3 女神と刺客
3 女神と刺客
さて、ここまで当然のように、俺が殺したがっている女の名前を「ミネルヴァ」と表現してきたが、実は、下の名の「ララヴァマイズ」に相応しい、もっと奇怪な名前をあの女は有しているのであった。しかしそれを文字に起こすとあまり恰好がつかないし、また、その名は、この世界に存在する、知名度ばかりが高くて信仰対象としては忘れられつつあるとある神話に登場する、知を司る女神から取られているものなのだ。そこで、氷刃の名は、響きよりも意味を重視して「ミネルヴァ・ララヴァマイズ」と呼んでいくことになっている。下の名前の「ララヴァマイズ」は俺からしても意味不明だ。学者とかなら由来を知っているかもしれないが、別に興味はない。
さて俺は今、そんな女神の名を持つ魔術師の下に、何故か一人で会いに行くところである。何でお前が一緒に来ないんだよ、本気の推挙にしてもおかしいだろ、とヴェロに文句をつけたのだが、俺へのスパルタ教育の為に表の本業を休みまくったあの清潔過ぎる編輯者は、今日辺り仕事に戻らないと大変な目に遭うらしいのだ。「僕が馘首になるわけにもいかないだろう? 折角の、女神様に通じる極上のパイプを失うことになるのだから。」と言われては、俺としても文句のつけようが無く、仕方なしにここ、この都市のきっかり中央に据えられた軍の本営地の前に一人で来ている次第である。
俺の故郷や、あるいはこれまで生活してきた幾つかの町は皆、平屋ばかりの、そしてそれすらも疎らな、長閑な場所で、この都市の、二階建てからが当たり前という雰囲気で、建屋が道以外の全面積を埋め尽くさんとしている人口稠密具合には、流石の都会都市だなと感心したものだ。しかし、今俺の前に聳え立っている、この国の軍、つまり世界最強の軍の本拠地は、そんな暢気な感想を吹き飛ばすほどに、あまりにも巨大であった。大荷物を抱えた商人らしき男が俺を明らかに邪慳にしながら通り過ぎていくのも意に介さず、道の中に立ち竦む俺はそのまま、その本営地の壁に穿たれた窓の数を縦に、心の中で指折り数えた。七階建てか? いや、手前の建屋はそうかもしれないが、よく見なくとも、奥まったところで、より背丈の高い建造物が懸命に天を目指して伸び竦んでいる。そしてそれぞれの建物は、基本煉瓦なり石材なりからなっているようなのだが、その構成要素と同じように、直方体として充分な奥行きや広がりまでも持っており、決して、燈台の様な、高さばかりという頼りない風体など示していないのだ。人間が、これほど巨大な建造物を打ち建てることが可能であるとは、全く知らなかった。一体、どれだけの山を崩せば、これほど堆い石や煉瓦を賄うことが出来るのであろうか。そして、どれほど夥しい人力が、その組み上げに用いられたのであろうか。あるいは、この俺の感心が虚しいもので、すなわち調達も建造も案外容易であったのならば、その信じられぬ効率を齎す創意は、どれだけの叡智に支えられているのであろうか。
充分に打ちのめされた俺は、意を決し、全体の巨大さに相応しい迫力を漂わせている、開放されたままの大扉をくぐった。一応番兵らしき者は居たものの、特に俺を呼び止めるでもないし、そもそも、好き勝手な恰好をした連中が好き勝手に出入りしているようである。軍属以外の者、例えばさっきの商人みたいな奴らも出入りする以上、いちいち見咎めていられないということなのだろうか。幾らか進み、出入りの人波に揉まれる心配のない場所まで辿り着いた俺は、ふと、巨大な感慨を覚えて足を止めた。複数の建屋からなる以上断言は出来ないが、しかし、それなりの確率で、俺は今あの怨敵と同じ屋内に居るのだ。もうすぐ、あの女を殺すことが出来る。例えここから数ヶ月数年かかったとしても、これまでの俺の辛酸を嘗めるような日々からすれば、そんな期間は須臾の如く虚しいものだ。俺は意気揚々と、再び足を進めた。
受付に相当する窓口で、用件伝えつつミネルヴァの例の書簡を見せると、話が通じていたのか、すぐに、俺は氷刃の居室に案内されることになった。流石に出入り自由なのは入り口辺りのみだったようで、途中何ヶ所かにおいて、さっきのよりもずっとシャキッとした番兵にいちいち止められる。その後も、屈強な背中を持つ、恐らく兵士でもあるのであろう事務員の背中を追いかけつつ複雑に階段や廊下を進むと、ようやくその男が足を止めてくれた。
男が徐ら、こちらに振り返って曰く、
「この扉の先が、ララヴァマイズ将軍殿の執務室だ。くれぐれも、失礼の無いようにな。」
それだけ言い残すと、兵士は去っていき、人の行き交いの全く見られないこの七階の廊下で俺は一人きりとなった。緊張する。あのボスの汚い扉を叩くのとはわけが違う。俺は今、敵の本丸の中に居り、そして、この世で最も頑強な肉体と、最も豊かな魔力量を誇る女の、目と鼻の先に居るのだ。勿論、既に俺の本性が露見していることは有り得ない、しかし、やはり不安というものは、存在しない筈の隙間からも漏れ込んで心を脅かしに来るものらしい。そういう意味では、不安の本質は、光や臭いよりも音に近いのかもしれない。
金無垢のプレートに、「軍務次官、ミネルヴァ・ララヴァマイズ」に相当する文字が彫り込まれている、ぴかぴかに磨かれた赤い扉。俺は一度大きく息を吸ってから、ヴェロに習った作法に従ってそれを四度叩こうと思い、こぶしを振り上げた。しかし、その瞬間に、がちゃり、と音がしたのだ。俺が訝り始めるころには、既にその扉がこちらに開き掛かっており、俺は急いで二三歩飛び退いた。
果たして開かれた扉から、小柄な、俺とボスのを足したくらいの年齢と思しき老婆が、ひょっこりと体を半分出して来る。いかにも頼りない体つき、幾らあの銅像が七十年近く前に建立されたとしても、これはミネルヴァではあるまい。すると、
「ララヴァマイズ将軍の、秘書官の方でしょうか。」
俺のこの先制攻撃に、驚いた顔をしていたその老婆は少し表情を緩めつつ、
「ええ、そうですが、軍務次官殿に何か御用ですか。」
「面会というか、面接というか、約束をしておりまして、」
老婆の相好が、ぱっと崩れた。
「ああ、ああ、ええ、聞いておりますよ。では、あなたがケイン君ですね。」
まるで孫息子にでも会ったかのような親しみの雰囲気に、逆にぎょっとさせられつつ、俺は、
「はい。本日は、ミネルヴァ将軍殿に、」
「ええ、ええ、聞いておりますとも。ほら、入ってきなさいな。」
老婆の手が、蛇の如くにゅっと伸びてきて俺の右腕を摑んだ。まさか振りほどくわけにも行かず、俺は引っ張られるがままに、女神のおわす部屋の中に侵入することになったのである。
心の準備もクソも無くなった俺が、踏鞴を踏んだ結果の前傾姿勢から恢復すると、その決して広くない室内の様が俺の目に露となり、そして、その女はほぼ正面に居た。
まるで一つの要塞のような風格を漂わすその巨大な机の上に、堆い書類の山が二つ、耳のように、すなわち離れつつも対称的に聳えており、その狭間に向けて顔を落とし込んで書類を覗き込んでいるその女、ミネルヴァ・ララヴァマイズは、すぐに、その青い瞳を俺の方に向けてきた。俺がつい身をびくりとさせると、まるでこの顫えが合図であったかのように、ミネルヴァが書類を放って立ち上がる。大きな机の向こうから、回って、こちらに寄る間も氷刃は一言も発さず、それにより俺はその姿をしっかりと眺めることが出来た。この、女神の名を持つ魔術師の第一印象は、銅像から全く窺えなかったこととして、青い。青いのだ。身に纏う、肘までと膝上までを覆うワンピース服。背に負う、膕を撫でんとする丈のマント。顔に居並ぶ、丸い瞳。両足に従う、色気の無い靴。絹のように白いミネルヴァの肌に纏るそれら全てが、多少の濃淡の違いこそあれど概ね等しい、淡い水色、秘色色に染め上げられていた。しかし、俺を驚かせたのは、すなわち一番奇特であったのは、その髪だ。そう、その、細やかなウェーヴが掛かりつつ、顎と肩の間の高さで毛先を揺らしている髪までもが、どうやら一本残らず青いのである。勘違いしないで欲しいが、こんな髪色はこの世界の感覚でも異常だ。少なくとも、俺はこれまで見た事がない。ハーゼルモーゼン人故の色なのか? しかし、幾ら何でも、
俺の前に到達したミネルヴァは、これは銅像通りのこととして、昆虫魔獣のように細い体つきをしていた。そしてこれも銅像通りではあるのだが、しかし意外であったこととして、その顔は、まるで不誠実な画家がそこに描いたかのように、一切の感情を露とせず、まさに、銅像で見たままの顔付きなのだ。そう、公園で固まっていた通りに、細い目と小振りの鼻口が絶妙のバランスをなしつつ、小さい顎がもたらす可憐な輪郭の上に鎮座しており、瑕、つまり染みや皺の一つもなく、完全に美しかった。憎たらしいこととして。
ミネルヴァは俺と対峙してもしばらく黙り込んだままで、こちらが焦れ始めた頃、その若々しい脣がようやく蠢き、
「ヴェロは、一緒でないのですか?」
言葉の末尾が霞となってその場にしばし居残るような、緩やかな声が、この世で最も屈強で最も老練である筈の、しかし――当然なのだがやはり奇妙なこととして――どう見ても十八の小娘にしか見えない、ミネルヴァの口から出てきた。
俺は、素直に答えられる問いかけに感謝しながら、
「自分からも失礼ではないかとヴェロには言ったのですが、しかし、どうしても外せない仕事が巡ってきたそうでして、」
ミネルヴァはちょっと黙ってから、口だけを動かして、
「自分で言うのもなんですが、私は、この国の要人であり、英雄視されている筈です。そんな私との会合を蹴れとまで言われるとは、さては、余程日頃の仕事をいい加減にしていたのでしょうね。まあ、彼らしいといえば、彼らしい顚末ですが。」
俺は、ヴェロが仕事をサボりまくっていた理由に話が及ぶのを、別にこれ自体は後ろめたくない筈だが、しかし一応憚って、
「申し遅れました。ケイン・バーレットと申します。あなた、ララヴァマイズ将軍殿の補佐官として働かせて頂きたく、父の友人、ヴェロ・ポックの紹介によって、参上しました。」
ミネルヴァの青い目が、まるで見定めるかのように俺の頭の天辺から爪先までを何往復かして、その後、その下の小さい口が開かれて曰く、
「確か、二十三歳、でしたかね。その補佐官ですが、長く勤めて欲しいので、出来る限り若い者を望んでいます。よって贅沢言えばもう三四歳くらい年の浅い方が好ましかったですが、まあ、許容される範囲でしょう。きちんと、身や心も若々しいようですしね。
つまり、あなたの身なりや年齢は私を満足させました。では、それ以外を測らせて頂きます。」
俺はちょっとした不安を覚えつつ言った。
「それ以外、と言いますと?」
「その前に、あなたや私の状況を説明しましょう。先程も言いましたが、私は、この国の〝英雄〟であるのです。これは、なにも自惚れや不遜で言っているのではありません。私の最も重要な仕事は、この国の国威を維持する為、ひいてはそれによって世の平和を維持する為に、英雄視されることなのですから。」
俺はその、寧ろ不穏を齎している根源が吐いた平和論に対して反吐が出そうになったが、しかし、何とか表情を縛め続けることが出来た。その結果、ミネルヴァは平然と、相変わらず口以外を動かさないままに続きを述べ、
「つまり、軍人として、魔術師として、あるいはちょっとした物書きとして名高い私の近くで働きたいと願う者は、この国に、あるいはこの世に、数知れず存在しています。その中には、素晴らしく優秀な人材も多く居ることでしょう。しかし、数も知れぬ以上、その選抜は困難を極めます。この困難に由来する億劫さにうんざりしていた私は、そこで今回、ヴェロが吐きだした上等ではないジョークに、しかし乗り、彼の推挙する青年とやらをちょっと試してみるのも面白いかな、と思ったのです。
すなわち、私の補佐官というポストは、正直全く重要なポストでないにも拘わらず、しかし、多くの人間の憧れの的となっているのです。あなたは、彼ら全員に敵わなければなりません。つまり私に、『ああ、これ以上の若者は見つかるまい。』と確信させねばならないのです。宜しいですか?」
俺は、予想だにしていなかった困難を突きつけられたことに、どぎまぎしながらも、出来る限り快活に応えた。
「はい。」
女神の名を持つ魔術師は、尚も表情を全く作らぬままに、
「さて、既に述べましたが、私の補佐官というのは、本来そこまでの地位ではありません。将校の副官というものは、最終的な意思決定以外の大部分を担うほどの重責を伴う役職であったりしますが、少なくとも私の場合は全くそうではないのです。単純な雑用、たとえば日程管理や予定管理、重要でない書類を部署に持っていくあるいは逆に貰ってくる、あとは雑品の購入ですとか、とにかく、誰がやっても構いやしないようなつまらない仕事を、英雄としての活動や鍛練で忙しい私の代わりに行う、というだけの職です。ああ、だからこそ、この軍の所属でも何でもない、つまり軍事を殆ど何も知らないあなたを採用し得る可能性があるわけですが。」
俺はここで一つ訝しんだ。
「将軍殿、一つお訊きしても宜しいでしょうか。」
氷刃は、初めて見せた感情の発露として、両の眉をほんの少し持ち上げてから、
「なんでしょうか。」
「あなたがそう言うのであれば、つまり本当に誰がやっても構わないのであれば、何故あなたは懸命に最適な人材を求めるのでしょうか。適当に、兵卒から一人拾い上げれば済む話でしょうに。」
ミネルヴァは少し間を置いてから、
「ケイン、あなたは私を少し満足させましたよ。」
俺は困惑を隠し切らずに、
「と、言いますと、」
「あなたの言う通り、この仕事をこなすこと自体は殆ど誰に任せても良いのです。ということはしかし、概ねどんな人間でも採用し得るということですから、それこそ、私にとって最も望ましい人間を使うべきでしょう。
つまり、この先長年、毎日顔を合わせる以上は、気持ちの良い者、あるいは見所があって将来が楽しみな者を働かせたいと私は思うのです。そうでなければ、この国で過ごしたこともない、軍務の経験もない、特に学もないとヴェロから申し付けられていたあなたなど、何故わざわざ試す気になるでしょうか。
と言うわけで、先程のあなたの指摘は、私に好印象を与えました。具体的にどこかの学院や学塾で学んだことはなくとも、それなりに鋭い知性を有するという印象を、です。」
俺は少し気が楽になった。
「成る程。つまり、漠然と、この若者は好ましいという印象をあなたに与えられれば良いのですね。」
「その通りです。さて、あなたに軍学の知識がないことは承知していますし、しかし、頭の回転自体は悪くないことが分かりました。さて、では次に、あなたの得意分野について試させて頂きましょう。」
女神の名を持つ魔術師がそう言い終わるや否や、何かが軋むような音が、幾重にも重なって響いてきた。その源は視覚によって知らされ、つまり、ミネルヴァの背後から、巨大な氷が現出し、立ち上ったのである。俺が目を見開く内に、その氷は、文字通り空気を凍てつかすかのような音を鳴らしながら、みるみる成長していき、また新たな氷も出現しだし、ミネルヴァの背後を覆いきる絶壁と化した。一枚板というよりは、無数に重なる氷柱が、ある統率された意志の許に身を寄せあい、主を守る壁を背後になしたかのようである。
これは、〝氷刃〟の二つ名を持つ魔術師、ミネルヴァ・ララヴァマイズの最も得意とし、そしてボスから話の委細を聞く前の俺を絶望させた原因である、〝造氷術〟の披露であった。術者が直接、あるいは間接的に触れる地点に氷を形成させるというこの魔術によって、ミネルヴァは今の地位に辿りつくということ、すなわち、やはり永年老いぬままに鍛練を続けていた前代の英雄を武勇で打ち負かしてその座を奪うということを、しかも当時十八の若さで仲間とともに行いえたのだ。この魔術の威力や恐ろしさはひとまず脇に置いておくとして、一番俺を戦かせたのは、その氷の出現に前兆が全くなかったことである。
つまり、俺のような一般の魔術師では、たとえば煙草に火を点けるくらいの簡単な呪文でも、〝前詠唱〟と呼ばれる、殆どの者は意味を解さない古代語からなる文句を長々と呟き、その後〝本詠唱〟と呼ばれる、短い呪文の名をしっかりと宣言することで、ようやく魔力が何らかの形で具現化し、その効用を示すことになっているのだ。しかし、一定以上の実力を備えた者であれば〝前詠唱〟を省略することが出来るとされており、これを達成した者は、省略せぬ場合に比べて些か威力や精度が劣るにせよ、手早い呪文の展開が可能となって、つまり戦闘などでは著しく有利となる。だが、このミネルヴァの行ったことはそれどころではないのだ。何せ、氷の展開中、口を全く動かさなかったのだから。前詠唱のみでなく、〝本詠唱〟までも破棄するという所業は、一般の魔術師では決して出来ない真似とされており、それを可能とする一握りの者、世界に十人居るであろうかという彼らは、畏敬の念とともに〝沈黙の魔術師〟、あるいは単に〝サイレント〟と呼ばれている。勿論、このミネルヴァがサイレントであるということは、頭では事前に分かっていたのだが、しかし、いざ目の前でその伎倆を披露されると、やはり信じられなかったのだ。力自慢の大会に来たら他の男が山を動かして見せた、それくらいの絶対的な実力差を見せつけられた気分に俺は陥った。
とにかく、薄青透明の氷の前に立ちはだかる恰好となったミネルヴァは、その左の掌をこちらに突きつけつつ、
「ケイン、あなたは火球呪文が得意だそうですが、」
「はい、第五段階まで修めています。」
ミネルヴァは感心してくれたのか、表情は作らないものの、少し間をおいてから、
「その年で、ですか。素晴らしいですね。とにかく、大袈裟なもののは必要でないですから、第一段階の"エンザ"で充分です。この私の手を目掛けて、全力のエンザを放ってみて下さい。」
ミネルヴァの操る魔術について簡単な講釈を清潔過ぎる編輯者から受けていた俺は、目の前の英雄様の意図を何となく察し、集中を始めた。習得し切っていない呪文の詠唱に挑む時と同じように気を真剣に鎮め、湖面のように静かな精神状態を得た後、俺は〝前詠唱〟を行い始める。児戯に等しいレヴェルの呪文だが、しかし、これ以上もなく叮嚀に、古代語を口の中で紡いでいった。そして、氷刃の掌に向けて伸ばしていた指の先が、耐え切れぬほどの熱くなるのを感じてから、ありったけの声量で、
「"エンザ"!」
その瞬間、拳のように大きな火球が、俺の裡から絞り出たかのように指先に出現し、そしてその勢いを活かすまま、ミネルヴァの方へと翔けて行った。氷刃の、鶏卵のように白かった顔が、相変わらず一切の表情を帯びぬままに、しかしエンザの火球によって赤々と照らされて、まるで夕日を浴びているようになる。その光景は、しかし一瞬にして潰え、つまり、速やかにミネルヴァの左手に到達した火球は、その短い生涯に全く遺恨を残さず、何ら痕跡なしに消滅したのである。そう、氷刃の白い左手を焦がすことは愚か、暖めることすらも出来なかった筈だ。
氷刃の最も得意とする魔術、〝造氷術〟。その弱点は明白で、熱や炎による呪文によって、あれほどの実力があれば簡単に潰されはしないだろうが、しかし、大いに乱され得るということである。だが、清潔過ぎる編輯者曰く、ミネルヴァは長くに渡る試行と鍛練の結果、それをついに克服してしまったらしい。直接あるいは間接的に触れる炎や高熱を吸収し、自身の魔力に変換してしまう〝火喰い〟、それを彼女が開発して以降、女神の名を持つ魔術師の操る氷は、主の許可なしに溶けることが叶わなくなった。つまり、氷に浴びせかけられる熱や炎も、氷を介して間接的に触れている、ということになるらしいのだ。ミネルヴァは寧ろ、そのような高熱に励まされてより豊かな魔術の展開が可能となってしまう、という始末である。
その旺盛な食慾によって俺のエンザを呑み込んだ女神の名を持つ魔術師は、何かを確かめるように、それに用いた左手を眺めつつ、そのまま閉じたり開いたりして見せた。その後、再び音が鳴り始める。大きさよりも質の問題でけたたましく聞こえる断末魔を残しつつ、ミネルヴァの背負う氷が身を縮め始めたのだ。そうして、まるで孔雀鳥が羽を畳んで下ろすかのように、その氷の絶壁は見る見る迫力を失っていき、主の足許後方辺りで凋み切り、消滅した。この撤収作業は、〝火喰い〟を開発する許になった魔術、〝氷喰い〟のお披露目であったようである。今でこそ世界で最も豊かな魔力の貯蔵量を誇るミネルヴァであるが、かつて若い頃は、寧ろその出力に魔力量が追いつかない、典型的な息切れ型の魔術師であったという。幾ら鍛練を重ねても捗々しくならない自らの魔力量の成長に業を煮やした彼女は、その忸怩たる思いを糧として、まず、戦闘相手から魔力を奪う呪文、"ジャグゼス"を習得した。そしてそれに磨きをかける過程で魔力を自分の裡に取り込むコツを理解したらしく、あるいはもともとその手の才能があったらしく、"ジャグゼス"をさっさと第七段階まで修め切った彼女は、魔力でないものを魔力と化して取り込んでしまう術を開発し始めたのだ、まずは、一度展開した氷を回収するという切り口から出発して。その結実のそれぞれが、容易に成立した〝氷喰い〟、それなりの修練を要求した〝水喰い〟、そして半世紀に渡る執念の結果としての〝火喰い〟、なのだそうだ。つまり、自らの魔力貯蔵量の乏しさを発条にして、魔力運用の高効率を得ることに成功したミネルヴァが、結局今となっては寧ろ桁外れの魔力量を有する魔術師となっているわけで、最早、鬼に金棒である。
「成る程、」
そう呟かれたのをきっかけに、いつの間にか少々伏してしまっていた視線を上げ直すと、ミネルヴァの右手に蝶が留まっていた。氷の彫刻、と言ったものだろうか。勿論正確には彫り出してなどなく、女神の名を持つ魔術師がそもそもその形に成形したのだろうが、とにかく、精緻に彫り込まれたかのような、紋様までも美事に造形された氷蝶がその指先に留まっており、右手の庇となって、つまり、皮膚の上で情けなく散らばるのみであった筈の、天井の魔晶燈からの光を全て代わりに受け止め、煌々輝いているのである。
ミネルヴァは、指を曲げてその蝶を傾がせながら、
「分かりますか? この大きさの氷が、あなたが"エンザ"に投じた魔力の量、すなわち出力です。正確には、あなたから受け取った分の魔力をそのまま用いて私が氷を形成するとこの程度になる、という意味ですが。」
俺は頷いてから、
「その理窟は何となく分かります、将軍殿。しかし、その尺度は世界であなたしか理解しえないものでは?」
ミネルヴァは、その右手を頭の辺りへ持っていき、青い髪へ蝶を移らせてから、
「その通りですね。しかし安心して下さい。充分過ぎるほどですよ。"エンザ"に、これだけの威力を齎すことが出来るとは、将来が楽しみです。」
俺は少し緊張を緩めた。
「では、将軍殿。自分は、あなたを満足させられたということでしょうか、」
ミネルヴァは少し間を取って、そして、両手を後ろで組み、こちらに数歩歩み寄りつつ、
「そうですね、あとは、」
その後に起こったことは、あまりにもめぐるましかった。とにかくその結果、今現在の状況を申し上げれば、俺が、転んで手摺りに縋るかのように、ミネルヴァの細い腕へしがみついているのである。顚倒のすえに摑んだ手摺りと等しいのは、俺が身を屈めつつ全力の力を込めていることだが、それと全く違うのは、俺は自分の身を支える為ではなく、その棒を、すなわち腕をへし折る為に力を込めているのだ。床と水平に、まっすぐ前へ伸び、その先に銃が握られているミネルヴァの腕をへし折るべく。
ミネルヴァの体正面で、横腹を見せつつ腰を屈めている恰好になった俺は、ちらと、この兇行、あるいは狂行に出た魔術師の顔を見上げたが、やはりそこには何ら表情がなかった。その顔は、ただ、「ふむ、」と呟いた後、
「もっと力を籠めてみて下さい、全力で。」
俺は馬鹿のように素直に従って、もともと力を振り絞っていた全身を更に緊張させる。しかし、なんだ、なんだこの状況は、ええっと、
ミネルヴァが、その秘色色のワンピース服の腰を絞るベルトの後方、左手をしっかり回すと中身が弄れるかといったあたりに、小さなポーチのような物を付けているのを、俺は氷刃が立ち上がった時に認めていた。で、今さっきミネルヴァがこちらに寄りつつ、後ろ手を組み、つまり左手を背へ回したので、俺は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、ついいつもの癖で、つまりそのお蔭で何度か死線をくぐり抜けてきた臆病心の働きとして、そのポーチから某かの兇器が飛び出てくることを警戒していたのだ。これは本当に、ただ癖が働いていたのみで、俺は本質的に油断していた。しかしその悪癖が功を奏し、こぢんまりとした銃を突きつけられつつあった俺は、敏くその出現を認め、銃口を覗かされる前に身を翻し、腕を取ったのである。そしてそのまま勢いを活かして腕をへし折るまでが、一連の〝自動動作〟であり、果たして俺はそのまま、仕えるべき将軍の骨を折るというこのうえない狼藉に走る筈であった。しかし、はっとした俺が尚も握り続けていたその左腕は、まるで、皮膚に包まれた鋼の棒を握っているが如くであり、つまり、その一本の毛もない純白の皮に指が多少喰い込む以外は、まるで人間味を感じられなかったのである。ハーゼルモーゼン人故の超筋密度が、鋼鉄の如き強度をその細腕に与え、俺の全力をいとも容易く弾き返しているのだ。
「もっと、もっと力を籠めてみて下さい。」
ミネルヴァは暢気にそう言ってくるが、しかし本当に限界であった俺は、頭の血管が切れるのを憚って、全身の力を解き、床に、最早落下した。恐らくは顔を真っ赤にし、少なくともそこに大量の熱を帯びつつ赤児のような側臥で喘ぐ俺を見つめながら、ミネルヴァは銃をしまい、
「素晴らしいですね、常人相手であれば、あなたは完全に状況を制圧していたでしょう。反応速度、判断、腕力、そして、全力を出して見ろと言われてきちんと疲労困憊する誠意。全て、私を満足させましたよ。」
俺はどうにか身を起こし、不作法を嫌って立ち上がろうとしたが、叶わず、ベルトのあたりに付けていた飾り金具と床を再び激突させて、金っぽい音を鳴らした。
ちっとも痛めつけられていないらしいミネルヴァが、見兼ねたらしく、無表情のまま、
「無理しなくて結構ですよ。そのまま息を整えて下さい。
とにかく、私はあなたの理智と実力――魔術の面でも身のこなしの面でも――に対して、大いに感服させてもらいました。もしも補佐官として適性がないとこの先判断されてしまっても、あなたほどの若者なら、この軍の中で、まず実力豊かな兵士、もしかすればゆくゆくは下士官、士官として大いにやっていけるでしょう。その折には、私からも必ず応援します。」
俺は幾ら何でも立ち上がらざるを得なかった。
「すると、将軍殿、」
「『軍務次官』です。」ミネルヴァの、少しだけ嬉しそうになった声。「確かに、そこら辺の者が、私や他の軍務官のことを『将軍』と呼ぶことは多いですし、いちいち訂正もしませんが、しかし、あなたはその補佐官となるのです。あなただけは正確に、『軍務次官』あるいは『次官』という呼称を用いねばなりません。」
女神の名を持つ魔術師は、幾らか軽くなったように見える足取りで机に戻り、抽斗から引っ張り出した紙切れにさらさらとペンを走らせると、他に小さな物品を握り込んでから、いまだ喘ぎつつある俺の前に戻って来、その紙切れを見せつけてきた。
「あなたの、読み書きの能力については確かめていませんでしたが、」
乱れる息に吃らされながらの俺が、何とか、
「大丈夫です。」
「では御覧の通りです。あなたを私の補佐官として、ひとまず仮に任命します。もっとも、この軍にそのような形式は用意されていませんので、正式な任命書となってしまいますが。」
その紙には、確かに、俺ことケイン・バーレットを軍務次官の補佐に任命するという旨が、随分前に開発されたガロ式印刷機の刻んだらしい文字によって、しかつめらしい文体をなしつつ書き込まれていた。そしてその末尾には、複雑な綴りをなす、軍務次官殿のサインがしっかりなされているのである。
ミネルヴァは、さっきの騒ぎでも叫び一つ挙げなかった、主に似て少なくとも精神は逞しいらしい老婆に、その書類を渡しつつ、
「二ヶ月くらい、ですかね。そこまで適当に働いてもらって、あなたに補佐官としての仕事が務まるのか、つまりその適性を測らせて頂きます。彼女に色々なことを教えてもらいつつ、です。」
その老婆は、彼女に宛てがわれているらしい小さな机に座ったまま、俺の顔を見てにこりと笑った。
女神の名を持つ魔術師は尚も続けて曰く、
「もしその結果、あなたに補佐官を任せることが出来なくなっても、先程言いましたように、あなたはこの軍の兵士として充分にやっていける筈です。大丈夫です、その成功は、私が保証します。故に、もう心配することは何もありません。」
ミネルヴァはようやく口を閉じて、その右手をこちらに延ばしてきた。俺がつい躊躇うと、ミネルヴァは顔ではなく息遣いでのみ笑って見せてから、
「握り潰しやしませんよ。安心して下さい。」
そう言い、結局下がっていたままの俺の手を強引に捕まえて握手を成立させる。確かに常人相手への力加減を心得ているようで、俺に手は潰されることなく、しかししっかりと、その熱い手と密着をなしたのであった。
その熱によって、というわけではなかろうが、俺は心身がようやく元気になってきて、なんとかこう言うことが出来た。
「これから宜しくお願い致します、ララヴァマイズ次官殿。」
無表情ながらも優しげに頷く氷刃。よし、何とか第一段階は突破した。後は、この忌ま忌ましい女をどうにかして殺すのみだ。しかし、……可能であろうか?
世にも粗っぽい採用試験を突破した俺は、そのまま、昼の食事に付きあうようにと、仇敵、ミネルヴァ・ララヴァマイズに申し付けられた。俺のようなちんぴらあがり――若しくは現在進行形ちんぴら――が、この英雄様の喰うものと同じものにありつけるだなんてことがあるのか、と思った俺は、その旨を――もっと上品な言葉で――女神の名を持つ魔術師に問うたのだが、
「確かに私は、上等な社交的場に呼びつけられることがしばしばある以上、練習として、それなりの食事も時々は取っています。しかし、普段はそこら辺の、兵卒たちがたむろしているような場所で食事するようにしているのですよ。」
「それは、何故でしょうか。」
「まず、日々鍛練や職務に励んでいる末端の部下たちの顔や姿を少しでも眺め、彼らのことや彼らの気持ちを忘れぬように、という、私というよりはバンの語る心構えによります。」
バン、というのは、このミネルヴァにとっての唯一の上官、軍務長官の名前である。
「後は、もっと即物的なこととしてですね、あなた方が美味だと思うものが、必ずしも私にとって美味だとは限らないのです。」
俺は納得した。
「成る程、我々とは味の嗜好も違うのですか。」
「はい。野菜やパンに至ってはすぐに腹を下しますし、肉も、妙な味のソースをかける意味が理解出来ないのです。そんな代物を、何故大枚を叩いてまで毎度毎度食さねばならないのでしょう。」
「なかなか難儀なのですね、我々の中に、あなたの様な……お方が、交じって生活するというのは。」
「別に、〝ハーゼルモーゼン人〟と言う呼称を憚らずに使っても構いませんよ。」
「では次からそうさせて頂きますが、しかし、それでも自分とで良いのですか? たとえば婚約者の方と日々食事をなされたりとかは、」
「家に帰ってからはそうしていますよ。職場では職場の者と食事にいくことにしているのです。それで、ケイン、来て頂けますよね?」
「それは、勿論です。」
と言うわけで俺は、次官殿の先導に従って、食堂に辿り着いたのである。平時の癖に、戦争でもしているかのようにけたたましいその部屋は、赤龍亭のことを俺に髣髴とさせたが、しかし、随分広いと思っていたあの店よりも尚ずっと広かった。ずんずんと進む氷刃に対して、その騒がしい兵卒達は、椅子を引いて道を開けたりはするものの、ほぼ最高の司令官への仰々しい挨拶をするでもない。本当に、氷刃はしょっちゅうここに来ているのだろう。もしかすると、いちいちこの人数から敬礼をされては堪らないということで、食堂では多少の無礼講となっているのかもしれないな、と、俺はふと想像した。
いかにも慣れたミネルヴァは、給仕役と思しき恰幅の良い中年女を捕まえて二三言申し付けた。「あいよぉ!」というぞんざいな返事を寄越してきたその女は、ひょっとすると軍属ではないのかなと俺が思う間に、女神の名を持つ魔術師は細い身を活かしつつ、逞しい男女の背や尻によって複雑に波打つ狭い通路を器用に搔い進んで行き、その後、奇跡的に空いていた四人掛けの席を優雅な手振りで指し示すことで俺に着席を促してくる。何とか追いついた俺は当然従ったが、しかし、ミネルヴァは自分の側の丸い木椅子を脇へ退かして見せるのであった。首を傾げる俺の前で軍務次官殿は、その右腰に差していた、拳から肘くらいの長さを持つ錫杖の頭、曇りの無い球体を軽く握り出す。すると、またあの煩い音が、しかし今度は兵たちの喧騒によって殆ど搔き消されながら響いて、ミネルヴァの足許からにょきりと氷が現出した。先程の造氷術の時も、あの錫杖を触っていたのだろうか? その氷は速やかに成長し、先程邪慳にされた丸椅子と殆ど同様の大きさと形状を得ると、女神の名を持つ魔術師の尻の下に敷かれた。
諒解した俺が、
「成る程、普通の椅子だとあなたの体重を支えられないのですか。」
「平気なことの方が多いですが、しかし、食事時くらい安心したいですからね。」
「それだけならば、もっと単純で頑丈な形状、直方体で済ませた方が実用的に思いますが。」
「一種の訓練ですよ。先程拵えた蝶も、あの形状である必要はなかったでしょう。複雑な造形をも可能にしておくことで、戦闘時などにおいても、多様な対応が可能になることを期待しています。」
俺はそう言われて、あの氷蝶の出来栄えをもう一度確認したくなり、ミネルヴァの髪の辺りへ目をやったが、あのちっとも似合わない蝶の髪飾りはいつの間にか消失していた。氷喰いで消してしまったのだろうか。
俺は話題を変えて、
「成る程、ところで氷塊の上に座って、またそれを維持して、寒かったり疲れたりしないのですか?」
「もともとハーゼルモーゼン人は寒さに鈍感ですし、冷気を放ったり吸収する術を身に付けてからは、皮膚や肉がそれにやられるということもなくなりましたよ。また、確かに放っておけば溶けていってしまう氷を維持する以上、多少の魔力を消費しますが、しかし、誤差の程度といいますか、とにかく私にとっては問題になりません。」
俺は、このちょっとした会話から造氷術やミネルヴァに関する情報を少し仕入れられたことに満足した。ひとまず、今のままではとても敵わない。何とか、少しでもこちらを有利にする方策を考えつかねばならず、その為には幾らでも情報が欲しいのだ。
その凍りついたような顔面に相応しく、どうやらあまり口の多い方でないらしい女神の名を持つ魔術師が、さり気なく情報を得ようと頑張り続けた俺を難儀させる間に、さっきの中年女がやって来て、向こうの方に皿を置いた。
つい目を剥いて軽い呻き声を出してしまった俺は、ミネルヴァの無表情の目にじろりと見られて、ばつが悪くなり、
「ああ、いえ、勿論頭の中では理解していましたが、実際にこうして対面してみると驚きですね。」
俺の振るまいを不快に思ったのかどうかは結局よく分からないが、とにかくミネルヴァはすぐに目を切ってくれ、テーブル脇の筒へぞんざいに差し込まれていたフォークとナイフを拾い上げ始めた。その一瞬の隙に俺は再び、女神の名を持つ魔術師の前におかれている皿を見やる。色も形も煉瓦のような肉塊が、どん、と置かれているのだ。ハーゼルモーゼン人の食事情に合致するように、つまり、付け合わせの野菜もなく、ソースもなく、また、加熱もなされていない。実際には血抜きだの寝かせるだのの工程があったのかもしれないが、俺の目からは、畜獣から切り取った肉がそのまま皿の上に載せられている様に見えるのだ。
そういう感想によって呻いてしまったのだと、名誉回復に働くのかどうか定かでない言い訳を俺が述べ連ねたところ、ミネルヴァは、
「確かに、本来は新鮮な生肉をそのまま頂きたいのですがね。腐敗すら凍りつかされるハーゼルモーゼンでは比較的容易かったそれも、この国では難しいのです。よってこれは生肉ではありません、ステーキです。」
俺は、今度は堂々と皿の上の肉塊を見つめてから、
「生の肉に見えますがね、」
「新鮮でない肉が生食に適さないのは、概ね表面に毒素が出現するからです。それを、細かい微生物、〝菌〟なるものが外から付着する為だと語る学者もいますが、まあ、理由はともかくとして、大きな肉塊を外からある程度熱せば、生の状態の内側部分も充分食用に耐えるようになるのですよ。」
俺は少し考えてから、
「まさか、ある程度焼いた肉塊の外側を削ぎ落として、中身だけを出させているのですか。」
「その通りです。故に、私一人だと勿体ないのですよ、その加熱部分を捨てることになってしまいますので。しかし、今日はあなたが来てくれましたからね。」
ミネルヴァがそう言うや否や、また中年女がやってきて、今度は俺の方に皿をふたつがちゃがちゃと置いていった。俺はその内の片方に、笹葉のように積もっている、焼かれた肉片の山を眺めて、
「成る程、俺はあなたの食事の残り物を頂くというわけですか。」
「こう言っては何ですが、きっと、あなたが普段食している肉よりもずっと上等ですよ。」
ミネルヴァがナイフを動かし始めてその巨大過ぎる肉を解体し始めたのを受け、俺も頂き始めることにした。少し考えてから、女神の名を持つ魔術師と同じところから食器を調達し、それを使って、旨そうに焼き目のついている肉片を一つ拾い上げ、もう一つの皿の上に乗っているパン切れの内の一つに載せる。そうする間に気が付いたが、なにやらパンの断面が褐色に濡れており、ソースか何かを染み込ませてあるらしかった。とにかく肉を落とさないように気をつけながらパンを手で摑んで口の中に放り込むと、成る程、咀嚼で肉が崩れる度に、体験したことのないような旨みの波及がやって来る。パンの方はお世辞にも上等ではなかったが、しかしそこに居座っているソースは肉と絶妙な相性で、俺は一噛みごとに強か幸せになった。
「喜んでもらえましたかね。」
余程明らかに嬉しがっていたらしく、そう言われた俺は少し恥ずかしくなったが、こんなに旨いものを日頃捨てているとは、やはり氷刃はロクでもない奴だなと、わけの分からないことを思いながら舌鼓を打ち続けた。ミネルヴァの方は黙々と、常人では咀嚼に難儀する筈の(ほぼ)生肉を、まるで舌で押し溶かせるほどの焼き菓子を食べているかのように、何ら障碍なく平らげつつある。あの尖るほどに小さな顎でよくも、とも思ったが、ハーゼルモーゼン人故の筋力であれば造作もないのだろうし、ことによっては、歯の形も肉食に特化しているのかも知れない。
幾らか落ち着いたところで氷刃が、
「ところで、何か訊きたいことはありますか。」
下心ありありの質問ばかりを食前に投げ掛けていた俺は、流石にそろそろ、全うそうな質問をしておいて方が良いかと思い、
「具体的に、自分は明日から――そもそも明日からですか?――どうやって働くことになるのでしょうかね。」
「そうですね。まあ、あなたもすることがないでしょうし、明日から来てくれればいいと思います。現職の補佐官に様々なことを教えてもらって下さい。正直忙しい仕事ではありませんのでね、気兼ねなく彼女の邪魔をすると良いでしょう。」
「そんなに、することがないのですか?」
「時期にもよりますが、普段ならば昼食前に終わってしまいますね。」
「それは、なんでまた、」
「そもそも、私の負う事務的作業が少ないからなのです。英雄たることが本来の仕事である私達が、何やらの作業で忙殺されて鍛練を欠くようになっては本末顚倒ですよね。ですから、戦時中やそれに近しい非常時はともかくとして、普段は午前中くらいしかあそこに居ないのですよ。と言うことは、補佐官の行う仕事もそれくらいでこなせてしまうのです。」
あまり納得出来ていなかった俺は、その表情を捕まえられてしまい、
「何か疑問があるのですか?」
「ああ、いえ、その、軍の最高司令官たるあなたや他の軍務官が、なぜその様な閑職なのだろうな、と、気になったんです。」
ミネルヴァは少し、明後日の方向を見やりつつ、考えてから、
「成る程ケイン、あなたはこの軍やこの国の歴史に対して、本当に疎いようですね。」
「お恥ずかしながら、」
「確かにどちらかといえばマイナスな材料ですが、しかし、あなた自身の価値は充分認めていますので、それに比べれば瑣末な問題です。寧ろ、新しい空気を吹き込むという意味では、面白いことになるかもしれません。
しかし、誰も彼もが私のように考えてくれるとは限りません、あなたの無知で他の高官ないし将校の機嫌が損ねられるような事があっては些か困ります。少しだけでも、今説明しておきましょう。
まずこの軍の最高官は、バンこと、軍務長官です。その一つ下が軍務次官、すなわち私。そしてその下に来るのが平の軍務官でして、これは現在三名居ます。まあ、一応こういう序列ではありますが、我々五人は約七十年来の戦友ですので、口の利き方などは殆ど対等ですね。職務上の責任の重さは、確かにこの順になっていますが。で、この軍務官五名のすぐ下に軍務補佐官――紛らわしい名ですが、あなたの立場とは違いますよ?――が、今は七名居ます。その後大将以下将官が来て、以降、佐官、尉官、下士官、兵卒と続きますね。」
「言うなれば、一番下から将官までは普通の形で、その上に〝軍務官〟や〝軍務補佐官〟などが存在している、と言うわけですか。」
「その通りです。」
「では、しかし次官殿、結局何故あなたは大きな仕事を担わないのですか。」
女神の名を持つ魔術師は、ちょっと間を置いてから、
「逆質問になってしまいますが、あなたは、我々軍務官の選出される方法を知っていますか?」
「何となくは。先代、と言うか、現職の軍務官達を実力で打ち破ればよいのですよね?」
「大雑把にはそうですね。つまり、この軍では実力、武芸ないし魔術に長けるものが頂点に君臨することになっているのです。」
「実力主義のこの軍に相応しい趣向でしょうね。」
「そう言えば聞こえがいいですが、」ミネルヴァは仔細らしく両手の指を絡めつつ、「しかし現実を考えてみて下さい。我々は願わくは世界の、そして少なくとも実際にこの国の平和に対して責任を負っているのです。そんな重大な使命を負う、しかもこれほど巨大な――この舎の大きさは、あなたも見ましたよね?――組織のリーダーをそんな方法で決めても良いものでしょうか。もしかすると何ら学も経験もない、ただ武勇に秀でるだけの粗暴者にその席が巡ってくるかもしれないわけですが、そんな愚かな人物に、各仮想敵国や同盟国相手への腹芸が可能でしょうか、有力な――小煩い――教団らを宥め賺すことが出来るでしょうか、そして何よりも、この厖大な人材と戦力を抱える軍の士気と規律を維持し続け、更に部署一つ一つの委細に至る小心翼々とした世話を焼き、そして有事の際には神速にして的確な判断を下しつつ指揮を取ることで、速やかにして完全な勝利を齎すことが要求されるのだとしたら、それが、可能でしょうか?」
霞を残すような、つまり穏やかであったミネルヴァの声が、僅かながらも初めて熱を帯びたのに驚かされながら、俺はぽつりと、
「不可能、なのでしょうね。」
「そうです。私が既に何度か述べたと思いますが、実力のみによって選出される軍務官の本来の仕事は、偶像や象徴なのですよ。つまり、『これだけの実力を持つ戦士が率いる軍なのだぞ、平伏せ!』という、示威を狙っているわけです。実際これは功を奏していると思いますが。」
俺は納得した。確かに、お前のような奴が居るからこそ、より、この国ないしこの軍に誰も手出しが出来ないのだ。やはり、忌ま忌ましい女め、
「つまり、本来の軍務官というものは、お飾りなのです。一応軍務官や軍務長官が最終決定を担うことにはなっているが、しかしその実態としては、軍務補佐官の操り人形であり、彼らの意向に従って決定を下すというわけですね。この軍の本質的なトップは、我々と大将の間に位置する、軍務補佐官なのですよ。」
俺は、今沸いても役に立たない敵愾心を何とか腹の中に収め直してから、
「成る程。丁度、当の昔に実権を奪われて、祝祭日に有り難い行事を行うだけとなっている王家、みたいな感じですかね。」
「悪くない例えでしょうね。」
「しかし、お飾りという割にはあなたも、多少なのかもしれませんが、真面目なお仕事をなさっているようにも思えましたが、」
「そこなのですよ。それこそが、我らが長官、バンウィアー・ズィーズの仕業というか、功績というか、そういうところなのです。」
「と、言いますと、」
「彼は武勇や魔術の才のみでなく、異常に回転の速い頭脳と、卓越した、最早病的と言える程の記憶力を有しています。バンは、我々が先代を打ち破って軍務官となった後に行われた、世間を知らない小僧っ子達をすこしはマシにするための勉強会において、それを発揮し始めたのです。」
「具体的には、何事をしたのでしょうか。」
「只の子供でしかなかった私達に対する勉強会とは、所謂『教科書』と呼ばれるような、本当に基本的な書物の輪読、輪講だったのです。その本――当時はロクな印刷技術もありませんでしたから、貴重品でした――を配られ、読んでみろといわれた私達の中で、彼、バンは、こう、まるでそうすることで動力を得る玩具を与えられたと勘違いしたかのごとく、頁を、凄まじい勢いで捲り始めたのです。そして最後の頁に至ったのち、満足したかのように書を閉じてぼんやりし始めた彼に対して、教育係であった軍務補佐官は叱責を行おうとしました。」
「そりゃ、そうなるでしょうね。」
「ところがバンは、ちゃんと読み切ったのに何の文句があるのかと反駁し、憤ろしげな教育係の前で、その書物の記述をすらすらと諳んじ始めたのです。そう、内容を語ったのではありません、記述を、諳んじたのですよ。」
俺はちょっと度肝を抜かれてから、
「まさか、一冊の全文を、そんな流し読みとも呼べないような行為で記憶し切ったのですか。」
「流石にそこまで確かめてはいませんが、しかし、その教育係が無作為に指定した幾つかの頁の記述は完全に憶えていたようですから、実際そうだったのでしょうね。
で、面目を潰されつつ、しかし深く感銘を受けたその教育係は、勉強会への出席を免除する代わりに、図書館に籠って好きな本を読み漁るようにバンへ指示しました。このいかにも当を得た教育方針――あるいはそのようななにか――によってバンは、あらゆる方面に至る深い知識を得ることになったのです。
そうなってくると、彼は最早大人しくしていませんでした。出席もしていない軍議によって決定された方針や結論、いつもの様に機械的にそれへの承諾をしろと言われた彼は、その内容に関して質問をするようになったのです。そしてある日、とうとう、サインを拒否しました。すなわち、一応軍務長官の是認なしでは事が進められないという軍紀を楯にとって、その権力を実体化させたのです。
その後は、我々軍務官も特に重要な会議には出席し、物を申したり具体的な提案をなすようになりました。つまり、その才によって大いなる理智を得たバンウィアーは、〝お飾り〟という状況に耐えられなくなり、具体的な采配をなすようになったわけですね。そしてその後、まあ、年の功と言いますか、残りの私達四人もそれなりの知性を身に付けましたので、現在では大雑把な意思決定に関する仕事に多少関わっているのですよ。このような過程、あるいはメカニズムによって、私は今、午前中でこなせるくらいの軽さの、しかし重要な仕事を負っているわけです。」
以上を滔々と語った女神の名を持つ魔術師は、相変わらず無表情ながらも、しかし何となく愉しげであったように思えた。そこで俺は、八十六と二十三という我々の実年齢を考えると、祖母が孫に対して若い頃の自慢の友人の話をしているのに相当するのだと気が付いたのだった。この見かけ十八歳にしか見えぬ華奢な色白小娘からの、あまりに壮大な昔語り。
そのずっと後、別れ際にミネルヴァは、
「そう言えばケイン、あなた、今どこで寝泊まりしているのですか?」
「ヴェロの部屋、厳密に言えばそこのソファの上ですね。」
「それは頂けませんね。何度も述べたように、私は英雄でなければならないのです。その直属の部下が居候で凌いでいるとなると、保たねばならない私の名誉に瑕がつくかもしれません。宿舎に入れるよう、手配させておきます。」
その後適当に時間を潰して清潔過ぎる編輯者の部屋に戻った俺は、一連の出来事を彼に報告した。
「成る程、君が無事ミネルヴァのお付きになれたことは良かったが、しかしウチから燻し出されてしまったか。折角、ここで好きなだけ密談が出来たと言うのにね。」
「まあ、俺にとってあなたが頼りある人間、つまり、国内で唯一の旧知の存在であることは表でも裏でも事実なのですから、幾らでもここに尋ねてこれるとは思いますよ。怪しまれる理由がない。」
「それもそうか。さてケイン君、彼女、ミネルヴァと実際に対面してみてどうだったかな?」
俺はちょっと黙ってから、
「厳しい、戦いになりそうですね。」
ボスから話を聞いた後に俺が確かに握り込んだと思った刃、いや、実際握り続けてはいるのだが、この黒々とした刃が、突然頼りなくなってしまったのだ。こんな小さな、手中に収まる程度の刃が、果たして、あのミネルヴァの鋼鉄の如き筋肉を裂き、その体質故に女性らしい膨らみを忘れた胸板に突き刺さることが出来るのだろうか。俺の、全てを引き換えとする一撃を持ってしても、なお、それは難しいことのように思えてきてしまう。実際に対面することで思い知らされた、英雄ミネルヴァ・ララヴァマイズの逞しさによって。