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5 剣士と刺客

     5 剣士と刺客

 俺はその後も毎日、午前中のみ仇敵のすぐ近くで色々な教えを老婆から授かる日々を過ごし、また午後には、時々あの絵本から飛び出てきた妙齢の魔女の許に教えを乞いに出かけたりもしていた。案の定、彼女は実に扱いやすい性格で、会う度に煽て上げていた結果、何度も仕事の邪魔をしに行っている筈の俺を全く邪慳にせず、寧ろ毎度心より歓迎してくれるのである。有り難い。窮理魔導学だけに留まらず、魔術一般において何か困った時に頼りとなる、最高クラスの協力者を得たようなものだ。もしも彼女が答えられないような問題でも、その知り合いにはきっと適当な専門家が居るだろう。まあ、実際には、そのようにしても答えてもらえなかった問題も既に幾つか有るのだが、そこは現在の科学の限界ということで、諦めざるを得まい。

 今日は、またミネルヴァが朝から会議に出ている日であり、故に俺はずっと老婆から仕事を習っていたわけだが、

「ええ、ええ、しかし、ケイン君、あなたは本当にも物覚えが良いですわね。」

「そう、ですか?」

「これならばあなたに仕事を任せて、私が引退出来る日も近いでしょう。その時には、次官殿を宜しくお願いしますよ。」

 そう笑う老婆に、俺は上手い返事を返せなかった。

 そうこうしている間に、部屋主が帰ってきた。当然の権利として、ノックもなしに扉を開いた彼女は、自らの机に向かう前にこちらの机、つまり老婆の横に俺がおまけのように着いている机によってきて、その老婆と言葉を交わし始める。どうやら、今度この女神の名を持つ魔術師が出向く出張、というか外遊についての話の用だ。それを脇で聞きながら、もしもその処理を自分に任されたらどうするかと俺がちょっと想像してみたところ、旅程の立てることや宿泊場所の確保などについてなんとなく仕方が想像付き、充分こなせそうであった。成る程、老婆の教育が少しずつ身に沁みてきているらしい。有り難い。ミネルヴァに近しい人間が少ないに越したことはないのだから、この老婆には早く引退して欲しいのだ。故に、俺は教えられたことのいちいちを真剣に習得しているのである。

 満足したらしい氷刃が、自らの机に向かおうと背筋を伸ばしたその瞬間、彼女が通過してきたばかりの扉がノックされた。そこに近いままであったミネルヴァが自ら「どうぞ。」と声を出し、そうして一人の男が入ってくる。

「失礼しますよ、ミニー。」

 ミニーとは、「ミネルヴァ」の短縮形だ。この恐ろしい女をそのように呼べる者は、最早この世に同僚の軍務官くらいしか居ない筈で、果たしてこの男もそうである。目が隠れる程の長さに、ぐるりと一周茶色い髪を切り揃えたその頭部は、露となっている部分の顔にも染みが少し見え、残念ながら器量が上等そうではなかった。その男はミネルヴァと同じくマントを、しかし茶色いものを、しかも背負うというよりは纏っており、軽く挙げたことでそこから抜け出た左腕には、丁度肘から手首までを覆うくらいの小型の楯が括り付けられていて、やはり、あの公園でみた銅像と非常に近しい姿をしている。となるときっと、今はこちらから見て影となっている右腰には、公園のあの像と同じように短めの剣が佩かれているのだろう。

 その男、〝雷帝〟の異名を持つ魔剣士、ザナルド・モルディアは、呼称に似合わないあどけなさを何となく醸していて、まあ、この男も肉体は十八歳なのだから仕方ないのだろう。しかし、その飾り気の感じられない髪形は、どうにかならないのであろうか。

 このザナルドを出迎えるミネルヴァは、最早当然のことのように表情を作らないのであるが、しかし、何となく少し嬉しそうになり、

「さっき有ったばかりでしょうに、何のようですか、ザン、」

「ああ、いえ、大したことではないのですがね。」

 その後雷帝は、潜め声でミネルヴァとの会話をなした。まさかあからさまに聞き耳を立てるわけにも行かないので、退屈するその間、俺はこの二人の関係について想い起こす。この雷帝と氷刃は、婚約者の関係にあった。ずっと一つ屋根の下で暮らし、することもしているわけで、しかもそんな関係を半世紀以上も続けているのだという。もう結婚しろよ面倒くせえ、と俺なんかは思うのだが、何かそう出来ない事情でも有るのだろうか。とにかく、あの強靭な筋力と、普通の男の三倍の体重を持つミネルヴァ相手では、そういう真似をするを一苦労だろうなあ、と、俺はどうでも良いことを、雷帝のあまり迫力の無い横顔を眺めながら思った。

 その後内緒話を終えた、半世紀に渡るカップルの片割れ、男の方がこちらを見て、

「ミニー、あそこに居る彼が、君の言っていた新人君ですか?」

 女の方が、「ええ。」と答える頃には、俺は既に立ち上がっており、習いはしたものの一向に使う機会のなかった敬礼を行った。

「ケイン・バーレットです。どうぞ宜しくお願いします。」

 目を曝していない雷帝は、少なくとも顔の下半分では笑って、

「ああ、宜しく、」

 といかにもぞんざいな挨拶を残し、去っていこうとした。まあ、軍務官たるもの雑兵のいちいち――ある意味俺はその域にも達していないが――のことを気に止めてもいられないのだろうと俺が思いながら腰を沈め始めると、その雷帝は、部屋を出る間際に誰かとぶつかりかけ、

「っと、失礼。」

「あらら、こちらこそ御免なさいねぇ、ザン。」

 その高い声を響かせつつ、雷帝と入れ替わるようにして部屋に入ってきたのは、長い赤髪を、二束に分けて後ろでゆわっている女であった。ザナルドの名を短縮形で呼んだこの女も、やはり軍務官である。長広い一枚の布切れをぐるぐると複雑に体へ巻き付けて服の代わりにしているその女は、その茶色からにょきりと生えさせた白い腕を振るい、意味のなさそうな手振りを忙しなく行っている。

「ミニー、お元気?」

 その軽い声音に対し、ミネルヴァは無表情のまま、しかしどこか面倒臭そうに、

「数分前に会議室で別れたばかりですがね。何か御用ですか。」

 そう問われた女魔術師、〝陽炎〟こと、ドリセネー…… ええっと、忘れた。とにかく冗談のように長い名前を持つ、ドリセネーなんとか・ガルキマアトは、まるでそうやって無駄な動きを縛めるが如く、両手の指を組みながら言葉を返した。

「あなたに用事、というよりは、あなたの部下に用事があるのよね。ほら、最近新しい補佐官を拾ったって聞いたから、一切どんな奴なのかと思って、」

「彼なら、そこに居ますよ、ドリス。」

 さっきの〝雷帝〟からの扱いによってやる気を毀たれていた俺は、そう言われてからようやく立ち上がって敬礼をなした。

「ケイン・バーレットです。宜しくお願い致します。」

 ところが、この陽炎と呼ばれる女は、さっきの男とはまるで違う真似を始めたのである。花を見つけた子供のように、ぱっと笑顔を浮かべた〝陽炎〟は、こちらにぽんぽんと歩み寄って来、俺が敬礼に使っていなかった方の手を取っ捕まえて、強引に握手を成立させたのだ。

 目を白黒させる俺に向かって、その女は、

「私はドリセネー・セレガンセンシス・シシガキーンス・ガルキマアト軍務官よ。こちらこそ、ミニーを宜しくね。」

 俺がどぎまぎしている理由を勝手に勘違いしたのか、それとも全て承知の上でふざけているのか――後から思うと後者なのだろう――陽炎と呼ばれるその魔術師は、

「あらぁ、御免なさいね。ウチの父様ってば貧乏人からの成り上がりで、長けりゃ上等な名前なのだと思っていたらしいのよ。そこで、こんな馬鹿みたいな名前になっているけれども、まあ、別にあなたがそっちの名前を憶えていなくても臍を曲げたりしないから、安心なさいな。私だって、うんざりしているというのに、」

「ドリス、」見かねた氷刃が助けてくれた。「私の部下を困惑させるのはやめてくれませんか。」

 ガルキマアト軍務官は、()っと自分の手を取り戻して、

「別に虐めてなんか居ないじゃないの、」

 そしてもう一度俺の顔をしっかり見据えつつ、

「じゃあ、これから宜しくね。ケイン。」

 俺が悩み抜いた挙げ句に「宜しくお願いします。」と硬い声を返したのに満足してか、陽炎はそのまま去っていった。

「あの方は相変わらずですわねえ、」

 と笑う老婆に、俺が、

「誰に対しても、ああなのですか?」

 氷刃が代わりに答えた。

「ドリスは、今当人も言っていましたが、成功した商売人の親を持っていたのです。その商人たちの教育の結果なのか、彼女は誰に対しても大いに愛想を振るのですよ。人脈を大事にするようにと、叩きこまれていたのでしょうね。まあ、実際ああやって挨拶した相手の顔や名前をきちんと記憶しているようですから、大したものなのでしょうが。」

 俺は、氷刃の語りの、「親を持って()()」という部分によって、あのドリセネーもやはり七十年近く前から不老魔術の恩恵を受けていることを思い出した。そう、やはり小娘――しかもとびきりに馬鹿そうな小娘――にしか見えないあの女も、その実、ミネルヴァに匹敵するくらいの練度を誇る魔術師なのである。

 雷帝と陽炎、彼らの異名はその戦闘スタイルを如実に表していた。雷帝ことザナルド・モルディアは、かつて自然の雷を浴びても何故か平気であったという、その妙な体質を活かして、落雷呪文を応用させた技術により、その全身に紫電を纏わせながら戦闘を行うのだと言う。もしもまともにこちらから斬りかかれば、感電して戦闘不能となり、そのまま切り捨てられるという寸法だ。すると遠くから某かの手段、投擲武器や魔術で攻撃するしかないわけだが、しかし雷帝も馬鹿ではなく、そのようなものを上手くいなす訓練を重ねているようで、そう簡単には攻撃が届かないらしい。だからといって攻めっけを無くせば、お得意の落雷呪文が飛んできて終了、と言うわけだ。

 もう一方のドリセネーは、陽炎の名に一応相応しく、火球呪文や光線呪文を主な攻撃手段に使うのだという。その出力や魔力量はミネルヴァに遠く及ばぬものの、しかし、魔術の展開速度はサイレントの中でも抜群と評判で、普通に立ち向かっては、あっと言う間に顔面を光線で射抜かれて、一巻の終わりとなるのだろう。しかし、この魔術師の異名の〝陽炎〟とは、実はもっと強烈な意味を含んでいた。つまり、そこに無いものが見える陽炎が佇んでいるが如く、ドリセネーも、まるでこちらからの攻撃が当たらないのだという。本当のことなのかどうかは知らないが、戦場において、霰の如き矢雨を無傷で突破したという武勇伝も残っている。その類い稀なる反射神経と、ミネルヴァには及ばないもののしかし普通の人間からすれば充分大した脚力によって、あらゆる攻撃を回避してしまうという〝陽炎〟は、氷の楯を無尽蔵に展開する〝氷刃〟や、紫電の障壁を纏う〝雷帝〟と同じように、やはり、どう攻めたらいいのか想像もつかない相手なのであった。

 とにかくこの二人において重要なことは、それぞれ軍務官の名に恥じず、ミネルヴァと比肩するほどの戦闘力を持った魔術師であり、つまりいざミネルヴァとの決戦という時には彼らからの救援が絶対に入らないようにせねばなるまい、ということだ。氷刃一人でも頭が痛いというのに、それ以外の化け物に対して対抗策など考えていられない。

 表向きの我が主ミネルヴァが、以上の戦友達の訪問を経て、ようやく自らのデスクに赴こうとしたその瞬間、再び、扉がノックされた。「はぁ、」という音が聞こえてきそうな溜め息、もう二度と自分の席に辿り着けないと思っているのかもしれない。

「どうぞ。」

 その、表面上は全くいつも通りの声を受けて、再び扉が開く。

 俺は以前氷刃と初めて対面した時に、こんな色の髪を持つ人間は他に見たことがない、と述べた。そう、見た事がなかっただけで、つまり対面したことがなかっただけで、良く考えれば、知識としては青い髪の人類を知っていたのだ。

 一目には、丁度ミネルヴァと同じ色、淡い水色の髪に見えたが、よく見るとそうではなく、燃えるように青く、最早黝い髪が、白髪の中に混じり込むことでそのような色合いを出しているようであった。しかしその寧ろ太い白毛は、一本一本がしっかりと煌めいており、彼の肉体の年齢の十八に見合う美しさをなしている。だが、(うなじ)の辺りで一本に束ねられて、肩の骨の終わる位の高さを毛先で撫でているその若々しい髪を引き連れた男の顔は、若いというより、最早幼かった。大きめの目も小さめの鼻も、まるで持ち主の未発達を主張するかのようだ。しかしその実、このバンウィアー・ズィーズという男は、あの氷刃すらが足許にも及ばないと語る、この世に比べるもののない、天下無双の戦士なのであった。

 バンウィアーは、その、半世紀ほどは役に立っていない筈の、二つの青い瞳をミネルヴァへ、正確にはその女性的特徴を全く欠いた胸の辺りに向けてから、

「ミニー、何を苛ついているんだ?」

 瑞々しい声。ミネルヴァは、いつも通りの表情を無くした顔面のままであったが、しかし一瞬、目の開き方を少しだけ円かにし、すぐ元に戻してから、

「あなたとは関係ありませんよ、御心配なく。」

「そうかい。」

 〝識眼〟、絵本から出てきた妙齢の魔女から聞いていた言葉を、俺はその後調べていた。通常は不可視の存在である筈の魔荷(チャージ)を見ることが出来るようになる、という技術らしい。バンウィアーという名を持つこの軍務長官は、ウィッチの言うところの〝無色の魂〟を活かして、つまり、自らの魂の属性、〝色〟が邪魔にならないことが強みとなって、識眼において非常にクリアな()()を得ることが出来るのだという。そこで彼は、盲いた両目に届かなくなった光の代わりとするかのごとく、識眼を積極的に用いているのだそうが、その御利益の一つとして、他者の魂を――少なくとも学者たちがそう呼ぶ、胸の辺りの魔力の蟠りを――詳細に観察することが出来るのだ。結果、例えば今のように、そこに全く感情を漏洩させない、凍りついたミネルヴァの顔面を無視して、その魂の顫えから、氷刃の気分を大雑把に読み取れたりするわけだ。

「それで、バン、何か御用ですか。」

「ああ、ちょっと頼みたいことがな。ほら、俺、今日出発の旅程で、トゥネスト王国に出向くことになっていただろう。」

「和平四十周年記念の式典でしたかね。」

「ああ、それだよ。で、俺がしばらく不在になるものだから、秘書官の連中一切に暇を出していたんだ、俺についてくる一人を除いてな。」

「妥当な処置でしょう。」

「でだ、アイツら、どいつもこいつも親に顔見せに行くだの、旅行しに行くだのと、いそいそと出かけていったんだ。」

「あなたが彼らへ滅多に休暇を与えないのですから、やはり、妥当な話でしょう。何か不服なのですか?」

「滅多にって、俺は、その条件を良く言い聞かせてから、アイツらを任官しているんだ、文句を言われる負い目はないぞ。」

「まあ、それについてはどうでも良いですが、で、何が問題なのですか?」

「ああ、失礼。だから、そう、一人を残して秘書官を全部休ませたら、全員居なくなりやがって、」

「それで?」

「それで、その残りの一人がさっき、どこかから風邪を貰って動けなくなりました、とか聯絡を寄越してきたんだよ。」

 ミネルヴァは、話し相手に見えもしないのに、首をちょっと傾げてから、

「おや、まあ、最近変な風邪が流行っていますからね。ウィッチも、お蔭で余計な仕事が回ってくると文句を垂れていましたし。」

「別に、アイツが幾ら困ろうと構いやしないが、俺のお付きが居なくなってしまったことが問題なのだ。もうじきには()()()()を出ねばならんのに。国家的式典だぜ? 遅れるわけには行かんのだ。」

「どうせ、別に数時間くらい遅れても構わない日程なのでしょうに。」

「そりゃそうだが、しかし、俺の秘書官を手紙なり何なりで呼び戻したところで、絶対に間に合わん。そこでだ、ミニー、お前、最近新しい秘書官を雇って、教育し始めているらしいじゃないか。」

「私は、秘書ではなく補佐と呼んでいますが、」

「どっちでもいいが、とにかくそいつはまだ、どうせ、お前の仕事の助けにならないんじゃないか?」

 女神の名を持つ魔術師は、曲げた人さし指を右手ごと口許に当てつつ、やっぱり無表情のまま少し黙り込んでから、まるでその言葉をしっかりと突きつけるような口調で、

「一つ貸し、ですよ。バン。」

「ああ、恩に着る。」

「というわけです、ケイン、」

 俺はいきなり名を呼ばれてぎょっとした。

「はい。何ですか。」

「バンの外遊についていってあげて下さい。」

 俺はぽかんとしてから、

「え、そんな、え、自分みたいな未熟者が、そんな、畏れ多い、」

「別に大したことではないですよ。あなたがまだ頼りないと言うのはバンも承知の上なのですから、多少の粗相や失敗も許してくれるでしょう。多分。」

 軍務長官の方もこちらへ顔を向けて来た。

「ええっと、ケインというのか? まあ今ミニーの言った通りだ。俺は殆ど自分のことを一人で出来るが、盲いているが故に困ることも時にはあるかもしれないし、また、体面を保つ為に俺自身ですべきでないことも多いのだ――飯を買う為に列に並ぶとかな。俺が頼みたいのは、そういう簡単な仕事だけさ。難しいことを考えないで、付いてきてくれ。」

 上官、しかも軍のツートップに命令された俺に、選択の余地はなかった。


 〝虹剣〟の異名を持つ男、軍務長官、バンウィアー・ズィーズは、その言葉の通り、殆どのことを自分でなしてしまうようであった。例えば、階段に差し掛かっても、全く躊躇わずにひょこひょこと昇ったり降りたりするし、俺が舎内の道に明るくないことを諒解している為か、寧ろ先導している彼は、何でもないことのように扉を開けたりするのである。俺は、その顔の前で手を振ってみたくなる衝動を必死に抑えた。本当に、盲人なのか?

 俺はどうしても訊ねたくなった。バンウィアーの、左腰に、骨格のバランスがおかしくならないのかと心配させられるほどの、大きな楯と大きな剣を佩いている、その後ろ姿に話しかける。

「長官殿、」

「なんだい、ケイン。」

「あなたは何故、そんなに容易く道を進めるのですか?」

「ああ、それは、これだよ。」

 長官はこちらへ向き、あどけない顔を露にすると、その服の襟に手を挿し込んで、まるで自身に喧嘩を売るかのように前へと引っ張り出した。そうして覗ける首許には、まず、その身を護るチェインメイルが目立ち、そしてその上、鎖骨の狭間の辺りに、真珠のような質感と菱形の形状を持つ不可解な宝石が、首を何とか回ることが出来る程度のか細い鎖によって吊るされているのである。

「よく聞いてみろ。」

 そう言われて俺が耳を欹てると、良質の鋼を打ち鳴らすような音が、キィンキィンと絶え間なく、しかし幽く、その菱形から鳴り響いているのであった。

 〝虹剣〟は服を直しながら、

「朝一番に魔力を注ぎ込んでおくと、一日中カンカン鳴り続けてくれる魔具だ。反射音を聞き留めることで、周囲の状況や地形が大雑把に分かる。()知った場所を平和裡に歩く分には不便しないな。」

 また(そびら)を向けて先に進み始めるバンウィアーへ、俺が、

「蝙蝠の空間把握みたいなものなのでしょうか?」

「おお、良く知っているなケイン、それを元にして思いついたんだ。」

 俺は、少し考えてから、

「長官殿、ということは、あなたがその空間把握術を考案し、その魔具を作らせたのですか。」

「そうだが?」

「すると、妙ですね。」

 長官が足を緩めつつ、またこちらへ振り向いた。

「何がだ?」

「ああ、いえ、その、長官殿の言葉で言うところの『カンカンする魔具』がこの世に存在していなかったのに、つまり、本当に蝙蝠ごっこが人間に出来るのか分からなかったのに、よくもあなたはその習得に挑戦したり、魔具を開発させたり、といったことに努めたものだな、と少々不思議に思ったんです。」

「ああ、もともとは、こうしていたんだよ。」

 その、光ではなく魔を見る剣士は、舌を頻りに打ち鳴らして、先程の真珠色の菱形の同じリズムを刻んで見せた。

「その内に、自分で音を出すのが面倒になって、このペンダントを特注したわけだな。というわけで、こいつを作らせたのは、別にそこまで無茶な話ではない、さ。」

「成る程。」

 俺は少し黙ってから、

「しかし長官殿、すると結局、あなたがその空間把握術の訓練を始めたこと、つまり鳴らす方ではなく聞き取る方への努力を始めたことにおいては、勝算が無かったのですか?」

 バンウィアーは、渋く笑ってからまた顔を向こうへ向けて、

「意地でも職務を抛棄したくなかった失明者の、健気な足搔きの内の一つ、さ。」

 つい余計な事を訊く悪癖がある俺も、その哀しげな背中を見せられては、むっつりついていく他なかった。幼い顔立ちと軽い口調で存外親しみやすさを纏っていた、光ではなく魔を見る剣士が、ここに来て初めて、その永い生涯と底知れぬ実力に相応しい迫力と風格を俺に垣間見させたのである。

 そうやって俺は何の役にも立たずに虹剣の背中を追い続け、兵舎を出た。今日は良く晴れている。

 沈黙が嫌になった俺は、無難なことを吐いておこうと思い、

「憂鬱ですね、これから港町まで、馬車を乗り継いでだらだら長旅ですか。」

「馬鹿言え。そんなことしていたら間に合わん。俺の都合で船の出港を遅らせることは、まあ正直可能だろうが、しかしあまりに忍びない。」

 光ではなく魔を見る剣士は説明を重ねる代わりに足を進めたので、俺は仕方がなくついていった。賑やかな通りの中を、ひょいひょいと人を避けつつ進むその姿は、〝識眼〟で人の魂、すなわち人の位置を見ることが出来るという理窟を知っていても尚、この男の盲目性を疑わせる。

 そうやって道を進み、あの巨大な舎の裏手に初めて回った俺は、そこに広大な、蓬々たる荒れ地が広がっていることを知らされた。若者の健康な歯のように隙間なく建物の立ち並ぶ巨大都市のただ中に、まるで青痣のように存在しているこの空隙は、その上を数多の、畜舎のような建屋が転々と寝転がることで占められているようである。

「牧場ですか?」

 剣士は少し笑ってから、

「厳密には、確かに牧場とも言えるだろうが、しかし、きっとお前の想像しているところの物ではないさ。ここは、()()()()が所有する、魔獣の塒なんだよ。」

 そう言われて、一番近くの畜舎をよく見てみると、成る程、壁と屋根との隙間から垣間見えるものは、蜥蜴の頭の形状にして、馬の頭くらいの大きさを持つ何かであった。嘶くようにぶるぶると顫えるそれの持ち主は、ドラゴノイドの一種なのだろうか。俺は、魔獣に関する知識を殆ど持っていなかった。特に最近は、人間、というか、ミネルヴァのことを考えるので忙しいのである。そうやって暇さえあればあの女のことを考えている俺は、まるで恋煩いに罹ったようであった。勿論、それとは正反対の感情が根柢にあるのだけれども。あんなにこりともしない女の相手は、雷帝様に任せておけば良いのだ。余程、頑丈なベッドの上でなされるに違いない。

「うぅむ。おい、ケイン、」

 俺ははっとして、

「はい、何でしょうか、」

「どこかに緑色の帽子を被った男は居ないか? 俺も今識眼でアイツの魂を捜しているのだが、いかんせん広過ぎて上手く見つからん。」

 初めて頼りにされた俺は何となく張り切り、目を皿のようにしつつ、梟のごとくきょきょろとした。その結果、すぐに、

「ああ、どうやらあっちに居ますよ。」

 少しだけ間があって、

「ケイン、まさかお前、指か何かで指し示しているのか?」

「と、失礼しました、ええっと、あなたから見て、左手側の方角です。」

 光ではなく魔を見る剣士は、首をそっちに曲げてからすぐに、

「おお、でかしたな、ケイン。……ぉおーい!」

 手を振る剣士の姿を向こうから見つけたらしく、その、緑帽の男は身動いだが、しかし、どこかへ行ってしまった。

 俺は今さっきの教訓を活かして、

「ええっと、長官殿。あの彼、どこかに行ってしまったのですが。」

「ああ、いや、ケイン。気遣いは有り難いが、一度見つけた以上、俺にもアイツの魂の位置、すなわち挙動がもう見えているよ。」

「あ、それもそうですね。」

 どうも上手くいかないものだ。

「とにかく、構いやしないさ。手ぶらでこっちに来られてもしょうがないんだから、寧ろ、アイツが一度どこかに行ってしまうのは全うな行動だろう。」

 なんじゃろ、何か預けている手荷物でも持ってくるのだろうかと、俺が間抜けな想像をしていると、いきなり暗くなった。突然のことに目をぱちくりさせると、その闇がどこかに吹き飛んでいき、再び、燦々たる陽光が降り注いでくる。困惑によりつい口の辺りにやっていた右手の爪が、またぴかぴかと光っている。

「ん? 何を怖がっているんだ、ケイン?」

 この声を聞く間に、再び辺りが暗くなった。俺は最早縋るような声で、

「ち、長官殿、何やらさっきから様子がおかしいのですが、暗くなったり、明るくなったり、」

 バンウィアーは、ただ、一つ頷いて、

「ああ、さては来たのか。まあ、上を見てみろ。」

 俺は素直に従い、そして、目と口をあんぐりさせた。いつか騒がしい酒場の屋根に留まっているのを見た、木目を全身に纏いしドラゴン、今それが、代わりに紅蓮の鱗を纏いて、中天を旋回している。時計の針と同じ方向に、ぐるりぐるりと回るその庇は、時折唸り声を漏らしつつ、両の厳めしい翼で空気を搏ちながら、周回ごとにその魁偉なる身を更に大きくさせ、つまり、降下してきているのであった。その軌道の円心が地上の俺を捕らえていないので、成る程、明暗が頻りに入れ替わることとなったのであろう。

 まもなくそれが降り立ち、俺は風圧に戦いて、つい目を閉じつつ顔を守った。砂っぽい風が当たる感覚が無くなったので、情けない斜め十字を(ほど)くと、果たして目の前に見事なレッド・ドラゴンが鎮座しているのである。ちょっとした大船位の大きさの、このドラゴンは、そこだけ鱗の無い樽のような腹を、短い四肢で支えて辛うじて地面から浮かせており、この辺りだけ見るとちょっと間の抜けているように思えなくもない。しかし、一枚一枚が兇器のように鋭く重い鱗を全面に帯びて、椚葉のように鋭い形の洞に緑色に蠢く瞳を封じたその容貌は、兇暴という概念が肉を得てそこに具現化したかのようであった。

 その顔つきに似合わず、レッド・ドラゴンが大人しくしているのは、そいつの背に跨がる男の仕業のようである。その、緑帽の髭面の男は降りもせずに、酒に焼けたような声で、

「いやいや、お待たせしやした、長官、」

 いかにも粗野なこの男に対して、バンウィアーは尋常に、

「連れが変わったが、結局野郎二人だ。問題無いだろう?」

 ちらりと俺を見下ろしてから、

「勿論でさぁ、誰を載せようと、あっと言う間にひとっ飛びですわ。」

 置いていかれつつある俺が、

「え、ドラゴンの背に乗って、トゥネストまで飛んで行くのですか?」

 男が上のほうで笑って、

「馬鹿言うなよ兄ちゃん、レッド・ドラゴン(こいつら)は見た目より気が小せえんだ。海の上なんかに出たら、目が回っておっこっちまうよ。」

 俺の横のバンウィアーが、

「まあ、気が小さいせいなのかどうかは知らないが、事実としてレッド・ドラゴンは海上飛行を嫌うし、」

「長官。この俺が、目を回すのだと言っているんですぜ、」

「じゃあ、それでいいよ。またとにかく、こんな兇悪な乗り物で他国に乗り込んだら妙な誤解を与えかねん。国内でしか使えんさ。」

 身の頑丈さを誇るかのように翼の付け根に結わえられた綱を手がかりに、光ではなく魔を見る剣士と俺は、ドラゴンの背中までよじ登り、峰のように浮き出る逞しい背骨に跨がった。鱗が妖しくざらつく。

 俺は長官のすぐ後ろに座っていたのだが、

「ああ、ケイン、もう少し下がってくれ。」

 俺が大人しく従って躙り引くと、更に前の辺りに座っている緑帽の男が、今度はドラゴンの太い首の辺りに結わい付けてあるらしい太い綱を長官に寄越し、そしてそれは俺の手許まで渡された。

「地面に死に花咲かせたくなかったら、しっかり摑んどけよ。」

 バンウィアーにそう言われた俺が必死にその綱に縋ると、酒に焼けた声がまた響いてきて、

「じゃあいくぜぇ、飛び立て、グロウラス!」

 先程俺が手掛かりにした方の綱が、植物魔獣の蔦のようにぶるんと震え、立ち上る。つまり、それくらいの勢いで両の翼が羽搏きを一回なし、そしてそれがもう一度繰り返された瞬間、下に引き寄せられるような、不可解な力を俺は感じた。それと同時に不規則な動揺が来て、俺は、ドラゴンが宙に浮き始めたことを理解したのである。大きな赤い体に苦労しながら少し下を覗いてみると、成る程、畜舎が僅かずつ小さくなっていく。

 俺はふと前に視線を戻したが、すると、同乗者二人が奇妙な体勢を取っていることに気が付かされた。式典での騎手が如く暢気に上体を垂直に立たせている俺とは対照的に、二人は、体を前につんのめらせて、自分の腹と龍の背を擦り合わせているのだ。嫌な予感がした俺はすぐに倣った。その瞬間、優雅であった翼の動きが、目にも止まらぬ程に兇暴となり、恐ろしい風圧が俺の身を襲い始めたのである。顔を必死に背けつつ、何とか地上の光景を見やると、昨日喰った肉に添えられていた芽花野菜のように小さくなった小森が見え、しかし、あっと言う間に後ろへ吹き飛んでいった。あまりの速度によって、そう、そもそも都市風景がいつの間にか見えなくなっていたのだ。


 疾走するドラゴンの背でさんざ揺さぶられながら、俺はあの、かつて忌ま忌ましい船旅の末に到達した港町に再び辿り着いた。全力で綱を握りしめていた手がぎりぎり痛む。

 流石に町中への()()()()は憚れるのか、俺と長官はやや郊外地で下ろされて、緑帽の男とドラゴンを見送ってから、

「大丈夫か、ケイン。」

「ええ、」正直あまり大丈夫でなかったが、「いつかの船旅と比べれば、」

 俺はそこで気が付いて、つい絶句してから、

「長官殿、」

「なんだ? 何を不安がっている?」

「今回のトゥネスト入りはやや急ぎなのですよね。」

「そうだが。」

「で、船旅と、」

「そうでないのに港に来るものか。」

「と言うことは、ああ、もしかして、」

「海龍船だが?」

 俺はつい、目を瞑って首を振った。

「ああ、何と言うこったい、」

「さっきから何を言っているんだお前は?」

 長官の声は全く苛立っていなかった。

「ああ、いえ。以前、()()()に来る時に自分は海龍船に乗って偉い目に遭いましてね。もう、数日中ずっと酔いに酔って、」

「お前まさか、」バンウィアーの顔は怪訝そうに歪んでおり、「生身と言うか素面と言うか、とにかくそのまま海龍船に乗ったのか?」

 俺はその言葉の意味を少し考えてから、

「多分、そうだったと思いますが、」

「馬鹿かお前は。船乗りならともかく、そんなもの酔うに決まっているだろ。ああ、とにかく、それについても含めて、船に乗る前に色々とせねばならないからな、さっさと町中に向かうぞ。まずは、乗船券を買わねば。」

「おや、こういう公式の船旅って、前もってチケットの購入がなされているものではないのですね。」

「ここに来る間に落としそうだからな。」

「ああ、完全に納得しました。」

 ドラゴン騎乗中に荷物を落とす、という心配はそれなりに真剣であったらしく、チケットの後にも何点かの細々(こまごま)としたものを購入した。

「ああ、後はあそこに行けば買い物は終いだな。」

「あそこ、とは?」

「そこだよそこ。」長官は迷いなく指で指し示した。「俺がこの目で見たことはないが、聞く限りでは馬鹿みたく青い看板が掲げられているそうじゃないか。」

 なんじゃそりゃ、と俺が思いながら示された方を見ると、おっと、確かに、バンウィアー・ズィーズの燃えるような青髪にも負けないくらいに力強い、青い塗料が塗りたくられた、奇妙な形状の看板が張り付けられている店がある。

「ああ、多分ありましたよ。しかし凄いですね、位置を完全に憶えてたのですか?」

「というよりは、俺にもあの店は〝見える〟んだよ。」

「ん? どういう理窟ですかねそれは。」

「何せ、あそこは魔具店だからな。一件だけ馬鹿みたいな量の、しかも怪しげな魔荷(チャージ)で満ち溢れているんだ。」

「ああ、成る程。して、何を買ってきましょうか。」

「いや、俺が直接話す。あそこの店主とは旧知の仲でな。」

 俺と虹剣がその店に歩み寄る。一見して用途の分かる下らない雑貨、一見して用途の分かる頼もしい兇器、つい手に取って矯めつ眇めつしても全然正体が分からない謎の代物、青い溶液、赤い溶液、黄色い懸濁液、紫色の粉末、黒い結晶、埃が被っている癖にちっとも萎れていない怪しげな果物、何かの木の葉、鶏の首の干物、魔晶燈、保冷庫、魔銃、魔晶石、僧侶が見たら憤慨しそうなデザインのネックレスにイヤリングに指輪、そういった有象無象が表へ陳列される中に、まるで、それ自身も商品であるかのように、店主あるいは店番の首がひょっこり覗けている。このような、客が一歩も中に踏み入れられない店構えは、心得なき者に弄られると困る代物を多く扱う魔具店では一般的であったが、しかし、ここまで禍々しい代物を外に出している店は初めて見た。今俺の目の前に吊るされている、魔力を込めると刃先が爆発するナイフよりもずっと危なっかしい品々が、この店の中には用意されているのだろうか。

「店主は居るかい?」

 この問いかけによって、とんでもない人物が来店したことにようやく気が付いたらしいその男は、転げるようにして奥に引っ込んでいった。するとまもなく、

「やあ、やあ、長官殿、お久しぶりで。当たり前なのでしょうが、変わらずお若いままですね。」

 いかにも人のよさそうなこの老婦人に対して、バンウィアーは、

「当たり前なのだろうが、お前は老いたな。少なくとも声を聞く限りでは。」

「おや、いつの私と比べてらっしゃるのかは存じませんが、勘弁して下さいましよ。」

「実的な懸念だよ。きっと、俺より先にお前は死ぬのだろうが、その時にこの店がどうなるかが心配なのだ。」

「ああ、ああ、御安心を、跡継ぎはきっかり育てておりますのでね。」

 会話の間、俺はずっとこの老女主人を見つめていた。どこかで見たような顔の気がしないでもなかったからだ。

「それで、長官殿、本日は何をお求めで、」

「ああ、済まんが、大した代物ではないんだ。これから海龍船に乗るでな、」

 そこまで聞いただけで、店主は勝手に、

「ああ、はいはい。よく売れますのでね、すぐに出せるようにしておりますよ。何本御入り用で。」

「万が一帰りに手に入らんと嫌だからな。四本くれるか。」

 店主はこっちにちらりと視線を寄越してから、

「長官殿、お連れの方との往復分と言うことであれば、悪いことは申しません。少なくとももう二本ばかりお買い下さい。そちらの方は酔い易いようですので、大目の方が安心です。」

「ん? 確かにこいつが酔いに弱いのは、ここまで来る間に何となく分かったが、しかし、何でお前がそんなことを言えるんだ? 顔つきから分かるとでも言うのか?」

「いえ、そんなことありませんとも。ただ、私はそちらの方とお会いしたことがありましてね。」

 俺はやっと思い出した。

「ああ、もしかして、いつか馬車で俺に水剤(ポーション)をくれた、」

「ええ、お元気そうで何よりです。私の水剤は効きましたかね。」

「そりゃ、もう、ばっちりと。……ああ、あの時の代金を払わせて下さい。幾らですか?」

「いや、止めとけ。」虹剣に差し止められた。「お前が幾ら給金を貰っているのか知らないが、どうせ、兵卒と同じくらいだろう? 目玉が飛び出るぜ。急な話に付き合ってもらっている駄賃代わりに、俺が払っておいてやる。」

 光ではなく魔を見る剣士はそう言うと、成る程、大層な金額に当たるコインを、老婆の顔のすぐ前の、桟のような木板(きいた)に乗せた。

「ウチの部下が世話になった分と、今から貰う六本分だ。悪いが釣りはきっかりくれ。六本分の方に関しては、公費みたいなものなのでな。」

「へい、へい、……ああ、では、水剤六本と、お返し分です。」

 バンウィアーは、持っていろ、と言わんばかりにその水剤の内の五本を俺に寄越してきた。俺が受け取る間に、

「ではまたな。いつかお前が死ぬ前に、こんなケチでない話を持ってくるよ。」

「しかし、そうなった場合は状況が穏やかでないということでしょうからねえ。その約束が反故になることを祈りますよ、平和の為に。」

 剣士は満足そうに笑うと踵を返したので、俺は、その老婆へ慌ただしく礼を述べてから彼を追いかけた。

 

 その後俺達は海龍船に乗り込み、ちんけな客室に通されて、

「自分も、長官と同じ部屋なのですね。」

「護衛や小間使いの関係で、普通はこうするものだ。」

「しかし、小間使いと言われても、こんな何もない部屋で何かお手伝いすることがあるのかは疑問ですし、何より、あなたに護衛が必要なのでしょうかね。」

「まあ、そりゃそうなんだが、なんだケイン? そんなに俺と同じ部屋で過ごすことが不服か?」

 長官は明らかに面白がっている顔であったが、俺は一応慌てて、

「いえ、いえ、そんな滅相もない、」

 笑みを少しだけ深くしたバンウィアーは、初めて入る部屋であるためか、魔具に頼り切らず自分の舌を強く打ち鳴らして、部屋の中を探り始めた。少しそうしてから、全く躊躇わずに奥の方のベッドの方へずかずかと進んで、腰を下ろす。見事なものだな、と俺は感心しながら、もう一方のベッドへ腰掛けた。

 その後、剣士が先程の水剤を取り出したので、

「そういえば、すっかり言いそびれてしまいましたが、有り難う御座います。そんな、安くないものの支払いを、」

 バンウィアーは、蓋を開けてしまった手前か、まずぐいっとその水剤を呷ってから、

「あの後良く考えたんだがな、あれって、お前がミニーの下へ仕える為の旅程で必要となった水剤の支払いなんだよな。てことは、そもそもお前が負うべき負担ではない気がするのだ。だから、ミニーの財布なり軍の金なりへ俺が後で請求し直しておくよ。と言うわけで、俺に対しては気を使わなくていい。」

 本気なのか慰めなのか冗談なのかはっきりしなかったので、俺は曖昧な口調で「有り難う御座います。」とだけ返し、自分の分の水剤の蓋を捻り開けてから、一気に中身を飲み干した。

 その後まもなく出港となった。激しい揺れに辟易はするが、流石、気分は完璧に明瞭の儘である。

「あの水剤、本当に素晴らしい効果ですね。」

「ああ、俺もウィッチに付き合う過程で色々魔具の勉強はしたが、しかし、水剤の技術においてアイツの右に出る者は居ないな。後進を育てているとは言っていたが、不安だ。本当に、あれだけの水剤師が再び現れるものだろうかね。」

 永い命を持つ者は常人では要らぬ気苦労を覚えるのだな、と俺はこの言葉から学んだ。五十年後や百年後の問題も、この男にとっては現実的な話なのだろう。まあ、それを杞憂にしてやるのが、俺、というより我々の悲願ではあるのだが。俺自身は、ミネルヴァだけで精いっぱい、というか、果たした瞬間に縛り上げられて終わるだろう。

 さて、比較的近い国行きとは言え、それでも数時間かかるというこの船旅、ただ黙り込み続けている訳にもいかなかった。そこで俺は、あの名前が今バンウィアーの口から出てきたことによって思い出させられた、とある話題に乗じることにした。

「ところで、長官殿、一つお聞きして宜しいでしょうか。」

「なんだ、ケイン?」

「今回、特に自分を同伴者に指名した理由は、何なのでしょうか。」

 剣士は、頬を中指の先で撫でつつ、

「何で、って言われてもな。あそこで語った通りだが。」

「長官殿があの部屋で述べたのは、『何故今一人分の人手が必要か。』という理由だけでしょう。もう一度問わせてもらいますと、何故あなたは、数多の兵の中から()()自分を、ケイン・バーレットを連れ立ちたくなったのでしょうか。」

 返事は、一切淀みなく、

「別に誰でも良かったが、隣の部屋で暇そうな奴が居る筈だったから、まず声を掛けてみたまでだよ。何でそんなことを言い出すんだ?」

「ああ、いえ、自分の勘違いだったら恥ずかしいのですが、もしかすると、やはり長官殿が特に自分へ興味を持って下さったのかな、と思い立ちまして。」

「こりゃ面白いことを言い出したな。何故だい、根拠を言ってみてくれるか。」

「自分は最近、ウィッチ・ムーン大将殿に可愛がってもらっていまして。もしかすると、最早お互いに数少ないであろう、対等の条件で語らえる友人同士として、ムーン大将があなたに自分のことをぽつりと語ったりした事があったのかな、と。何せ大将殿は、自分が強引な方法を用いてまで窮理魔導学の講義を受けに来たことに興味を持っていましたし、また、自分があなたの隣の部屋で働いていることに対して、何か重大な意味を見出しているようでしたから。

 特にこの、バンウィアー長官のすぐ近くで働いている、ということへの興味は、大将殿がやや機嫌を損なった時に語ったものでしたので、きっかり本気の思いが籠められているのだろうな、と、自分に想像させました。」

 バンウィアーは、口角をぐいっと持ち上げ、ますます幼く見える顔で、

「成る程、聞いての通り、中々切れる男だな。しかし一つ誤りがある。ウィッチの奴は、『ぼつりと語ったり』なんかしていない。それはそれは熱く、お前のことを嬉しそうに話していたよ。」

 俺は素直に、驚いた顔を作り、

「そう、でしたか。」

「あの、学生諸君から〝鬼の月魔女〟と恐れられるウィッチ・ムーンがそこまで認める若者とは、いったいどんなものだろうかと気になったんだ。気になると言っても、普通ならわざわざ会ったりしないんだろうが、しかしケイン、お前は本当にすぐ近くに居たわけで、しかも丁度俺の秘書が病に伏したと来たものだ。これは、そうしろという思し召しかなと思い、お前に声を掛けたのだよ。」

「思し召し、ですか。意外ですね、あなたがそのような判断基準を用いるとは。積極的な無神論者とお聞きしていましたが。」

「別に、神を嫌うことと、科学的に証明されていない事象を信じることは悖反しないさ。巡り合わせや命運を頼りにすることは――宗教的信仰から卒業した者にとっては貴重となる――精神の平静を助けるものになるし、何より、悩む分の時間の節約になる。」

「成る程、神なるものの思し召しではなく、運命からの思し召し、と。」

「ああ、そういうことになるだろう。」

「しかし、実際問題として、会ったこともない俺を連れ出してみて、もしもどうしようもない奴だったらどうするつもりだったのですか?」

「船から蹴落とす、というのは冗談だが、まあ、ミニーとウィッチが認める奴だ、ロクでもない男である可能性は有り得なかったろう。」

「身に余る誉れですね。……ところで、ララヴァマイズ次官殿のことは愛称で呼ぶのに、ムーン大将はそのままなのですね。」

「馬鹿言え、あんな、元から冗談みたいな名前、どこをどう弄れと言うのだ。」

 俺は素直に笑ってから、一つ不安を思い出した。

「ところで長官殿、ムーン大将は、自分が彼女へ相談していたことについて、何かあなたに再相談をなしたりしたでしょうか。」

「ん? ああ、されたよ。」

 俺は、肯定されてしまったことを忌ま忌ましく思ったが、しかし、その口調がとても暢気であったので、寧ろ安心し直すことが出来た。

「しかしなぁ、俺にも答えられん問題ばかりだったな。確かに俺とアイツとでは得意分野が違うが、しかし失明してからの俺は、窮理魔導学の一線からは正直退いている。ウィッチからの相談に乗ったり、特に目ぼしい発表の内容を確認したりはするが、最早自分から能動的に研究しているわけではないのだ。だから、ウィッチに答えられずに俺に答えられる窮理魔導学上の問題は、まあ、正直幾らかあるだろうが、しかしそこまで多いわけではないのだ。

 そして、お前がウィッチに問うた問題は、中々に難しいものが多かった。残念だが、窮理魔導学はまだまだ黎明期の学問なのだ。スコップで山を崩すことが出来ないように、()()窮理魔導学という頼りない道具では、お前の願ったような、一つ一つの魔術の解剖は、事実上全く出来ん。特にあんな、〝喰い〟や〝造氷術〟などという、尋常な使い手がこの世に一人しかいない技術の機構の解明など、無理も甚だしい。……言い訳ないし敗北宣言に聞こえるかもしれないがね。」

「あまり虐めないで下さいよ、そう結ばれたら、この上なく恐縮するより他無いではないですか。」

 俺は軽い口で返しながら、改めて心底ほっとしていた。主の魔術に関して妙な興味を覚えるという、俺を疑るきっかけとなり兼ねない材料、これと、もしも魔女から情報が得られればいかにも値千金のものになろうという目論見とを、先日の俺は慎重に天秤で量り比べた挙げ句に、まあ、ミネルヴァとべったり仲良しではないウィッチになら、相談を持ちかけても良いかと思ったのだ。バンウィアー相手にそうしようなどとは思ってもみなかった、あまりに氷刃と近過ぎる人間であり、また、ウィッチのように単純な性格の持ち主であるとは限らなかったからである。しかし、僥倖を得た。魔女から虹剣まで話が回ってしまったことは想定外だったが、しかしその結果、何ら疑惑を生み出さなかったのだから。寧ろ、これでバンウィアーの学者としての頭に、造氷術や氷喰いヘの興味が幾らかでもインプットされたなら、いつか何かしらの知見をたまたま思いついて、どうやら好感を覚えてくれている俺へ、わざわざ教えてくれることすら有り得るかもしれない。しかしこう考えてみると、俺は随分上手いこと、()()()の最高部に取り込まれていることになる。虹剣、氷刃、魔女に好かれ、そして、いつかは陽炎や雷帝だって切り崩せるかもしれない。陽炎はいかにも人懐こいし、そして、雷帝に至っては、氷刃にとって、実質の夫なのだ。手掛かりは充分だろう。

 ここまで考えて、俺はふと、魔女の件で懲りて以降、軍務官のそれぞれについて真面目に勉強したのにも拘わらず、中々解明出来なかった謎のことを思い出した。ちょっと、ここで訊いてみるのも悪くないか。

 俺はいかにも歯切れ悪そうに、

「長官殿、もしかすると、失礼な質問になってしまうのかもしれませんが、しかし、どうにも以前から気になることがありまして、」

「よく分からんが、まあ、まず言ってみろ。」

「有り難う御座います。我が主、ララヴァマイズ長官、いえ、ミネルヴァという偉大な女性のことなのですが、何故彼女は、結婚なさらないのでしょうか。ザナルドというこれまた偉大なる男との間にあまりにも長らくの婚約を続けて、しかも一向に破棄しないのにも拘わらず。」

 光ではなく魔を見る剣士は、俺の覚悟を嘲笑うかのごとく、いかにも気楽そうに、

「そんな神妙に、どんなとんでもないことを訊きやがるのかと思ったら、そこかよ。まあ、確かに無礼の危険が大いにある質問ではあるが、しかしケイン、杞憂だ。簡単ではないが、失礼な話ではない。そして、どうせミニー自身が自分の本で仄めかしている話なのだから、ここで俺が語ってしまっても構わん筈だ。」

 ああ、そうか。あの女の著作に関しては、まだ殆ど読んでいなかったな。小説ばかり書いているものだから――世界屈指の魔術師の癖に書くのが魔道書でないあたりは、〝自然派〟故なのだろう――どうせ役に立つまいと思っていたのだが、確かに、あの清潔過ぎる編輯者は氷刃の自伝的作品の存在を語っていたな。抜かったが、まあ、いい。薄っぺらい印字に比べれば遥かに分厚い、生きている人間から話を聞いた方がよく分かるに決まっている。

「そもそもだ、()()()()における常識として、不老術を受けた者は結婚しないし、既婚者は不老者にならない、という慣例がある。」

 俺はきょとんとした。

「何を、言っているのですか? あなたのズィーズという名は、アアリス・ズィーズ議員との婚姻に際して得たものだと聞いておりますが、」

「俺の出身の部族では〝姓〟という概念がなかったからな。貰うより他無かった。だからこそ今でも、出来る限り『バンウィアー』の方で部下たちにも呼ばせているよ。ズィーズの名は、あまりに畏れ多いしな。」

「まあ、それは置いておきまして、とにかく軍務官の長であり、当然不老術を受けているあなたが既に婚姻をなしているのですから、ならば、軍務官同士の〝氷刃〟と〝雷帝〟の間で華燭を点すことに何の差し支えがあると言うのでしょうか。」

 虹剣は、その青い頭を搔きながら、

「少々事態はややこしいぞ、覚悟しておけ。まず、なぜ不老者の婚姻が基本的に認められないか、という事情だが、それは、不老者がその配偶者に置き去りにされるからだ。」

 俺は顎を親指で撫でつつ、少し考えてから、

「やはり、何を言っているの分かりませんよ、長官殿。女房なり旦那なりが常人である分、当然どんどん老いさらばえて行かれ、ゆくゆくは先立たれるということが問題であるならば、そもそも、あらゆる知人がそうではないですか。丁度今先程あなたが、あの水剤師の死期を惟たように。」

「しかし、」バンウィアーの返事は早かった。「やはり、一線を越えたもの、〝家族〟というものは単なる知人と違うのだろう。これは適当な心配ではなくて、実際の事件を元にしているのだ。」

「事件、ですか?」

「〝キンリダナ事件〟で調べてみるといいと思うが、そう、既婚者にして不老術の対象として認められたルートニウェン・キンリダナという召喚術師が、妻に先逝かれた衝撃で精神を病んだのだ。」

 虹剣は、一拍置いてから、

「ケイン、この恐ろしさが分かるか?」

 俺は首を傾げつつ、

「多分、分かっていない気がしますが。英雄の一人の気が違えることに、何か意味があるのですか? どうせ不老術無しでもいつかは不可避であっただろう、一人の英雄の喪失以上の意味が、」

「あるのだよ。いいか、ケイン。不老術によって老いることが()()()()()()()()()()()生命の気が()れるということの恐ろしさを想像してみてくれ。まともな判断や思考が不可能となり、治癒の見込みもない精神だ。咎もない以上、処刑するなどもっての(ほか)だが、しかし、放っておいても消滅してくれる望みはない。何せ全く老いぬのだから。

 仕方がなく、当時の()()()()は、英雄である筈のキンリダナを幽閉し続けたわけだな。本来は国の威信を高めつつ、その分野で大いなる功績を成し遂げ続けてくれる筈である不老者が、国を挙げて養わねばならぬ穀潰しになってしまったわけだ。ああ、別に、精神を病んだ者全てを迷惑だとあげつらうつもりはないが、しかし、そういった患者たちはそこそこ()()に、良くなったり悪くなったりしながら、いつか死ぬものだ。だがこのキンリダナはいつまでも亡くなる見込みがなく、そのため際限ない負担を齎すと言う意味で、そういった普通の精神患者とは明らかに一線を画す存在と言えるし、そして更に悪いことには、その永過ぎる生涯においてますます病状が進行していったのだ、しかも、その魔術の実力は一切毀たれぬままに。清教徒達(ばかども)の信じる聖書(よたばなし)で言うところの『破滅の箱』を、当時の()()()()は抱えてしまったのだ。」

 ここでバンウィアーが、申し訳なさそうな顔になった。歯切れ悪く、

「確認してなかったが、ケイン。お前は、」

「安心して下さい、俺も、信心なんてさらさら持ち合わせていませんよ。」

「ああ、それはよかった。いや、俺に近い連中も、体が元気なまま長年世間擦れするせいか、どうにも不真面目な奴らばかりでな。こういう気の緩んだ会話の時には、ついつい、

 ……ああ、で、とにかく、そのとんでもない破滅の箱は、ある日とうとう蓋が爆ぜ飛んでしまったのだよ。まあ、当然と言えば当然だ。不老者である以上、老いに殺されることは絶対に無く、病に殺されることもまず無く、保護している以上怪我や餓えも有り得ない、つまり、死にえぬ以上は、いつかそうなってしまう宿命であったとすら言える。あの日、病状が深まった挙げ句に見当識障碍や妄想癖を得ていたキンリダナは、その破滅的な思考をとうとう極め、まず世話係らを、次に番兵を、その魔術で殺害した。その後は、もう地獄絵図だよ。記録によれば、死者七百五十七人、負傷者千二百十一人、失われた魔獣が五十六頭、潰された住宅が九十七棟に、兵舎も一つ吹っ飛んだ。その兵舎の跡地と言うのが、ケイン、俺とお前がドラゴンに乗り込んだ、あの荒れ地だ。」

 さらさらと数字を述べるバンウィアーの記憶力に呆れながら、俺は息を呑んだ。

「思えば、軍務官というものはその選抜方法の都合上、戦友と共に指名されるからこの手の問題は起こらずに済んできたのだろうが、しかし、そうでない条件を経た不老者は、実に危なっかしい存在であるということがこの事件で認識されたのだ。この悲劇以降様々な創意がなされ、その内の一つが、不老者における婚姻の排除なわけだよ。もとから独り身なら、こういう事態は起こり難いのでは、というな。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、しかし、あのキンリダナ事件があまりに凄惨であったが故に、そうせざるを得ないところがあるのだろう。」

「成る程。だからあなたとアアリス・ズィーズ議員は尋常に婚姻をなせたのですね。共に不老者になることを認められた――つまり暫く死に別れる予定の無い――英雄同士であったが故に。」

「ある意味では、そう言うことだ。」

「しかし、結局よく分かりませんね。何故我が主〝氷刃〟は〝雷帝〟と結婚しないのですか、こちらも不老者同士なわけですが。」

「ああ、だから、ややこしいと言っただろう。まだ語らねばならんことが山ほどある。この長ったるい船旅を潰しちまおう。ケイン、お前、ミニーが普通の人間ではないことは流石に知っているよな。」

「ハーゼルモーゼン人、という意味ですかね。」

「そう、その通り。ところで、お前、他のハーゼルモーゼン人って会った事があるか。」

 迷わず、

「ないですよ、俺が出会った青い髪の持ち主は、次官殿とあなただけですし、あなたの青色はハーゼルモーゼン人と全く関係ないわけですし、」

「おいちょっと待て、」虹剣に(さしはさ)まれた。「お前まだ聞いていないのか、ミニーのあの髪は、ウィッグだぞ。ハーゼルモーゼン人は皆金髪灰眼だ。」

 思わず絶句してから、

「何ですかそれは。鬘の話にも驚きましたが、目の色も違うではないですか。」

「俺も詳しくは聞いていないが、何かの方法で――多分魔術的小細工で――瞳の色を変えているらしい。」

「何だって、そんなことを、」

「本当にややこしくなってくるんだが、それについては俺やミニーの半生を語らねばならん。まず、どっちからにする?」

「ええっと、では、まず長官殿の方を、」

「そうか。ではケイン、俺の出生のことは知っているか。」

 俺は一度息を呑んでから、

「〝青髪族〟と呼ばれて迫害を受けた少数民族の出、だった筈です。」

「そこまで知っているのならば話が早い。そう、半ば未開人であった我々の部族は、あのクソったれ共、当時のトゥネスト王権のいいように扱われたわけだ。見た目上の差違からくる軽侮というよりは、文明や知的レヴェルが大きく遅れていたことにつけ込まれた、という感じだがな。忘れもしない、あの夏の日、もともと数百名しか居なかった我々は殆ど全員がトゥネストの軍隊によって取っ捕まり、以降永年にわたる奴隷労働を強制された。まあ、もっとも俺の両親は捕まる時に殺されたわけだがね。父は槍で串刺しに、母はエンゼリッグで黒焦げにされた。俺の目の前でな。」

 軍務長官は、左の袖を捲り上げ、チェインメイルに包まれた腕を露にすると、その肘をこちらに向け、鎖越しにも明らかな、禍々しい紋様の烙印を見せてきた。

「九つの餓鬼にまでこんなことしやがったんだぜ? アイツら、人間じゃねえよ。ああ、俺はこの経験によってあらゆる信仰心を捨てたのだ。煩い僧侶共にはいつもこう言い返して来た、『貴様の言うことが正しいのならば、何故我が聚落で最も敬虔な信徒であった我が父母はあの日に殺されねばならなかったのだ。』と。神なるものが本当にお座すならば、さっさと世界を救いやがれ、と。」

 バンウィアーは、俺の渋面を、その魂の身顫いから察したらしく、

「失礼、話を続けよう。とにかくそうやって多くの少数民族を制圧してきたトゥネスト王国だが、七年後にとうとう年貢を納めることになった。秘匿し続けていた奴隷労働が露見し、その結果として、平和と正義の為の戦力であると標榜している、とある国の軍隊から宣戦布告を受けたわけだ。」

 俺は、相手に見えもしないが、しかし出来る限り真剣な顔を作ってから、

「それが、今我々が所属している軍、ということですね。」

「そう言うことだな。そうやって救われた俺は、その後一も二もなく入軍し、死に物狂いで鍛練を重ねた結果、良き戦友とちょっとした才能に恵まれたこともあり、こうして軍務長官という地位に居る、というわけさ。ああ、それでケイン。この、俺を含めた多くの人間が救われた事件だが、その実行者は今や俺が率いている軍だとして、さて、そのきっかけとなった人物は誰だか知っているかね。つまり、トゥネストがひた隠していた奴隷労働制を暴いたのは。」

 俺はちょっと考えてから、

「不勉強でお恥ずかしいです。」

 バンウィアーはちょっと残念そうな顔をした。

「俺個人としては正直哀しいが、まあいい、二度と忘れなくなるだろう。それをなした、すなわち、その情報網をもってトゥネストの悪行を知り、更にそれを暴く、つまり公開する勇気と実力を行使した女傑、それが、現在の我が妻、アアリス・ズィーズなのだよ。」

 俺は少し目を大きくして、

「それは、凄まじいですね。」

「そう、凄まじいのだ。勿論入軍した当時の俺は何の教育もされていない馬鹿な餓鬼であったが、しかし、その後人並みにものを知るにつれて、アアリス・ズィーズという議員に、比べるものなき大恩があることを知ったのだよ。

 ケイン、お前の不完全な敬語から何となく窺えるのだが、きっとお前はこれまでの人生で勤勉に学を身に付けてきた方ではないのだろう。そして最近も、窮理魔導学に入れ込んでいる以上歴史など学んでいる暇はなく、故にお前個人は知らなかったのだろうが、しかし、以上の顚末は全て、最早歴史的事件なのだ。我々の国における多くの者、少なくとも一定以上の地位を持った者は皆知っている、〝英雄譚〟なのだよ。さて、このような強烈なエピソードを有する二人、アアリス・ズィーズとバンウィアーの婚姻に対し、そうそう反対出来るものが居るだろうかね。ああ、当時は本当に祝賀的雰囲気で大騒ぎだったのだ、英傑同士が、歴史を経て巡り合い結ばれた、と。」

 俺は、目の前の男が今の地位にまで駈け登った執念、その根柢に存在するものを知らされた。才能だけではなく、これだけの思いがあってこそ、世界最強の魔術師、虹剣、バンウィアーは誕生したのだ。

「もしかして、」子供っぽい企みを思いついた俺がぽつりと、「それが、ズィーズ議員と結婚する為の必要条件であるという事実が、軍務官、つまり不老者を目指すあなたの熱意を強めた、という事実はあるでしょうか。」

 バンウィアーは、見た目の年齢に相応しく、()っと顔を紅くして、目を見開き、舌を縺れさせながら、

「ああ、成る程なぁ考えたこともなかったが、あるのかぁ、そう言うのも。ああ、でも、あれだぜ、一番は、この軍に対して恩を返したい、という思いだぜ!」

 俺は浮かぶ笑いを、別に殺さずに、

「ええ、勿論、そうでしょうとも。」

 虹剣は恥ずかしそうな顔になってから、

「ええっと、と言うわけでだ。俺とアアリスさんとの結婚には、強烈に肯定される材料が有ったんだよ。それに加えて互いが不老者同士であるということで、慣例を打ち破る説得が可能になったというわけだ。」

 「アアリスさん」という、妻に対して使うにはあまりにも可愛らしい呼び名を引き出した俺は、このウブそうな男を虐めるのに満足したので、話が先に進むのに従うことにした。

「成る程、つまり、氷刃と雷帝の間ではそのようなエピソードがない、あるいは希薄であるので、歴史的慣例を打ち破るのがやや困難になる、と言うわけですか。」

「まあ、正直、六十八年来の戦友であり、共に死線を切り抜けたのも一度や二度ではないのだから、そのあたりはどうにでもなるかもしれない。その気になれば、な。しかし、そもそもあの二人はその気になってすらいないわけだ。つまり、踏ん切りがつかない重大な理由があるのだよ。」

「それが、ララヴァマイズ次官殿の半生に関わって?」

「ああ、そうだ。別に、ザンの方に都合は……多分、ない。」

「歯切れが悪いですね。」

「まあ、とにかくミニーに関する話を聞け。まず、もう一度訊くが、お前はミニー以外のハーゼルモーゼン人に会ったことがないのだよな?」

「一般的なハーゼルモーゼン人が青髪では無いと聞いて多少自信をなくしましたが、まあ、少なくとも近しい人間には皆無ですね。どこかですれ違ったかどうかまでは分かりませんけれども。」

「まあ、そんなところだろう。そもそもあの国は、基本的にどの国とも友好関係にないのだから。」

「四面楚歌、ということですか?」

「具体的に敵対しているわけではないからそこまでではないが、しかし、どの国とも無関心か険悪と言ったところだな。つまり、最低限の貿易を除けば、ハーゼルモーゼンにおいてはまともな国交がないんだよ、どこともな。故にお前がどこかでハーゼルモーゼン人に出会ったこともなかったわけだ。」

「そりゃなんで、また、」

「孤立が、あの国なりの保身術なのだろう。あまりにも厳しい土地であるが故に、もしもあそこを制圧しようとするならば厖大な戦力投入と甚大な被害を覚悟せねばなるまい。孤島であり、中心都市がみな円環をなす山脈の向こう側である以上、体が凍てつく程の大寒波の中そのような海や山を突破せねばならん。しかもあそこには、野生のものと訓練されたものと、とにかく大量の雪龍が棲息している。俺達が今日乗ってきたのよりもよっぽどでかく、しかも寒さに滅法強いドラゴンがな。んで、真面目に育てているのかどうかは知らんが、もし存在するならば、そこの兵士は男女関係なく凄まじい身体能力を誇る、と。挙げ句に、ハーゼルモーゼンを征服したところで手に入るのは、酒にしないと喰えたものではない穀物に、大量の海獣にちょっとした高の魚だ。要らんそんなもの。つまり、あの国に攻め込む理由が一つも見つからない。

 きっとハーゼルモーゼンはこの様な強み、資源の貧しさと絶対的な防衛力を踏まえて、つまり他国に阿らなくとも安全であるという事情を踏まえて、出来る限り外の国と関係を持たずに生き延びようとしているのだ。歴史上、ちょっとした文化交流が国の屋台骨を揺るがした例は枚挙に暇がないからな。分かりやすいのは、布教、あと時々有るのは食文化や娯楽だな。その国で手に入らないものの魅力を教え込み、抜け出せなくなったところで、崩しにかかる、と。」

「成る程、流石と言うか何と言いますか、筋の通った論理のようですが、しかし長官殿、では何故、ララヴァマイズ次官は、今我々の国に居るのですか?」

「ああ、アイツは亡命者なんだよ。あの『ミネルヴァ・ララヴァマイズ』という名前も偽名、と言うかなんと言うか、とにかく生名ではない。当時の王のやり方に嫌気が差した、ロバント・ウォンゼという、あぶれとは言え一応王女の端くれを娶ったくらいの大した軍人が、妻子を伴って亡命を謀り、その結果、娘のみがどうにか生き延びたのだ。」

 俺は、神妙な顔つきで少し考えてから、

「長官殿。あなたは先程、ウィッチ・ムーン大将殿の名前、彼女自身がふざけて名乗り始めた名前を、『冗談みたいな名前』と揶揄しましたよね。自分も最初、畏れ多くも正直に申せば、同じようなことを思いましたよ。しかし、やはり同じような感想を、『ミネルヴァ・ララヴァマイズ』という名前にも覚えたのです。もしかしてこれも、敢えて某かの効力を狙って付けられた名前なのでしょうか。」

「かもなぁ。亡命時のアイツ――十四の小娘――の腹については、当時奴隷労働の身であった俺の知ったところでは当然無いが、しかし、『ミネルヴァ』という意味の明白な名前と、『ララヴァマイズ』という全くわけ分からん響きのコントラストは、出身や出生を探られまいという予防線であったのかもしれない。事実、他にもそのような予防線は張り巡らされているのだから。」

「とは?」

「お前の疑問に今更答えることになるが、アイツが髪や目の色を弄っていることだよ。ほら、どっちの色も、一見俺の髪や瞳の色に似ているだろう?」

「ああ! つまり〝青髪族〟を騙ろうと、」

 ここまでつい口走って、バンウィアーに鋭く睨まれてしまった。俺は、竦みきりつつ、

「申し訳ありません。これは侮蔑語でありましたね。」

 虹剣は、表情を緩めてくれて、

「まあ、お前がその辺りの歴史や事情を知らない若造であるということで、勘弁してやろう。だが、二度とは止してくれよ――この髪質自体は俺達の誇りであるので複雑だが、しかしとにかく、その固有名詞はあまりにも汚れ過ぎている。俺達が使っていた自称、〝グズーフ族〟で呼んでくれ。」

「では、そうさせて頂きます。つまり、ララヴァマイズ次官は、今丁度あなたが述べたように、デリケートな部族であるグズーフ族の出身を騙ることで、出生に関する質問を防いできたのですね。」

「ああ、グズーフの血が一滴でも混じると髪色が青一色、あるいは俺のような白髪交じりの青になることが経験的に知られている。当時、そのような人間は既にそこそこ世界中に居たらしいからな。つまりミニーは被差別的民族、あるいはその血を引く者を装うことで、探りを入れられることを阻止した、と。俺としては正直面白くない話だが、まあ、アイツだって相当の理由があったのだから、仕方ないだろうな。

 だって、髪や肌の色が違うだけでぐだぐだ言われるような世の中なのだ。大いに生物学的特徴が異なるハーゼルモーゼン人であることが露見したら、アイツは一体どうなっただろうか。何せ亡命直後は、その亡命に関わった人間を除けば、ミニーは一人きりだったのだ。周囲には一人たりともハーゼルモーゼン人は居ないし、そもそも亡命者である以上、世界にいるハーゼルモーゼン人は全員敵であるとさえ言えただろう。そんな中で、必死の隠れ蓑として〝青髪族〟への微妙な差別的雰囲気を利用した彼女を、俺は批難することなど出来るだろうか。」

 ここで突然、一際大きい揺れが来、鳥を模したと思われる小物が部屋の隅に設えられた棚から転げ落ちた。俺は、それを拾おうともせずに、

「しかし、ララヴァマイズ次官殿はそれ以外にも色々大変だったでしょうね。食事も儘なりませんし。」

「ああ、アイツと組み始めた時のダンとハンは首を傾げたそうだぜ。」今長官が口走った二つの名前はそれぞれ、未だ俺が会っていない最後の一人の軍務官と、とうの昔に戦死した軍務官の名である。「何せ、チームを組む者としての常識に反して食事には滅多につき合わないし、つきあっても全然喰わない。そしていつも金欠のくせに――当時どうやって新鮮な生の肉を調達していたのかは知らんが、どうしても費用が嵩むだろうからな――酒はやたら飲む、と。他にも頓珍漢なことを時々言い出すし、変な奴だな、と思っていたそうだ。」

「さぞかし辛かったでしょうね。今の強かなる次官殿ならともかく、当時は一人きりの小娘に過ぎないわけですから。」

「その通りだ。しかし、アイツと俺が出会い、つまり、ハンを含めた、後に軍務官の座に上り詰める六人がとうとう集結して以降は、そんな気苦労は必要なくなった。だって、そうだろう? 純血のグズーフである俺に、あんな稚拙なウィッグが通用するか? グズーフ族の人間において、あのような、淡い水色の髪は決して生えない。さっきも言ったが、淡く見えるのは白髪が混じる為なのだからな。しかもついでに、われわれグズーフは極端に酒に弱いのだ。多少どっかの血が混ざったからと言って、あんな、蒸溜酒の瓶をみるみる呑み干してしまうような体質になるかよ。

 果たして、まもなく『どうでもいいけれど、お前って何者だ?』と俺から問い詰められることになったミニーは、俺達に対して自分の正体を明かしたのだ。それによって、俺達はアイツの特別な事情を理解し、食費を大目に回してやるとか、色々な気遣いをしてやれるようになった。ああ、初めて本当の意味で六人で食卓を囲んだ時、つまり、ミニーの前にある皿が彼女にとってのゲテモノではなく、まともな喰いものとなった時の、彼女の顔といったら、安堵といったら、もう、決して忘れられないな。

 勿論、最早、英雄の一人となったミネルヴァを生まれのことで誹る馬鹿者など滅多に居ないが、しかし、ミニーの『青髪碧眼の魔術師』というイメージは既にきっかり固定されてしまっていたから、その後もあの扮装を続けているのだ、打ち切るタイミングをすっかり逃しつつな。軍務官たるもの英雄であり続けなければならず、一種の偶像でなければならず、そうしたら、突然恰好を大きく変えることは禁忌となってしまうのだ。しかし、まあ、昔の必死な事情と違って、もう半ば化粧みたいなものだろう。」

 さっき転げ落ちた鳥の小物が、船の動揺の繰り返しの結果、俺の足許までころころ転がってきた。

 俺はそれを何となく拾い上げつつ、

「若かりし頃のあなたに負けず劣らずの壮絶なお話ですが、しかし、既に次官殿の中では整理というか、踏ん切りが付いたのですかね。何せ、自伝に纏めるくらいなのですから。」

「まあ、ある程度はそうなのだろうな。明らかに、まだすっきりしていない点もあるようだが。」

「と、言いますと、」

「ここでようやく、結婚の話になる。父母と死に別れた為なのか、それともハーゼルモーゼン人とはそういうものなのか、分からんがとにかく、ミニーは酷く愛に飢えているところがあり、早い話が、子供がどうしても欲しいようなのだ。そこでアイツとザンは、こういう条件で婚約したのだよ、『子供が出来たら結婚しよう。』、と。

 つまり、不老者としか結ばれ得ぬ以上、一度結婚すればその夫がそう簡単に死亡しないことが確定しているミニーにとっては、子供が出来ない体質の男とは結婚出来ない、したくない、というわけだな。」

「成る程、しかしええっと、この国では、そんなおおっぴらに婚前のセックスが認められる雰囲気なのですか?」

「宗派にもよるだろうが、婚約まで行っていれば、そこまで煩くないのが普通のようだな。特に、そういう条件がついている婚約ならば全く構わんのだろう。」

 俺は、じっくりと黙り込んでから、ようやく口を開いた。

「しかし、長官殿。二人が婚約を結んでから、もう、半世紀経っているのですよね?」

「そうだ。セックスレスということも無いようだし、普通に考えれば、ミニーあるいはザンの体質に異常があって子供がなせない、あるいは、本質的にハーゼルモーゼン人と通常の人間の間では子供がなせない、とにかく、この二人では不可能なのだと諦めるべきだ。

 だが、ちょっとした事情が有ってな。どうやら、不老者は異常に子供がなし難いようなのだ。勿論、先に述べたような強烈な婚姻制限がなされていることも関係しているが、しかし今のところ、不老者が作った子供は、歴史上、四十三年前に授かった俺の息子一人きりなんだよ。――一応付け加えるが、俺達グズーフは、ミニーと違って完全に普通の人間だぜ?」

 失明時期を鑑みると、つまり、この男は自分の息子の顔を一度も見たことがないのだな、とふと思いつつ、俺は、

「よく分かりませんが、結局それほど困難なのでしょうか?」

「一つの事実として、俺とズィーズ議員との間でのセックス生活は、結婚してから、つまり初夜から、殆ど変わっていない。しかし、子を得たのは一度きりだ。普通の感覚からすれば、明らかに少ない。

 だから、そう、ミニーは踏ん切りがつかないのだよ。自分が悪いのか、ザンが悪いのか、それともそもそもハーゼルモーゼン人と常人が結ばれようとしているのが悪いのか、あるいは不老者故に苦戦していて、もう少しの間頑張れば良いのか。この事情が、半世紀に渡るセックスと逡巡をミネルヴァに与えているのだ。」

 俺は、さっき拾った木彫りの鳥を手中で弄びながら、

「一つ、下世話なことを訊いても宜しいでしょうか。その、高齢の不老者に、月経は来るのですか?」

「あー。確かにそこは重要だな。何となくしか知らないが、多分来ているみたいだぜ。そもそもあの時のズィーズ議員だって、とっくに昔に止まっているべき年齢の筈だ。だから、まあ、ミニーの望みが潰えているわけではない。」

「成る程。逆に言えば、その希望が未だ次官殿を苛んでいる、と。」

「そうとも言えるな。」

 その瞬間、船が蛙のようにジャンプした。少なくともそう信じられるほどの、とんでもない衝撃が俺達を襲ったのだ。その結果俺は鳥の小物をつい手放してしまい、それがスポンと、バンウィアーの右目の辺りへ飛んで行く。()っ、と俺は叫ぶことしか出来なかったが、しかし、虹剣はひょいと首を曲げ、鳥はベッドシーツの上にぽすんと落下したのであった。

 首を直した剣士は笑って、

「馬鹿たれ、ただでさえ潮騒で音が聞き取り辛いんだから勘弁してくれよ。」

 俺は、その余裕と伎倆の前に深く恐れ入った。


 数日後、俺は清潔過ぎる編輯者の部屋を訪ねていた。

「成る程、そうやって行きの船の中では氷刃や虹剣の思い出話を拝聴していたわけだ。」

「氷刃のほうに関しては、ヴェロから聞いておけば済んでおいた部分も多かった気がしますねぇ。勿体ない。」

「どうだろうかね。僕も知らない話が幾らか有ったようだし、君がミネルヴァという女を理解する上では有益だったかもしれないよ。」

「そりゃそうかもしれませんがね、しかし、だからどうだと言うのです? ミネルヴァに悲劇的な過去があり、そして日々雷帝と頑張っていることを知らされて、俺にどうしろと?」

「分からないよ。知識というものはいつどこで活きるとも限らない。」

 俺は背をぐっとソファに押し付けつつ、不満げに口を尖らして、

「あーあ、折角だからもっと有益な話、たとえば、虹剣の魔術の委細について、窮理魔導学的な興味を抱いた振りして訊ねるつもりだったのにな。何せ、俺は魔女が認めるほどの熱心な書生ということになっているのだから、きっと大して疑いもせずに教えてくれたでしょうに。」

「そう思っていたなら、帰りの船旅で訊ねれば良かったじゃないか。」

「それなんですがね、ああ、情けの無いことに、俺は帰りの船旅中、ずっと船酔いで寝込んでいたんですよ。」

「何だいそれは?」

「俺もよく分かりませんが、あの水剤、婆様に警告されて大目に購入していたのにも拘わらず、帰りの俺はそれらを飲み干しても充分な効果が得られずに、さんざ酔っていたんです。」

「君が、やや船酔いに弱い体質であることと関係あるのかな。」

「分かりませんねぇ。その老婆も首を傾げるほどの、とびきりの効きの悪さらしいですが。」

「ふむ、まあどうでもいい話なのかね。」

 そう言いながら、飲み物でも取りに行ってくれたのか、ヴェロは向こうへ行きつつ、

「しかし、君も大したものだ。虹剣と氷刃、ついでに魔女にまで気に入られていて、最早普通に()()()の者として順風満帆じゃないか。それに長官と次官のエピソードまで、しかも直に聞かされて、もう僕は心配にすらなるよ、君がそのまま、()()()に本気で与してしまうのでは、と。だって、それに理想的な条件が、」

「おい、ポック、」

 自分でも驚くほどの冷たい声、

 ヴェロは目を見開きながら振り返った。その顔に向けて、俺の口から勝手に言葉が転がり出て行く。理性の縛めが容易く焼き切れるほどに、俺の感情と舌は熱を帯びていた。

「お前今、何と言った? 俺が寝返ると、本気であの悪魔共の手先になるのではと、それが懸念されると、そう言ったのか?」

 申し訳なさそうに何かを口籠る編輯者へ、立ち上がった俺が、

「この野郎、もう一度でもそんなふざけたことをほざいてみろ。俺が、あの、畜生共に与するだと? 俺が、アイツらに魂を売るだと? ぁあ、殺されてえのかテメエはよお!」

 この嗄れた声の後に、馬の如く荒い呼吸を俺の口が繰り返す。

 ヴェロは、渋面と身振りでそのバツの悪さを懸命に表しながら、

「済まなかった。勿論冗談のつもりだったが、確かに、あまりに軽薄であったと思う。」

 俺は、肩を上下させながらじっと、清潔過ぎる編輯者の顔を見据え、それからもたっぷり見据え、息と共に少々感情が鎮まってきてから、ようやく、

「いや、気にしないでいい。寧ろ、俺こそ悪かった、許してくれ。しかし、今日のところはアンタの顔を冷静に見れそうにない。頭が冷えたら、また来る。」

 俺はそれ以降一言も発さずに、その清潔過ぎる部屋を出た。火照った心身に対する夜風が厳しい。

 空を見上げると、相変わらず、一つも知っている星座が浮かんでいなかった。つまり、やはり昔からその光を俺が浴びている星が一つもなかったのだ。病人みたいな顔をした月だけが、俺のことを変わらずに見下ろしている。俺は何となしに、ソイツに向けて唾を吐いた。数歩先の地面にそれは墜落し、魔晶燈に照らされた敷石の上に、ぽつんとした茶色い染みを描く。 

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