥語、罵声、雑言。垣間見える横顔は、ようやくその仕方を思いだしたかのように可能な限りの夥しい皺を刻んでいて、死にかけている男の顔を睨め付ける眼にはどす黒い感情が渦巻いていました。もしもあのまま次官殿に振り返られたら、俺の方がくたばったかもしれません。それくらいの眼力、いや、そんな言葉では足りませんが、とにかく凄まじいものでした。一体、何事であったのでしょう、あの尋常でない剣幕は、」
ザナルドは少し間を取ってから、
「ケイン君、それは簡単じゃないか。君が傷つけられた、と言うか、殺され掛けたからだよ。」
「しかし、軍と言う組織の一兵卒に過ぎない自分如きが死にかけたところで」
俺は口籠った。舌をちろちろしながら躊躇い、そして、ええい儘よと、
「軍務官殿、あなたの婚約者、というよりも最早実質の内縁の妻について更にお訊きしたいことがあったのですが、何故、次官殿はこれほどにまで自分を、ケイン・バーレットを思ってくれるのでしょうか。」
「思われている、という自覚ないし根拠があるのかな。」
「はい、幾つも。まず、今言及している、あの悪漢に対する次官の異常な怒りですよ。想像するに、もしかしてあなたが見たことのある次官殿の激情も、似た様な状況においてだったりしないのですか。」
「ああ、察しがいいね。一度目は、我々軍務官の初期メンバー、つまり今はもう亡くなったハン・フゥ、彼が暗殺者に討たれた時。もう一度は、何十年も前にハーゼルモーゼンと起こしたちょっとした小戦争、あるいは大規模な小競り合いにおいて、彼女の父母をかつて殺めた部隊にミニーが遭遇した時だ。もっとも、私は遠巻きに、破竹の勢いで雪龍部隊を薙ぎ倒していく彼女を眺めただけだがね。
つまり、父母あるいは数十年来の戦友の死が、すなわち彼女にとって最も重大な死が、いずれの場合も関わっているわけで、となると君の場合にも同じような事情があるのだろうという憶測は、まあ、確からしいだろう。」
「そう、そうです。ですから、自分はララヴァマイズ次官殿に、只ならぬ情念、それこそ親や戦友に対するものに匹敵するほどのそれを抱かせているのだな、と、畏れ多くも言うのです。
他にも根拠はあります。ムーン大将によって厄介な負傷を受けていた次官は、その怪我の治療をしたがる医師達を追い払ってまで、意識の戻らない自分を枕元で見守っていてくれたのです。峠がどうこうという事態ならまだしも、寧ろほぼ問題ないと医者から太鼓判を受けていたのにも拘わらず。また、それと同時に、軍務次官として本来行うべき職務も抛ってしまっているようでした。そして最も重要なこととしては、ほぼ完全に健康体である自分を、無理やりにこの病床に縛りつけて」
俺の言葉が急に止まった。
「どうしたのかな。」
「ああ、いえ、その、何故モルディア軍務官殿は、次官殿の働きかけによってこの入院沙汰が行われていると知っていたのですか? 医者や次官は秘密にしたがっているようでしたのに。」
「ああ、だって、ミニーから聞いた君の怪我の具合からして、この入院日数は長過ぎるからね。我々のようなそれなりに高位な魔術師は、嗜み程度に治癒呪文を修めたりするものだが、その際に多少の医学的知識も学ぶことになる。そうして得た、私の乏しい知識から判断して思ったのだ、入院だなんて大袈裟過ぎる。となると、どうせミニーが可愛い部下の為に、医者へ無茶な圧力をかけたのだろう、と。
でだ、そんなことよりもケイン君、今君のあげた材料は全て確からしいだろう。そう、きっとミニーは君のことを非常に可愛がっている。それこそ、我が子のように思っているかもしれない。」
俺は、ザナルドの目をしっかり見据えようとして、叶わず、仕方なしに鼻の辺りを見ながら、
「まさか、子が儲けられぬ代わりに、自分を養子にでも受け入れるつもりなのでは、」
「多分それはないのではないかな。まあ、彼女の真意を必ずしも全て知り尽くしているわけではないから断言は出来ないがね。しかし何せ、彼女が子供を得ることを強く望む上には、確からしい動機があると思えるのだから。」
「動機、ですか?」
「そう、動機だ。そしてこの動機は、同時に、君、と言うか近しい部下一般を非常に可愛がる彼女の性癖と言うか、性格の動機にもなっているのだよ、恐らくね。彼女は、ミニーは、愛に飢えているんだ。」
「愛?」
「愛だよ。愛に飢えているからこそ、その象徴たる子供が欲しいと思うし、また、部下たちのことを、傷つけられれば半ば発狂するほどに可愛がるのだろう。」
「しかし軍務官殿、それらの愛は幾ら何でも性質が異なり過ぎてはいませんか? 一つ目は男女間の愛であり、二つ目は、何ですかね、とにかく、隣人への博愛に近いものでしょう。」
「まあね。しかし、愛というもの区別したところで意味などあるのだろうか? そこに本質的な違いなどあるのだろうか? 実際、ミニーの餓え、愛への餓えの根柢に位置すると思われるものは、また別の名前を持つ愛に関わることなのだよ。」
これ見よがしにザナルドが黙り込んだので、俺は仕方がなしに考えてから、
「もしかすると、親子愛、ですか。」
「その通りだ。」快活な返事。「ミニーは父母を殺害されたことで、強烈に愛の不足を覚えているのだろう。だからそれを得ようとするし、また、与えようとする。後者は、自分のような存在を生むまいと言う思いからね。彼女の中でその思いが意識されているのかどうかは分からないけれども。」
「しかしです、……この質問があなたの機嫌を損ねないと良いのですが、」
「随分と今更な心配だな。言ってみたまえよ。」
「では言いますが、そう、ララヴァマイズ次官殿、その亡命当時カッティーナという名であった娘は、十四であったわけですよね。十四歳ですよ? 十四歳まで親からの庇護を尋常に受けてきて、それでもそこまで愛情が足りなくなりますかね。人格を強烈に支配するには、些か頼りない不足に思えるのですが。」
「確かに、実際十四歳やもっと若い年齢で親元の離れて我々の軍やあるいはその予備隊に入る若者は幾らでも居るのだから、君の言うことももっともではある。しかしね、彼女は親と生き別れた訳でもないし、ましてや、平和裡に親が病か何かで亡くなったわけでもない。明確に、この上なく憤ろしい手順で殺されたのだ。これにより、当然彼女の裡に起こった筈の怒りは、憤りは、その身を焼くことになっただろう。ただでさえ激情家なのだから。きっと彼女はそのあまりに大き過ぎてそのままでは扱えぬ思いを、無念を、別の形に変換していくことで、その心の中の処理を行ったのだ。その変換先の内の一つが、愛情への餓えということなのだと思うよ。
つまり、父母の命が奪われたことによる激情を由来とするが為に、彼女の〝愛情慾〟の様なものは非常に厳しく、激しくなったのだ。だから、部下の一人に対してまでそれほどの愛を注ぐことになるのだろう。以上はほぼ全て、私が勝手に窺ったことであり、ミニーの心をそのまま捉えた説明であるとは必ずしも限らないが、しかし、全くの的外れとも思えないよ。何せ私と彼女はあまりにも長く過ごしているのだから。」
確かに確からしい。あの日ミネルヴァの為した〝奇行〟をかなり説明出来る。
好条件の筈だ。多少その根柢がねじまがっていようとも、ミネルヴァ・ララヴァマイズが俺のことを良く思ってくれることは、あの女をどうにかして殺す上で、つまりあらゆる意味での油断を誘う上で、この上ない好条件の筈なのだ。しかし、では何故、今俺の心はぼた雪に包まれたが如くしんしんと苛まれている? あの女への同情か? 馬鹿な、
「そして私が思うにね、他の重要な変換先として、強さへの欲求があると思うのだ。我々六名が軍務官の座を先代から奪ったとき、最も重要な戦力はバンであったし、時点はドリスだったろう。しかし、それはミニーに重大なハンディが、おかしな呪いが掛けられていることによって魔力量が著しく制限されていた為であったのだよ。それが判明して、つまり彼女が人並みの条件を得た後からは、もう凄かった。それまで最も多くの魔力量を誇っていたドリスを完全に追い抜いたのだから。それ以降は、もう彼女に敵う戦士は、それこそバンくらいしかこの世に居ないのさ。」
「かつて次官殿の魔力量が少なかったのにはそう言う事情があったのですか。ということは、その呪いによって次官殿は各種〝喰い〟を開発することになったと。」
「そう言う捕らえ方も一応出来るね。しかし、私はそう思いたくないな。いや、確かに若かりしミニーへ呪いを掛けたハーゼルモーゼン国の魔術師に対して良からぬ思いを抱き、そんな輩に感謝などしたくないという思いも、多少私の気持ちを曲げているのだろうが、しかし、やはり客観的にみても、彼女の魔術や魔力を育んだのは彼女自身の努力だよ。その賜だよ。
そう、一向に捗々しくないのにも拘わらず魔力量を増強させる鍛練を日夜、懲りずに懲りずに続けて、結果、縛めが解けた後はこの世で最大の魔力量であったことから鑑みれば、この世で最大の努力を彼女はずっと行っていたんだ。しかも、〝喰い〟や造氷術に磨きをかける傍らで。そしてこの只ならぬ強さへの思いは、求道への誠意は、やはり父母を奪われた怒りと哀しみが転換したものであると、私は思うのだよ。何せ、彼女が身に付けてきた魔術は、いずれもハーゼルモーゼン軍と戦う上で非常に有利に働くものばかりであったから。あの土地であれば、〝氷喰い〟で無限に魔力が補充出来るし、また、氷を武器とする戦術は、やはり溶解の心配のないあの土地ではいつもより有効になるだろう。実際、彼女の氷の刃は、ハーゼルモーゼンの雪龍部隊をいとも容易く潰滅させたのだ。その強烈な吹雪故に光線では乱され、火球では力を失い、水撃では話にならないと言う環境下、ミニーの形成させた刃は、次々に雪龍の喉を乗り手ごと貫いていったのさ。」
俺は、ミネルヴァの上に立つ唯一の男に、その強さの原動力を与えた事象を思い返した。そう、長官のバンウィアーも、親の仇を討ち自分に自由を与えたこの国、特にアアリス・ズィーズという女への強烈な感情があったからこそ、強さの頂点に立った筈であった。ミネルヴァとバンウィアーの二人は、才能のみでなく、そのような劇的な思いに裏打ちされた鞏固たる意志、只ならぬ情によってこそ、あれ程化け物じみた力が手に入ったということとなるのだろう。強者たちが集まる場所で、なお最高の強者となる、そしてあり続けるということは、そういうことなのか。
顔の前に庇を下ろした剣士は話し続けていた。
「ああ、それで、ミニーが子供を作ることにこだわる理由として君は、『ザナルドとの愛の確認』みたいなことを上げたと思うけれども、それは少し違う、とこれまた私は思うのだ。そのような意志がないとも限らないが、もっと重要なものがあると思う。私ではなく、子だ、子供との愛情の授受を願って、きっと彼女は子を作ろうと企み、そして焦っているのだ。」
「焦っている?」
「ああ、彼女の命は思ったより短いかもしれないからね。」
「どういう意味ですか? 不老者に、命の長いも短いも、」
「しかし、ハーゼルモーゼン人の寿命は非常に短く、しかもその死因の大抵は心臓がやられることなのだよ? 老いを止めたところで、彼女の命がそこまで延びるとは限らない。現に、若い内から心臓のトラブルを起こす者は居るのだから。しかも、ミネルヴァの肉体は十八歳、ハーゼルモーゼン人ということを考えると、最早〝老い過ぎている〟と言えなくもない。
実際、嫌な傾向として、彼女が体調を維持する為に、あるいは悪心などを伴わない尋常な気分を維持する為に必要とする酒の量はだんだん増えている。今でこそ、寝る前に呑んで朝に再び呑めば平気だが、もう数年すれば、酒を体の中に入れる為だけに睡眠中に一旦起きる必要すら出てくるかもしれない。これほどハーゼルモーゼン人が永く生きたことはなかったろうから誰も知らなかったであろう、この飲酒量の増加傾向は、彼女に破滅の跫音を感じさせるのさ。」
雷帝の元気が少し毀たれた気がした。
「さて、こういう話をするとまた嫌な思いを浮かべてしまうのだがね。私は、間違いなく、そしてこの上なく、ミニーを愛している。しかし、向こうがそうとは限らない気がするのだ。」
俺は、半世紀に渡るカップルの片割れが訳の分からないことを言いだしたので、そりゃ、きょとんとした。
「なんですかそれは?」
「彼女は、私を愛しているのではなくて、最早愛情というものなり、愛情の授受という行為なりを愛しているのでは、求めているのではと思うんだよ。つまり、自分へ愛情を向けてくれる者であれば、誰でも良いのではなかろうか、と。
ああ、私は弛まずに彼女を愛し続けているから、一応の相思相愛ではあるのだが、しかし、彼女からの愛情の焦点が私そのものへ定まっていない気がして、どうも寂しくもある。ザナルド・モルディアではなく、単に彼女を愛してくれる男を愛し返しているのではなかろうか、と。勿論、私は戦友としても婚約者としても彼女を愛しているのだから、彼女の為であれば、この虚ろな関係を甘んじて続けるつもりではあるのだがね。」
俺の、怪訝と心配と呆れが折り混ざっているであろう微妙な表情に気が付いた剣士は、
「ああ、私は君相手に何を言っているのだろうかね。済まない、忘れてくれ。」
恥ずかしくなったのか、軍務官はその勢いで腰を上げた。
「さて、幾ら健康な若者とはいえ、これだけ話をさせては疲れされてしまうかもしれないな。お暇するよ、ケイン君。」
剣士が出て行き、再び俺は一人きりになる。最後にあの男が語った妙な図式、愛に飢える女と、その女に同情して、愛されぬと知っても尚愛を与え続ける男。臆しながらも人前で漏らしてしまうのだから、きっと何らかの確信を齎す材料があって、ザナルドはあのようなことを感じているのだろう。それは、具体的に「これだ!」と指さすことが出来ないもの、半世紀に渡る実質の夫婦生活やそれに纏る肉体的夫婦生活を通じて得られる、形而上学的にすら取り扱いに困る、有るか無きかのものなのかもしれないが。
俺は最早退屈の心配を無くしていた。今雷帝から聞いた話全てを、これまでに集めてきた情報と絡めつつ検討するという作業だけで、優に退院までの時間が稼げそうであったから。