4 魔女と刺客
4 魔女と刺客
俺は前任者たる老婆に案内されて、その部屋に辿り着いた。渡されていた鍵を使って錠前を外し、扉を開くと、永らく閉ざされていたことで完全に熟成しきった闇が廊下に零れ出てくる。
「暗い、ですね。」
「そりゃぁそうでしょうとも。何ヶ月も使っていない部屋ですから、魔晶燈はとっくに切れていますよ。」
「まあ、それもそうですが、窓がないのですね。」
「それも、やはりそりゃぁそうでしょうとも。上等な部屋ならばいざ知らず、いちいちの部屋全てを外壁に対面させることなど出来ませんで。」
俺は、外から見たこの建屋の巨大さを想い起こして納得した。
闇が零れ出てしまった分を補うべく、開いた扉から漏れ入った光を頼りに、何とか足台の存在を部屋の中に認めた俺は、作業がしやすいように手前、つまり明るい廊下の方へそれを引っ張り出し、当然のことのように、その足台に仕込まれていた抽斗を開けた。
しかし、
「ありゃ、空ですね。」
「おやおや、まあまあ、前の方が出て行く時に、丁度切れていたのでしょうかね。」
天井に吊るされる魔晶燈は、火事も起こさない煙も出ないという便利な照明器具ではあったが、基本的にオン/オフが出来ない為に就寝時にカヴァを掛ける必要があることと、その燃料、魔晶石の交換を時々せねばならないことが厄介な魔具であった。そこで、魔晶燈がある住居――つまり文明のある場所のほぼ全て――では、この様な、四五段の階段状の足台が必ず用意されており、そして大抵は、それに仕込まれた収納スペースに魔晶石がしまわれているのである。しかし、生憎目の前のこれは空っぽだった。
「まあ、魔具店の場所は追々お教えしましょう。今は戻らねばなりません。」
そう呟き歩いていく老婆を、錠前を掛けてから急いで追いかけた俺は、自らの住処となる筈の小部屋のシルエットすらロクに見ぬ内に、そこから立ち去る羽目となった。
しかし、いざミネルヴァの居室の赤い扉を開けると、そこは蛻けの殻で、あの世界で最も逞しい魔術師を欠いた部屋として、いかにも寂しげな雰囲気を漂わせているのである。
「今日の次官殿は、朝から会議に出られていますのでね。」
「ああ、成る程、」
「と言うわけでケイン君。遺憾なく、私はあなたへの教育というか、引き継ぎに専念出来るわけです。さあ、こっちに来て下さい。」
俺は老婆の脇に座らされ、その加齢が漂わす粉臭い香りを感じながら、つらつらと様々なことを教えられた。この軍の組織体系、書類の処理の仕方、手紙の書き方、などなど、とにかく様々に及んだそれにおいて、俺は何故か老婆を満足させたらしく、
「しかしケイン君、次官殿も仰っていましたが、あなたは中々利発な方のようですね。こうも飲み込みが早いと、教えていて愉しいですよ。」
「ええっと、有り難う御座います。」
「そこで私は思います。ケイン君、あなたはしっかりと学を修めるべきです。魔術でも自然科学でも、歴史学でも、とにかく何でも構いませんが、何かしらをしっかり学ぶことで、あなた自身の為にも、そして次官殿のお役に立つ為にも、非常に有益だと思うのです。どうせケイン君も、午後は暇しているのでしょうから。」
もうじきミネルヴァと差し違えることになっている以上、学問何ぞに何ら興味がなかった俺は、適当な返事をした。
「成る程、しかし、中々難しいでしょうね。図書館にでも籠れと言うことなのでしょうか、」
「それも良いでしょうが、私が若い頃には、学院の講義に潜入したものです。」
「学院?」
「ええ、ええ。この国には魔術に自信のある者が集いますので、その受け口としてこの軍のみでなく、研究機関や教育機関もしっかりと用意されているのですよ。なので、普通学院と言ったら、『ジェリターゼ魔法学院』を指します。勿論、その他の学問に特化した機関も存在していますが、このジェリターゼ学院に並ぶ存在感や実績を残すものは他にありません。私はかつて、そこの講義にしばしば潜り込んだのです。」
俺は興味を興した。その様な場所で高度な魔術に関する知識を得られれば、ミネルヴァの魔術に対抗したり隙を衝いたりする方法を考える上で、何かしらの役に立つかもしれない。
「しかし、勝手に講義へ潜り込んだりなんかして、とっちめられたりはしなかったのですか?」
「ああ、ですから、きちんと許可を貰いましたよ。後ろの方の席で邪魔しないよう受講するという条件付きで。」
「そんな許可が出るものなのですか、恐らく、その学院の生徒は厳しい選抜試験となかなかの受講料を支払っているのでしょうに。」
「ええ、ええ、普通は難しいでしょう。ですから私は、ララヴァマイズ次官に一筆書いて頂いたのです。英雄たるあの方の頼みを無下に出来る者はそう居ませんよ。別に、受講者が一人増えたからといって、何か困るわけでないですしね。」
「成る程。」
そんなこんなで、俺はその後帰って来たミネルヴァを捕まえたのである。
「その向上心は非常に好ましいですね、ケイン。では、具体的にどの様な講義を受けたいと思っているのですか。」
「少し調べたんですが、もうすぐ大掛かりな、〝窮理魔導学〟に関する半日がかりの講義が始まるそうでして、是非それを聞いてみたいな、と、」
女神の名を持つ魔術師が、案の定、しかし先入観なしでは決して認められなかったであろう位に幽き程度ながら、不愉快げに目を細めたので、俺は、
「次官殿、あなたが窮理魔導学を快く思っていないことは存じています。しかし、だからこそ自分がそれを学ぶことは有意義であると思うのです。もしかすれば、自分のみが知っていることによって、将来、あなたを少しでも助けられるようになれるかもしれません。」
勿論俺の本心は、ミネルヴァが知らないことを学ぶことで、ミネルヴァを何らかの形でも凌駕し、闇討ちへのきっかけとなる手がかりを得ることだ。
氷刃は、少し、黙り込んだ後で、
「まあ、筋が通った論理ですね。そこの便箋を取って下さい。」
と言うわけで後日の俺は、窮理魔導学の講義を受ける為に、このあまりに巨大な講義室に潜入しているのである。本当に大きい。夥しい机や椅子が並ぶ光景も恐ろしいが、それよりも圧倒されるのは、黒板だ。俺の背丈の五倍はあるのでなかろうか、それほどの異常な高さを誇る黒板は、天井の魔晶燈の明かりを受けて、伸び伸びと煌めいている。巨人が講義をするわけでもあるまいし、何故この様な大きさの黒板をわざわざ用意したのだろうか。
俺が、本来の学院生の邪魔になるのを憚って、あるいは注目を浴びるのを嫌って、流石に最後尾だと何も見えなさそうなのでそこよりは前の、しかし、やはり然程上等ではない席に座り、ノートを取る為のインクやペンの具合を調整していると、一人の男が講義室に入ってきた。
ややハゲが来ている頭と、立派な髭、そして正装らしいいかにも上等な服をはち切れんばかりにしている立派な体躯を持った、その五十くらいの男は、いかにも堂々とした迫力を醸していた。そして発せられる声も、やはりその迫力に見あう、力強いもので、俺は勝手に、この男が学院あるいは魔学界において相当重要な人物であると想像したのである。
「少々遅くなって済まなかった。この講義を担当する、ヲッテェ・ドォネだ。さて諸君、これからこの講義、窮理魔導学基礎を始めるわけだが、正直、優秀な君達にとっては退屈な話が最初のうちに続いてしまうかもしれない。しかし、これは他の多くの講義でも同じように発生する問題で、例えば、ある解析学の講義では『二人の羊飼いの定理』、すなわち、ある二つの関数、f(x)とg(x)の間の値を常に取る関数h(x)が存在し、xがある値に限りなく近づく時の極限がf(x)とg(x)で等しい時、h(x)の極限もまたそれに等しいという定理の証明を、ε–δ論法を用いて証明するという、君達にとっては魚が水泳を教わるかのような、退屈も甚だしい議論から始めると聞いている。しかし、君達の中にはある分野が特に苦手な学徒も居るだろうから、そういう者を蹴躓かせるもの可哀そうだろうということで、ウォーミングアップだと思い、どうかしばらくの間は極めて優しい講義につき合って欲しい。安心したまえ、直に、悲鳴を上げたくなるような内容に入ることになるから。」
その堂々とした教官が語る、数学のものと思しき語句を、適宜適当な英字あるいは希臘アルファベットに置き換えて右では記したが、とにかく、俺にとってはわけが分からなかった。
「さて、と言うわけで極めて基礎的な話から始めよう。そもそも、窮理魔導学というものの背景からだ。古来、魔術は、神懸かり的なもの、ちょっとおまじないから荘厳な宗教的儀式までの、そういう自然や人間を遥か超越あるいは逸脱したものと同様であると考えられ、混沌の中にある謎めいた解釈不能な働きであると、永くに渡って認識されてきた。しかし、同様に不可触のものと考えられてきた生物の体が存外単純で理性的なものであることが分かってきて、人が人を〝医学〟という形で治療することが可能になってきたことと同じ様に、魔術も、実際には自然科学の一種として取り扱うことが充分可能であると、ある二人の学者によって明らかにされたわけだな。すなわち、バンウィアー――当時は未婚であったから、単なるバンウィアーだ――と、ウィッチ・ムーンの二人の手によってだ。私が講義内でこの偉大なる学者、あるいは軍人たちを呼び捨てにするのは不遜故ではない。寧ろ、この二人が最早歴史的人物であると見做している為だ。」
俺は、知った名前を聞き留めて驚いた。まだ会ったこともないバンウィアー軍務長官、相当化け物じみた知性を有するとミネルヴァが語っていたが、よもやそんな、具体的な学術的功績を成していたとは。
「二人がこの仕事を成し遂げたことは一種の奇蹟であったと人は言う。何故なら、バンウィアーは、趣味で数学や物理学――やや古い言葉で言う『窮理学』――を合間に学ぶだけの軍人であったし、ムーンは若い魔術の研究者ではあったが、その興味は魔具の開発、しかも金になりそうなそれ、極めて生活に密着したそれの開発に注がれており、魔術の本質を解明しようとする試み一般を、なんの役にも立たない研究だと、机上の空論で遊んでいるだけだと軽蔑すらしていたというから。しかし、この二人には武器が有った。バンウィアーには、天才的な思考速度や記憶力を有する頭脳と、極めて優れた〝識眼〟をはじめとする魔術研究に置ける絶対的な有利を齎す才能があった。そして、ムーンには、本業の魔具開発で鍛えた手先の技術とノウハウ、そして恐ろしい執念深さ、つまり、求める結果の為には幾日でも、寝食を忘れつつ実験を続けるような根性が備わっていたのだ。この二人の運命的な出会いについては人口に膾炙しているだろうからわざわざ話さないが、とにかく、それによって歴史が大きく動いたと後の学者は語るだろう。例えば、もしもバンウィアーの失明がこの出会いよりも早かったら、まだ今日の我々は魔術を科学的に扱うことが出来ないでいたかもしれない。
では、その出会いによってなされた最初の仕事、所謂〝属性説〟における一つの結着に関して話そう。彼らの仕事がなされる以前の時代は、魔術に属性、すなわち加算個の分類があるというのは、非常に適当で劣悪な議論、あるいは主張であると見做されていた。遥か大昔の時代、この世の全ては四つくらいの元素から成り立っていると、なんの根拠もなしに主張した学者や学派が多くあったものだが、今本気でそんなことを考える者は、一定以上の教養を持つ者の中には居ないだろう。つまり、魔術の属性説はこの与太話と混同され、訳の分からない妄言であると、相手にされなかったのだ。しかし、だからといって当時の魔学者を君達が軽蔑してはいけないよ、何せ、少数派たる属性説の主張者が何ら証拠を提出していなかったのは事実だったし、全うな議論、すなわち学術的に意味があると思えるような瑕疵の無い議論を達成していた者も殆ど居なかったのだ。すなわち、寧ろ当時の属性説への攻撃は極めて正しい行為であったと評価されるべきだろう。一切の瑕瑾なきもの以外は鵜呑みにしてならず、一定以上の議論と証拠からなる一定以上の確からしさを示せないものは、決して相手にしてならず、場合によっては敵視すべきであるというのは、正常にして素晴らしい学術的態度だ。故に、当時の属性説論者は腐っていないで、とっとと自らの学説を弁護する材料を集め、築き上げることをすべきであったのだが、彼らはそうしなかった。故に認められなかった。これは悲劇でも何でもない、ただの自業自得だ。こうなると、若い頃ムーンの抱いた軽蔑も致し方なきことだったのだろう、いや寧ろ、そういう時に軽蔑を示すことが出来るしっかりとした研究者であったからこそ、彼女はあのような偉大な仕事の片翼を担うことが出来たのかもしれないね。
さて、彼ら以前の属性説論者の適当さを示す例としてよく挙げられるのが〝属性表〟だ。彼らは、自分が主張する属性――それは四つだったり六つだったり八つだったりと、色々だったが――を図の上に並べる時に、殆ど何も考えなかった。例えば、現在の学説に最も近い、六属性説、火・水・光・闇・風・地の六属性からなる説の場合を考えよう。彼らは、火と水、光と闇、風と地が、それぞれ、対極というか、反対の存在であるということを考え、大した根拠もなかったこの考えは、幸いにして真理から殆ど離れていなかった。有象無象の学説擬きが林立していた時代からすると、そのうちの一つが当を得ていたことは驚くべきことではないが、しかし、この先は彼らも拙かった。彼らはこの属性六つを図の上に並べる時に、実に適当な論理で、例えば火と水では火の方が忌まわしい気がするとか、そういういい加減な感覚で、この六つの属性を並べたのだ。具体的には縦二、横三の長方形状に並べ、上三つに左から火・闇・地を置き、下半分に水・光・風を置いた。この並びの上下、特に地と風はしばしば乱された、それも当然だろう、なにせもともとロクな根拠がないのだからな。しかも、この位置関係を説明出来る者、例えば、『無関係な筈の二属性の組、火と風、光と風ではそれぞれ距離や角度関係が異なるが、これに意味があるのか?』という問いに答えられるものは誰も居なかった。彼らは、議論を抛棄していたのだ。
さて、有る時、属性説を保証する実験的事実を見出したバンウィアーとウィッチ・ムーンだが、その結果から得られた結論は既存の六属性説に極めて近かった――先程も言ったように、これは別に驚きに値しない、古い学者達による、ただの数撃った下手な鉄砲の命中だ。さて彼らは発表にあたって色々と考えた。まあ属性の名前は、名付けのセンスだけはよい既存の説からそのまま拝借するとして、美しく、そして科学的に有意味な排列で六つの属性を並べる方法はないのかと考えたのだ。彼らの研究報告の中で詳しくは述べられていないが、私を含める多くの者は、ムーンでなくバンウィアーがこれを思いついたと想像している、何せ、当時のムーンには殆ど数学的教養がなかった筈だからね。まあ、どちらが思いついたのかという事実はさておき、彼らの連名での、歴史的発表に含まれていた属性排列は、両名の名を取って、バンウィアー・ムーン図と呼ばれている。まあ、私個人としては〝バンウィアー・ムーンの正八面体〟という呼び名のほうが好きだがね。つまり、彼らは――おそらくバンウィアーは――紙の上、二次元平面上に並べなければならないという先入観を打ち破ることに成功し、つまり、三次元状の立体、正八面体の六頂点に属性を排置したんだ。大したことがないと思うかもしれないが、これは恐らく一から思いつくのが非常に困難であった、とても鋭いアイディアだっただろう。
さて、これこそ魚に泳ぎ方をレクチャーするような話であろうが、一応、バンウィアー・ムーンの正八面体の描き方を話しておこう。いいかね、まず、八面体を描いてくれ。八面体というのが分からなければ、合同な四角錐二つを、底面で接着することで作られる、八枚の三角形からなるクリスタルのような形状、よりいい加減な説明で良ければ菱形を立体化したかのようなもの、と言えば良いかな。まあ、君達にとっては、軍立ケルトル魔法研究所のマークだと言えば済むだろうがね。では、例えばまず、一番上の頂点に――殆どの者は、無意識のうちに縦向きに八面体を描いただろうから、それに従って説明するが――〝闇〟を宛てがってくれ。そうしたらその反対側、一番下の頂点に〝光〟を割り振るんだ。これで、闇と光は互いに隣り合わない頂点に位置したことになるが、バンウィアー・ムーンの正八面体では、このような位置関係を『反対のもの』を意味する符号として扱う。事実、八面体を横切りにする対称面を挟んで、丁度対蹠位置に光と闇が位置していることが分かる筈だ。さて、残る四頂点だが、例えば、向かって右の手前側の頂点に――この説明が分かりにくければいっそどこでも構わないが――そうだな、〝火〟でも置いてもらえるだろうか。そうしたらその反対側の頂点に〝水〟を振る。これで、火と水も、互いに隣り合わない二頂点を占めることになった筈だ。一見すると、闇と光の組と、火と水の組とで位置関係が異なると思うかもしれないが、それは錯覚だ。正確な正八面体であれば、この二組の位置関係は全く等価であり、例えば、適当な回転を加えることで、上部の頂点に火、下部の頂点に水、そして水平面のうちの隣り合わない二頂点に光と闇が位置するように出来る筈だ。これが、正八面体という幾何体を採用したことで得られる素晴らしい点だ、不細工な大昔の排列とは異なって、この六頂点は全て等価なのだ。ああ、忘れていたが、残る属性の風と地は、残る二頂点に適当に排置してくれ。
さてこれで、美事に八面体が完成したわけだ。例えば闇から見ると、対極の存在であるべき光のみが際立って反対の位置に存在し、残りの、多くの場合において無関係とされる四属性は、全く等価の位置に、水平面に並んで存在している。平面に六属性を並べた時に見られたような、無意味なる位置の不等価が一切発生しない、実に美しい排置だ。現在殆ど全ての窮理魔導学者は、そして殆ど全ての魔学者は、これが本質的な六属性の並べ方であると理解している。一切の瑕がない完全なものとしてね。
しかし厳密には、このバンウィアー・ムーンの正八面体にも欠点というか、問題がある。それは、六属性の並べ方が一義的に定まらないという問題だ。例えば、今私は最後の風と地を適当に当てはめさせたが、最後の二頂点のどちらに風を当て込むのかというのは、全くの等価であり、特に判断基準がない。故に、私の指示に従ってバンウィアー・ムーンの正八面体を描いた場合、完成形では二種類の八面体が有り得ることになる。そもそも、幾何学的に詳細に調べると、正八面体の六つの頂点の割り振りには三十種類の描き方が存在することが分かるのだ。これは実に簡単な思索で確かめられるが、今は省略……いや、宿題にしようかな。次の私の講義までに、出来る限りエレガントな方法で、非等価な六つの球を正八面体の各頂点に割り振る、きっかり三十種類のパターンが存在することを証明、あるいは計算して欲しい。どうして分からなければ三十種類全て描き出してくれても構わない、その場合、私は苦笑いをしながら、満点とはいかずともそこそこの点を君に与えるだろう。さてしかし、実際のバンウィアー・ムーンの正八面体では『闇と光が反対』、『火と水が反対』、『風と地が反対』という強い制約があるから、実は結局私が先程言及した二種類の描き方に限定されることになる。それ以外の正八面体が描けた気がした場合は、回転させることで既知の正八面体と重なる筈で、もしそうでもなければ、どこかで描き方のルールを誤っている筈だ。さて、これら二種類の八面体は本質的に同じようなものであり、このうちのどちらを使っても窮理魔導学の議論に影響はないのだが、しかし、少し気持ちが悪いと思う者も多いのだ。何せこのバンウィアー・ムーンの正八面体は、窮理魔導学の象徴のようなものだから、つまり大袈裟に言えば、神学でいう聖書の書き出しのようなものだからね、そこがぐらつくのは、議論に一切の影響がないと把握していても、やはり気持ちが悪い。この問題、バンウィアー・ムーンの正八面体の描き方が有意味に一義的に決定されないという問題は、バンウィアーやムーンも早い内から認識していて、今では『正八面体の鏡問題』、あるいは単に『鏡の問題』という名で知られている。すなわち、これら、丁度互いに鏡像の関係にある二種類の描き方が存在する理由を、窮理魔導学的に有意味な観点から説明するか、あるいは、やはり窮理魔導学的に有意味な方法で描き方を一つに限定するか、さもなくば、全く新しい、よりエレガントな六属性の排列を提案せよ、という問題だ。恐らく、専門家だけでなく多くのアマチュアの〝窮理魔導学マニア〟がこの問題に取り掛かってきたと思う、何故なら、窮理魔導学における重要な問題としては唯一、非常に簡単に意味が理解出来るものだから。しかし、その挑戦者の誰もがこの問題を打ち破ることが出来ておらず、鏡の問題は〝手がかり無き絶対の鏡面〟と怖れられているのだよ。まあそもそもだ、あのバンウィアーとムーンという、窮理魔導学において他に並ぶ者無き両雄が諦めた問題を、果たして自分が解くことが出来るのかというのは簡単に想像つくものだとは思うがね。まあ、かくいう私もかつては若気の至りで挑戦したから、あまり責められないのだが。」
俺は、その後も続いた、堂々たるヲッテェ・ドォネの講義を、ぎりぎりとところで何となく理解しながらノートを取り続けた。属性。最早当たり前のように語られる、例えば俺も先日魔具店にて「光の魔晶石をくれ」と注文したように、揺るぎなく存在するものとして見做されているそれも、長らくの悶着の結果として最近定着したものだったのか。そしてそれをなしたバンウィアーという男、俺がいつも居座っているミネルヴァの部屋の隣で仕事をしている筈でありながら一度も対面していないその男は、一体どういう男なのだろうな。あの、ミネルヴァすらが「自分如きでは絶対に敵わない、足許にも及ばない。」と語る、バンウィアー・ズィーズという男は。
日が変わって。
この基礎窮理魔導学の講義は、午後一番から日の沈むまでという日程を、日付をとびとびにして繰り返す形式である。それを諒解していた女神の名を持つ魔術師は、ついさっき昼前に「本当はまだ仕事が残っているが、もう帰っても構わない。」と俺に言ってくれた。何と有り難いことか。俺は優しい上官殿への恩返しとして、必ずや窮理魔導学に関するいっぱしの知識を身につけ、そしてゆくゆくはそれを活かしつつあの女を殺してやらねばなるまい。自らが習得に手を貸した知識によって殺される英雄はどんな顔をするのだろう。俺は今から、あの無表情を怨嗟と苦悶で崩させてやる瞬間が楽しみでならなかった。
さて、初回から少々遅刻して来たヲッテェ・ドォネという男であったが、今日も、講義開始時間になっても一向に現れないのであった。待ち疲れた学徒達がぐだぐだと馬鹿話を始めて騒がしくなり、そうやって凌ぐことが出来ない俺が、手許の紙の、前回の講義で書かされたぐにゃりと歪んだ八面体に独りぼっちを揶揄われているような気分になってきた頃、ようやく講義室前方の扉が開かれたのである。
しかし、そうやって中に入ってきたのは見慣れぬ、そもそも女だった。癖の無いブロンド髪を腰の辺りまで伸ばし散らしたその女は、あのミネルヴァを遥かに凌駕する、奇妙な出で立ちであった。頭にはこれ以上もなく暗い紺色の、草臥れた三角帽子を被り、その全身は、同様に黒っぽいだぶだぶとしたローブに包まれている。そして、右手には、背丈と並ぶくらいの長さを誇る箒が握られているのだ。そう、まるで絵本に描かれた魔女のような、この世界の感覚としても珍妙この上ない恰好である。絵本と違うところがあるとすれば、その顔には一切の皺や老いが刻まれておらず、どうやら二十台の、妙齢の女性であるらしいことだ。
しかし、俺はこの年齢の推測が的外れであることにすぐ気が付いた。こんな奇妙な恰好を忘れるわけもなかったのだ。あの忌ま忌ましい、不老者を象る公園で、ミネルヴァよりもずっと奥に位置して立っていた、魔術師、ウィッチ・ムーンの銅像の恰好を。
その、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、黒板の真ん前に立って、その整った顔を乱しながら口を大きく開いた。
「はい、静粛にぃ!」
教官が一向に現れないことと、予想だにしない人物が登場したことで更に騒ついていた若造たちが、この殷々たる一喝で静かになる。
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、この成果に満足したように微笑みつつ、
「宜しい。まず、遅くなって申し訳なかったですわね。しかし、それについての文句は私ではなくヲッテェの小僧っ子に言って下さるかしら。何せあの馬鹿と来たら、風邪を引いて声が出なくなったまではまあ、許すとしましょう、しかし、それを今朝、本当に今さっき伝えてきて、私に代講を頼んできたのです。私も何らかの理由によって誰かに代わりを頼まねばならない事態が時々発生しますから、この代講を引き受けること自体は構わないのですが、しかし、幾ら何でも急過ぎるでしょうに。と言うわけで、どうしても今の内に済まさねばならない仕事を抱えてた私は些か遅刻してしまいました。重なりますが、しかし文句はあくまであの小僧に言って下さるかしら。」
あれだけの貫録を持っていた老教官を小僧よばわりする、この、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、実は、ミネルヴァの時と同様に、本来全く違う発音の名前を有すのだった。しかし、やはりミネルヴァと同様に、音よりも意味を優先して、ウィッチ・ムーンという、奇怪な名前を表記に使いたいと思う。この国に渡ってくる時にふざけて申し出た名前がそのまま通ってしまった、月の魔女への、呆れにも似た敬意を込めて。
その、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、白墨を一つ摑むと、持ち込んだ大箒の先端に結びつけ始めた。俺がその行為を奇妙に感じる間に、魔女は、今度は黒板の字を消すのに使う布の塊を、白墨とは反対側に結びつけながら、
「まあ、この馬鹿のように大きな黒板は、私の註文というか我が儘で付けさせたものですので、どんどん使ってやらないと罰が当たるというものですわね。」
魔女がそう言い切ると、その箒が、ふわりと浮き始めた。この動作自体は、初歩的な呪文でも可能な、全く大したものではなかったが、しかし、俺は驚かされた。その驚愕の原因はミネルヴァの時と同じで、つまり、ウィッチは、口をピタリと噤んだままで箒を浮かせたのである。この女も、不老魔術の恩恵により遺憾なく修練を重ねた結果、〝沈黙の魔術師〟となっているのであろう。
しかしこのサイレントは、その名に反し、箒を操りながら終始喋り続けた。もっとも、その伎倆は存分に活かされて、つまり、魔術を行使しながらもその口からは、詠唱ではない言葉が繰り出し続けられたのだ。
「さて、まずは、皆がヲッテェに提出している筈の課題について解説しようかしら、ええっと、」
ウィッチは、ヲッテェ・ドォネに託されたらしい紙切れを見ながら、しかし美事に箒を操り、その先端に取り付けられた白墨を黒板になすりつけることで字を刻み始めた。巨人でなければ手が届かない筈の領域に、やや大きめな文字を書き込んでいくウィッチは、本当に手許の紙のみを注視している様子で、しかし文字列が乱れることもなく、その技術の高さを、俺を含む受講者たちに知らしめたのである。何となくは聞き及んでいた、ウィッチ・ムーンの〝操箒術〟、戦闘や移動に使うとは聞いていたが、まさか、講義でそれを用いてくるとは。
ウィッチが口でも読み上げながら黒板の最上部に書き込んだ内容は、次の通りであった。
各頂点が等価な正八面体に、それぞれ非等価な六つの球を割り振ることを考える。
まず、正八面体の最上部の頂点にいずれかの球を置くが、この時、残りの五頂点は未だ球を割り当てられておらず、故に、ここで六つの球のうちのいずれを最上部に置くかは、構造の決定上有意味でない。故にここでの置き方は一通りである。
次に、最下部の頂点に置く球を決定する。これは、一つ目のものの反対側に位置する球を決定するという意味で、構造上有意味な選択である。よって、残る五つの球のうちのいずれを選択するのかはそれぞれ非等価な行為であり、故にここでの置き方は五通りとなる。
その後、残る四頂点、水平面の頂点からいずれか一つを選び、そこに置くべき球を選ぶ。しかし、この際に残っている四頂点はこの時点で完全に等価である。よって、ここでの選択も構造の決定上有意味でない。故にここでの置き方は一通りである。
そして、残る三つの頂点のうち、既に第三の球が置かれた反対側の頂点を考える。この頂点は残る二頂点に対して明らかに非等価であり、つまり、ここでの選択は構造の決定に影響する。故に、ここでの置き方は球の残り数に等しい三通りである。
最後に、残る二頂点に残る二球を割り振る(これは、私の講義の中で風と地を最後に割り振ったのと同じ状況である。)。ここでの選択によって得られる二つの置き方は互いに異なる八面体を与える。故に、ここでの置き方は二通りである。
以上より、1×5×1×3×2=30となり、確かに八面体は三十種類得られることになる。
(余談だが、最後の選択によって分けられる二つの正八面体は互いに鏡像の関係である。)
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、ここまで書き切って、手許の紙を放り出すと、
「まあ、講義ノートによると、どうやら前回の講義において私が数学音痴だと揶揄われてしまったようですけれども、しかし、幾ら何でも当時から永らく私は、バンウィアーと共に窮理魔導学を研究していたのです。よって今では、数学においてもそれなりの知識を得ていますわ。さて、そんな私がこのヲッテェが用意した模範解答を見ますと、まあ、そこそこ確からしい論理に見えますわね。しかしこれで納得出来ない方がもしいらっしゃれば、やはり私ではなく、あの小僧の許に行って下さるかしら。」
委細はともかく大筋では、何となく俺が考えていた解答とも近いものであり、まあ、事実確からしいのだろう。
ウィッチが、右から左へ、講義室内をぐるっと見回して、何故かちょっと首を傾げてから、
「さて、そもそも私はこんな幾何パズルの話をする為に来たわけでないのです。さっさと、本題、私とバンウィアーが切り拓いた学問、窮理魔導学について講義させて頂きますわ。」
その後絵本から飛び出てきた妙齢の魔女が、相変わらず箒をせっせと動かしながら述べた内容は、時々数式も折り混ざり、成る程、あのヲッテェ・ドォネが脅かしていたように、それなりに高度な内容となってきていた。しかしまだ二日目ということでか、やはり大部分は辛うじて理解出来る内容で、その中で特に俺の興味を引いたのは次の様な部分であった。
「さて、窮理魔導学によって、『魔荷』、『魔場』、『魔位』といった、魔力というもの描写する為のツールを発明、あるいは発見した我々人類、ないし窮理魔導学者は、これらの叡智を用いて更なる問題を見出し、その解決に挑戦し続けてきましたわ。
一つ例を挙げれば、『魔力とはそもそも何ぞや。』という問いですわね。つまり、他の学問を例に引けば、近年〝電圧〟という道具、あるいは玩具を得た舎密学者たちが、塩類にその電圧なる物を浴びせることで新たな金属が次々と発見されたことに触発されて、この世界のあらゆる物質が加算個の〝元素〟からなるという、古代の四元素説からすれば幾らか頼りがいのある学説を確立しつつありますが、では、その様な物質ではないがこの世に確かに存在するもの、つまり〝精神〟は何から構成されているのか、という疑問です。我々の精神ないし魂が魔力、叮嚀に言えばそれなりの量の魔荷からなることは概ね証明されておりますので、つまりこの疑問は、魔力とは何ぞや、という所にも相当するわけですわね。
また、他にも、魔力がどうやって沸いてくるのか、という問題に取り組んでいる研究グループもいくつか存在しておりますわ。つまり、そこら辺の石が自動的に精神や魔力を持つことはありませんが、人間ないし魔獣は、明らかに魂という形で魔力を胸の辺りに宿すことが知られています。この違いは何ぞや、といったことですね。つまりこの問題は、生物と非生物の違いに帰着することも可能と思えてきます。しかし、これは少々早合点では、という指摘もなされているのです。つまり、そこら辺の石が魂や精神を帯びていないのは明白で、我々人間にそれが存在するのも明白だが、では、蟻などの微小な動物はどうか、草樹などの、明らかに生命を有するが精神を持たないものではどうか、となるとまた、魂と精神は本当に不可分なものなのか、といった、半ば哲学的な議論に踏み入ることになってきますわ。
さて、これに対する実験的事実としては、現在、蟻などの大した知性を持つとは思えない動物や、あるいは草樹や苔などから魔荷や魔場の観測に成功したという報告例はありません。何故ならば、もしも実際にそれらの知性なき生物が魔力を帯びているにせよ、その量は非常に少ないことが予測されます。よって、いざ測定を行っても、ノイズやバックグラウンド、つまりこの世界に何となく瀰漫している希薄な魔力に邪魔されて、有意味な大きさの値を得ることが出来ないのです。ああ、勿論、本当に羽虫や植物がなんら魔力を帯びていないが為に、検出出来ていないという可能性も大いにありますが。
ちなみに私の研究グループでは、『虫のような動物には検出困難程度の微小魔力があり、植物には全くないのでは。』という立場を取っています。これは、魔力を持つこと、精神を持つこと、魂を持つことが同一視可能であろうと考えている為です。つまり、一応某かの意志らしきものを持って〝行動〟をなす蟻には、希薄ながらも魂が、薄弱ながらも精神が存在しており、何ら能動的アクションを起こさない植物ではそれらがなかろう、というロジックですわね。これを立証する為に我々は現在、超高精度の測定機器の開発を目指しているところです。これが成功した暁には、魔力とは何ぞや、という問題に対する一つ結着、あるいは少なくとも重要な手がかりを齎し、ひいては、窮理魔導学における大きな進展をなすことが出来ると、私は研究室の室長として期待しておりますわ。」
実際、この部分の語りは学徒たちにも響いたようで、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女へ、講義の終わりに質問を投げ掛けた学徒曰く、
「ムーン先生は、高精度の検出機器を開発することで、蟻などの虫から魔力を検出出来るだろうと仰いますが、」
「ええ、そう信じておりますわ。」
「しかし、先生は確か、この世に何となくバックグラウンドとして存在している魔力が邪魔で仕方がない、と仰っていました。実際、もしも先生の説が正しければ、そこら辺の小動物、つまり空を飛ぶ鳥、地面に潜っている蚯蚓、あるいはもっと微小な、顕微鏡などの機器を用いないと気が付けないような動物にも、精神、つまり魔力が僅かながら存在することになってしまいますので、果たして、高精度の検出器を開発したところで、ノイズはともかくとして、この様なバックグラウンドを無視することが本当に可能なのでしょうか。あるいは微小生物でなくとも、遥か遠方に居る強力な精神、つまり人間や魔獣の影響を排除しきることが可能でしょうか。測定実験時に周囲一定範囲を立ち入り禁止にするにしても、まともな知性を持たない飛行生物の侵入は防ぎがたいですし、また、値に関する具体的な情報がない以上、どれだけのエリアを立ち入り禁止にすればよいのかも分かりません。」
ちょっと表情を真剣にした魔女に、しかし、その学徒は止まらなかった。
「また、もっと根本的な問題として、測定者自身の魔力の影響はどうなるでしょうか。確かに実験事実として、ひとりの人間が魂として何となく持つ魔力は、例えばムーン先生の場合では闇ですが、とにかく一種類であるということが知られています。しかし、ムーン先生が当然、闇以外の属性を必要とする筈の数々の魔術を行使することが可能である以上、人間あるいは魔獣は、その魂を何となく構成している魔力のもの以外の属性の魔力を操る、ひいては帯びることが可能な筈です。つまり、あなたが蟻から闇でも光でもない魔荷を仮に検出出来たとしても、それのシグナルが、あなたがたまたま帯びてしまった魔力に起因しないという証明は可能なのでしょうか。また、それらの実験に、先程私が述べた立ち入り禁止措置のような、大袈裟な工夫が必要であるならば、その再現性、つまり、他の国家権力の後ろ盾を持たない研究グループによる客観的検証が可能でありましょうか。これらについて、お答え頂けませんか。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は聞かされ終わると、とても嬉しそうに、莞爾たる笑みを作った。
「素晴らしい質問ですわね。確かに、それらの懸念はあります。しかし、いずれもクリア可能だと私は信じているのです。
まず、他の、微小ないし遠方の生物によるバックグラウンドの問題ですが、これは工夫次第でどうにでもなりますわ。例えば、高山地域、特に非常に寒冷であるそれにおいては、殆ど生物が存在しません。勿論、生物が本当に皆無というわけではないですが、少なくともぐっと少なくなるでしょうし、また、人間や魔獣が来ることもほぼない筈です。故に、この講義室などで適当に測定、あるいは大仰な立ち入り禁止措置を用いてどこかで測定するよりは、ずっと小さなバックグラウンドが得られますわ。……今、私が〝得られる〟と言いきったという事実に注意して下さい。つまり、その様な場所でバックグラウンドが小さくなることについては、既に我々の実験で確かめてあるのです。――これだけではつまらないですので、まだ論文には纏めておりませんが。そしてその様な場所で、こう、〝魔核〟と呼ばれる器具、特殊な箱を用いようと考えていますわ。これは、その内側と外側で、ほぼ魔荷や魔場の干渉を断ち切ることが出来る箱です。丁度、電磁気学で言う、遮蔽ケージの様なものですわね。この中に、巻紙とペンによる自動記録装置付きの測定機器を放り込めば、もう、殆どバックグラウンドを無視した状況での測定が出来る筈なのです。今はその、上手いこと〝魔核〟の遮蔽効果を高めることと、中に放り込む機器の根本的な精度向上に努めている段階ですわ。特に、寒冷地でも尋常に働く機器の開発に四苦八苦していますの。
そして、例えばその様にして得た理想的な魔核内で、一匹の蟻に対する測定を続けるとします。すると、いつかは蟻が絶命して、測定器の拾う値が小さくなるでしょう。この差がつまり、蟻一匹分の魔荷、ないしそれによって齎される魔場となる筈です。故に、あなたの指摘してくれた測定者の魔力によって発生する問題も、解決可能であると、私は信じていますの。」
学徒は神妙に頷いて、
「有り難う御座います。では、これに関連して、もう一つだけ宜しいでしょうか。」
「単純なものであれば。もし複雑ならば、あとで個人的に訊きに来て下さるかしらね。」
「御安心下さい、いたってシンプルな質問です。
先生はその様にして、蟻なりなんなりに規模の小さい魂が存在することを証明した暁に、具体的にどのようなインパクトを期待なさっているでしょうか。」
これに対し、ウィッチは堂々と、
「分かりません。しかしいつか誰かが――もしかすると私が――意志と魔力が確かに結びついている事実が証明されたことを活かして、大いなる発展、あるいは貢献をなしてくれると信じています。基礎研究とは、そういうものですわ。」
学徒は、感慨を噛みしめるようにしばらく立ち竦んだ後、再び礼を言って着席した。
今度は別の学徒が手を挙げて、
「先生、確か今先生は、未発表のデータではあるが、とにかく、生物の極めて少ない寒冷地の山岳において、有意味なバックグラウンドの減少を確認したと仰ったと思いますが。」
「ええ、」
「では、そもそもその事実から、あなたの学説、つまり、微小な生物が微小な魔力を帯びている、ということが証明出来ませんか? だって、つまり、実際に微小生物が少ない土地において、バックグラウンドが減ったということは、微小生物が魔力をいくらか帯びていることになるではないですか。」
「これもまた、良い指摘ですわね。しかし残念ながら、そのような過酷な土地以外でも、バックグラウンドの大小というものは見られますのよ。まあ、土地によっては魔晶石が掘り出されるのだから、当然でしょうね。つまり、例え高山地で小さなバックグラウンドが得られても、『我々が住まうこの球体世界の核に、大きな魔力が存在しており、それがバックグラウンドをなしている可能性はないか。つまり、山に登るということはその核から離れることになるのだから、それによって、単純に魔場の距離自乗反比例性に従うバックグラウンドの減少が見られただけではないか。』などの指摘に答えることが出来ませんの。」
「成る程。しかしそれであれば、同じ高さを持つ別の土地で、あるいはもし可能であれば土地である必要すらありません、同じ高さ空中においてバックグラウンドを測定し、比較すれば良いのではないでしょうか。もしもその、〝中核魔力凝集説〟とでも呼べるようなものが事実であるならば、これらの箇所におけるバックグラウンド値は概ね一定になる筈です。もしそうでなければ、つまり、あなたの勝利ではないですか。」
「これは、随分と頼もしい御提案ですわね。」
少し起きた笑いが静まってから、魔女は、
「しかし、やはり、土壌の成分が場所によって違う以上、すなわち、この丸い星の中核からの遮蔽物の種類が地点によって異なる以上、そこからの影響を無視出来るかどうかは疑問ですわ。故に、あなたの方法で証明しきるのは難しいでしょうね。もっとも、状況証拠の一つにはなるかもしれないけれども。」
その後も幾つかの議論が――「鏡の問題については何か進展がありましたか?」「あの小僧、そんな余計な話まで口走ったの?」などの一笑を買って終わったやり取りも含め――活溌に飛び交った挙げ句に、
「さて、もう大丈夫かしら。では、今日の講義はここまでにしましょう。ああ、ただ、……ケイン・バーレット君!」
俺はぎょっとして、大きな音を出してしまった。当然講義室中からの注目が俺に集まり、その中で最も堂々俺を見つめる女、ウィッチ・ムーンが、
「あら、そんな控えめなところに居らして。まあ、とにかく、もしもお時間があれば、この後私のところに来てくれませんこと?」
俺は、この絵本から飛び出てきた妙齢の魔女が、あの板書に使った箒によって、本来空をめぐるましく翔けることを聞き及んでいたので、同乗によってその様な体験が出来るかとちょっとだけ期待したのだが、生憎、魔女の目的地、彼女の研究室はごく近所、最早学院と半ば建物続きになっているらしく、結果てこてこと歩きながらその場所に向かっている次第である。
俺の朧げな記憶によると、このウィッチ・ムーンは、その研究成果を認められて不老魔術を掛けられた英雄ではあったが、しかし、確か軍務官というわけではなかった筈だ。軍属の研究所で研究を行っているので一応軍人ということにはなっているが、寧ろ学者と呼ぶに相応しい人間なのである。しかし、ならば、その悪趣味なローブに認められた、あのバッジ、襟章は何事だというのか、
俺は我慢出来ずに、道中、
「済みません、一つお伺いしても宜しいでしょうか。」
「何かありまして?」
「ああいえ、自分の見間違えでなければ、あなたは、〝大将〟の筈ですよね。」
この問いかけによってウィッチがこちらを向いたので、その襟に付けられた徽章が再び露となり、果たしてそれは確かに、大将を示すデザインであった。
魔女はそれを指で撮みながら、
「あなた、これを見るまでは私の階級を存じませんでしたの?」
「お恥ずかしながら、ええっと、」
俺は、自分がお上りさんであることを正直に白状した。
「成る程、奇特というか、物珍しいというか、」
「自分がですか? それとも、次官殿がですか?」
「両方、ですわ。」
俺は、こんな仮装じみた恰好を平気でしている女だけには、そう言われなくなかったなと思いながら、
「とにかく、その、研究者であるあなたが、つまり、殆ど軍人でない筈のあなたが、何故ほぼ最高の階級を得ているのでしょうか、と、自分は疑問に思ったのです。」
「ああ、複雑な理由はありませんわ。その、名目上だけの軍人も、功績に応じて階級が上がることになっているんですの。勿論指揮権は与えられませんが、しかし、給与を始めとする待遇にはきっかり反映されますし、また、やはり励みになりますからね。つまり私は、あまりに頻りに学術的成果を上げた結果、その昇格の『上がり』に到達してしまったんですの。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は少し間を置いてから、
「もっとも、私は戦闘技術の修練も積んでおりますから、〝大将〟の名に恥ずかしくない強さも持っていると自負しておりますがね。指揮は、まあ、正直素人なので取れませんけれども。」
その、見た目の年齢にすら不釣り合いな、毒のない若々しい笑みに、しかし、〝沈黙の魔術師〟らしい風格を俺は何となく感じ取った。
その後もウィッチについていった俺は、ヲッテェ・ドォネの語っていた、バンウィアー・ムーンの正八面体の意匠が刻まれた看板を堂々と捧げている建屋に辿り着いた。宵闇と夜闇が半ばずつ入り交じった薄暗さの中魔晶燈の光を浴びることで、その凹凸が陰影と化し、大袈裟な輪郭を書き込まれたかのようになっている。
案の定、ウィッチ曰く、
「ここが私達の働く、軍立ケルトル魔法研究所ですわ。」
その古ぼけた扉をくぐり、曲がりくねった薄暗い廊下を、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女に従って突き進む。比類なき大物である筈のこの学者の居室は、やはり、何となく一番奥まったところに存在しているらしかった。
ようやく辿り着いた扉の前で、魔女は一度躊躇うように立ち止まり、
「さて、ケイン。私の仕事部屋に向かうには実験室を通過せねばなりませんの。危ないから、周りのものに触れないで頂戴。」
声でも返事をしつつ首肯すると、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は扉を開いて俺を誘った。成る程、その実験室なる空間には、金属で蜘蛛を象ったようなものや、絞首刑のごとく糸に吊るされた小球体群、爬虫類系の魔獣の鱗を模したような兇悪そうな板切れなど、如何わしい物品が木机の上で無数に並び、あるいは散らばり、そしてそれらをしかつめらしく、あるいは憤ろしげにいじくり回す、蒼白い顔の研究者たちがやはり居並んでいるのであった。一応上官である筈の、そして確かに研究の長である筈のウィッチ・ムーンが登場しても、彼らや彼女らはまったく無関心で、顔を上げすらもしない。
「ああ、無愛想な子たちだけれども、許してあげて下さるかしら。何せ、今、学会が近くて皆大童ですの。」
そこを通り抜けて辿り着いたウィッチ・ムーンの居室は、実験室を遥かに凌ぐ混沌の内に埋もれていた。説明もなしに与えられた未開人が使っているのかと思わされるくらいに、各本棚には、書物が縦横無尽、つまり縦横も前後も適当に捻じ込まれており、いつからそこにあるのか誰にも分からなそうな埃塗れのティーカップが、皿と共に床の隅に転がっている。俺は前の節で、ミネルヴァの机の上に並んでいた書類の山を〝耳のように〟と表現したが、ここの机といったら、まるで、書類を構成要素とする波濤に呑まれた町が、ひょっこり櫓だけ顔を覗かしているかのように、最低限ペンを走らせることが出来ると思しき面積のみが辛うじて木目を晒しているという有り様なのである。
俺が何も言っていないのに、この部屋の主は、
「まあ、一見乱雑のように感じてしまうかもしれませんけれども、しかし実際には、私はどこに何があるのかを詳らかに把握しておりますので、理にかなった排置なのですわ。」
と、勝手に言い訳を始めた。そして俺に畳み椅子を出してくれようとした挙げ句に、数分そこら中を引っ搔き回しての悪戦苦闘を始めたので、その言葉に対するもともとごく僅かであった信用を、俺は完全に無くしたのである。
結局実験室から貰ってきた椅子に座らされた俺は、
「ムーン大将殿、自分に、何の御用でしょうか。」
魔女はこれに答えず、
「ケイン、そんなに慇懃にならなくても結構ですわ。確かに私は一応上官ですけれども、しかし、この研究所において、役職はともかく階級なんて代物を気にする者なんて――食事の支払いの時を除けば――一人も居ません。単純に『ウィッチ』、気が引けるようでしたら『先生』くらいで構いませんのよ。」
俺はちょっと考えてから、
「申し訳ありませんが、次官殿に叱られますので。大将殿。」
魔女は肩を竦めて、
「真面目ですのね。それとも、忠実なのかしら? まあ、強要はしませんわ。」
「それで、結局何の御用なのでしょうか。」
「何の用って、あなた、わざわざ次官殿に手紙を書かせてまで受講しに来るという健気な若者が居ると聞いたから、興味を持ったまでではないの。誰かと語らう場合に、必ずしも用事が必要?」
少し間を置いてから、俺は、
「一般的には必ずしも必要でないでしょうが、しかし、今回ばかりは違うでしょう。きっと、大将殿は自分に具体的な用事があるに違いありません。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、ほんの少しだけ相好を引き締めてから、
「何故、そう言うのです?」
「あまりにも大袈裟でしょう。もしも本当に、今ムーン大将殿が述べたようなほんわかとした動機に起因する語らいであるならば、あの講義室で二三言話したり、あるいは、どこか飯屋にでも自分を連れ出せば良かったでしょうに。事実、そういう時刻なのですから。つまり、測定装置の開発が研究目的である以上、本来人には見せたくないであろう実験室の様をわざわざ晒してまで、自分をここに呼びつけたのですから、この招待には相応の動機の存在を期待させられます。また、」
俺はわざとらしく部屋中を見回してから、
「どうにも、あなたはこの部屋に普段人を一切入れていないように思えます。あなたの言う乱雑、というよりも、椅子が見つからなかったという客観的事実からです。故に、その習慣を裏切ってまで自分をここに、つまり密室に連れ込んだ以上、やはり重大な理由があるのではないかと、つい推測してしまうのですよ。」
魔女は、口惜しげに首の後ろのあたりを搔きながら、
「幾つかは的外れですが、幾つかは当たっておりますわ。白状しましょう、確かに私は、あなたと大切な話をしようと、ここに招いたのです。」
「して、その大切なお話とは。」
「そう焦らないで下さるかしら。まず、もっと気楽な、愉しげなところから始めたいんですの。まずケイン、あなた、なんで窮理魔導学の講義を受けようと思って? あなたの主は、この学問を嫌って、下手をすれば憎んですらいるのに。」
俺は「ミネルヴァのクソ野郎を打っ殺す為」と白状するわけにも行かなかったので、ちょっと考えてから、あの時と同じ方便を使った。
「寧ろ、ララヴァマイズ次官殿が窮理魔導学に明るくないからこそ、近しい存在になる自分がそれを学ぶことは非常に有意義であると思ったのです。いつか自分がそれなりに窮理魔導学を修めた暁には、次官殿を何らかの形でお助けすることが出来るかもしれません。」
「成る程、よい返事ですわね。」
「しかし、」俺は、ここからは素直になった。「大将殿、自分はあなたの言葉によって、新しい動機、というか原因に気付いた気がします。」
「はて、どういう意味でしょう。」
「あなたは、『ララヴァマイズ次官が窮理魔導学を憎んでいるかもしれない。』と言いました。しかし自分にはそのような感覚はなく、もっと漠然と嫌っているのみだと想像していたのです。ここの誤解が、つまり次官殿から窮理魔導学への嫌悪を自分は見縊っていて、その無知故に、畏れ多くも窮理魔導学を学びたいなどと、あの方へ申し出たのかもしれません。」
「あら、御存知なかったんでしたの。」
「そこでです、大将殿。宜しければお教え願えませんか。何故、氷刃ことミネルヴァ・ララヴァマイズは、窮理魔導学を憎みうるのでしょう。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、いかにも歯切れ悪く、
「それは、そうですね、つまり、……ああ、彼女、ララヴァマイズ次官殿の鍛練の仕方というか、スタイルの話が絡んでくるのです。」
「鍛練法、ですか?」
「勿論、魔術的な意味合いですがね。あなたも魔術の心得があるでしょうし、尋常な訓練方法というのは御存知ですわよね?」
「教本、あるいはそれに準ずる代物に書いてある、頭が痛くなるような古代語を只管復唱し、頭に叩き込んで、という段階から始まりますかね。」
「それは特に、新しい〝呪文〟の習得の場合でしょうけれどもね。魔術を行使する場合には、必ずしも呪文の形式に則らなくともよいというのは御存知かしら。」
俺は渋い顔をしてから、
「一応は。自分が実践したことはありませんが。」
「まあそうでしょうね、なかなか高度なものとされていますので。つまり、前詠唱や本詠唱によって決まり切った魔力の働き、及び成果が保証、ないし決定される〝呪文〟とは違う形式で、もっと流動的、融通無碍に、しかし危なっかしく魔力を運用し、その効果を得る手段がありますわね。私が先程見せたものでは、〝操箒術〟であり、あなたの主が得意とするものでは、〝造氷術〟なわけです。彼女や私は〝サイレント〟であるが故にその行使の直前や最中に古代語を呟き続けなくてもよいという強みがありますが、しかし、別にサイレントでなくともそのような真似は一応可能なわけです。」
「あまり見かけませんけれどもね。」
「その通りです。通常は非常に高度なものとされており、前詠唱の省略とサイレントの間に、伎倆の到達段階として、この技術の習得をおく指南書すらあるくらいですわね。つまり、半ばサイレント領域に足を踏み入れた、所謂一流の者でなければ手を出そうとしてはいけないものである、と。私個人としてはまあ、やや極論な気がしますわね。事実私も、サイレントとなるずっと前から、〝操箒術〟の鍛練を行っていたわけですし。」
「しかし、結局、やや高級な技術であること自体には異論ない、と。」
「その通りですわ。しかし、ララヴァマイズ次官殿は、これに肯んじませんの。
書なんてものは、最低限必要な呪文を習得したところで出来る限り早く放り投げ、その後は只管自分自身の力で魔術の鍛練をすべきだと彼女は主張するわけですわね。具体的にはとにかく反復訓練や瞑想に励め、と。」
「どうにも、無茶な話に思いますがね。例えば自分なんて、この歳になってもまだ通常の呪文しか扱えませんし、そもそも、多くの魔術師もそんなものでしょうに。」
「しかし、彼女は実際に、若い内から〝造氷術〟や〝氷喰い〟を完成させて、そして今となっては魔力量と出力で世界一、綜合的にも二番手か三番手の魔術師となっておりますゆえに、少なくとも次官殿にとっては、最適な訓練法だったと信じる強烈な根拠があるのでしょう。この様な、魔術書や呪文という形式に頼らずに魔術の習得や鍛練を進めていく立場を、〝自然派〟と人は呼びますわね。
また、彼女の主張は少々原理主義というか、苛烈なところがあるのです。つまり、魔術書にあまり頼らない、と言うだけに留まらず、寧ろ、積極的にそのような知識を排除していけとまで語るのですわ。そのような情報は、自らの魔力の運用を蝕む毒になる、と。すなわち、魔力を操る感覚や直感を大事にしろ、と言うわけですね。」
「それは、また、」
「で、この様な志向は、私やバンの切り拓いた窮理魔導学とは相反するわけです。お分かりですか?」
俺は少し時間を取ってから頷いた。
「成る程、魔力とは何か、魔術と何か、というものを明らかにしてしまおうと企んでいる学問は、次官殿の、余計なことを考えることは魔術を運用する上で害にすらなる、という主義からすると好ましくないわけですか。」
「その通りですわね。実際、窮理魔導学界においては、呪文が効力を発揮するメカニズムを解明しようとしている研究グループが、しかも多く存在しますし、また、呪文を人工することを狙っている方達も居りますわ。そのような、魔というものを解体するような試みは、きっと、帰依する奇跡を科学的に解明されてしまった清教徒のような、それくらいの腹立たしさを次官殿に与えるのでしょう。
故に、少なくともララヴァマイズ次官殿は、窮理魔導学を学ぼうとなさらないのですわ。また、もしかすると憎んですらいるかもしれないというのは、彼女が毒と信じるものを、未来ある若い魔術師たちに配っている存在として、窮理魔導学を見做し得るからですの。」
「成る程。」俺は耳の辺りを弄りながら、「ということは、ララヴァマイズ次官殿は、通常の呪文を殆ど習得していないのですかね。」
「恐らくそうでしょうね。自らの信じる〝造氷術〟とそれに纏る各種〝喰い〟、あとはほぼ、魔力の貯蔵量と出力を鍛えるのみ。その潔いスタイルに憧れる魔術師も多いと聞きますわ。……寧ろ、従者たるあなたがそうでないということに、驚きと呆れを禁じえないですけれども、」
「ああ、それは、ええっと、」
俺は適当な返事をしながら嬉しがっていた。あの氷刃が存外不器用な魔術師であると分かったからだ。つまり、アイツを殺すには、あの造氷術の攻略法のみを見出せばよいらしい、ということになったのだから。
そんな穏やかでない俺の裡の喜びなど露知らずに、絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は話を続けていた。
「と言うわけで、現在この世には、魔術の鍛練法習得法において、大きく分けて三つの主義が存在しています。一つは、特に名前はついていませんが、とにかく尋常な訓練方法、魔術書に書いてある呪文を叮嚀に一つ一つ憶えていき、人に教えるような段階に至ってから、初めて自らオリジナルの魔術を開発するというものですわね。
二つ目が、所謂〝自然派〟。書を捨て自らとの対話に勤しむことで、積極的に魔術の開発を行えという立場。
三つ目が、〝理論派〟あるいは〝理窟派〟と呼ばれるもの。これは窮理魔導学の導きを積極的に取り入れ、魔術を開発あるいは習得しようという主義。
しかし、これらの中で、まともに功績を挙げているのは、結局、名も無き方法、所謂普通の鍛練法のみですわね。残りの方法、自然派と理論派において大成した魔術師は、恐らくそれぞれ一人ずつしか居ませんわ。」
「自然派に置けるそれが、ララヴァマイズ次官殿、というわけですね。」
「然り。」
「では、〝理論派〟におけるそれは、誰なのでしょう。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、きょとんとした顔になった。
「え? そんなもの、バンのことに決まっているでしょうに。」
俺の困惑を認めたのか、魔女は、
「あなた、お上りさんにも程があるのではなくて? 折角あの比類なき英雄バンウィアーに近しい場所、物理的にもすぐ横の部屋で働いているという誉れを得ておきながら、あの男の事を知らないの?」
「恐ろしく頭が切れて、ひいては片手間に、あなたと学術的功績を重ねてきた、今では盲目である魔術師、とまでは聞き及んでいますが。」
「それは、ヲッテェが前回の講義で話したことでしょう?」
俺はばつが悪くなった。
「しかも、魔術師としての実力の情報が含まれていないではないの。全く、少しはこの国やあの軍について学んだらどうなのかしら。あなたは、自分の立場を理解しているのかしら。」
僅かに、しかし確かに眉を顰めて、つまり、これまで只管緩やかであった雰囲気に不機嫌を混入させ始めた魔女。ミネルヴァの不安がとうとう的中したわけだが、さて俺は、その感情を恢復させるには、学術的な話をさせればいいと思った。学者なんてそんなものだろうと高を括ったのだ。
「その、ドォネ先生が述べていたこととして、バンウィアー長官は類い稀なる才能、特に〝識眼〟なるものの才によって、大いなる学術的功績を挙げてきたと聞きましたが、これが、その〝理論派〟としての成功に関係するのでしょうか。」
ウィッチ大将は、その顔の上に薄く広がっていた毒を一瞬にして失い、只管明るい声で、
「ええっと、少し違いますわね。彼にはある特異体質が有って、それが、識眼の才と、理論派としての才を、独立に齎した、と言ったところでしょうか。それら二つは、原因を同一にするという関係性は有しますが、どちらが根でどちらが実り、という関係ではないですの。」
俺は、魔女が簡単に機嫌を直してくれたことに感謝しつつ、
「特異体質、とは何でしょう。」
「ああ、正確には、体質、と言うべきではないかもしれませんわね。つまり、肉体ではなく精神が特殊なのですから。」
「奇人ということですか? まさか違いますよね。」
くす、と笑ってから、
「ええ、違いますとも。我々窮理魔導学者が言及する〝精神〟とは、そういう性格やひととなりのことではなく、もっと具体的なもの、胸の辺りに蟠る魔力のことを指します。より正確に言えば、〝魂〟と呼ぶべきなのですが、少々大仰な嫌いが有る言葉ですので、厳密でない議論の時には、ついつい〝精神〟と呼んでしまいますわね。
つまり、あの講義において私の魂が〝闇〟の属性の魔力からなっているという話がありましたが、そのように、一人の人間ないし魔獣には、一つの魔力の蟠りが胸の辺りに存在するのです。これは死亡すると消滅し、また、散々あの講義室で述べたように、知性を持たない生物においては希薄、あるいは皆無なのです。例えば、そう、」
魔女は机の抽斗をひとつ摑み引くと、迷いなくその中から何やら怪しげな器具を引っ張り出した。成る程、あの、どこに何が有るかは把握しているという発言も、まるで出任せではなかったのだなと、感心している俺に、魔女は、その器具を思いきり突き刺してきたのである。
「ぶっ!」
間抜けた声を出してからよく見ると、その、俺の胸に押し当てられている、銅色の、丸い水棲昆虫のような形状をした代物は、どうやら、魔具のようであった。
十秒後くらいに魔女はそれを、自分の顔の前に持っていってから、何やらの値を読むようにして、
「ええっと、あなたの魂は〝火〟の属性を帯びているようね。とまあ、この様に、通常の人間は一種類の属性を胸の辺りに纏っていますわ。ところが、バンの場合ではそうではないのです。」
「複数の属性の魔力を蟠らせている、と言うことですか?」
「寧ろ逆ですわね。彼の魂は、既存の測定器によって魔荷が全く観測出来ないのです。」
「なんですかそりゃ、バンウィアー長官には、魂が存在しない、と?」
「そんなわけはないと思うのです。もしも〝魂〟という名称が不適切であるにせよ、事実として彼は素晴らしい魔術師であるのですから、そんな彼に魔術や理智の源である――と私を含む殆どの学者が考えている――魂が存在しないとは考えがたいのですわ。
だから私はこう考えています。バンウィアーは、既知の六属性以外の属性からなる魔力を、その魂として帯びているのだろう、と。」
俺はちょっと黙ってから、
「ドォネ先生は、この世にある属性は六つで決まりだ、のような論調で話していましたが、」
「あくまであれは、初学者向けの〝講義〟でしょう? つまり、今はまだ学ばなくてもいいややこしい事情は、出来る限り省略されるべき場だったわけです。例えば、子供に『動物』と『植物』という概念を教える時に、動かない動物である珊瑚や、どちらにも当てはまらない茸の話をして話を混ぜっ返すのは上策ではないですわよね? つまり、属性が、魔力の分類が必ずしも六つとは限らないのではという懸念は、一定以上窮理魔導学を学んだ者は必ず承知していますが、しかし、〝基礎〟と名のつく講義で言及すべきものではなかったのです。
私はあの場で、蟻の測定に耐える、高精度の測定機器の研究をしていると述べましたが、寧ろこの研究室において、それはオマケのプロジェクトなんですの。他の、より力を注いでいる仕事の内の一つが、この、六属性に当てはまらない、第七、第八の属性の存在を立証するという目論見なのですわ。これはやはり、今より優れている測定機器の開発を根柢とするところが有りますので、まあ、つまり我々はそういう仕事を主に行っているわけですわね。もっとも、蟻狙いの場合とは、全く異なった機構を考案することにはなりますが。」
取り敢えず納得した俺は、
「成る程。して、そのバンウィアー長官殿の魂が、既存の六属性に当てはまらないとすると、」
「〝既存〟ではなく、〝既知〟とすべきでしょうね。我々は自然を相手にしているのですから。」
「とかく、当てはまらないとすると、どうなるのですか? 例えば、何故理論派として成功することになるのでしょう。」
「ああ、ですから既知の六属性を魂として持たない、ということは恐らく、そういった魔力と自分の魂が余計な干渉をなすことがなくなるのです。つまり、絵に描いたような、理想的な魔力の操作が可能、と言うことですわね。と言うわけでバンは、ある窮理魔導学者――まあ彼自身ですが――が描いた絵空事通りに、魔荷を展開し、制禦することに、この世で唯一成功しているのです。
例えればそうですわね、夥しい数の岩を鱗のように纏う山の上から、良く弾む頑丈なボールを転がし落とす時、その軌道を予測することは事実上不可能です。本来は、力学による叮嚀な計算を行えば運動を完全に予測出来る筈ですが、しかし、その計算の難度や手間が現実的でないが為に、そのボールの行方は神のみぞ知る、ことになってしまいます。これが、力学の現実的限界なわけですわね。
ところは彼は、力学ではないですが、窮理魔導学における、そのような現実的限界を超えてしまったのです。その、繊細な魔荷操作において極めて有利となる、特殊な無色の魂を有する彼は、他の誰も紙の上でしか達成出来なかったことを、易々と実現してしまったのです。……お分かりですか?」
俺は首を傾げながらも、
「何となく、は。」
「それは良かったですわ。ああ、で、バンが識眼に長けるのもそういう〝無色性〟故ですの。」
「ああ、成る程。」
俺は、〝識眼〟という言葉の意味が分からなかったが、万が一にでもこの学者の機嫌を再び損ねるのを憚って、ここでは訊ねず、あとで自分で調べることにした。
「ところで、」
「何か訊きたいことが?」
「いえ、自分というよりは、あなたの問題ですよ、ムーン大将。結局、自分への用事は何だったのですか?」
魔女は一つ手を叩いてから、
「あら、有り難う。すっかり忘れていましたわ。まあ、全て白状してしまえば、ララヴァマイズ次官殿に、私達の実験への協力をお願いしたいと思っておりますの。」
「協力、ですか?」
「そうですわ。ああ、丁度講義でも述べましたわね。我々は、寒冷地において、しかも長時間の測定実験を企んでいるのです。何せ、蟻なり何なりが自動的に死亡するまでの期間の測定を、それも恐らく何度も何度も繰り返さなければなりませんので、とんでもない長期間に渡ってしまうことでしょう。」
俺は、先んじて言った。
「つまり、寒さに強いララヴァマイズ次官に測定を行ってもらえれば何と助かるだろうか、と言うことですか。」
「ええっと、ええ、まあ、その通りですわね。」
俺は呆れを隠しきれなかった。
「大将殿、あなたがどうやらバンウィアー長官殿と懇ろの仲であるというのは、その語り口から何となく想像出来ますが、しかしやはり同様に想像されることとして、次官殿とはそこまで親しくないのではないですか? いや、次官殿にそのような信条が有るのであれば、寧ろ啀み合うべき仲とも言えるでしょう。」
「確かに。しかし、まあ、ララヴァマイズ次官殿は、主張を違えたからといって人格まで否定するような、器の小さい方ではないですので、そこそこ親しくはしてもらっていますのよ。現に、彼女の銃を設計したのも私ですし。ただまあ、確かに、山に登って実験してきてくれ、とはあまりにも畏れ多くて言えませんわね。」
「しかも、窮理魔導学の為の実験、ですよね。次官殿が肯んじる材料が一つも無いではないですか。」
「しかし、だからといって諦めたりはしないのが、学者というものですわ。そこで、もしかするとあなたを手がかりにして、彼女の考え方を少しでも変えたり、あるいは、変わらないままにも、何とか協力をお願い出来る雰囲気を醸せないか、と、私は浅ましく思ったんですの。」
俺は溜め息をつきつつ、
「敬意を込めて、敢えて言わせて頂きます。あなたには呆れましたよ、大将殿。」
絵本から飛び出てきた妙齢の魔女は、また莞爾とした笑みを作って、
「なんとでも言うが良いですわ。求めるべき真理の為ならば、無様な真似でも演じて見せる、恥も外聞も捨ててしまうというのが、ウィッチ・ムーンという名前の学者ですから。」
「その姿勢には頭が下がりますが、しかし、少なくとも今日明後日、というのは絶対に不可能でしょうね。自分にはまだ、ララヴァマイズ次官殿の心を変える発言力も人間力もなく、また、あの方を騙くらかす知性もありません。」
「まあ、そんなに急いてはいませんよ。事実、殺人的な寒冷地でやりたい実験はいくらでもあるのです。仮に十年二十年掛かろうとも、次官殿の協力が得られるのであれば、とても嬉しいことなのです。
その為には、やはりあなたがしっかり窮理魔導学を修め、そして次官にその価値と意義を納得させることが最も速い道であるように思えましてね。と言うわけでケイン、わたしはこう言う為にあなたを呼びつけたのです。分からないことが有れば私からも教えます、是非頑張って、窮理魔導学をものにして下さい。」
俺は溜め息を、今度は呑み込んでから、
「有り難いお言葉です。しかし自分は、まだそこまで真剣に窮理魔導学を学ぶとは決めておりませんで、どうなるかは分かりません。」
「まあ、無理強いは出来ませんわね。あなたにはあなたの人生が有るでしょうし。」
そりゃそうだ。俺は、あの女を殺す方策を考えるので忙しいのだ。
「さて、長々と話してしまって悪かったですわね。折角ですし、何か私に訊いてみたいことでも有りますか、ケイン。」
俺は素直に、この好意へ甘えることにした。
「では一つ。次官殿の銃をあなたが設計したと今お聞きしましたが、あの銃は、どういうものなのですか? あれだけ強大な魔力を有する人間が、わざわざ銃などという信用度の低い武器を携行する理由が分からなかったのです。まあ、あなたの作品ということを聞きまして、魔具の一種なのかなと思いあたりましたが。」
作品、という恣意的な語句を俺が吐いた時に、目の前の魔女が、嬉しそうに目を大きくするのを俺は認めた。学者畑の人間である為だろうか、どうにも、この魔女は百に近い筈の年齢の割に扱いやすいようだ。
「ええ、ええ。そうですわ。あなた、あの銃に興味があって?」
「そりゃありますよ。あれを突きつけられ掛けましたからね。」
俺は、ミネルヴァとの初対面での顚末を話した。
「それはそれは。まあ、確かに私の銃では暴発の危険は有りませんが、それにしてもあの方は、目茶苦茶なことをなさりますのね。」
「では、やはり普通の銃ではないので、」
「ええ、あんな、火薬で鉛を飛ばすような野蛮な武器と一緒にされては困りますわ。あれは、〝魔銃ファング〟は、最早芸術品の域にある逸品ですのよ。」
野蛮じゃない武器ってなんだよ、と俺は思いながら、
「魔銃、ですか?」
「そうですわ。お察しの通りあれは魔具ですので、つまり、何らかの形の魔力が注がれることで一定の効果が得られる道具と言うことになりますが、あれはそこら辺の魔晶燈や保冷庫とは異なり、使用者が直接魔力を注ぐことで発動するものですの。」
俺は、一瞬考えてから、
「そりゃ、奇妙な話ですね。」
「何がです?」
「自分の認識では、自分で魔術を行使するのが面倒、あるいは不可能な者が、かわりに簡易的な呪法を行わせるものが魔具であると、つまり、魔晶石などの〝燃料〟を放り込むのだと思っていました。なので、結局使用者の手間と魔力を、そして恐らくは技術を要求する魔具とは、果たしてどのような意味があるのでしょうか。普通に呪文を唱えると比べて。」
魔女は、ますます嬉しそうに、
「素晴らしい指摘ですわね。そう、あの〝魔銃ファング〟は光線を発射する魔具ですが、確かにあなたの言う通り、普通ならば光線系の呪文を習得すれば良いのです。ところが、使用者が他でもないミネルヴァ・ララヴァマイズであるということが問題なのですよ。」
俺は頷いてから、
「ああ、成る程。〝自然派〟としての立場からはその手の呪文を習得したくはないが、しかし、その御利益には預かりたいという我が儘なのですか。」
「その通りですわ。それによって――本人曰く――ララヴァマイズ次官殿は不純物を得ることを回避しつつ、すなわち〝造氷術〟の精度や威力を保ちながら、光線系呪文でないと難儀する戦局を突破する力を得た、というわけですわね。まあ、魔術習得において本当に純度という要素が存在するのかは、私としては甚だ疑問なのですけれども。」
肩を竦める魔女。とにかく、俺にとっては有り難くない話であった。折角造氷術を攻略すれば討てると思っていた相手に、隠し球が有ったからだ。とにかく、その魔銃とやらについても情報を集めなければなるまいが、それについて世界一知っている筈の人物は、幸い目の間に、しかも非常に機嫌よく座っているのであった。
「結局、その魔銃ファングというのは、どのような代物なのですか?」
「素晴らしいですわよ。あのミネルヴァ・ララヴァマイズの手にかかれば、兵舎の一つや二つくらい優に、もしかすれば山すらも吹き飛ぶでしょうね。」
俺は寒気を覚えたが、まあ、最も出力の大きい魔術師が操るのである以上、最早威力の小ささに関しては期待すまいと考え直し、
「具体的に、どのようなものなのですか。例えば、そこらへんの、多少魔術に心得の有る不届き者がそれを盗んだとして、扱えてしまうものなのでしょうか。」
「ああ、それは無理ですわね、」
チッ
「ケイン、これは秘密なので誰にも言ってはいけませんよ、」
お、なんだなんだ?
「あの銃は、ララヴァマイズ次官殿の造氷術がないと、まともに威力が出ないのです。」
「へ? なんですかそりゃ、」
「そもそも、魔力を込めただけで致死的な光線が撃てる魔具が有れば、もっと配備なり販売なりした方がよいと思いませんか? 氷刃のような事情がない一般の魔術師からしても、やはり、新たな魔術の習得は大変なのですから。しかし、今の我々の技術では、あの方にしか使いこなせない光線魔銃しか作れないのですよ。
そもそもの問題は、その、魔力を光に変換するクィット・ムーン機構に有ります。これも私が共同研究者――というか弟子――とともに開発したものですが、つまり魔力を注ぐと、針の先端部分から光となって放出されるのですよ。」
「それの何が問題なのですか? きっと、光の威力――という表現が物理的に正しいかは知りませんけれども、とにかくそういうもの――が注いだ魔力量に比例するのでしょうから、そのナントカ・ムーン機構を銃の発射口部に取り付けて終わりではないですか。」
「ことはそう単純ではありませんの。つまり、注いだ魔力や放出される光には、特に意志というものが存在しませんので、つまり、光が好き勝手な方角へ飛んでいってしまうのですよ。蝋燭や恒星のごとく、全方位へ散らばるのです。
こうなるともう大変でして、まともな威力を得る為に大量の魔力を注がねばなりませんし、もしもそれが叶っても、術者や銃身が持ちませんわ。」
「ああ、成る程。すると、上手いこと光の方向を制禦してやらないといけないわけですね。まっすぐ前方だけへ飛んで行くように。」
「そうですわ。さてケイン、我々人間が光の進行方向を縛めるのに用いてきた道具とは、一体なんでしょうかね。」
俺はあまり迷わなかった。
「そりゃ、鏡くらいでしょうが、」
「素晴らしい。その通りですわ。抛物線というものが御座いましてね、風の弱い場所において放り投げたものが必ず描く図形のことですが、これの〝焦点〟と呼ばれる場所から放たれた光は、必ず、まっすぐ前方へ跳ね返されることになっているのですよ。」
俺はその理窟の理解を抛棄した。
「よくわかりませんが、とにかく、特殊な形状の鏡を用いることで、上手いこと前方へのみ光線が飛んで行くわけですね。」
「その通りですわ。ただ、普通の水銀や銀を用いて作成した鏡では、鏡としての出来が充分でないとか、魔銃の威力に耐えられずにすぐ劣化したり割れたりする、という問題がありますの。
そこで、私は目を付けたのですわ。あの方が持つ、世界で最も美しい鏡面を、しかもいとも容易く形成することが出来る技術に。」
俺はちょっと黙ってから、
「まさか、〝造氷術〟で、鏡を作るのでしょうか。」
「ええ。詳しい原理は私にも分かりませんが、彼女は非常に反射率の高い氷を形成することが出来るそうです。他にも、妙に重い氷、軽い氷、堅い氷、脆い氷、硬い氷、柔らかい氷、溶け難い氷、溶け易い氷など、様々な性質を有する氷を彼女は形成出来ますが、私はその中で彼女自身が〝鏡氷〟と呼び、実際の戦闘においても光線系呪文をいなす目的で運用されたそれに目を付けましたの。つまり、ララヴァマイズ次官殿には、発射前に、その銃のクィット・ムーン機構を包む抛物面上の金具の上に鏡氷を張って頂き、そのあとで好きなだけの魔力をクィット・ムーン機構に注いで頂くことになっておりますわ。この様な工夫の結果、〝氷刃〟の尋常でない出力を遺憾なく発揮しつつ、しかも完全な耐久性を持つ魔銃の開発に成功しましたの。実際、兵器系の魔具はどうしてもしばしば調子がおかしくなってしまうものですが、心臓部の部品、鏡が毎回新造されるこの〝ファング〟においては、今まで一度も故障しておりませんのよ。ああ。それでも定期的にメンテナンスをさせて頂いておりますけれどもね。」
成る程、確かに、俺が奪ったところで全く使い物になる気がしないな。となると、やはり頭痛のタネが一つ増えただけか。しかし、まあ、対処の仕方はあるようだな。
ウィッチは、感慨深げに、
「しかし、氷と作るという魔術において、そのような小器用な真似、性質の異なるものの作りわけが可能であるとは、とんでもない話ですわね。馬鹿の一念といいますか、とにかく、〝造氷術〟一筋であることは、しっかりと活かされているわけですわね。なんと言いますか、常人には出来ませんわ、生涯を懸けた、そんな賭け。」
唯一の質問が兵器に関する話だと追々(おいおい)怪しまれるかと思い、その後純粋に窮理魔導学に関することを幾つか魔女と遣り取りした俺は、ようやく、最早真っ暗となった屋外に出ることが出来た。真っ暗といっても、魔晶燈による〝街燈〟がそこら中ににょきにょきと生えており、その為か人通りも多く、道に迷う心配や妙な奴に絡まれる心配は全くなさそうだった。俺は急いで自分の部屋へ戻り始めた、今日得たあまりに多くの知識を、きちんと纏めて、そして書き留めておきたかったからだ。そうやって軽く駈ける俺は、これまでの生涯で一番真剣に勉強している瞬間が、こうして死に向かっている期間、すなわち氷刃と差し違える為の準備期間に訪れていることに、運命の皮肉を感じるのであった。
その忙しない帰路、夥しい街燈の狭間から見上げた星空は、果たして、故郷の夜空と比べるといかにも惚けていた。それをしばし見つめ、ふと気が付き、俺はつい足を止めて真剣な凝視を始めてしまう。やはり、気のせいではない、惚けのせいでもない。見知った、毎年それを眺めながら齢を重ねてきた、あの数々の星座が一つもないのだ。そこで俺は気が付いた、ああ、異邦の地で命を散らすとはこういうことかと、知らない星、他人の星に見下ろされて死んでいくことなのだな、と。