6 魔獣と刺客
6 魔獣と刺客
宿舎の狭苦しい部屋で起床してから、身支度を適当に済ませた俺は、いつもの様に外の広い草場に出ていた。いつかゴミ置き場から拾ってきて勝手に地面に突き刺した鉄杭、俺よりも幾らも前に立つそれをじっと見据え、気を整える。その後鉄杭の頭を指で指し示すように、手を構えた。必死に憶えた古代語を口の中で繰りながら、指の先から業火が爆ぜ飛んで行く様を真剣にイメージする、そして、……いや、しかし、指先に魔力の奔流が殺到する感覚が得られなかったので、俺は本詠唱を取りやめて口を噤んだ。その後も何度か繰り返すが、全く捗々しくなく、俺は本詠唱の代わりに溜め息を吐いて諦める。どうやら今日も、 "エンザ" の第六段階は修得させてもらえないらしい。しかしこのまま何も出来ずに去るのも口惜しいので、出来ることを繰り返しておくことにした。同じように、しかし内容の違う古代語を再びもごもご唱え、そして、今度こその本詠唱、
「 "エンゼリッグ" !」
指先から飛び出た、いや、最早そこに召喚されたと言った方が正しいかもしれない、あまりにも巨大な、俺の背丈くらいの火球は、地面の草を赤く染めながら杭へまっすぐ翔けていき、無事、命中した。しっかり差し込んでいる筈の杭が、まるで先を撮んで弾かれた指揮棒のように頻りな振動を起こし、また既にそれを乗り越えている火球は、少し奥の、土の地面の上に激突して、そこを大いに抉って消滅した。立ち去る前にそこを均しておくべきだろうが、しかしその前に俺はもう一度だけ練習を行うことにした。わざとぞんざいに、顫えを続けるその杭を指し示し、すぐに、口にする。
「 "エンザ" 。」
すると、その御座なりに見合う程度のちっこい火球が、指先からころりと沸いてきて杭へと飛んで行った。きっかり命中したが、その杭の振動に摂動すらも与えなかったように思える。そう、未熟な俺でも、第一段階である "エンザ" の前詠唱省略ぐらいは叶うのであった。そして通常の詠唱の仕方では、第五段階である "エンゼリッグ" まで唱えることが出来るのであったが、しかし、第六段階に至っては未だに修得出来ていない。つまり、俺はこの国に来てから殆ど魔術が上達していなかった。勿論、 "エンゼリッグ" の練度や、あるいは魔力の貯蔵量や恢復速度は少しずつ伸びているのだろうが、あまり嬉しいものではない。この悪戦苦闘は、最近の俺が専ら座学に時間を割いてばかりであることも関係しているのだろうか。
俺は、氷の魔術を操るミネルヴァ・ララヴァマイズの暗殺を命じられた時、最初の瞬間こそ何と馬鹿げた話かと取り合わなかったが、しかし、その後ボスから委細を聞かされたことで、寧ろ、この俺にとって最も望ましい、最も好ましい使命であると思ったのだ。因縁はもとよりとして、この、俺が火球魔術をそれなりに、これだけであれば恥ずかしくない程度に鍛えているということと、造氷術を武器とするミネルヴァが人事面での一種の隙を見せたこととが、見事、器と蓋のごとく合わさり、そう、あの光ではなく魔を見る剣士の言葉を借りれば、運命による思し召しが為されたように思えたのだ、貴様の炎を用いて氷刃を討て、との詔。しかし、その後〝火喰い〟なる代物の存在を知らされてからは、一気に暗雲が立ちこめつつある。ああ、寧ろ、俺がほぼ全力を注いで鍛え上げてきた "エンゼリッグ" が虚しいものとなってしまったのだ。しかし、だからといって今から他の魔術を修得しようとしても、あの氷刃を殺すのに役立つレヴェルに到達出来るとは到底思えない。物理的な戦闘技術も、同様に、付け焼き刃では仕方あるまい。だから俺は、意地でもこの火球魔術に懸けねばならぬと確信しており、その為に、あの忌ま忌ましい〝火喰い〟の攻略を画策していた。しかし、双璧を為す学者たち――バンウィアーとウィッチ――に保証されてしまった以上、少なくとも科学的に火喰いを解析することは不可能なのだろう。ならば、他の角度からの理智、一種の自然を切り裂く刃を用いねばならないわけだが、果たして、その角度はいかにして見出すことが出来るだろうか。
魔術訓練の後、俺は今日も、既に氷刃や老婆が先に入っている執務室に、最後の一人として参上したのであった。何せ、俺は鍵を渡されていないので、一番初めに来ても仕方ないのだ。よって寧ろ、こうして少々遅れてやってくるようにすら言われているのである。
ノックをし、老婆の返事を得てから扉を開け、俺は中に入る。まず、いつもの様に作り物の青い旋毛をこちらに晒しているミネルヴァの頭に向けて、
「お早う御座います。」
ここで、日によって頭を上げたり上げなかったりする氷刃の生返事を受けてから、俺は老婆の横に座り込むことになっていたのだが、しかし、今日は当てが外れた。ミネルヴァの、顎や鼻の小さな、内在する力に反して可愛らしげなその顔がこちらに向いたのはいいが、一向にその口が動かないのだ。
傾げる俺の首に向けて、女神の名を持つ魔術師はようやく、
「ケイン、あなたに言っておかねばならないことが有りましてね。」
俺は、ちょっと佇まいを直してから、
「何でしょうか。」
「本日をもって、あなたを正式に私の補佐官として迎えたいと思うのですよ。」
俺は目を見開いて、老婆のほうを見た。彼女はいかにも年相応の莞爾とした笑みを俺へ向けている。
「彼女曰く、もう、あなたに教えることはないそうです。と言うわけでしてね。幸い本日大した仕事を与えるつもりも有りませんでしたから、今日は彼女からの引き継ぎ業務を行って下さい。まさしく、明日からはあなた一人で補佐してもらうので、それが可能となるように、遺憾なく引き継いで下さいね。」
その老婆が、
「ケイン君、と言うわけです。明日から、次官殿を宜しくお願いしますよ。」
あまりに突然だったので、俺が、ミネルヴァではなく俺こそが、適当な生返事をすることになってしまった。しかし、まあ、有り難いと言うか何と言うか、とうとうこの日が来たか。これで、氷刃の予定をなどを全て把握することが出来、また有る意味では、掌握したとすら言えるであろう。補佐官として表向きの筋の通った具申をなせば、氷刃の心を幾らか動かすことも充分可能であろうから。
そんな俺の企みを露知らぬミネルヴァが、老婆に向けて、
「それで、引き継ぎ作業はどれくらいで終わりそうですか。」
「ケイン君には結構なことをもう教えておりますのでね。専念させて頂けるのであれば、午前中には充分終わるかと。」
「成る程。では取り敢えず今日のところは、その後昼食を三人で取って簡単な歓送会としましょう。勿論、永らく世話になったあなたには、もっときちんとした形で礼をしたいを思っていますが。」
「滅相もない、私などには、身に余る光栄です。」
「ケイン、とにかく今日はそれで宜しいですね?」
俺はちょっと間を置いてから、
「っと、はい、勿論ですが、」
「そうしたら、ケイン、済みませんが今日は午後も少し付き合って欲しいのです。ちょっと、魔具店まで買いに行きたいものが色々有りまして。構いませんか?」
俺は眉を寄せつつ、
「構うも何も、それくらい、品物を言いつけてくれれば自分が買っておきますが、」
「ああ、少なくとも今日は私自身の目で選びたいのですよ。そして、その場であなたに品定めのコツを教えましょう。そのレクチャの成果が満足行けば、次からはあなた一人に頼むかもしれません。」
俺は首肯した。
「成る程、では、宜しくお願いします。」
そんなこんなで、昼食後老婆と別れた俺と次官は、外に向かうべく廊下を歩いていたのだが、もうじきで門に到達するというところで、見憶えの有る赤い頭が曲がり角から出て来、ミネルヴァの足を縛めた。
「あらぁ、ミニーにケイン、お元気?」
まさかこっちにまで挨拶が飛んでくるとは思わなかったので、俺は慌てて敬礼をなした。
するとその女、〝陽炎〟ことドリセネーは、
「あらケイン、別にそんな固くならなくても良いわよ、」
良いわけないだろ、と俺は心中で呆れながら、わざと最大の慇懃をもって、
「今日は、ガルキマアト軍務官殿。」
ドリセネーは肩を竦めつつ、
「あらあら、ミニーの教育の結果? まあ、確かにアタシ以外の上官に出会したらそうすべきなのでしょうけれども、」
「ドリス、」氷刃が挟まってくれた。「申し訳ないですが、いま私達は用事に出るのです。用がないのであれば、それくらいにしてもらえませんかね。」
「あらぁ、連れないわね。」
「私だけならいざ知らず、彼の時間まで余計に取ってしまいますから。」
「ふぅん。」陽炎は俺の顔を良く見つめてから、「まあ、主のアンタがそう言うならば、アタシにとやかく言う権利はないわね。ではケイン、またね、」
俺がまた、この階級差――それも天と地だぜ?――にこだわらな過ぎる魔術師への対応に困って、しどろもどろしていると、一つ声が聞こえてきた。
「あら、これはこれはお二方お揃いで。」
そっちを向くと、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女が箒を携えて歩いて来ている。軍務官らから彼女へなされる挨拶への応答を邪魔をせぬように、俺が手や頭の動きだけで挨拶すると、ウィッチも軽く右手を動かして応じてくれた。うん、ミネルヴァのおまけである俺に対しては、これくらいの軽んじが一番心地よい。
「なに、ウィチィ、あなたもミニーの時間を無駄にさせに来たのかしら?」
魔女は人差し指を頬骨に当てつつ首を傾げて、
「話が全く見えませんが、別に、ララヴァマイズ次官殿やガルキマアト軍務官殿に用事があるわけでは御座いませんでしてよ。たまたまお二人のお顔を見つけましたので、」
ここで魔女は、思わせぶりな、つまり狡そうな顔で少し黙った。陽炎がその沈黙を訝って眉を少し寄せた頃、魔女は氷刃に向けて、
「次官殿、ちょっと聞いて下さいますか?」
「何でしょう。」
「実は私、本日ザナルド・モルディアという方と、お手合わせして頂くお約束になっておりましたのですが、」
いかにも当てつけがましく婚約者の名前を出されたミネルヴァは、いつもの通り無表情ではあるものの、苛立たしげに間を取ってから、
「それで?」
「それでも何もありませんわ。あのお方ってば、ずっと前からあれだけ私が楽しみにさせて頂いたのにも拘わらず、今朝になっていきなり、今日は駄目になったと御聯絡を下さいまして、もう、私めは、この身を焦がすような思いを如何ともしがたく、困っておりますのよ。」
明らかにさっきまで尋常にしていたくせに、いきなり両手で自分の腕の付け根を摑みつつ、身を捩り始めた魔女を眺めながら、ミネルヴァは小さな溜め息をつき、
「責任とって代わりに相手をしてくれ、と言いたいのですか?」
「あら、そんな厚かましいことは一切申しておりませんわよ、ただ、もしもぉ次官殿が、」
「そうですか、用は有りませんか。ではケイン、行きましょう。」
本当に氷刃が足を二三歩進めたので、泡を喰った魔女はその腕を背後から捕まえつつ、
「ああ、どうか御免下さいまし。次官殿、お願い致します、もし時間を頂ければ、私と勝負して下さいませんか?」
振り向いた氷刃はしばらく、魔女と俺の顔を代わる代わる見てから、
「ケイン、申し訳ないですが、本日あなたには長いこと付き合ってもらうことになりそうです。やはり、私の戦いぶりをどこかで見ておくべきでしょうから。」
俺は、魔女と同時に、しかし数倍は喜んで、
「光栄です。」
と元気に応えた。よし、ようやく氷刃の魔術をまともに拝める。初日に俺に対して遊びで放った物とは違う、もっと真剣な魔術を。
しかも相手があの魔女だ! 後々この学者に、詳細な質問をすることが出来るかもしれない。
ここで、残った陽炎が、
「じゃあ、アタシが立ち会いをさせてもらうわよ。安心して怪我しなさいな。」
「ドリスが立ちあってくれるなら確かに心強いですね。では、甲ルールでいきましょう。」
しかし魔女は困って、
「あの、私からお願いしておいて恐縮なのですけれども、しかし、出来れば乙か丙でやらせて頂けると、真に有り難く、」
「まあ確かに、真剣勝負ではあまりにウィチィが可哀そうね。ねえ、ミニー、勘弁してあげたら。」
ミネルヴァは一拍だけ置いてから、
「まあ、仕方ないですね。乙で参りましょう。」
そう言ってから氷刃と陽炎はどこかを目指して歩き出し、魔女がそれに追い縋っていった。一番遅れた俺は、魔女まで追いつくと、
「大将殿、その、甲乙丙ってのはなんです?」
「ああ、この軍において手合わせとか試合とかをする時のルールですわ。」
んなこた大体察しているよ、という言葉を呑み込んでから、
「成る程。では、甲とはなんなのです?」
「俗に『殺したら負け。』と言われるルールですわね。殺害や部位欠損などの、取り返しのつかないダメージを与えてはならない、という取り決めですわ。逆に言えば、相手を殺す寸前まで叩きのめさないと終わらない、と。」
俺は眉根を寄せてから、
「そりゃ、大概ですね。」
「でしょう? 私は名目上軍人とは言え、決して戦士ではありませんし、しかも相手はあの氷刃ですわよ? 命が幾つ有っても足りませんわ。」
「して、乙とは何です?」
「『有効打を入れたら勝ち。』ですわね。立ち合い者が『良い一撃が入った!』と判断したら終了。そもそも攻撃に全力を籠める必要が無くなりますので、だいぶ安全ですわ。ああ、ちなみに丙とは、威力関係なしに攻撃を当てたら終わりですわね。」
ここまで教えてくれた後、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女はすくっと前を見、「ふう、」と息を吐いて真剣な相好を作り上げた。当人はああ言っていたが、しかし、やはりこの女は軍人であり戦士なのだろう。そうでなくばこの様な、刃のように真剣な横顔を作れるものか。にこにこと俺に窮理魔導学を教えてくれる時とは比べ物にならない程に重い、息をすることも憚られるような空気を纏いて魔女が歩み進む、偉大なる軍務官らの背を追いて。
外に出てからも長々と歩かされて行き着いた先は、あまりにも立派な闘技場であった。砂を敷き詰められた広大な円は、きっとドラゴンに乗って上空から見たら針のない羅針盤に見えたのではなかろうか。つまり、戦士たちが闘うことになる広い円形の砂地、その太い縁をなすように、観客席が設えられているのだ。遥かな高さの壁で砂地と仕切られたその観客席は、無愛想に、全方向への階段が続いているのみで、快適さよりも、一人でも多くの観衆を収めることに重点を置いているようであった。つまり――もしかすると最高級将校の特権として――本来重大な催しごとをなす為の場所を、個人的な訓練、手合わせに用いてしまいつつあるらしい。観客の居ない巨大な闘技場は、喰い終えたあとの鶏腿の残骸の様に虚ろで、寂しげに見える。
俺は観客席の一段に座り、砂地を見下ろしていた。陽炎は件の隔壁、こちらからだと腰くらいの高さに来るそれから、砂地に向けて身を乗り出している。そんな俺達二人だけに覗かれる砂地、すなわちバトルフィールドは、やはり二人の人間だけで贅沢に占められているのだった。しかし、間の抜けている感じは全く無い。彼女ら、二人の若々しくも老練たる魔術師それぞれの醸す、真剣な雰囲気は、その砂地全体に瀰漫し、充ち、最早壁を乗り越えてこちらに押し寄せてくるかの如くであったから。その円形の砂地を半分に分かち、そうして得られるそれぞれの半月を更に半分に割り、脣のような切れ端と間抜けな長方形のような切れ端を与える境界線、その上に彼女らは各々立っていた。丁度二人から等距離の、すなわち円の半分の地点から見下ろしている俺や陽炎から見て、左に構えるのが魔女、ウィッチ・ムーン大将である。遠くてよく見えないが、しかしどうやら先程の廊下で見せていたのと同じ、引き締まった表情をしているらしい彼女は、右手に箒を、しかし、いつもと違って真剣な力を籠めて握っていた。対する氷刃、ミネルヴァ・ララヴァマイズ軍務次官は全くいつも通りの顔つきである。もっとも、あの凍りついた顔面が某か表情を帯びた様を、俺は一度も見たことがないのであるが。また、その右手には、普段は右腰に差したままの短い錫杖が握られている。やはり、本気で魔術を行使する時にはあれが重要になるのであろう。そう言えば、魔術において杖とはどういう意味をなすのだろうか。もしもおまじない以上の意味があるのであれば氷刃を討つ上で、あの杖をどうにかすることに意味が出てくるかもしれない、今度調べてみるか。そんなことを思っていた俺は、ふと、ミネルヴァの姿勢が奇妙であることに気が付いた。その、杖を握った右手がだらりと下がっているのは、そんなものなのかなとも思われたが、しかし、明らかに猫背なのである。前傾姿勢から顎を上げることで何とか前を見据えている様が、特に奇妙な印象を与えるらしい。そして、ここから見るかぎりでその姿勢の原因を探ろうとしたのだが、よく分からなかった。分かる前に事態が進行したのだ。
「さて、御両人、準備は宜しくてぇ!?」
陽炎が、いつも通りの明るい声を張る。眼下の二人はそれぞれ身動ぐことで肯んじた。
ドリセネーは、そのあまり立派に見えない体格で出来る限りの声量を得んとしているが如く、背を反らすような勢いで息を吸い、それから、殷々たる号令を発した。
「では、立ち合い、ドリセネー・セレガンセンシス・シシガキーンス・ガルキマアトの許に! 乙ルール! 各自、……開始せよ!」
そういう取り決めなのだろう。実際には、二人の魔術師は「開始せよ」の第一音節が言い始められた辺りで動き始めた。まず魔女は、膝を上げてその箒に右脚を絡めつつ、左腕をまっすぐ伸ばして、その立てた手を氷刃に向けて突きつけるようにし、自然に生まれる掌の窪みから球体を発射した。黒々と輝くそれは明らかにまともな物体ではなく、幽霊と言うかなんと言うか、とにかく、殆ど不透明の球体が、黴っぽい緑白色のアウラを鬣のごとく帯びている様に見える。魔力によって形成されている飛翔体に特徴的な妖しさを帯びたその球体は、まっすぐ氷刃の目の辺りに飛んで行くも、しかし、女神の名を持つ魔術師が眉一つ動かさずに顔の前に展開した薄青い氷壁によって妨げられた。その壁は、鎖骨の辺りを根拠として聳え立っており、いきなり空中に氷を展開出来ない、つまり、直接あるいは間接的に触れていなければならない〝造氷術〟の制約を思い出させる。その様にして甲斐なく弾かれたように見える魔女の先制であったが、しかしもともと牽制が目的であったらしく、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、その着弾を見届ける前から、全く別の行動をなし始めていた。その姿に似つかわしく、箒に乗ってふわりと浮いたのである。しかし、その様は、具体的な絵本の挿し絵とは似ても似つかなかった。つまり、両手を箒に添えて跨がりつつ翔けるのではなく、先程絡めた右脚を唯一の掛かりとしているのだ。凄まじい勢いで、渦を一周描きながら、つまり龍の立ち上るが如く翔け登ったその箒に、魔女は右脚一本で、蝙蝠のような顚倒状態でぶら下がっている。何故そのような曲芸じみた業が必要なのかと俺は一瞬訝ったが、結局その理由はすぐ明らかとなった。魔女は、今度は右手だったが、とにかくそれを氷刃に向けて、攻撃体勢を取ったのである。つまり、足のみで箒と結ばれることで、両手が自由となり、遺憾なく魔術が展開出来るのであろう。そのまま魔女は、右手、そして間髪容れずに左手から続けて球体を発射し、まるでその反動を利用したかのごとく、しかし恐らく実際には箒を螺子のように半回転させたことにより、その顚倒からくるりと恢復し、優雅な横座りの姿勢となった。どういう機構で縛められているのか分からないが、彼女の三角帽は落ちておらず、その回転中もしなやかに従っていた結果、一瞬、帆のように猛々しく、その身を宙に誇ったのであった。そして、彼女が苛立たしげに首を揺すると、草臥れていたそれがまた躍動するのである。
その苛立ちの原因は、勿論、地上の氷刃である。最初の内、ミネルヴァは鎧を纏いて行くかのごとくであった。最初のそれに続いて、二発目三発目の着弾点にも小さな氷壁を形成したからだ。しかしその後、魔女の回転を見咎めるが如く、すなわちその回転動作中のみでなく、その後視界や平衡感覚を恢復するまでの隙を晒したことを窘めるかのように、凄まじい勢いで造氷を始めた。最早、鎧どころではない。足許からも氷を形成させ、そして周囲に至っては暴力的な厚みの壁を為し、おまけに頭の上にまで分厚い氷板を張り始めたミネルヴァは、魔女があからさまに困りながらも何もしてこないらしいのを良いことに、更なる造氷を続ける。結果、手を拱き続ける魔女の眼下に、城が出来た。諧謔なのかそれとも何か意味があるのか、精緻に造形された氷の玉座に背を預けつつ深く座り込んでいる氷刃は、あまりにも厖大過ぎる量の氷の中に封じられている。そして、小さな丘くらいあるその氷城の有り様をみて、俺は、日頃女神の名を持つ魔術師が、首から上だけでなくその下までも秘色色一色に纏めている、つまり趣味悪く装っている意味を把握した。通常のそれよりもずっと青みの強い氷の中に埋もれた彼女は、その薄い青一色という出で立ちによって、非常に認め辛いのだ。今は寧ろその位置を見せつけているが、しかし、本気で氷の中に隠れられたら、きっと発見するのに苦労するだろう。
さて、上空の黒き魔女が渋い顔をしながら、地上の、城の中で優雅に座っている青き魔術師と対峙している恰好となった。その玉座の上のミネルヴァは、氷越しではあるが、しかし実に様になっているようにここから見える。王族、ないしそれに近しい彼女の高貴な血筋が活きているのだろうか。勿論、彼女にとってはそんな不倶戴天の高貴さなど、願い下げなのだろうが。
膠着してしまったので、俺は立ち上がり、壁に張り付いたままの陽炎の所に歩み寄った。
「軍務官殿。今、何かお訊きしても宜しいのでしょうか。」
横に来てみると、案外柔らかい表情のままであったドリセネーは、
「ん? 別に良いわよ? 忙しくなったら勝手に無視するから。」
肉体だけは花も恥じらわされるべき年齢である、この艶やかな赤毛の女魔術師は、実際、相応の瑞々しさをその化粧っ気のない横顔の中に満ち満ちさせていて、まるでそれが具体的な雫として滴り始めるかと思わされる。こちらにその、勝ち気な目や鋭い鼻筋を向けてはくれぬ辺り、今は立ち合いなるものの責務、審判か何かをきちんと果たそうとしているらしかった。
「有り難う御座います。あのお二人、睨み合ってしまいましたが、」
「まあ、ねえ。ウィチィのほうはあの耐熱性氷壁を突破するのに難儀するのでしょうし、ミニーのほうからも、上空相手では攻撃するのが面倒なのでしょ、多分。」
俺はきょとんとした。
「面倒? その程度なのですか?」
「ええ。その気になれば幾らでもある筈よ、ミニーのほうからウィチィへ攻撃を為す術は。でも、必ずしもその必要はないのよ。」
「どういう意味ですか?」
「だって状況を考えてみなさいよ。ミニーは地面にどっかり――文字通りの意味でも――腰を据えていて、やっていることはあのでっかい氷の砦の維持のみ。でっかいと言っても、外側から見れば単純な形だからその表面積、すなわち熱的露出は大きくない。きっと、簡単に維持出来る。いえ、寧ろ今は日中だから、日の特に強く当たっている表面からは〝火喰い〟で魔力を頂けるのかもしれないわ。アタシの魔術じゃないから、具体的にどれくらいの温度から〝喰える〟のかは知らないけれども。
で、対するウィチィと来たら、空にぷかぷか浮かんでいて、きっと大変よアレ。」
俺はそう言われて、箒の上の魔女を今一度見る。成る程、確かにその箒は空中にぴたりと静止しているわけではなく、凧のようにふわふわと上下する挙動を繰り返していた。
「まあ、具体的に、融解と自由落下、どっちの物理的干渉に抗うのがより大変かなんて知らないけれども、でも、少なくともウィチィの方が大いに有利と言うことはないでしょうよ。となると――結局その値にどこまで意味があるのか知らないけれど、窮理魔導学者たちの開発した計器曰く――自分と二つ桁の違う魔力量を保持するミニーと睨み合って、ウィチィに勝ち目が生じるかしら? 先に魔力が切れて墜落する以外の可能性があるかしら?」
「成る、程。」
俺は、陽炎の紡いだ論理に感心していたが、しかし、残念ながら半分くらいしか話を聞いていなかった。魔女が、いつからか口を頻りに動かし続けているのに気が付いたからである。それは、未熟な腹話術のようで、つまり、相手に気取られぬように必死に努めているように思われた。果たして、分厚い氷壁越しに魔女を見ることになる氷刃は、あの細やかな脣の蠢きに気が付いているのだろうか。ここからやはり氷の向こうにみるかぎりでは、いつも通りの表情のままであるのだが。
さて、〝沈黙の魔術師〟であるウィッチがわざわざ、しかもこれほどまで長々と前詠唱をなすということは、その果てにとんでもない成果が期待されると言うことである。そして、その期待は裏切られなかった。
「 "リリュエス・コルティアボレア" !」
ここにまで届くほどの豊かな声量で魔女がそう叫んだ。するとその瞬間、魔女のすぐ脇に、巨大な皿のようなものがいきなり出現したのである。皿とは言ったものの、それは宙にぽっかりと薄っぺらい円盤が浮かんでいる様を表す上で苦し紛れに述べたわけで、どちらかというと、自然の理を何もかも無視して黒々たるタールの沼が鉛直に立ちつつ空に浮いているようであった。
地上で陽炎が、ひゅう、と口笛を吹いて見せる間に、その顰め面の魔女は、またもごもごと何かしかの詠唱を始めていた。するとそれに呼応するかのように――恐らく実際に呼応して――沼の中央から一条の鎖が、蛇のようにのたうちつつ飛び出てきたのである。絵本から出て来た妙齢の魔女はそれを両手で摑み、しっかりと上体を折り曲げながら引きずり出した。魔女の掌に収まらぬほどの太さを誇っている漆黒の鎖は、その迫力に見あう主を引き連れており、つまり、鎖の先の首輪を纏いながら沼から出て来たのは、あまりにも魁偉な肉体の持ち主だったのである。俺の耳を太く劈く唸りをあげながら覗けた、レッド・ドラゴンの胴の断面よりも大きそうな顔は、牙にいたるまで漆黒の犬相貌で、ただ、ぬめりした桃色の歯茎と真っ赤に輝く瞳だけがその色調の画一を裏切っていた。
その大き過ぎる頭が沼から覗けつつ暴れている横で、何かを呟き続けていた魔女は、突然大口を開け、
「――――!」
古代語か? とにかく無学の俺には意味の解しえぬその号令に従って、明らかに魔獣らしき犬は、とうとう飛び出、高く浮かぶ沼からその巨躯を零し落とした。その勇ましい、唸り声と唾を撒き散らしながらの飛翔の着弾点にあるのは、氷の玉座。変わらずに深くそこへ腰を落としていたミネルヴァは、少しだけ逡巡したようであったが、しかしすぐに行動を開始した。目にも止まらぬ内に氷喰いを完了させ、つまり、まるで蜃気楼であったかの如く、一瞬で氷城を消滅させた彼女は、砂の上に着地するとすぐに、適当な方向へ駈け去った。
「――――!」
また魔女が何かを命じると、その落下中の魁偉なる魔獣はまるで四肢で空を搔くような動作を行い、しかも、あたかもそれが功を奏したが如く、軌道が修正されたのだ。見上げる氷刃も、流石に些かながら目を大きくし、更に砂地の奥の方へ逃げ退く。結果、女神の名を持つ魔術師は壁際に追い詰められ、その目の前に黒すぎる犬が落下しつつある。
しかし、この対峙において先手を取ったのはミネルヴァであった。着地の衝撃で砂が舞い上がる瞬間、すなわちどうしても魔獣が硬直せざるを得ないその一瞬の内に、氷刃は尋常に構えたのである。構えたと言っても、それは魔術師然としたものでもなく、かといって最初に見せた猫背でもなく、腰をしっかり落とし、上体を右後ろに向けて捻りきった、いかにもこれから打ん殴ってやるぞという、破落戸のする様な体勢であった。そして、砂埃の収まらぬ内に、すなわち視界が明瞭でない内に魔術師へ噛みつかんとした魔獣の、その失策を叱り飛ばすかのように、氷刃は体の捻りを一気に開放し、その右拳を、あまりに大きな魔獣の顔面に叩きつけた。その細腕と魔犬の鼻、どちらの骨が折れるのだろうかという俺の想像はあっさりと裏切られ、打擲された魔獣の身は、ふわりと浮いたのである。俺が目を見開き、陽炎が「アッはぁ!」なんて口走る中で、哀れ、ドラゴン以上の体格を誇る筈の魔獣は屑紙のように翻り、つまり仰向けに引っ繰り返されつつ、闘技場の対蹠位置まで飛ばされていった。壁に打ち据えられて悶えるその魔獣の方へ、氷刃は、そのやはり常人離れした脚力によって一気に飛び駈け寄ったが、そうしながらも次の攻撃の準備を行っているのであった。右手に握り直した杖を真横に突き出した彼女が、そこへ力を込め直すように腕をぶるっとさせると、錫杖の頭の丸い球体から、にょきりと、小さな氷が生えてきたのである。その氷は見る見る生長し、そして耳障りな音をけたたましく鳴らしながら尚も生長し、ついに、術者の背丈の五六倍はあろうかという、長大過ぎる刃と化した。女神の名を持つ魔術師は、いとも事も無げにそれを振り上げ、ほぼ横一文字に振るう。哀れ、魔犬の魁偉なる肉体は、氷刃の一太刀の許に、紅蓮の切断面を露とするところとなった。
この一撃の後、氷刃は眼球や首を忙しなく動かして、探し始めた。当然だろう、あまりにも長い行数、絵本から出てきた妙齢の魔女の姿がないのだから。結果から言えば、このミネルヴァの探査は意味をなさなかった。彼女の後方から、あの螺子のような回転を、しかし今度は明らかに確乎たる殺意を込めて、煙が出そうな速度で行っている箒が、まっすぐ、その身目掛けて飛び込んできていたのである。女神の名を持つ魔術師の体は、その、主を乗せていない超高速の飛翔体を右腰の辺りに迎え入れ、弓なりに一瞬撓む。そして、何かがひしゃげ割れる嫌な音と共に、その、異常な質量を持つ筈の体躯が薙ぎ倒され、少々とは言え跳ね飛んで行く。
この一撃を受けて、しかし、ミネルヴァも黙っていなかった。彼女は突き飛ばされながらも、件の長過ぎる刃を落として身軽となった錫杖を、先程の魔獣の死体の辺りに向けて振ったのだ。そしてその先端から迸った銀白色のアウラは、黒い巨躯をすらりと躱して、美事、その影に潜んでいた魔女に命中した。魔女は一瞬目を剥いたが、しかし、結局為す術なくそのアウラに頭から足まできっかり取り込まれると、落雷でも受けたかのように全身を顫わせつつ海老反る。数瞬後にはそのまま膝を着き、そして、前のめりに倒れ込んで砂を噛んだ。
俺だけでなく、横の陽炎までも見惚れてしまっていたが、彼女はすぐにはっとし、
「ええっと、とにかく、そこまで! 勝負あり!」
そう叫びながら壁を乗り越え、躊躇なく砂場に飛び降りていく。俺も続こうとして、桟に足を掛けるまでしたが、ちょっとそこから覗き込んだだけで高さに眩暈を起こしたので断念し、この観客席に入ってきた通路を逆回りして、三人の女傑の辺りまで急いだのであった。
俺が到着する頃には状況が少し進行していた。まず、あのでっかい犬は、魔術で喚んだもののせいなのか既に消滅しており、今地面に転がっているのは魔女の体のみである。目を閉じたまま何かを呻く彼女には陽炎がつきそっていて、顔の砂を払ってやったり、何かを話しかけてやったり、比較的暢気なこと施しているようだ。つまり、無事なのだろう。対戦相手であったミネルヴァは、いつもの執務室で見かけるのと全く変わらない様子で佇んでいる。しかし、その左頬に痛ましい擦り傷があり、それが塩のような砂を滲む血で捕まえていることと、右手でこっそり腰の辺りをさすっていることだけは普段と違った。つまり、相変わらず無表情だったのである。
その内に、魔女が身を捩り、額に手を添えた思いきりの顰め面で、刈り取る前の小麦のように頼りなくふらつきながらも立ち上がった。
「あー」、と、誰に言うでもなく言う彼女に向けて、いかにも楽しそうな陽炎が、
「しかし、いい "ジャグゼス" が入ったわねぇ、」
「 "ジャグゼス" そのものではありませんよ。容赦なく第七段階の "ジャガコウィス" を使わせてもらいました。油断出来る相手ではないですからね。」
「細かいわねぇ、ミニー。まあ確かに、ウィチィの魔力がこれっぽっちも残らずに吸収されたみたいだけれども。流石の腕ね。」
「難しいところでしたね。まあ、上手いところ全奪取できてよかったです。」
「何を、御謙遜を、」魔女がようやくまともに話し始めた。「七十年近くも前にそれを修得し、その後も各種〝喰い〟の開発の為にそれを磨き続けてきた〝氷刃〟の唱える "ジャガコウィス" に、なんの遺憾があると言うのでしょう。この世で、いや恐らく、最早歴史的にも最大の威力となるに決まっておりますわ。」
ミネルヴァは、ちょっと両肩を持ち上げてから、
「ウィッチ、ことはそう単純では、」
ここで言葉が止まった、氷刃が、まるでそこの釘を抜かれた人形のように、右の膝をがくんと折ったからである。
すぐに陽炎が、飛びかかるように寄り添い、
「ちょっと、大丈夫なのミネルヴァ? 無理しないで座ってなさいよ。どうせ、それくらいの魔力は充分過ぎるくらい残っているでしょう?」
ミネルヴァは、それが彼女なりに懸命の衰弱の表現なのか、麗しげに目を閉じて、その小さい顎を縦に振ると、優しくドリセネーを突き放し、それから、足許に築いた氷塊の上に腰を落とした。常人からすれば拷問以外の何物でもないこの着座も、女神の名を持つ魔術師には心からの安らぎを与えるようで、彼女はあからさまに頭と肩を落とし、深い息をひとつ吐く。
そんな氷刃に陽炎が再び寄り、軽く腰を落としつつ、
「ほら、顔を見せなさい。別嬪が台無しになったら、あなたのザンが泣くわよ。」
「別に、自分で治せますよ。 "キキヴフラ" まで修めているのですから。」
しかし陽炎はずいと寄って、
「んなことは分かっているわよ。でも、私はこの演習の〝立ち合い〟人なの。私に、その責務を履行させないつもり?」
女神の名を持つ魔術師は、恐らく患部を晒す為にドリセネーから目を外し、一言呟いた。
「お願いします。」
承った女魔術師はニカっと笑い、処置を始める。まず、右の掌を適当に上向かせ、水撃魔術の第一段階と思しきものをそこら辺に空撃ちした。その結果得られたびしょ濡れの右手で氷刃の頬を軽く撫でる。何度か繰り返して砂が落とされた傷口をちょっと真剣に見つめてから、右手をそこへ、ぎりぎり触れぬ程度に肉薄させた。その後その右手が緑色にぼんやり光り、消毒魔術の何かが唱えられていることが窺われ、その後は治癒魔術と思しき橙色の光が同じように発せられた。すると、ミネルヴァの傷は見る見る塞がっていき、元通りの、未踏の雪原のように白い、つまり忌ま忌ましい位の完膚がそこに甦ったのである。
「はい、オッケェ。一応鏡で確認しておく?」
「あなたの腕を信じますよ、ドリス。それに、私自身もザンも、私の容貌になど大して興味ありません。」
呆れ顔の軍務官は、同僚の頬を二三度突きながら、
「あなたね、この器量でそんなことを言うと全世界の婦女子から恨みを買うわよ? ただでさえ老いぬ体なのだから、」
「別に、見てくれの為に不老者になったわけでは、」
「ああ、分かっているわよ、そんなこと、黙ってなさい。で、そんなことよりも、あなた、他のところは大丈夫? 腰とか。」
ミネルヴァはちょっとさすりながら、
「折れたり切れたりは絶対にしていませんし、まあ、多分中身も大丈夫でしょう。一応、後で医者に診てもらおうとは思いますが、」
「ああ、そうね。私よりもそういう連中に見せた方が安心ね。」
所在なげであった俺が、ここぞとばかりに口を挟んだ。
「しかし次官殿。あれ程の勢いの一撃を受けて、何ともないのですか。凄まじく頑強な肉体ですね。」
「「「ああ、いや、」」ああ、いえ、」
三人の女魔術師の声が重なった。彼女らは黙って見交わし、目の動きで促されたミネルヴァが、
「私は無防備であの一撃を受けたわけではないですよ。氷壁でのガードがありました。アレが無ければ、もしかすると骨くらいはやられていたでしょう。」
あまりに明らかであったらしいことを問うてしまった気恥ずかしさを懸命に押しのけつつ、俺が、
「しかし次官殿、畏れ多くも述べれば、あなたは、あのムーン大将殿の一撃の飛来に、有無はともかく少なくとも方向に関しては、全く気が付けなかったように見えました。」
「ええ。」
「ならば、どうしてそのように、氷壁を構えることが出来るのですか? しかも、見ていた自分が全くその出現に気が付けなかった以上、防禦に用いた氷壁はかなりピンポイントであったように思われます。つまり、あなたはその攻撃される位置を認識していたことになりますが、これは、今あなたが認めた条件からすれば不可能なことの筈ではないでしょうか。」
ミネルヴァの返事には殆ど躊躇いがなかった。
「ケイン。誤謬というか、飛躍があります。『氷刃が、魔女の攻撃がどこから来るか分かっていなかった。』と、『氷刃がピンポイントでその攻撃を防いだ。』というそれぞれは、必ずしも悖反ではありません。つまり、私はウィッチの攻撃に襲われる地点を知ることなく、しかしその攻撃を禦ぐことが出来たのですよ。」
首を傾げる俺を無視して、次官は同僚の顔に視線をやった。流石百年近い付き合いというだけあって、それだけで把握したらしい陽炎は「あいよ、」と呟き、右脚を少し下げると、思いきりそれを蹴り上げ、氷刃に対して凄まじい砂掛けを行ったのだ。するとミネルヴァは微動だにせず、砂塗れになった。
この仕打ちを受けても氷刃は凍りついたように動かなかったが、陽炎が、「あり?」と呟きながら首を曲げると、流石に大層苛立たしげな声で、
「ドリセネー。もう少し大きいもので試して欲しかったのですが。」
「あ、えっと、御免なさい、ええっと何か手頃なものは、」
砂女は派手な溜め息をついて、
「もう良いですよ。……ああ、ケイン。実演しそびれましたが、私にそれなり以上の大きさと勢いを持った物理的飛翔物がとんできた時に、自動的にそれを妨げるような氷壁が形成されると言う、所謂〝障壁〟の一種を私は帯びていたのですよ、先の戦闘中と、今。」
俺は、先程ミネルヴァが打ち据えられた辺りに氷の砕片が転がっているのにふと気が付いたので、素直に納得した。
「成る程。」
塩田で転んだかのような、あまりに気の毒な姿となったミネルヴァが必死に顔の砂を払っている中で、俺は新たな頭痛の種の出現を憂いていた。障壁か! そういう魔術が存在していることは知っていたが、しかし、その性質に関する知識は殆ど持ち合わせていない。ああ、また、氷刃を殺してやる為に勉強せねばならないことが増えてしまったらしいぞ。全く、いつかこのまま学者になれちまうんじゃないのか?
人知れずに悩める俺の向こうで、あれだけの事を仕出かしたばかり陽炎が、いかにも悪怯れず、
「ところでウィチィ、いつの間にあんなに派手な召喚魔術を覚えていたのよ。」
「ああ、本来は、モルディア軍務官殿への対策だったのですわ。あの魔獣、雷撃に対してほぼ完全な耐性を持っておりますので。修得には相当苦労しましたけれども。」
「あらら、非道い奴ね。そんなに苦労してまで、ザンの奴を嵌めてやりたかったの? 捩れ曲がった発想でなくて?」
「何を仰います、ガルキマアト軍務官殿、」
「『ドリス』でも良いわよ?」
「お断りしますわ。とにかく軍務官殿、私の企みがうまくいけば、〝雷帝〟は雷撃が上手く通用しない相手への対策を練る羽目になり、言い換えれば。対策を練る契機を得ることになります。もしそれが成就すれば、モルディア軍務官のお持ちの数少ない隙がまた一つ潰れることにほかならないでしょう。このような細やかな鍔迫り合いというか、とにかく干渉こそが、あなた方、あるいは私を含めての者共の実力の堆積、ないし研鑽となるのですわ。」
陽炎は、両手をちょっと拡げて、
「ふうん。まあ、分からなくもないけれど。」
そして彼女は、女神の名を持つ魔術師のほうへ向き直った。
「さて、気の毒なことをしてしまったわね、ミニー。でもね、実は私、そこまで悪く思っていないのよ?」
何言ってるんだこいつ?
砂塗れの、我が表向きの主も同じく思ったのか、
「意味が分かり兼ねますが、」
「実はね。あなた達二人の遣り合いを見て、私も血が滾ってきちゃって。ねえ、ミニー、今度は私と勝負してもらえないかしら? 甲か乙辺りでさ。」
ミネルヴァは一つ息を吐き、
「成る程、どうせ砂塗れにしてやるぞ、ということですか。あなたらしい言辞ですね。」
「で、受けてくれる?」
氷刃は、ちらりと俺を見てから、この男をより時間的に拘束してしまってでも、今は見学をさせるべきだと判断したらしく(有り難いこって。)、
「構いませんが、その前に二つ、」
「なんざんしょ。」
「今の手合わせの勝敗はどうなったのです?」
陽炎は、頬に手を当てつつ首を徐ら振り、
「ああ、思い出しちゃった? いや、悩みどころよね。ようは、あのウィチィの〝操箒術〟による一撃が、乙ルールでの勝利を認める有効打であったかという話だけれども。微妙よねえ。認めれば当然ウィチィの勝ちで、認めなければ、その次の一撃で相手を完全戦闘不能にさせたあなたの勝ち。
たださあ、試合でもないのに、厳密に勝敗を決める必要ってあるのかしら?」
魔女が、
「きっと、構いませんわ。とにかく、真剣勝負ないし甲ルールであれば完全に私の敗北でしたから、いずれにせよ今の手合わせで胸を張るべきはララヴァマイズ次官殿の方ですもの。それでいけませんか。次官?」
「まあ、私も正直勝敗はどうでも良いのですが、先程ドリスが立ち会いの責務とやらにこだわっていたので、訊いてみただけですよ。その見解に興味もありましたし。」
「お気遣いどうも。で、ミニー、もう一つは何よ?」
「立ち会いはどうするのです?」
「ああ。それは当然、さっき畏れ多くも軍務官様に立ち会いをやらせた、そこな黒魔女に、」
「ちょっと、ちょっと、」
慌てて文句を言おうとした魔女に向けて、陽炎が先んじた。
「何よ、この世は相互扶助なのよ? 立ち会ってもらっておいて自分は断るだなんて、行儀がなっていないわよ?」
「しかし軍務官殿、この世には行儀よりも優先されるべきことがありますわ。それは、規則ないし、法です。今で言えば軍紀です。次官殿、私めは、治癒魔術を第四段階までしか修めておりませんの。」
「それ、自慢する話?」
「そんなわけがないでしょう! ……ああ、失礼致しました。とにかく、私は甲ルールの立ち合いの用件を全く充たしておりませんわ。つまり、必要となるかもしれない治療を行えないのですから、責任が持てません。」
「ああ、そんな決まりもあったわね。それじゃ、乙ルールで、」
「更に、乙ルールの立ち合いにおいても、第三段階までの治癒魔術が行使可能であることが求められます。」
「第三ならいけるのでしょう?」
「ええ、修得はしておりますわ。しかし奇しくも、今私の魔力は空っぽですの。どうやって帰ろうか悩んでいるくらいですわ。」
「ああ、そっか。ミニーに根こそぎ持っていかれたのよね。」
こう言った陽炎は、ちょっと悩んでから、なんと俺のことを指し示しつつ、
「じゃあ、ケインに、」
「ケインの治癒魔術の腕は知りませんが、乙ルールの立ち会いの用件の一つとして、医療従事者あるいは下士官以上の者と言う取り決めがありますの。彼はそっちの条件を充たしておりません。」
確かに俺は、一応二等兵扱いということで、それに対応する襟章を付けているのであった。もしも俺の立ち会いが至らぬということによって氷刃ないし陽炎が死亡してくれることがあるならば、それは素晴らしいのだがな。
「軍務官殿、もしもこれ以上ごねられるようでしたら、」
「何? 家へ帰るって?」
「いいえ、帰りませんわ。この足でまっすぐ、長官の部屋まで行って、『アンタの戦友が我が儘を部下に言ってきて困るから今すぐしばきに来てくれ。』と言いつけに参ります。そうでもしなければ、私が居なくなったところで勝手にことを始めるかもしれないではないですの。」
陽炎が、一気に渋い顔になった。
「ちょっとウィチィ、卑怯でなくて? バンと懇ろであることを笠に着て、」
「いいえ、私がいま根拠としておりますのは、バンとの友情ではありません、規則ですわ。そしてその目的は、万が一にもあなたやララヴァマイズ次官殿に不可逆的な怪我を負わすわけに行かない、という心配ですの。お願いしますわ、軍務官殿、次官殿の肌を慮ったように、どうかあなた自身の身のことも心配して下さいまし。丙ルールで宜しければ、喜んで立ち合いさせて頂きますので。」
憤ろしげ、哀しげ、頼もしげ。その順に魔女の表情が移ろいながら発せられたこの言葉の前では、流石の陽炎も折れた。
「はいはい。分かったわよ、全く、いい部下を持って幸せだわ。」
氷刃がすくっと立ち上がって、
「では、早速始めたいのですが。何せ、この後の用事もありますので。」
「アタシはそりゃ構わないけれども、ミニー、あなたはいいの? もう尋常に戦える?」
「多少の不利は否めませんが、まあ、どうせ勝敗にこだわるものでもないでしょう。しかも丙ルールですし。」
「まあ、それもそうなのだけど。ああ、たださ、ミニー、目潰し系はお互いに無しにしないかしら?」
氷刃は、左後ろ腰のポーチから魔銃を取り出すと、顔の高さまで持って来、銃口を上に向けた。そこを注視してみると、確かに、金持ちが使うグラスのような形状の金属板と、それに包まれる針のような金具が覗けている。アレが、魔女の語っていた抛物面とナントカ・ムーン機構とやらなのだろう。
「これのことですか?」
氷刃はそう言いながら然るべき操作を魔力によって行ったらしく、魔銃の銃口が、まるで開花から日付の経ち過ぎた鬱金香のように、ぱかっと四方に割れた。そうして露になるナントカ・ムーン機構の針は、天頂を幾らか過ぎた太陽によって、あたかも刺突が目的の武器であるかのようにぎらりと煌めかされている。成る程、ああやって前方へ光線を束ねる為の反射板を取り除けば、逆に全方向への光の放射が出来、破壊は出来なくとも眩惑させることぐらいは出来るという企図もあるのか。まったく、魔女様はいい趣味をしてらっしゃる。
「ええ、それ。私もその手の攻撃は自重するからさ。」
女神の名を持つ魔術師は、魔銃をポーチに仕舞い込みつつ、
「諒解しました。その取り決めで行きましょう。」
以上の遣り取りを聞いていた魔女は満面の笑みを作り、両手を打ち鳴らした。
「さて、では早速立ち合わせて頂きますわ、と、言いたいところなのですが。」
「何か問題があるの? ウィチィ。」
「そりゃ、ありますわよ。大有りですわ。」
「何よ?」
「いえ、先程からちらちら目で探しているのですが、私の箒、どこに行ってしまったのでしょう。」
そう言われた、俺を含めた三人がきょろきょろしてみたが、しかし、確かにあの冗談みたいな箒が砂地のどこにも転がっていないようであった。
「あらら、埋もれちゃったのかしらね。ウィチィ、面倒だから操箒術で手許に取り戻しなさいよ。」
「二つ問題がありますわ。まず、ああいう運動操作系の魔術は、対象物を完全に見失うと実行出来ませんの。」
「ああ、そうだったわね。それで、もう一つは?」
「ですから、今私の魔力は空っぽなのですって。」
陽炎は目を閉じて溜め息をつきつつ、
「ああ、それこそ、そうだったわね。もう、ミニーってば、ちょっとは手加減してあげなさいよ。」
そう面倒くさそうに言いながらも、彼女は腰を落として砂の中を漁り始めてくれたので、俺と魔女は慌てて、そして氷刃もそこそこ、箒の捜索を始めたのであった。
「さあ、御両人、準備は宜しいですこと?」
先程、思いっきりひしゃげた箒を掘り起こして半泣きになった魔女が、まだその悲哀から恢復していない顔の上に、一所懸命厳めしさを与えようとして、しかしいまいち上手くいっていない微妙な表情で観客席から叫び下ろすと、とにかく、砂場で構えている二人は頷いた。ミネルヴァはいつも通りの無表情で、ドリセネーは、こちらも普段通りの莞爾たる笑顔である。先程俺は、魔女が廊下で表情を一気に引き締める様を見て、実に戦士らしい振舞であると感じ、それによって、自分はそのような存在でないと語る魔女の言葉を訝っていた。しかし、的外れは俺の方であったのかもしれない。何せ、確かに一戦級の戦士である筈の氷刃と陽炎は、あんなにも、平常時通りの表情のままで戦場に佇んでいるのだから。戦いに向けて改めて緊張する必要すらないと言わんばかりのその様は、戦いを無礼ていると言うよりも、寧ろ、常時臨戦態勢であることを物語っている様な気がする。だってそうでなくば、あの、女神の名を持つ魔術師が、あの青一色の奇怪な出で立ち、戦闘時の隠匿の為の恰好を日頃からしている事が説明出来ないではないか。陽炎の、布切れ一枚を纏うというおかしな、最早服とも呼び難いそれも、きっとそういう事情があるのだろう。
俺はここまで考えて深く満足したが、しかし、この満足は、今俺のすぐ前で、砂地のほうへ身を乗り出しかけている女の背中を見たことで、きゅう、と凋んでしまった。絵本から飛び出てきた妙齢の魔女のとびきりおかしな、そして別に戦闘に役立つとは思えない恰好を見ると、そもそもこの軍の高官たちのセンスがおかしいだけなのではという疑念がいくらか沸いてくるのだ。――何せ、半世紀以上の前に生まれた婆様たちだぜ!
一応は将官と言うことか、魔女の太い、いかにも堂々とした、しかし講義の前に学徒たちを叱り飛ばしたのとはまるで性質の違う、寧ろ聞くものを鼓吹するような大声が響く。
「では、立ち合い、ウィッチ・ムーンの許に! 特殊丙ルール!両人における眩惑攻撃の一切を禁止とする! ……では各自、……開始せよ!」
例の如く、「開始せよ」の最初の音節の段階で、二人の魔術師は動き始めていた。先手を取ったのはやはり、この世で最速の魔術展開速度を誇るとされる陽炎の方で、彼女は下げていた両手を正面に挙げるや否や、その各々から、第七段階のものと思しき、象のように巨大な火球を放ったのである。諸手を下ろしていたドリセネーが万歳をしたら火球が出現した、それくらいの、まさに刹那の早業であったが、しかしその一瞬の内に、幾重にも俺を驚愕させた。まずは、やはりその速さである。幾らサイレントといえども、本当の意味で融通無碍に、つまり自分の体を動かすのと同じように魔術は展開出来ない、筈であった。しかし、きっと陽炎にとっては、唾を吐くよりも容易いことなのであろう、それくらいの早業だ。次に驚くべきことは、俺では唱えることも出来ず、もし何かの間違いでそれが叶っても魔力の涸渇で引っ繰り返ることになりそうな火球呪文の第七段階を、事も無げに、しかも二発放ったことであり、また、それらの間隔が殆どなく最早同時にしか見えなかったことも、やはり驚くべきことであった。これらはそれぞれ、氷刃には及ばずともやはり化け物じみている魔力の貯蔵量と、 他の沈黙の魔術師達を遥かに凌駕すると言われるサイレント詠唱の速度とを、つまりそれぞれ陽炎のとんでもない魔術の実力を保証する証拠なのであった。
俺を驚かす最後の材料は、しかし、これらとは逆の性質の驚愕を与えた。感歎ではなく、呆れや困惑を与えたのだ。つまり、おいおい陽炎さんよ、〝火喰い〟の使い手である氷刃に火球なんて投げつけてどうするんだい?
しかし、俺は一瞬で納得させられた。その巨大過ぎる火球は、つまり、庇にもなったのだ。掌から火球を発射した陽炎は、すぐにその両手をペコリとお辞儀させつつ絞り、嘴を象るがごとくした。そして両手の、中指人さし指薬指が接している一点から、二条の光線を発射したのである。やはり考えられぬほどに狭い間隔で、最早ほぼ同時に唱えられたそれらの光線呪文は、反動によってその発射物元である手を、撃ち抜かれた水鳥の頭のように上向かせつつ、先達の、すなわち先だって発射されている火球の背中を射抜いた。結果、氷刃の側から見れば、二頭の象の大きさに匹敵する紅蓮の目隠しの向こうから殺人的威力を誇る光線が襲ってきたわけであり、たまったものではない。しかもこれが、まさに開幕、一歩動けるかどうかのタイミングで早々と起こった出来事なのである。常人であれば、気が付く間もなく射貫かれ、ついでに焼き焦がされてお終いだ。
だが、勿論ミネルヴァは常人でない。しかもどうせドリセネーの手口や性癖は知り尽くしているだろう。果たして氷刃は、火球が飛んでくるのを見ると同時に、思いきり右方、俺から見て奥の方へ転がるようにして身を投げていたのである。きっと、まともな猶予さえ与えれば、彼女はすぐに頑丈な氷城の中に逃げ込み、その強度に加えて各種〝喰い〟や鏡氷とやらで身を護ってしまうのだろう。つまり、やわな物理的攻撃、熱、水、冷気、光線が効かなくなってしまうということだ。ウィッチの為したような強引な力学的攻撃が叶わないのか、それとも何らかの理由によって憚られるのか、あるいは単に面倒なのか、とにかくドリセネーは明らかにそうやって氷刃が態勢を整えてしまうのを嫌い、しかるべき隙を与えぬ為に、逃げる彼女へ執拗な攻撃を繰り返した。その巨大過ぎる火球と鋭過ぎる光線の殺到は、殆どの生命を消し飛ばせるほどの殺意と確かさを備えているのだと俺に確信させる。氷刃は仕方がなしに、その偉大なる脚力を活かしつつ、孤を描くような軌道で逃げていくが、しかし、ここしばらく彼女に付き合って分かったこととして、ミネルヴァは、その実力と裏腹に可憐な見た目や、聞くものを陶然とさせ兼ねない声音に反し、少し、いや、かなり気が短いのだ。ハーゼルモーゼン人の短い寿命がそうさせるのか、その壮絶な半生がそうさせたのか、はたまた固よりそう言う人格を持って生まれたのか、とにかくあれ程に短気であり、しかも砂塗れなったばかりで苛立たしい心情を幾らか抱えている筈の彼女が、こうも一方的に攻撃され続けて黙っている筈がなかった。果たしてミネルヴァは、ポーチの中から左手で魔銃ファングを再び抜くと、脚の方に少なくない力を籠めて逃げ続けながらも、上体の方をしっかりと陽炎の方へ向けて、続けて銃口も向けて、それを発射した。彗星が巡った。そう思わされた程の、樽の如く太い光線が銃口から迸り、しかも光に相応しい速力をも持っていたので、俺が目を剥く頃には、とっくに陽炎が居た場所が射貫かれていたのである。しかし、なんと、彼女は無事であった。まるで、霊感を持たぬものが幽霊にすり抜けられたが如く、あるいは聾者に轟音が降り注いだが如く、彼女は平然とその場に佇んでおり、相変わらず、あまりに頻りな攻撃を氷刃に、雨の如く浴びせかけている。もう、優に百は超えているのではなかろうか、それほどの暴力的回数の詠唱を経ても、しかし陽炎はぴんぴんしており、まったく魔力が尽きる様子がないのであった。まあ、それはそれでいいとして、しかし、何が起こった? 何故、彗星を打ち込まれた筈の陽炎が、全くの無傷なのだ?
執拗な観察を続ける俺の前で、逃げ続けている氷刃が再び銃を構えた。俺は、何が起こったのか今度こそ理解してやろうと、早々と氷刃から視線を切り、その銃口が見据えている筈の人物、絶え間なくエネルギを放出し続けている赤毛の魔術師の方を睨みつけた。先程から、滝壷の水音のように幾重にも重なっていた攻撃的轟音の帳を、魔銃の搔き起こす唸り声が劈いたと思った瞬間、当然に、陽炎は既に射貫かれることになったのだが、しかし、再び彼女は平然としてい、そのまま雨霰のような攻撃を続けているのである。結局、氷解は四度目の銃撃によってようやく得られた。そのような先入観がなければ絶対に見逃してしまうと思われるような、刹那の間に、陽炎は僅かに身を捩って、掠めさせるように光線を回避しているのだ。何の意味があるのかは知らないが、その神速の回避動作後に再び元の位置へすぐさま戻り、以前と同じ動作を続けるので、恰も、攻撃が命中したのにも拘わらず平然としているような錯覚を見る者に覚えさせる。ああ、〝陽炎〟の名が相応しいわけだな。で、つまり彼女は、もしかするとふざけ半分で、しかしそれでも完璧に氷刃からの攻撃をいなし続けているわけであり、成る程、あの女に某かの攻撃を与えるのはかなり厳しそうな話だ。
さて、先程からミネルヴァは時々攻撃を行いつつぐるぐると砂地中を駈け回っているわけだが、しかし、ただそうしているだけでもなかった。つまり厳密には、その軌道は円ではなく渦を描いているのである。結果、氷刃と陽炎の距離は少しずつ近づいており、その接近をきっかけにしてか、ある瞬間に氷刃が趣向の変わった一撃を見舞った。その左手の銃をドリセネーへ向けずに、代わりに、手首を顎に貼り付けるようにしてそっぽ向かせたのである。波状攻撃で忙しいなりに訝しげな表情をきちんと陽炎が作る向こうで、氷刃は、その銃口から光線を発射させ始めた。そう、させ「始めた」のだ。連続的に放射が継続されることで、彗星と言うよりも、最早無限の刃のようになったその逞しい光線が、持ち主の手の動きに従って、動く。女神の名を持つ魔術師は、顎に貼り付けていた手を、思いきり、腰の高さの裏拳を放つように振り払い、つまりそれに従う魔銃の光線は、空間を横に薙ぎ翔けたのである。新たな一条の模様を闘技場の壁面にぐるり刻み込んだその光線は、先程のような御座なりな回避では対処しきれず、陽炎は跳ねることでその攻撃を凌いだ。強靭な脚力を活かしてその場で跳躍したわけだが、氷刃にとってはこれが狙いであったのかもしれない。その、空中に跳び、すなわち身動きが出来なくなったドリセネーに向けて、無数の氷槍が伸びていったのである。そう、氷が飛んでいったのではない、ミネルヴァの体のそこかしこから凄まじい勢いで伸びていったのだ。つまり〝火喰い〟の条件である、直接あるいは間接的にふれていることが達成されており、陽炎の得意とする火球呪文で薙ぎ払うことは出来ない。そんな条件下で、あまりにも高速にそちらへ届かんとしている無数の槍に睨まれた陽炎は、空中で両手の指を絡め始める。その表情は、すっかりいつもの笑みと軽々しさを忘れて、彫刻の如き謹厳さを漂わせていた。指を絡めた掌を表に返した彼女は、そこから、なにやら高段階の爆発呪文によると思しき、衝撃波を放出する。熱の分の威力が殺されてか、ミネルヴァの槍を多少毀ちはするものの砕ききるには全くいたらなかったその攻撃は、しかし、確かな成果を挙げ、つまり、その術者の体を思いきり後ろへ飛ばしたのである。結果、槍からの距離を取りつつ地面へ乱暴に着地したドリセネーは、最早尋常にその脚力を活かして、左方へ飛び退けることで槍の到来を回避した。しかし、何か読み材料があったのか、それともたまたまなのか、今度は羽のように細やかな、そして矢のように鋭く、僅かな隙間もなく降り注ぐ氷の刃が、その飛び込もうとした地点に襲いかかっているのである。目を剥いたドリセネーは、避けきれぬと判断したか、その体に纏う茶色の布切れを引き剥がし、闘牛士のマントのように振るった。彼女が握った瞬間に、妖しげな可視のアウラを帯び始めたその布切れは、そういう性質を仕込まれた魔具であったか、夥しく襲来する冷たい殺意を、届く範囲ながら全て薙ぎ払う。下にはぴったり張り付く腿の半ばまでの穿きものを付け、それと、しっかりと締まった腹筋の上の、あるかなしか薄い乳房に白い晒し布を纏うだけとなった彼女は、懸命にその茶色い布を右手で振るいつつ、左手でもやはり防禦的な魔術の運用、つまり氷の刃の撃ち落としに忙しく、殆ど攻撃出来ていない。布切れを片手一本で閃かせるには体全体を使っての勢い付けが必要であり、その為に、反撃が捗々しくないのであろう。
さて、斯くして膠着が得られたわけだが、その性質は、魔女と氷刃が演じたものや、あるいは陽炎と氷刃が当初演じていたあまりに喧しいそれとは、大きく異なっていた。つまりその演者一方に、今で言うなら陽炎の方に、具体的な対抗策がないのである。ならば、彼女はこのまま敗北することになるのではなかろうか、と俺が思っていると、すとん、と静かになった。熾烈を窮めたままで、つまり見慣れてしまうと退屈に感じてしまうその攻防があまりに長く続いたことで、つい目を伏していた俺が、そのしじまに顎を摑み上げらると、見えてきたのは互いに手を停めている軍務官達である。流石に肩で息をしているミネルヴァは、いつも通りの無表情ではあるのだが、何となく嬉しげに見えた。この印象は、俺が彼女と長く過ごしてきたことによる洞察なのかもしれないが、もしかすると、単純に対比によって浮き彫りにされただけなのかもしれない。何せ、陽炎の方が、丘の魚の尾鰭ように口の端をひくつかせつつ、いかにも忌まわしげな表情をしているのだから。今彼女の足許は靴ごと氷で凍てついており、あのままでは身動き出来ない。では解かせば良いではないかとなるわけだが、そうもいかないのだ。何せその氷は、氷刃の足許から綿々と続き、遥かな砂地をわたってとうとう陽炎の靴を縛めているのだから。二人の脚が同じように氷に侵蝕されているわけだが、しかし、その主がミネルヴァである以上、両者は全く公平でない。間接的な接触という条件が充たされている為に解かすことは〝火喰い〟によって妨げられ、また、更に〝造氷術〟を重ねれば靴のみでなく身まで凍てつかせ兼ねないその氷は、両者を繋ぐ綱と言うよりも、刑吏ミネルヴァが罪人ドリセネーの首にかけている大鎌のようである。罪状は上官への不敬行為、砂掛けであろうか。
その刑吏がちらりとこちらに視線をやると、俺の横の魔女がようやくはっとし、
「そこまで! 勝者、ララヴァマイズ次官殿!」
そう叫ぶと、ウィッチは壁の縁に脚をかけつつ、きょろきょろしだす。しばらくそうしてから、そこから翔け降りる為の道具が先程へし折れたばかりであることを思い出したらしく、また泣きそうな顔になりながら、とぼとぼと通路を降りていった。
その後三人の沈黙の魔術師たちは、反省会のような議論をしばらく交わして解散となった。ドリセネーは仕事があったらしく、すぐにどこかへ消えていき、今は我が主と魔女が並んで歩いているのを俺が数歩下がって追っている次第である。
「ところでウィッチ、」
「はい、何で御座いましょうか。」
「いえ、私がこれから行く先なのですがね、」
「ああ、そう言えば何か御予定があると仰っていましたね。いやいや、本日は大変、」
「とって付けたような挨拶はどうでも良いですが、とにかく私は魔具店にいく予定であったのです。宜しければ、あなたも共に参りませんか。それも、弁償したいですし。」
魔女は、未だに甲斐甲斐しく、蚊の足のようにへし折れた箒を携えているのであった。
「ああ、どうかお気になさらないで下さいまし。訓練する以上、消耗と言うか、とにかくそう言ったことは覚悟しておりますわ。そう、つまり箒を駄目にする勢いでの攻撃が実戦でも必要になるかもしれない以上、此度のこれは、正当な犠牲と言うか労苦と言うか、そう言う性質のものですの。」
魔女がミネルヴァに話す為にこちらに晒している横顔にすら、夥しい沈痛が浮かんでいた。
「しかし、まあ、非常にショックと言いますか、その、とにかく哀しいのは事実ですわね。ここ数十年ともに鍛練を続けてきた、〝相棒〟の様なものでしたから。」
これを聞かされた、女神の名を持つ魔術師の背中が、何となく小さくなった気がした。実際にどんな表情をしていたのかは知らないが、とにかくその口から、
「つまり、あなたは〝操箒術〟を失ってしまったわけですか。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は大童となった。
「いえ、いえ、そんなことは決して御座いませんわ。確かに、これから新しい箒を拵えて、そしてそれに慣れるまでの間という意味では失われてしまったと言えなくはありませんが、しかし、そこまでですわよ。それ以降は、つまり私が新しい相棒に慣れてからは、また尋常に操箒術を扱うことが出来ますわ。」
ちょっとの間があってから、氷刃が魔女の方を向き、足を止めた。その位置が丁度、魔晶燈の明かりが良く当たる地点であったらしく、ミネルヴァの少女のような顔が一気に明るくなったように見える。
「それは、よかったです。」
そう呟いてからまた彼女は歩き出し、
「しかし、いずれにせよ新しい箒が必要なのですよね? ならば、魔具店に参りませんか?」
伴う魔女は歯切れ悪く、
「ああ、その、お心遣いは大変有り難いのですが、しかし、私にとって箒とは、出来合いを買うものではありませんの。自分で枝や草を採るなり拾うなり買うなりして集めまして、それを干し、選別し、水につけ、編み、……ああ、とにかく、丹精込めて作るものなのですわ。」
「成る程。」
「そしてその、あなたの部下、あるいは一種の友人である私としましては、用事がなくともお誘いに付き合うのが望ましい態度なのでしょうけれども、」
「口に出しては台無しでしょうが、」
「あなたと私が、気の置けぬ仲であると確信させて頂いておりますが故の言葉ですわ。とにかく私は御一緒すべきなのでしょうけれども、しかし申し訳ありませんが、今日はこの子を早く弔ってやりたいんですの。」
魔女はひしゃげた箒を自分の体の前に持ってきて、愛おしげに抱きすくめた。この、病的すれすれの道具への執着は、その多くを操箒術への依存に拠っているのだろうが、もしかすると、不老者ならではの、あまりにも多く経験してきたであろう知人友人との死別や、そこから生まれる疎外感も原因としても含まれているのだろうか。少なくとも、俺とあまり変わらない肉体年齢は魔女の顔面に皺を殆ど刻み込んでおらず、その顔貌から彼女の歴史に哀しみを、あるいは哀しみの歴史をそのものを窺うことは不可能であった。
とにかくわが表向きの主はすぐに、
「分かりました。よく悼んでやって下さい。……ところで、具体的にどうするのですか? 焼くのでしょうか。」
「ああ、いえ、寧ろこう、解しましてね、」
魔女は箒を小脇に挟んで、両手を使って何かの動作を模し始めた。所謂「実験屋」の学者である彼女は、いちいち具体的な説明を為したいと言う癖をその長い研究生活で培っているのだろうかな、と俺はふと思った。
建屋を出て、「歩いて帰るのも久しぶりですわ。」と呟く魔女と別れた我々は、魔具店に向かっている最中である。やや傾き出してはいるものの、しかしまだ黄色くなっていない太陽に照らされた多くの行き交い人が、短く、しかしその分濃い影を、道幅きっちり敷き詰められた石材の上に垂らしている。
「して、次官殿。その魔具店にて何を購入するのですか。」
「そうですね、いつも使っていますのは魔晶燈用の、つまり〝光〟の魔晶石です。他には、非常時用に一応備えてある水剤なども。あとは、そうですね。そろそろ保冷庫を買っておいても良いのかな、とも思っていますが。」
「執務室に、ですか? しかし、何に使うのです? 次官殿は果物や野菜の類いを撮まれることがなく、また、冷たいものなど飲まないでしょうに。」
「そうですが、まあ、来客に何かを出すときの事を考えると、用意してあった方が良いかとも思えましてね。」
「しかし、今我々の詰めている執務室は、正直人を招くようになっておりませんよ。実際、今まで次官殿が呼んだのも、親しい知人、あるいはそもそも気を使わなくとも良い部下、そのあたりばかりではないですか。賓客を招けない以上、でん、と保冷庫をおいて場所を使う必要もないと思いますがね。」
ミネルヴァは、ちょっと黙ってから、
「ケイン、あなたは随分と先代の補佐官らしくなりましたね。そうやって窘めてくれると、心強いものです。」
俺は、これに適当な挨拶を返しながら、実際この女の秘書役が板に付き始めたことに対して、実感と、複雑な思いを覚えた。信用を得るのは俺の目的にとって喜ばしいことなのだが、しかし、この女の役に立つのは決して嬉しいことではないのだから。また、以前清潔過ぎる編輯者に対して、有り得るものか馬鹿野郎、と吠えた、俺がこのままあの軍に本気で与してしまうのではないかと言う杞憂が、杞憂と分かっていながらも、その体積を俺の心の中で増長させている気がして気持ちが悪い、という思いも多少ある。
そんなことを考えながら道を進んでいると、時々腰をさすりながら歩くミネルヴァが、突然足を止めて、俺とは反対方向に視線をやった。何かあるのかしら、と訝った俺が、氷刃という、俺の背丈ときっかり同じ高さの庇を避けるべく、腰を大きく曲げながらそっちを覗こうとしたところ、うっかりつんのめり過ぎ、そのまま前へ転びかけてしまう。とと、と、こらえ切れずにとうとう二三歩踏み出ると、ぐさり、という感触を得た。
意味が分からなかった。確かに、蹌踉めきながらも、何かが道の中を駈けてきているような印象を受けていたが、よもやこっちに向けて来ているとは思わなかったし、まさか、俺にぶつかってくるとはそれこそ思っても見なかったのであるから。しかし、その駈けてきた小汚い男は、確かに俺の下っ腹に、なにやら刃物を刺し込んでいるのである。痛みや怒りの前に只管、血と困惑のみが俺から湧き出る。何だ? 刺されたのか? 何だ? 何故だ? 何故、俺のようなちんぴらを、わざわざこんな道中で?
何かに気が付いたミネルヴァがこちらに振り返る気配をきっかけに、俺は納得した。ああ、そうか。この男、俺ではなくミネルヴァ、氷刃を背後から襲おうとして、そしてそこに、たまたま俺が飛び込んできて、
そこまで一瞬で納得し、ようやく痛みを感じ始めるかという段階に至った頃、しかしそれは叶わなかった。更新されたのだ。俺の腹に刺さる刃が、突然、大きな音を出して爆発を起こした。世界がひっくり返るような衝撃。迸る鮮血。飛び散る臓物。大きく毀たれる意識。聞いたことのない氷刃の怒声。倒れる体。その汚い男の首を摑む氷刃の右手。怒声。絞られる首。紙の筒のように容易く拉げる首。あぶくのような断末魔。油然たる血のあぶく。怒声。ちぎれる首。とうとう失われる意識。
暗い森。湿っぽい闇。気道に銀色の蜘蛛の巣が張っていると思える、俺の息は上がりに上がっている。逃げる。逃げる。しかし、追ってくる。幾ら逃げても、その影は、具体的に殺意を手に振り上げつつ追ってくる。何故、それが〝殺意〟そのものであることを俺は知っているのか、分からないが、とにかくその兇悪な形状は、必死に駈けつつある俺をどこまでも苛むのである。幾ら逃げても、跫音は遠のかず、寧ろ高まり、俺は、とうとう、足を縺れさせ――
ここで目が醒めた。ロクでもない夢の内容に苛ついた俺はもう一度眠りに就こうとし、布団を鼻の高さまで上げようとしたところでふと気が付く。うん? なんだ、この清浄なシーツは? 早くも貧乏な臭いを撒き散らす、俺がいつも使っている、軍から宛てがわれた掛け布団はどうなったのだ。
そうしてようやく認識した。おや、やたら清潔そうな知らない部屋、そのベッドの上に寝かされていたようであるぞ。
寝起きのいい俺は、いつものようにさっさと上体を起こそうとしたのだが、叶わなかった。三分ほど起こしたところで、驚かされたのである。
「目が醒めましたか?」
一瞬何者の声か分からなかった。彼女がまともに声を張るのを初めて聞いたものだったので。
とにかく俺は身を起こそうとしたが、そいつの両手がにゅっと伸びてきて、再びベッドに沈められた。
「ああ、じっとしていて下さい。医者を呼んできますから、決して勝手に動いてはいけませんよ。」
俺を押さえつけた青い女、ミネルヴァはそう言うと、駈けるわけには行かない病院という場所で最大限に急いでみせるという感じの体で、忙しなく部屋を出、頻りな鋭い跫音を残しつつどこかへ向かっていったのであった。
しかし、彼女はすぐ一人で帰ってきて、
「今急患が多くて手を放せないから、小康状態に見える奴は後回しにさせてくれ。だそうです。」
女神の名を持つ魔術師はそう言うと、ベッドの脇にぽつりと生えている氷の椅子に腰を落とした。主の小振りな尻が帰還したことによって、その椅子がすこし引き締まったように見える。
俺は部屋を見回した。やはり病室のようである。そこそこ広く、俺の寝ている他にも幾人分のベッドがカーテンで仕切られて並べられているようであったが、しかし、それらの上に病人なり怪我人なりが載っているのかどうかはよく分からなかった。
「取り敢えず、意識がまともかどうかだけは確かめてくれと言われたのですが、大丈夫でしょうかね。名前は言えますか?」
「ケイン・バーレットで御座いますとも、」
「あなたの故郷の名は?」
「ヴェルガノ。」
「では、今の住まいは?」
「一般兵舎の六五九番室ですね。」
「その数字を全て足すと?」
「二十、」
「二百五十六に二十五を掛けると?」
「それは、二百五十六を四と六十四に分解するのに気が付け、というヤツですよね? と言うわけで、六千四百です。」
「三百六十一は素数でしょうか?」
「いいえ。十九の二乗です。」
「では、二の百乗は大体幾つになりますか?」
ちょっと考えてから、
「十の三十乗をちょっと超えるくらいでしょうね。」
「根拠は?」
「二の十乗の千二十四が、大体十の三乗になりますので、更にその十乗という寸法です。」
「では、二の百乗の具体的な桁数を決定、あるいは証明出来ますか?」
「ええっと、二の十乗に二の三乗を掛けると、八千ちょっと、つまり十の四乗弱になりますので、ここから行けますかね? つまり二の十三乗が十の四乗よりもやや小さいことになりますので、両者を八乗すると、二の百四乗は十の三十二乗よりやや小さい。この両者を十六で割ると、ええっと、二の百乗が、六・二五掛ける十の三十乗よりもやや小さいことが分かりますよね。となると、やはり先程の概算と同じく、三十一桁となります。」
「では、もう少し厳密な値を求められますか? 例えば、先頭の数字が確かに一であるか否か、などは?」
俺は少し黙ってから、
「何かあるかもしれませんが、しかし、どうやら今の俺では実際に二の百乗を計算して見せる以上のスマートな手法が考えつきませんね。と言いますか、次官殿、いつまで続けるのですか?」
「ああ、いえ。あまりにもあなたがスラスラ答えるので、どこまでの問いに答えられるかちょっと試したくなってしまったのですよ。部下を評価するという意味と、私のちょっとした負けず嫌いから来る遊び心として。しかし、とにかくあなたの意識は全く混濁していないようですね。」
「それは、当然なのではないですか? だって、俺がやられたのは頭ではなく腹なのですから。」
ここで、俺の方に上体を傾けてたミネルヴァが、すくっと背を反らした。何となく厳しそうになった雰囲気の中から、ミネルヴァの、少しだけ熱っぽくなった声が響いてくる。
「ケイン。二度とあのような真似はしないで下さい。私の為に、身を危険に晒すことは許しませんよ。」
おっと、どうやらミネルヴァが、俺が涙ぐましくも身を呈して主を護ろうとしたと思い込んでいるらしい。これは好機だろう。いかにも甲斐甲斐しい子分を演じてやらねばなるまい。
「しかし自分は一応軍人ですし、あなたに危険が迫った際には、それこそ命を顧みない態度を取ることこそが、」
「ケイン、ここは戦場ではありません。」些か強い声。「屁理窟は結構です。私の為にあなたの身を抛つなど、承知しませんよ。」
その、一音一音にスタッカート記号がついているかのような口調と、肖像のような無表情ながらもしかし岩のように重い迫力を放つ氷刃の顔に俺は竦まされ、言葉にならぬ生返事を返す羽目になった。
いつの間にか再び体をこちらに傾けていたミネルヴァは、息を吐きながら背の角度を尋常に戻しつつ、
「とにかく、無事なようで良かったです。」
今氷刃が全身から醸している安堵、そして、先程氷刃が叩きつけてきた憤り、これらは一体何事なのだろう。部下一人の命が助かったことにしては、妙に重過ぎる安堵のような気がするし、そして、憤りの方に関しては最早意味不明だ。普通こういうときは、その部下の行為に感銘を受けたり、またその本人を激賞したりする様に心が動くものではなかろうか。何故、憤ろしげになるのだ? 軍というものは、全の為に個が死ぬものではないのか? つまり、兵卒の命一つで将軍の命を護れるならば、それは、素晴らしいことの筈ではないのか? 例えば、俺は軍人ではなくレジスタンスだが、この命と引き換えにこの女の命を奪おうと懸命に企んでいるのだ。同じく戦う者、ないし組織として、軍というものでもそのような命の勘定がされているものだと思っていたのだが、違うのか?
俺の思索はミネルヴァの言葉で中断させられた。
「あなたの状況を話しておきましょう。まず、あの男はあなたに魔具の一種である炸裂ナイフによる攻撃を行いました。結果、腹筋や小腸に甚大なダメージが及んだのです。 ……小腸って分かりますか?」
「いえ、」
「腹部で蟠っている、長い長い臓器です。とにかくその一部が完全に失われ、また、一部が炸裂の衝撃で体外に飛び出ました。筋肉や皮膚、骨といった器官であれば私の魔術でも完全に治療出来ますが、しかし、臓器となると知識が及びません。そこで、急いでここにあなたを運び込んできた次第なのですよ。」
「ええっと、それで、今自分はどうなっているのですか?」
「小腸の負った火傷――この表現が医学的に正しいのかは知りませんが、とにかくそのような状態――を出来る限り治し、そして腸の残った部分を繫ぎ合わせるという処置を行ったそうです。その結果、幸いにも殆ど元のままの状態を恢復することに成功したそうで、今後、ほんの少しだけ食物から力を得る効率が悪くなるかもしれないが、気にかかるほどではなかろう、という話でしたね。ようは、長い目で見れば元通りというわけです。」
「幸いな話ですが、しかし、最後に加えられた文句が意味深ですね。」
「そうです。短い目で見れば、あなたはまだ元には戻っていません。まず、しばらくの間酒や刺激物は取れません。」
「それくらいなら、まあ、」
「そして、数日の間ここに入院してもらうことになります。」
俺は驚かされた。
「なんですか、それは。自分はもう、どうやらぴんぴんしていますよ。多少飯の都合がどうこうなろうと、」
「しかしですね。臓器の治療は、しばらく経ってから宜しくない合併症が見出されることがしばしばあるそうです。例えばあなたが深夜、自室で一刻を争う事態に見舞われた場合、そのまま力尽きてしまう可能性があります。ですので、明日から数えて五日間、あなたにはここで静養してもらいます。」
俺は、出来る限り甲斐甲斐しい部下に見える言葉を探し、口から放り出した。
「しかし、次官殿。そんな長い間休んでしまっては、あなたに御迷惑が、」
「まず、どうせ明日はロクに仕事になりませんよ。」
「おや、何故でしょうか。」
氷刃は、その頬を指先で搔きながら、
「勢い余って、ついつい殺してしまいましたからね。」
俺は、あの小汚い男が縊り殺される光景を思い出した。今後脳裡から離れまい。氷刃の、か弱い小娘のような右手が、男の首を摑み、そしてその甲中に血管を雄々しく聳たせると、そのまま首をねじ切ったのであるのだから。今更血腥さに悪心を覚えるような俺ではないが、寧ろ氷刃の様が恐ろしかったのだ。聞いたこともない、地獄の底から響いているかのような胴間声を迸らせるその背中は、俺がこれまで遭遇してきたどんな生き物よりも恐ろしかった。あの時のミネルヴァはどのような表情をしていたのだろう、あのような怒声が、氷のような無表情から発せられるとは信じ難い以上、きっと、俺が見たことのない、氷刃の感情が相好に浮かぶという光景がおがめられた筈であるのだが。
とにかく俺は、健気な部下の演技を続けた。
「まさか、あなたが何か処罰されるのですか?」
「ああ、いえ。流石に状況が状況でしたので、私が罪に問われることはないでしょうし、また、軍での処分が下される可能性もほぼないです。まあ、バンから小言を頂戴する懸念はありますがね。
つまり、私のことではなく、あの事件そのものの処理に一日忙殺される予定なのですよ。一体、誰が何の目的で私を殺そうとしたのか。単に一人の狂人の所業であればどうでも良いですか、何かの組織が関わっているとなると、対処していかねばなりませんので。」
俺は、氷刃達が目の前に居る身中の虫に気が付いていないことに感謝しながら、
「ということは、つまり、あなたがあの男を殺してしまったが為に、事件の全貌の解明が難しくなってしまったのですか。」
ミネルヴァは、恥ずかしげにちょっと黙ってから、
「幸い、首から上と下はそれぞれ無事でしたからね。人相書きなどの手配はもうされている筈ですよ。」
「『筈』?」
「ええ、私はあれからずっとここに居りましたのでね。」
俺はちらりと窓の外を見た。暗い。夜だ。明らかに、あれから相当な時間が経過している。その間、ずっと?
「ああ、気にしないで下さい。ウィッチに打ち据えられた腰の具合を診てもらっていただけですので。」
ミネルヴァはそう言ってから立ち上がると、椅子を〝氷喰い〟で喰った。雷帝の待つ自宅へ帰るつもりらしい。
「さて、とにかくあなたには休んでもらいます。そして、私もついでに久しぶりの休暇を取ることにしたのですよ。旅行に出て見識を広めてきます。ですので、仕事に出れないことをあなたが悔やむ必要はありません。
また、ここに入院している必要はありますが、しかし、四六時中ベッドの上で寝ていろと言うわけでもない筈です。なのでまあ、そこまで退屈しないで済むでしょう、書店も近くにありますし。」
ちょっと間があってから、
「ケイン、特に何か必要なものはありますか?」
俺は躊躇わず、
「多分大丈夫でしょうが、強いて言えば金のことが、」
「治療費等々は、当然軍の金を出させますよ。それまでは私が立て替えておきます。」
「有り難う御座います。しかし、今、自分は本当に全くの文無しなのですよ。うっかりデスクに財布を忘れたらしく。ですので、ちょっと都合してもらえると、」
ここまで言っただけで、女神の名を持つ魔術師は、大した高になるコインをじゃらじゃらと、ベッドの脇のちょっとした机に置いてくれた。
「貸しません。差し上げます。見舞いと、ひとまずの報奨だと思って受け取って下さい。勿論、あなたの行いにはもっときちんとした報いが後々為される筈ですが。」
俺は、素直に言う。
「有り難う御座います。」
すると氷刃は、俺の頭の辺りにもう一度寄ってきて、その右手を寝そべる俺の肩に宛てがった。
「とにかく、十全に体を休めて下さいね。」
いま俺を労る為に乗せられている、慈愛に充ちた優しげな右手、これがつい先程、血管気管骨等々を握りつぶして、一人の男から血と命を絞り上げたのだと思うと、不思議な感じがした。
その後一人きりになった俺は、あまりにも多くのことがあった今日一日を思い返そうと思ったのだが、しかし、千切れた腸を繫げるのに体力を奪われていたのか、ぐぐっと、また眠たくなった。引き潮のように力強い眠気。どうせ、明日から時間は余りあることになる。俺は、一切逆らわず黒い眠りに落ちた。
翌朝、恰も俺は患者のことが手に取るように分かっているのだとでも言いたげに、きっかり俺が目を醒ました瞬間に医者がベッドに来た。寝起きの良い俺は尋常に応対する。全体的に茶色っぽい、いかにも医者然とした恰好のその医者は、いやいや放ったらかしにして済みませんでしたな、見に来たら既に眠られていたもので、との言い訳をまず述べた。短気かつ妙に過保護な氷刃ならともかく、俺は何とも思わなかったので何も言わない。寧ろ、その後ミネルヴァのしてくれた話を叮嚀になぞられたことの方に辟易したくらいだ。あの女、実に真剣に俺へ状況を伝えてくれていたらしい。
「と言うわけでしてね、ずっとベッドの上に居なさい、とは言いませんが、とにかくそれなりに安静にしていて下さい。時間潰しに屈伸運動、みたいなことは止めて欲しい、ということです。」
「分かりました。しかし、随分と慎重なのですね。これだけ元気な男をいちいち病室に縛りつけておくだなんて。しかも、昨日の様子からすると、いまいち人手が足りないようですのに。」
その医者は、少し目を伏して、頬の肉を咀嚼するようにもぐもぐしてから再び口を開いた。
「衝突したときには患者を優先、が、私のやり方です。と言うわけで、あなたにはこっそりお教えしてしまいましょう。実は、ララヴァマイズ将軍に頼まれたのですよ。」
俺は、杖ないし柱の要領で、手の甲に顎を支えさせてから、
「どういう意味ですか?」
「ああ、いえ。この手の怪我の治療では、あなたの仰ったように、自宅療養なり平時の生活なりに復帰して、万が一調子が悪くなったらまた来てもらう、というのが普通なのです。しかし、将軍殿がどうしても肯んじられんでしてね、方便でも嘘でも何でも良いから、この男を病床に縛りつけて目を離すな、と訴えられまして。」
俺はちょっと間を置いてから、
「別に、次官殿に嫌われる覚えはないですから、寧ろ、」
「そうでしょうな。将軍殿はもしもの場合にあなたの身が心配で、ここに残らせたのでしょう。バーレットさんは、将軍殿に可愛がられているのですね。」
「そのようですね。有り難いことです。」
この台詞は紛れもない本心だ。医者に、そのもう一段深いところの意味が伝わるかは置いといて。
医者を適当に追い払い、さて、今日は何をして過ごしたものかと、白いシーツから胸より上を抜け出させて俺が考え始めようとしたところ、風もないのに、俺のベッドに隣るカーテンがちょっと蠢いた。
「もしもし、ちょっと良いですか?」
ああ、結局俺以外にも患者が居たのか。さて、俺は二度寝に勤しんでいる振りをすることで、この問いかけを穏便に拒絶することが出来るだろう。しかし、今は退屈で仕方がないのだ。俺は口ではなく、そのカーテンをばさりと開いてやることで了承を示した。
生き永らえ過ぎた山羊のような長過ぎる角、それが、渦潮のように拗くれる黒い頭髪の隙間から一対生えていた。髪は若々しく、果たしてそれを頂く顔も相応に若々しい。俺と同じくらいの年に見えるが、どうせ違うのだろう。この、概ね人間の姿をしているが人間ではない生き物、高位魔獣は、その存在理由からして老いを焦る必要がない筈なのだから。
俺が毒も愛想も籠めずにじろりと見つめ続けていると、向こうの方から話し始めた。
「ああ、済みませんね。ちょっとお訊ねしたいのですが、あなた、昨夜ここの部屋に容れられましたよね。」
顔も声も若々しい癖に、俺のベッドを指すその指は、萎れ葉のように皺くちゃな皮膚を被りながらいかにも骨張っていた。
「ええ、そうですが、」
「ということは、あなたはあの氷刃の部下というわけですね。」
「まあ、そうですね。」
男はわざわざ身を起こしてベッドの上に居直り、大仰に両手を合わせて見せる。
「ああ、何ということか。有り難いというか羨ましいというか、恨めしいというか、とにかく私は複雑な感情を、あなた、ないし、あなたとの出逢いに覚えます。」
何だこいつ頭おかしいのか、と俺は眉を寄せたが、しかし、すぐに何度も得た経験が呼び起こされた。氷刃に伴って歩いていると時折見られた光景。遠巻きに立ち竦み、彼女への痛ましいほどの崇敬と慕情を籠めた視線を、その染みを知らない相貌に投げつけて、場合によっては声まで掛けんと寄ってきたりもする、いかにも魔術師然とした連中に良く出会して来た。そんな時にミネルヴァは、俺に合図を送ったり送らなかったりする。送られた時は、ようは彼女が先を急いでいる場合で、俺はその手の連中を体よく追い払う為、実に上手く働いたものであった、何せ、ミネルヴァのあん畜生を慕うということは、俺がそいつを嫌う為の要件を完全に達成するからだ。だから、時折その手の連中が俺に批難がましい顔やら言葉やらを向けてきても、俺は無礼な輩に出会ったことではなく、馬鹿に出会してしまったこととして、無毒な苛立ちを覚えるのみであった。単にミネルヴァ・ララヴァマイズを国家的ないし世界的英雄、あるいは歴史的偉人として見做すだけの者は、ここまでの念と行動を普通起こさない。大抵は、相応の逸脱というか、異端性がそれらの根柢にあるのだった。
「ああ、あなたも、ララヴァマイズ次官殿に憧れている口ですか。」
「憧れている、などと言うような虚ろなものと一緒にされては些か不本意ではありますがね。私は日々具体的に時間や体力を投入して、あの華麗な〝造氷術〟を修得、あるいは継承せんと努めているのですから。」
はいはい、と口に出すのを何とか堪えた。氷刃の語る、軍務官は英雄たらねばならないという念はそれなりの成果を得ており、その結果、それらの各個人へ妙に入れ込む連中が出てくるらしいのだ。特に、押せばへし折れそうなほどに可憐な見た目と、陶器のようにつるんとした美貌と、それらと裏腹に手で首をねじ切る程の剛力を持つミネルヴァは、大いに人を引きつける力があるらしかった。しかも、これらが世界一の魔力のオマケだというのだからたまったものではない。このような要因により、魔術師ミネルヴァの〝シンパ〟が多く存在しているのであった。もっとも、彼らシンパの企みというか、鍛練が有意義な成果を未だ挙げていないのは、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女がいつか語った通りである。
「まあ、あなたが我々人間よりも永い生涯を何に捧げようと俺の知ったところではないですが、しかし、恨めしいとは何事ですかね。」
「ああ、いえ、だってですよ。我々〝氷刃の子〟が、あるいは造氷術の修得を目指さなくともとにかくララヴァマイズ将軍を慕う者達が、皆々あのお方に近づきたいと、物理的にも社会的にもそうしたいと願っているのにも拘わらず、あなたのように全く彼女へ入れ込んでいなかった人間が、そのお傍に纏って居るのですから。」
俺は、身を起こして座った。
「誰から、俺の人となりなんて聞くんですか?」
「そんな積極的な行動すら要しませんよ。我々、氷刃の背を追う者達の中で噂になっています。よりにもよって、憎き窮理魔導学を修めようとしている――冗談めかしての表現ですが――〝不届き者〟が、罷り間違って彼女の補佐官となっている、と。」
俺はちょっと肩を竦めて、
「そんなこと言われましてもね、まず、当然〝自然派〟でもある筈のあなた方は、積極的に教えを受けることを否定するのではないのですか? つまり、ララヴァマイズ次官殿の近くでいざ働くことが叶っても、あなた方の目的には役に立たないのではないですか?」
「役に立つ立たないの話ではありませんとも。あのお方の魂や美貌の近くにおいて、その力場を浴びることが出来るということは、我々〝氷刃の子〟に取って、夢にも見ないといいますか、とにかく、この上ない望みなのですから。」
畜生、結局頭おかしいじゃねえか。しかし、まあ、仕方あるまい。俺とこいつは、異教徒同士のような関係なのだからな。宗教家たちは――俺に言わせれば――居もしない〝神なるもの〟の親子の、親父のみを最高位に尊ぶかそれとも子も同じ高さで尊ぶか、みたいな訳分からないことで喧嘩をし、いや、只の喧嘩ならまあ良いんだが、実際に破門だの弾劾だのという実に血腥いことを、そんな瑣末な問題でやらかしているわけで、俺としては全く理解に苦しむ。少なくとも、目の前に居るこの魔獣と俺との間の見解の相違の方が何倍も重要にして重大だろう。全能と全知を持つことになっているとはいえ、居るんだか居ないんだかよく分からん神なるものの話は、所詮、期待値にすれば与太話に過ぎない。しかしこの男がもはや信仰し、そして俺が反吐が出るほどに嫌っている一人の女、ミネルヴァ・ララヴァマイズは確かに今、この世に――と言うか多分いつもの執務室もしくは会議室に――存在しており、そして大いなる実力なり脅威なりをこの世界で誇りつつあるのだ。実に、重大な対立であると言わざるを得まい。あの女、ないしあの女のような化け物達の君臨による示威があるからこそ、各国間の緊張も高々〝不穏〟程度で留まり、すなわちは大いに平和に貢献しているのだと主張するのであろうこの男と、ふざけろ、キンリダナ事件も知らないのか、誰にも止められ得ぬ程の力を持った戦士が老いもせずに永遠に君臨する危うさが分からんか、寧ろ、奴らは〝不穏〟を絶え間なく放出し続けているのだ、それがいつ具体的な悲劇に転ずるのか分かったものではない、と主張する俺との致命的な対立は、どちらかが死ぬか、あるいはどちらかがその主張の裡に密かに内含される誤謬によって死ぬような目にでも遭わない限り、決して解消しないだろう。それこそ、簡単に改宗する人間が居ないのと同じく、あるいはより真剣に。
俺がそんなことを考えていると、目の前の愚か者が次の言葉を投げ掛けてきた。
「ところで、ケイン・バーレットさんでしたよね。」
俺は一瞬ぎょっとしたが、ああ、さっき医者に名前を呼ばれたな、と納得し、しかし、いやいや待て待て、「ケイン」の名は呼ばれていないぞ、と、改めて軽く狼狽えた。
しかしそれを態度に出すのも何となく口惜しいので、ミネルヴァの前で本心を隠す訓練を重ねてきた俺は、その成果を存分に活かしつつ、
「まあ、そうですが、」
「ああ、やはりそうでしたか。となると、私からあなたへの複雑な感情に、感謝と尊敬が加わることになりますね。」
真面目な話、こいつ頭おかしくて病院に入っているんじゃなかろうな、と訝り始めた俺は、病床を変えてくれるように医者に頼もうと本気で考え出したのだが、その思索はこの男の行動によって止められた。捩れた髪と角を頂く魔獣は、大いに手に余る大きさの折り畳まれた紙束をこちらに寄越しつつ、
「ケインさん、新聞はお読みになりますか。」
シンブン? ……ああ、あれか。
「いえ。最近までずっと田舎の住まいでしたのでね。そんな、上等な印刷技術に裏付けされたものを読む習慣は――少なくともまだ――得ていません。」
「そうですか。まあ、今日ばかりは読んでみると良いですよ。差し上げます。普通、新聞はどんどん捨てていくものですが、こればかりは保存しておくことをお勧めしますよ。」
どうせあとで書店に行こうと思っていた俺は、とにかく字が書いてあるものならいくらか無聊を慰めるのに役立つであろうと、素直にそれを受け取った。これが新聞か。流石に毎日刷られて捨てられる存在であるだけに、いかにも安っぽい紙が使われている。開いてみた。安い紙と安いインキに相応しい臭いがし、実に読み辛い印字が並んでいる。というか、上下逆だった。眉をちょっと寄せながら尋常な向きに直す。何々、歌劇場で新作のオペラが封切られてずっこけた、ヴェミニク商会がトゥネスト国との貿易を開始、誠心党の党首の乗る馬車が事故を起こし党首重症、銀価格下落止まらずウェルトニムヌ国の経済に打撃、……うわ、全然面白そうな記事がない。だいたい、もうじき氷刃と差し違えることになっている俺が、世の中の見識を広めても仕方がないのだ。芸能も経済も政治も、俺にとっては余計な瑣事、無駄な知識でしかない。
隠す必要もないかと思い、俺が退屈の念をそのまま相好に浮かべていると、例の魔獣が見かねたらしく、
「ああ、いけません。そりゃ、大体中に書いてあることはつまらないものです。表紙といいますか、とにかく、一番外側に書いてある記事を読んで下さい。」
ああ、そうか。表面に書いてある記事を見てその新聞を買うかどうかを決める奴がいるだろうから、そこに一番面白げなものを書くのか。俺は感心しながら新聞を閉じ、くるんと返して、その表紙のような部分を顔の前に持って来た。するとすぐに、その面に夥しい、茶色の染みが出来たのである。一番上に一番大きな文字で刻まれている見だし名を見た俺が、驚きのあまりに霧のような唾を噴き出してしまったからだ。
一瞬やらかしてしまったと思ったが、ええい、一度貰ったものだ。汚そうが溢した牛乳を拭くのに使おうが俺の勝手だと思い直し、改めてその記事を読み進める。最早びかびか光っている様にすら感じられる強烈な太文字で、「忠臣、ララヴァマイズ将軍の身を兇漢から護る。」と銘されたその記事は、あることないことを盛り込み、とにかく、劇的な事件と悲劇的な若者、そして兇漢を一蹴してその部下に懸命な手当てを行う英雄ミネルヴァ・ララヴァマイズの涙ぐましい様を、それぞれに再現、というか、創り上げていた。ええい、馬鹿たれ、そもそも――事実ではあるが――その兇漢が氷刃に容易く返り討ちにされたことをことさらに強調しては、その女のことを護った部下の価値が薄れるだろうが! 題と矛盾しているだろ!
驚き、戦き、呆れ、感想を滑らかに変えつつ記事を三度読みきった俺が、溜め息をつきながら顔を上げると、視界の端に、まだこちらを見ているらしい魔獣の姿が認められた。そちらへまともに視線をやると、苛立たしいくらいの笑顔に出迎えられる。
「と言うわけなのですよ。我々氷刃の背を追う者は、皆あなたに対して深く感謝するでしょう。私からも、礼を言わせて下さい。」
「いやいや、礼も何も、良く考えて下さいよ。この俺が、鍛えているとはいえ常人の俺が、あの兇撃をまともに喰らってぴんぴんしているんですよ? 俺がほぼ全恢していると言うのは、あなたもさっき医者の声を小耳に挟んで知り及んでいるのではないですか? つまりですね、俺なんかが護らなくとも、間違いなく、ララヴァマイズ次官殿は何ともなかった筈なのですよ。つまり、俺の浅はかな忠心は、ただあの方に無用な足労を強いたに過ぎないのです。」
「確かに昨日の将軍殿は、この病院にただ縛りつけられていました。腰の具合を見せてくれと言う医者を追い払ってまで、あの方はあなたの枕元に、目が醒めるまで添い続けていたのですからね。」
俺は、氷刃が更に奇妙なことをしていたことを知らされて不気味に感じた。何故、俺などを相手に、しかも医者から概ね心配ないとされている俺相手に、しかも意識のなかった俺相手に、そこまで甲斐甲斐しく振る舞うのだ?
魔獣は言葉を続けている。
「しかし、それは結果論でしょう。もしかすると、もっと兇悪でもっと実力豊かな暴漢がララヴァマイズ将軍殿に襲いかかっていたのかもしれないのです。そうしたら、彼女の命が奪われていたのかもしれないのですよ? やはり、あなたの為したことは偉大です、少なくとも、期待値で考えれば。」
煩え、そう簡単に死ぬような相手なら苦労してないさ。
また、俺はこの男に無意識での意趣返しを為されたことにちょっと驚きながら、他の憂鬱をも感じていた。ああ、面倒だ。これから先、氷刃に纏わりつこうとする輩を追い払う際、今までは互いに憎しみ合う関係であったからこそ容易であったその作業も、向こうからの好意を抱かれてしまっては話がいかにもややこしくなるだろう。何せそういう輩は、氷刃に関わる情報は知り尽くしているのだろうし、となれば、俺が劇的な顚末を演じたことも知っているに違いない。ああ、憂鬱だ。
ここで俺はふと思いついた。そうだよな。この手の連中は、ミネルヴァ・ララヴァマイズのことを知り尽くしているんだよな。しかも、その伎倆を模倣しようとしていると言うことは、氷刃の魔術に関して精緻な知識を蓄えているのだろうし、しかも、そうだ、こいつらは自然派なのだ。つまり、余計な知識を排斥しようとしている筈で、ならば唯一許された知識である、ミネルヴァの魔術の委細に関しては貪欲な修得を行っているに違いないのだ。しかも都合がいいことに、こいつは明らかに小人物だ。軍人なのかどうかは分からないが、俺の態度を窘めない以上少なくとも高官ではなかろうし、そもそも、ミネルヴァに近しいことを嫉妬する以上、やはり軍務官に近づける立場ではないだろう。ということは、この男に幾らか俺のことを訝しまれても一向に構わないわけだ。しかも、こいつは俺に対して強烈な好感を覚えている筈であり、ますます、危険性は低くなっているだろう。これだけの綾が雲霞の如く押し寄せているのだ。この機会、活かさずに居れるものか。
「ところで、お名前はなんと言いますか。」
「私ですか? キッネヅツェといいます。」
俺は、ああ、親もクソもない高位魔獣には姓がないのかと納得しつつ、その発音し辛さに顔を顰めてしまった。
すると目敏く察せられて、
「ああ、呼び辛いですよね。キーネと呼んで下さい。人間の言葉で会話するときには、いつもこの異名を使っていますので。」
じゃあ最初からそっちだけ教えろよ、という言葉を呑み込んでから、
「では、キーネさん、もしあなたも暇しているのであれば、色々とお訊きしても宜しいでしょうか。ミネルヴァ・ララヴァマイズという英雄に纏るお話を。」
大体、偏執狂と言うものは、その執念の対象に関して語りたくて語りたくて仕方がないものだ。その、戒律に苦しむ若い僧がどうしようもなく負い続ける性慾に似た、謂わば〝開陳慾〟を助けてやろうとして、嫌がられる筈がなかった。俺と娼婦との違いは、どうやらこの男から金を頂けるわけではなさそう、という一点に尽きる。いや、もう一つだけ違いがあったかもしれない、無料の、所謂〝据膳〟と前にしたこの男はいかにも嬉々としたのだから。
「ええ、勿論ですとも。私は間違いなくあなたの生まれる前、もしかするとあなたの父母すらが生まれる前から、ララヴァマイズ将軍の背を追い続けているのです。また、逆にあなたこそが知っている氷刃の側面もきっとあるでしょうから、大いに言葉を交わしたいものですね。さて、まず何をお話しましょうか?」
ミネルヴァ・ララヴァマイズという女の生涯に関しては、そこらへんに売っているらしい自伝的作品を読むか、あるいはそれを編輯したヴェロに話を聞けば済むことだし、またどういう手段を取るにせよ、怪しまれることは有り得ない。今俺は、ややもすると怪しまれ兼ねん質問を、この幾ら怪しまれても構わない男に対してすべきであり、果たして、別の話題を選択した。
「ララヴァマイズ次官殿の魔術について、色々と教えて欲しいのです。勿論、自分も適当に知ってはいますが、しかし、次官に仕え始めてからまだいまいち日が浅いですし、そう、特に次官殿が実際に魔術をそれなりの本気で振るう様は一度しか――それも昨日ようやくのことですがね――見たことがないのです。きっと、あなたの方が詳しいでしょう。」
魔獣は、更に喜びの念を明らかにして、
「では、それについてお話しましょう。」
その後、造氷術、各種〝喰い〟に関する話を聞いたが、以前ミネルヴァがデモンストレーションとして文字通り山の如き大きさの氷塊を造って見せたという話を聞いてしまいますます俺が困った――おいおい、一体どれだけの魔力を蔵してやがるんだよ、という意味でだ――位で、他に新鮮な情報は特になかった。ああ、これで〝理窟派〟のバンウィアー、尋常なるウィッチ、〝自然派〟のこいつ、とそれぞれの立場の人間から意見を求め終えてしまったことになる、一応、バンウィアーとウィッチはそれぞれのスペシャリストで、こいつは只の一市民だか一兵だかに過ぎないという違いはあるが、しかし、魔術の仕組みを言語化数式化するのを嫌う自然派なら、どいつもこいつも似た様なもののような気がしてきた。つまり結局、いずれの立場も、氷刃の魔術の仕組みを解明して付け入るべき隙をポイントアウトしてくれることは決してなさそうなのである。畜生め、どいつもこいつも使えないな。
しかもこの男、俺があの、氷刃が魔女からの一撃を美事いなした業、飛来物に対応して氷壁が自動的に張られる障壁魔術について話を及ばせようとしたところ、まるで知らない土地の祭事について聞かされたみたいな顔をしやがって、
「なんですかな、それは?」
なんてほざきやがったのだ。俺は、まあ、仕方がなしに昨日見知ったそれについて簡単に説明したのだが、ええい、何で俺の方が教えているんだよ。
「成る程、そのような技術まであったとは知りませんでしたね。つまり、最早ララヴァマイズ将軍殿は魔力的なものだけでなく物理的な投射物、矢や銃弾までも完全に禦げてしまう、と。ああ、あなたのよく分からない、言い訳と言いますか、あるいは謙遜に対して少々納得を得てしまいますね。成る程あの男、氷刃の体に触れることも能わずに凍りつかされて終わっていた可能性が高いでしょう。しかもその場合将軍殿はそこまで激さないでしょうから、その男も生け捕りにされて全うな審判を受けることが出来たでしょうに。ああ、いえ、将軍殿の行いをあげつらうつもりは毛頭ありませんが。あんな奴は、死んで当然でしょう。」
俺は、この無駄に長い言葉から、必要な部分だけを剔出した。
「ちょっと宜しいでしょうか。ララヴァマイズ次官殿が、特に、魔術的な投射物を禦ぐ手段を持っているということでしょうか。何せ、氷壁なら魔術的も物理的もあまり関係ない筈ですが、」
「うん? ああ、ええ、そうですとも。あの服ですよ。あの、いかにも麗しい、蒼穹のように穏やかで美しいお召し物も、また重要なのです。」
俺は、目の前の魔獣の服飾センスを疑りながら、
「つまり、あの秘色色のワンピース服が、幾らか魔術からの損害を和らげる仕組みを持っているのですか。」
「それも多少あるでしょう。しかし、私は良く知りませんが、」この本来謙遜の役割を持つ言葉をどこか誇らしげに語る魔獣は、自らが敬虔な自然派であることを誉れに思っているらしい。「どうやら、布というものは、衣服のように形成させてしまうと、一種の魔具としての性能がどうしても落ちてしまうそうなのですよ。だから、あの服に関してはどちらかというと補助的になるのでしょう。」
俺は深く納得した。捩れた髪と角を頂く魔獣の語りが上手かったからではない、あのけばけばしいほどの愛想を振るまく魔術師との記憶に説得されたのだ。
「ああ、成る程。だから、ガルキマアト軍務官殿は、あのような、布切れ一枚を纏うという奇抜な恰好をしているのですか。」
魔獣も嬉しかったらしい。
「ほう、興味深いですね。確かにもっともらしいです。充分な魔具としての性能を確保する為の出で立ちであった訳ですね。」
まあ、あの下がほぼ丸裸であることの説明にはいまいちなってないんだけれどもな、と俺は思いつつも、
「で、あなたの言うそれを認めるのであれば、つまり、ララヴァマイズ次官殿の身を護るのは、むしろ背負うマントの方なのですか。」
「その通りです。拙い、と思ったときには、マントに魔力を込めつつ背をくるりと返す。これによって、ララヴァマイズ将軍殿は禦ぎ漏らした攻撃から身を護ることが出来るのです。また、不意を討とうとする人間はその背を狙いたがるでしょうからますます有効でしょう。」
俺はまた事実に納得させられた。
「確かに、俺の腹を抉った男も、次官殿の背を狙っているようでしたね。次官殿がそっぽを向いた瞬間に、反対側から飛び込んできたのですから。」
俺は面白く感じてきていた。先程幻滅させられた、この捩れた髪と角を頂く魔獣が、存外興味深い知見を幾つか与えてくれているからだ。
更に質問を重ねる。枕に、心にも思っていない言葉を取って付けておくのを怠らない。
「キーネさん、次官殿の魔術に関して数々の興味深いお話を聞かせてくれて、有り難う御座いました。しかし、氷刃の恐ろしさ、強さはそれだけでは語れない筈でしたよね。」
どこまでも愉しそうになる魔獣。空まで飛んでいくつもりだろうか。ちらりと背の方に視線をやったが、翼は持っていないようだ。
「君の言う通りです。ああ、その点も、私に、生涯掛けて氷刃の背を追おうという決意を与えてくれた要素なのですよ。つまり、あの美しき造氷術は、実は、ハーゼルモーゼン人ならでは身体能力にも何らかの形で支えられているのではないか、と。」
「すると、あなたは人間よりも力が強いのですか。」
キーネは俺の姿を軽く睨回してから、
「あなたには絶対に負けないでしょう。というか、余程筋力のみを集中的に鍛えた者相手でもない限り、人間には負けませんよ。つまり、そう、結局ハーゼルモーゼン人にはちょっと及ばないわけですが。」
「並のハーゼルモーゼン人に対して少し足りないくらいということは、すなわち、結局ララヴァマイズ次官殿に対しては大いに負けていることになりますが、」
「ああ、そこを言われると耳が痛いのですが、まあ、そうですね。しかしです――蔑むつもりも軽侮するつもりも御座いませんので誤解ないように願いたいのですが――あなた方人間が生涯にわたって全ての時間と体力を傾注してようやく、しかも絶頂期の数年のみ得られるかどうかと言う程の身体能力を、私は普通に食事して寝ているだけで得られるのです。これは、老いが極端に遅いことと併せて、ミネルヴァ・ララヴァマイズの様な戦士を目指す上で非常に有益な材料となりませんか? この長い生涯を、しかも魔術の鍛練にのみ費やすことが出来るのですから。」
「まあ、成る程。して、ええっと、とにかく次官殿の体術について話を聞きたいのですが、」
「それについては、あなたこそが目前で目撃したばかりなのではないのですか? 新聞記事によれば、右手だけでその男の首が絞るように切られたらしいですが。」
「……ああ、その点に関しての記述は正しいですよ。確かにそうですね。何と言うか、信じられない所業でした。」
「その男の首を見たわけではないですが、しかし人を刺し殺そうとするのですから、それなりに元気で、つまりそれなりの肉がついている男だったのですよね? となると、私が両手を使ったところで不可能ですよ。骨を折るならまだしも、絞るだなんて、よくも将軍殿の手の方が無事なものです。」
「ああ、どうやら頑強さも尋常でないようなのですよ。俺は、一度次官殿の戯れで、彼女の腕を折ってみろと言われたのですが、もう、鋼のようでしたね。皮膚の感触だけがまともで、」
「ほう、それは、さぞかし艶やかでしなやかで嫋やかな感触であったのでしょうね。」
俺は軽蔑の表情を隠さなかった。捩れた髪と角を頂く魔獣はばつが悪そうに、
「失礼、ああ、とにかく、ええっと、そう、氷刃は魔術のみならず、その頑健な肉体も素晴らしいですよね、と、そういうわけです。」
「それで、キーネさん。戦闘において、具体的にその肉体はどう活用されるのですか。」
「一応、世界最高峰の魔術師ですからね。筋力をつける努力はなさっているとは聞きますが、しかし、某かの武術を修めているという話は聞きません。故に、専ら、乱暴と言いますか、単純な戦い方が多いようです。適当な武器になりそうなものがあれば拾い、なければその錫杖の先に氷塊として出現させて振り回す、と。」
俺は、昨日の魔女と氷刃の乙試合で見た、あまりにも長過ぎる刃のことを思いだした。もしも建造物であったとしても尚大き過ぎる氷の剣。ああ、そうなんだよな、あれだけの、尋常でなく巨大な武器を平然と振り回せるのだったな。その悍ましい膂力、そして人の首を握り潰してしまう握力、ああ、なんと厄介なことか、化け物め、
「つまりですねケイン君、氷刃は、何かの事故によってその魔力が枯れてしまっても、そのとんでもない身体能力によって容易く危機を脱してしまうわけです。本当に、凄まじい戦士ですよ。もっとも、真に凄まじいのは、そんな女性ですら、ナンバー2の魔術師に甘んじなければならない、この国の軍のほうかもしれませんが。」
ああ、ああ、そうなんだよ。何か奇跡的な手段で氷刃の魔力を封じても、それだけでは解決にならんし、そしてその上で更に体術のほうを何とか攻略しても、状況によっては虹剣や雷帝あたりが救援に駈け付けられてしまうかもしれないのだ。世界最高の魔力、それだけでも厄介過ぎる筈なのに、本当に、十重二十重の力があの女の命を護ろうとしているかのようだ。
俺は憂鬱な気分になりながらも、しかしなんとか活路を見出そうと奮い立ち、健気に、次の質問をキーネにぶつけようと口を開いた。しかし同時に病室のドアも開かれて、
「キッネヅツェさん、問診の時間です。先生の許に来て頂けますか。」
その、医療助手っぽい男の指示に従って、キーネは素直にベッドから降りつつ、
「ああ、今行きます。では、ケイン君。結果が悪ければ戻ってきますので、是非また話をしましょう。」
ちらりと男のベッドを見ると、本当の蛻けの殻であった。手ぶらで入院しているらしい。
「分かりました。無事再会出来ないことをお祈りしますよ。」
「ああ、有り難う。」
魔獣は帰ってこなかった。