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     10 英雄達の黄昏

 俺は今、露骨に若い色をした瑞々しい箒を携えつつ歩く魔女の背中を追っている。

「例えば、舎密学者たちは電池を開発しましたわ。しかし、アレがなんの役に立ったでしょう。(えん)を電解して遊んでいるだけではないですか。自分達の研究の成果を自分達の研究の発展に還元しているだけです。自身の体を磨くことしか出来ない自動人形に、おもちゃ以上の意味が発生するでしょうか。同じ港に出たり入ったりするだけの船に、遊覧以上の使い道があるでしょうか。主に私やその弟子、そして時々他の魔具設計士達が発明した魔具は、夜を照らし、食物を冷やして保存し、良い焜炉により快適な調理場を齎し、製本を幾らか楽にすることで庶民に叡智を与え、そしてもうじき、離れた場所にいる人間同士が会話出来るようになる代物すら開発されるのですわ。実際、一方通行的な信号を送ることが出来る魔具は実用段階に有りまして、希望される要人に配布されております。そして今はバンのみに限られていますけれども、原理上はあらゆる盲人が人の位置を知覚し、文字を読めるようにすらなれる筈なのです、訓練技術ないし魔具開発の技術がこの先発展すれば、今まで施設に収容されて穏やかな、(わたくし)に忌憚なく言わせれば絶対に御免な、非生産的日々を送るしかなかった盲人達が、ずっとアクティヴに世の中に関わってくることが期待されますわ。私はすっかり基礎自然科学者ですけれども、やはり職人上がりということで、この様な高い還元性を誇る学問に携わり、言わせて頂ければ未だ最前線で突っ走り続けられているというのが、幸せでなりませんの。」

 俺は、ここまでは普通に聞いていたものの、残りの部分を聞いている間に胸が悪くなった。

「以上は市井の生活への還元の話ですが、このような生活の安穏はそもそも、他国への示威行為によって保たれているのですわ。つまり、そう、私にとって有る意味最高の発明である窮理魔導学は、そのような短絡的に便利な魔具よりもずっと偉大であるのかもしれないのです。何せ、窮理魔導学はバンに絶対的な力を与え、しかもその手法は彼以外に例のない才能、無色の魂によって支えられているのですから、どこぞの国の誰ぞに模倣される心配もなく、すなわち絶対的な国威を()()()に与えることになったのですから。その国威の傘の許でこそ、人々は平穏な日常を送れるのです。」

 しゃあしゃあと語る魔女に、とうとう俺が我慢し兼ね始めた頃、しかし幸いにも目的の場所に到着した。もう何度も来ている、奇妙な実験器具や工具、そして蒼い顔をした若い研究者たちの居並ぶ実験室を通り過ぎ、相も変わらずに乱雑な魔女の居室に通される。初対面の日に俺が座らされた椅子はまだ一度も片づけられていないようで、しかも、今日に限っては分厚くない紙束が上に載せられていており、近づいてもいないのに、その紙束から埃臭さを感じられる気がした。

「あらあら、これは失礼、」

 魔女が一応慌てて、その束を拾い上げる。

「また論文の査読を頼まれておりましてね。まあ、こんな実験もなしに訳の分からない妄言を並べただけの論文を私に回すということは、落とせと言うことでしょうから、適当に読んだら掲載拒否を進言するつもりですけれども。」

 絵本から出て来た妙齢の魔女は、その論文原稿を、軽蔑の念を表すかの如くぞんざいに、机の上で唯一空いているこぢんまりとした領域に放り投げた。そうしてから手の動きで俺に着席を勧めるので、俺は論文の代わりにその椅子に座る。

「して、ケイン、例のものは?」

 俺はそれをとり出し、銃口をこちらに向けて、握り手の方をウィッチへ指し出した。魔女は自らの作品である魔銃を受け取ると、取り敢えずと言わんばかりに矯めつ眇めつしだし、その後ルーペを取り出して、銃口の針や鏡をよく覗きながら、

「まあ、見た目では何も起こっておりませんわね。しかしまあ、一品物ですのでどこにどんな不調が出るのか分かったものではありません。やはり二三日お預かりして、完全分解の後に部品の一つ一つを点検ないし交換させて頂きますわ。」

「宜しくお願いします。そう言えば、あなたの様な人間に毎度こんなつまらないことをさせて済みません、と、次官殿が伝えてくれ、と、」

 魔女はニッと笑った。

「まあ確かに、正直わざわざ私がするほどの仕事ではないですわね。しかし、機密の事を考えれば他の者に触らせたくないですし、仕方有りませんわ。そもそも、私は魔具弄りが好きですの。とりわけ、こう言う設計から組立まで自分で行った魔具に関しては、我が子の里帰りを迎えるような気分になりますわ。だから、何も気兼ねする必要は有りませんことよ、と、次官殿にお伝え下さいまし。」

 今日は割と忙しいらしく、早速魔女が例の論文原稿へ目を落とし始めてしまったので、俺は適当な挨拶をして去ることにした。扉を引いて魔女の部屋を出る間際、ふと、ある物品が目に留まる。縦横自在に本が突っ込まれた小汚い木棚の上でぽつんしていたのは、糸で吊るされている、両端に錘の付いた水平棒と、その糸を支えている釣り竿型の柱と、そしてその柱を支えつつ、宙に浮く棒を羅針盤の針に見立てる為であるかのように放射状の模様を刻んだ円盤、それらの複合体であった。俺は一瞬考えて、ああ、アレが捩れ秤か、と納得し、実験室ではなくここに置いてあるのは壊れたからなのか使わないからなのか、そして、いずれにせよ不要な筈のそれを廃棄しないのは、懐かしんでいるのか単純に面倒なのか、どうなのだろうな、と、どうでも良いことを考えたのであった。


 俺は氷刃の執務室に戻った。主は会議に出ているので、誰も居ない。俺は今の内にと、今朝一番に持ち込んで自分のデスクの影に隠していた水剤の瓶を拾い上げ、栓を開け、呷った。酷い味だ。蝦蟇の内臓と鼠の糞を煮立てて半年寝かせたかのような風味と喉越しが俺を襲う。しかし、この部屋の主が戻ってくるまでには平気な顔をしていなければならない。俺は気合いを入れた。しかし、どうにも、胸に呪いの火が点ったようなむかつきが収まらず、俺は苦労したのである。

 まもなく氷刃は帰ってきて、挨拶する俺に対し、

「ケイン、ウィッチに銃を預けてきてくれましたか?」

「先程。」

「言付けも?」

「伝えました。気にしてくれるな、とのことです。」

 ちょっと間があって、

「そうですか。お疲れさま。」

 ミネルヴァはデスクに向かおうと二三歩進み、しかし結局振り返って、

「ケイン、体は大丈夫ですか。」

 俺は一瞬ドキリとしたが、

「何とも有りませんが、何か、見た目に出ていますか?」

「多少、顔色が悪いですね。また妙に徹夜でもしたのですか?」

「いえ、そんなことは有りませんよ。」

「なら良いですが、……いえ、よくありませんね。とにかく、体調がどこか悪いなら、診察を受けるなり勝手に休むなりして下さいね。それが可能なだけの時間は充分与えている筈ですから。」

 相変わらず声にも顔にも感情が出ないので、叱責なのか心配なのかはよく分かなかったが、とにかく俺にとっては快くなかった。水剤を服用したことによる異変を察知されたくなかったのだ。

 氷刃は、いつもの大きすぎる椅子に、いかにも座り慣れた雰囲気で腰を下ろし、

「して、ケイン、今日の予定を確認させてもらえますか。」

 俺はずっと立ったままである。

「自分がお聞きしてる限りでは、軍務次官としての予定は特に有りませんね。ただ、著作に関して中食(ちゅうじき)のすぐ後にヴェロとの打ち合わせがある、と聞いておりますが、」

 女神の名を持つ魔術師は背を凭れに預けた。

「ああ、そうでしたね。場所は?」

「この舎の地下一階の部屋ですね。」

 ちょっと沈黙が有ってから、

「何故、私的な打ち合わせを、外ではなく軍舎の中で行うのでしたっけ。」

「その日は忙しくなるかもしれないから、出来る限り近場で場所を取ってくれ、と先日次官殿が言いましたので。場所を変えさせますか?」

 その方が有り難いんだがな。

「いえ、今からヴェロに迅速かつ平易に聯絡をとる手段がちょっと思いつきません――ウィッチが語っていた魔具が世に広まっていれば可能だったのでしょうが。まあ、たまにはここで打ち合わせるのも良いでしょう。」

 ちっ。


 その後俺は大いなる胸焼けに苛まれながら仕事をしている振りを続け、食堂でミネルヴァから宛てがわれた肉片を殆ど残し、それから運命の時刻を迎えたのである。魔晶燈のお蔭で全く暗くない地階は、万一の時に水を溜めるという目的を兼ねて設計されたそうで、廊下のところどころに、ちょっとした畑のごとく広い空間が挟まっていた。根瘤のように、そこだけぼこんと広がり、前後では尋常に狭い廊下が何事もなかったかのように伸びるのである。氷刃は指定された小部屋に辿り着く為に、俺を引き連れつつ、そのような広場の一つに差し当たった。そこには、待ち構える人影が一つ。

 背中しか見えないが、何となく訝っているらしい氷刃は、のろのろと足を進めて広場の中に入った。

「ヴェロ、こんなところで何をしているのです、部屋に入れませんでしたか?」

 いつも通りの、霞を残すかのような耳に心地よい声、しかし、これを聞くのも今が最後となるのだろう。

 声を掛けられたヴェロは、敵意を露にすることが目的であるかのように、大袈裟に構えつつ、

「そのお命頂きます、ミネルヴァ将軍閣下。」

 ミネルヴァは、その松明のようなものを振り上げている編輯者をじっと見つつ黙り込み、しばらくしてからようやく、

「全く理解に苦しみますが、まあ、死にたいというのであればお相手しましょう。腹ごなしにもならないでしょうが。」

 清潔すぎる編輯者の掲げる炎の揺らめきと泣き声が無粋に思えるほどに、空気が強か張り詰めた。ミネルヴァは、呆れと困惑を示す為に口の前に拳として捧げていた左手を左腰のポーチに宛てがい、右手は杖を抜きつつ水を搔く櫂の如く後方へ閃かせる。右手の動きは俺を庇う為であったのだろうが、しかし、無用であった。俺は、ミネルヴァの意識がヴェロに向いた瞬間から、ずっと、詠唱を続けているのだから。

 ヴェロがその松明を氷刃に向けて投げつけた。殆ど魔術や戦闘の心得のない編輯者に対抗するのに相応しく、ミネルヴァは全く氷壁を張っておらず、一応その松明を火喰いで受け止める為に、精々左手を前に伸ばしたくらいであった。いや、違う、それだけではない。俺の考えを保証するかのように、肩の辺りに控えめな大きさの氷を形成させたのだ。そう、まるで、あの頼りなき松明の炎に相当するだけの氷をわざと無駄に作ったかのように、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であるかのように!

 戦闘態勢としての緊張故か、耳が敏感になっていたらしいミネルヴァは、急にこちらへと振り返った。しかし、遅すぎる。初めて俺に感情らしい感情の発露を見せる、その驚愕に見開かれた双眼をしっかりと睨み返しながら、俺は、前詠唱を何とか終え、……喰らえ、化け物!!

「 "エンゼバレット" !」

 俺の右手から、巨獣の如き大きさを誇る火球が、まるで内臓を抜かれるかのような絶大な感触を残しつつ放たれた。氷刃は慌ててみせるものの、近すぎる。果たして、俺が、第六段階をすっとばしつつ、胸を焼く水剤の力を借りて初めて詠唱に成功した第七段階 "エンゼバレット" は、氷刃の全身を呑み込む風に命中した。しかし、能わず。氷刃には焦げ目の一つも付かない。火喰いを構えていたのだから、当然だろう。だが、充分であった。完璧だ。白目を向き、ふらふらと頼りなく揺れる氷刃は、明らかに、そして完全に意識を失っている。オーヴァフロウだ。

 あの日、女神の名を持つ魔術師は、魔女の魔力を何故さっさと奪わなかったのか。答えは今や明白であり、つまり開幕に魔力を奪おうとしても、それを受け止められるだけの空き容量が自分にないのだから叶わなかったのだ。そして初めて会った日、氷刃は俺の "エンザ" の威力を火喰いで測ろうとしたわけだが、その直前に無用に氷を展開した。あれも、今思えば、自分の魔力の貯蔵量に空きを作る為であったのだろう。そして、俺の唱えた "エンザ" の威力を測る為に、その火球を喰ってから、つまりその分の魔力を体の中に入れてから、氷喰いを行って、これ以上入らないというくらいにまで氷を回収したのだ。そう、それで喰いきれなかった分、氷の蝶の分が、丁度俺が氷刃に与えた魔力量であり、ひいてはあの "エンザ" の威力に相当するものとなったのだ。事実ミネルヴァも、その様なことを述べていた。つまり、そう、 "ジャグゼス" 系や氷喰いないし火喰いで喰える魔力量には限界が有るわけで、それを越えてしまった場合には、とんでもない負荷が精神ないし魂にかかることが当然のように期待される。事実、空気を入れすぎた風船が爆ぜるが如く、最早ミネルヴァは、少なくともしばらく、もしかしたら永劫に渡って魔力を喪失し、そしてこのように意識を手放す羽目にもなったのだ。魔力の方の喪失は、肩の氷が消滅していることから窺われる。

 興奮しているヴェロがこっちに回ってくるのを待ち、炸裂ナイフを俺は受け取った。俺は、ふらつくミネルヴァの胸許を見据え、あの日に見た乳児のような白い胸板を思い返し、ほんの少しだけ惜しんでから、しかし、息を一つ吐き、両手で握りしめた炸裂ナイフの切っ先を、胸骨のやや右目掛けて叩きつけた。

 岩。そんな感触を俺は覚えた。ナイフの刃先は、ミネルヴァ青いワンピース服を貫いた後は、殆ど先に進まず、皮膚をほんの少し穿っただけだったのである。しかし、後には引けない。俺は、残る僅かな魔力によって信号を送り、事前に炸裂ナイフへ満タンに注いでおいた魔力の縛めを解いた。

 胸に(うず)もれていた火口が突如噴火した。そう思えたほどの、あまりにも激烈な威力の爆発は、ミネルヴァの着衣など容易く吹き飛ばし、更に、その奥に有る皮と肉を、大いに破壊した。血が迸る。小さい顎にまで点を打つ程に撒かれた血の赤と、遮蔽なしに覗けている肉の赤が、真っ白であったミネルヴァの体に、あの日のルージュよりも余程強烈な色彩を与えた。

 流石に意識を取り戻したらしい氷刃が、小さい口を思いきり喰い縛り、可能な限りの本数の皺を顔面中に刻んだ怒りの表情を浮かべ、何かを喚こうと息を吸う。駄目だ。お前には何もさせない、大人しく死ね。すぐに身を引いていた俺に代わり、ヴェロが、新たな小剣状の魔具を握りしめ、怒りの赤に染まっている魔術師の胸許にどすんと突き刺した。その瞬間、衝撃を引き金としていた魔具は、発条で弾かれたかのような勢いで刃を伸ばし、文字通り裏を搔いた。つまり、氷刃の薄い胸板を貫通して背中から刃先を覗かせたのだ。

「――――!!」

 地獄そのものが唸っているかのような氷刃の呻き声の轟きを浴びても、我が同志は怖じず、その魔具をしっかり握り直し、ぐるん、ぐるん、と何度も捩った。貫通せし刃は素直に従って、つまり、ぐるん、ぐるん、と、氷刃の肉、心臓、肺臓を破壊する。

「――――、――――!!」

 苦悶の相好を窮めた氷刃が、とうとう、右手の杖による一撃をヴェロに放った。ヴェロは、撲殺される瞬間までその魔具を手放さず、つまり、氷刃の一撃は自身を貫く刃にも遺憾なく伝わってしまい、果たして、首の方向がおかしくなったヴェロが吹き飛ばされるのとほぼ同時に、その胸許から、噴水のような血の煙が立ち昇る。心臓が本格的に破壊されたか。

 その後ミネルヴァは、編輯者の死体や俺の姿などには目もくれず、胸を貫通している刃を引き抜こうと、その握り手に手を掛けた。賢明な判断だろう、だって、異物が突き刺さったままでは、治癒呪文を用いることは出来ないから。一刻も早くそれを取り除き、心肺を治さないと死に至るだろうから。しかし、させない。俺は、寄り、必死になっている、つまり隙だらけの女神の名を持つ魔術師の喉の正面を、思いきり殴り抜ける。もともと筋肉が殆どない場所、ハーゼルモーゼン人への殴打に(かか)わらず、まともな手応えが得られた。

「!」

 肺臓がやられて声が吐き出せないのか、顔と胸に大口を開けつつも黙って蹌踉めいた氷刃は、血のあぶくを吐きながら、そのまま後方へよろよろ進み、とうとう壁際に追い(つま)って、その激突の勢いで膝を折り、腰を床に落とした。俺は急いで追いついて、その顔面、喉、胸に、何度も何度も蹴りを入れる。最初の何回かは、顔を上げていたミネルヴァから、凍りつくような憎悪の睨め付けを浴びせられたが、その内頭を下ろして静かになり、何も反応しなくなった。廃棄物の入った袋を蹴り続けているような虚しさに、俺は急に熱を失い、立ち尽くす。俺の右足と右脚が、ハーゼルモーゼン王家の血で真っ赤に染まっていた。微動だにしていない、眼下の肉体。あの白さを完全に失った、真っ赤な五体。こうもあっさりと、俺とヴェロの前に敗れた英雄様。果たして、まだ息が有るのだろうか。しかし、肺臓を破壊された人間において、生死と息の有無は直結するのだろうか。どうやってこいつの死を確信したものだろうかと、俺が悩み始めた頃、

「ケイン!」

 驚いた俺が振り返ると、魔女が文字通り飛んできて、大童の体で箒から降りた。

「ああ、次官殿! 何ということ、ケイン、一体何があったのです!?」

 敵意はない。狼狽と心配のみによって、魔女の瞳が溺れている。

 俺は冷静に、編輯者だった肉を指さし、

「アイツが、いきなり次官殿に襲いかかってきて、」

 魔女はこれ以上もなく忌ま忌ましげに表情を歪め、

「ああ、なんという愚か者め! と、とにかく、急いで治療致しませんと、」

 魔女が、腰を落としつつ、初めて仕事にとりかかる産婆の如く、頼りげなくよちよちとミネルヴァの許にいざり寄ろうとしたので、俺は、その無防備な後頭部を、思いきり蹴飛ばした。当然のように前方へ倒されたウィッチは、何が起こったのか分からないという顔をこちらに見せる為に、すぐに仰向けになったが、しかし、その目が認めたのは、既に両足を揃えて跳ね上がっている俺の体であった筈だ。仰向けに直ってくれて好都合だった、俺の体は、両足で肋骨と肺臓を破壊しながら、ばきばきと魔女の体躯の上に着地したのである。血を一塊吐き、すぐに動かなくなった。冗談のような三角帽の下で、目と口をこれ以上もなく開いた顔が固定される。

 俺は、血化粧により、絵本から飛び出てきていたような滑稽さを失った妙齢の魔女の上から降りて、考え始めた。何だ? この女は何をしに来た? 地下は滅多に人が来ない。だからこそ、ここにミネルヴァを連れ込むことで妥協したというのに。

 ふと、壁にぐったりと凭れつつ、最早血を流すことしか出来ないでいる氷刃の体に目をやると、その左手の辺りに、手から零れたらしい、金色の小球が転がっているのに気が付いた。拾い上げてみる。見慣れないし、用途も不明だが、まあ、わざわざがらくたを持ち歩く理由もないだろうから、魔具の一種なのだろうか――がらくたであることと魔具であることは悖反でないが。

 それを手の中に撮んだまま振り返り、死にきらずに床の上でそこら辺をぴくぴくさせている魔女の無様な姿を認めたことで、俺の頭の中に嫌な情報が蘇った。今朝この女の語っていた、一方的な信号を送ることが出来る魔具とは、確か、要人にのみ配布されているのではなかったか? 要人だからこそ必要な信号というのは何だ? 要人、つまり万一が有っては困る人物、ということは、その身を護る為に有用な信号ということか? それは何だ? ――簡単だ。きっと緊急信号、救援を求める信号だろう。そして、この氷刃は要人と扱われるのにあまりにも相応しい人間であり、魔女が皮肉をぶつける程度の友好関係にあり、つまり面白げな魔具が開発されたらその話を伝えていてもおかしくない関係であり、そしてまた、事実ミネルヴァは、通信を行うことが出来る魔具に興味を示していなかったか? あれさえ実用化されていれば、ヴェロに聯絡が取れたのに、と。つまり、瀕死の氷刃が左手でポーチから必死に抜き出し、必死に起動させた魔具というのは、

 俄に、永年堰き止められてとうとう解放された河の呻きのような、轟々たる跫音がこの地下広場に近づいてきた。そっちに向かって尋常に構えると、廊下から飛び()ってきたのは、右手で剣を逆手に抜いた、雷帝の姿。

「ケイン・バーレット、貴様!」

 顔の構成要素の中で唯一露になっている口からだけでも、その忿怒、仲間ないし婚約者を傷つけられたあるいは殺された憤りを感じとることが出来たが、しかし、結局すぐに目許も露となった。夥しい本数の紫電が雷帝の体の上を迸り始め、普段雲の上でしか見ることの出来ない稲妻が、今、俺の目の前の剣士を護り始めている。そして、その電気的な力によって、庇のような髪は逆立ち、まさしく、怒髪天を衝く様を雷帝は演じているのだ。多くの者は見たことがないであろう、鷹のように鋭い灰眼は、どことなく締まりのないという雷帝の容貌のイメージを一瞬で払拭した。猛禽の目は怒りに燃え立ち、俺の足を竦ませる。

 その口が再び開かれ、雷鳴よりもおどろおどろしい、勇ましき声が、

「貴様が何の目的でこの狼藉を働いたのかは知らぬが、しかし、とにかく充分だ。この、強禦と叡智の殿堂たる都市の中心で死ねることをせめてもの手向けとして、真黒に死んでいけ!」

 俺は、もう魔力が残っていない。というか、あの水剤の副作用として、もう金輪際魔術を運用出来ない筈であった。だって、氷刃を仕留めたら自害する予定であったから、その後のことなんて考えていないわけだ――事実、ヴェロが死んでも全く狼狽えていない。しかし困ってきた。さっきの魔女は戦士というよりも学者であって、しかも俺のことを完全に信用していたから、間抜けに、血(まみ)れの男を何ら(うたぐ)らずに背中を見せてくれたが、雷帝はそうは行かなかったし、また、この先更に救援が来るのだとすれば、やはりそいつらもそうは行くまい。魔術無しで、救援に来た戦士たちを返り討ちにせねばならない。少なくとも、氷刃が本当に息絶えるまでは。

 雷帝は、逆手で剣を構えているところからも窺えた通りに、受け身の戦闘スタイルであるらしく、恋人を一刻も早く治療したい筈なのにも(かか)わらず中々仕掛けてこなかった。焦って自分の本分から外れたことをすれば苦しくなり得るという教訓が、きっと日頃の鍛練や試合で培われていたのだろうが、しかし、少なくとも今は裏目に出た。俺は、充分落ち着いて、それを懐から抜き出せたのである。

 そしてそれを握り込んだまま、雷帝に駈け寄る。武器も持たぬ俺が接近してきたことが意外であったか、ザナルドの顔が怒りでない成分の侵入によって歪み、そして俺はその隙を衝いて、それを、粉火薬を封じた小袋を放り投げてやった。袋と紫電が接触する。

 遺憾なき爆発。俺が吹き飛ばされて尻餅を付き、髪の焦げる匂いを嗅ぎながら何とか目を開けると、首から顔にかけて真っ黒になった、微動だにしない雷帝の姿が有った。あの鋭い鷹の目は原形を留めているのだろうか。それが分からない程度には焦げ焦げしかった。髑髏(しゃれこうべ)の上に黒い土を取り敢えず盛ったかのような有り様だ。

 そうして、香ばしきザナルドの体が前に突っ伏し、俺が改めてミネルヴァにとどめを刺そうと立ち上がった瞬間、また、跫音が聞こえてきた。先程よりも軽やかだが、鋭い。俺が、いやいやながら、斜め前の入り口を見ると、すぐに、その赤毛を撓らせながら陽炎が飛び込んで来る。

 ドリセネーは、水平に動かした瞳の動きだけで一瞬見渡してから、

「バーレット!」

 あの、人懐っこさは最早何処にもない。軍務官の名に相応しい、近づくだけで身を裂かれそうな迫力が、その声と相好から迸っている。

「膝を着いて両の掌を床に付けなさい。余計なことをした瞬間に、アンタの体は蜂の巣になるわよ。」

 俺は、おずおずと膝を着こうとして、いや、着く振りをして、両手に握り込んでいた物品を放り投げた! まず右手のそれを、陽炎に向かって直接投げつける。陽炎は、少しも表情を乱さないまま、軽やかに右手側に跳んで回避しようとする。何故なら、俺はわざと、こっちから見て右に外れかける按排で、そのどうでもいいもの、氷刃の手許から奪っていた金色の小球を放ったのだから。果たして、正体不明の投射物を警戒するが故に、単に避けるのではなく、無意味に跳ねたドリセネーは、俺がもう片方の手で一瞬遅れて放った代物が激突した辺りの床に着地しようとする。しかし、そこは最早まともな床ではなかった。ヴェロに調達させた、氷牙呪文を封じた小瓶、それが床を氷付けにしていたのである。陽炎は、無様に顚倒し、四肢を綺麗に放り出して、胸の辺りから床に激突した。

「ったぁ!」

 はっとして顔を上げたドリセネーは、俺の爪先を見つけたことだろう。急いで駈け寄っていた俺は、また、必死に女魔術師の顔を蹴り続けた。立ち上がろうとしてか時々陽炎が踠くのだが、床が凍りついていてはどうにもならない。さっきから俺は脚でばかり攻撃しているが、当然だろう。だって、俺は、倒した隙を衝いて、つまり卑劣な戦法で戦っているのだから。相手は英雄様達なのだ。これくらい、させてもらわねば。

 蹴り続けた顔がどうこうというより、陽炎の首が手折られた茎のように拉げて腕や腰の蠢きが停止した頃、俺はようやく安心を得、荒い息を整えようと試み始めた。しかし、すぐに緊張を取り戻すことになる。三度の、跫音。恐る恐る入り口のほうを見やろうとした俺は、こちらに禍々しい何かが飛び込んできていることを察知し、一も二もなく飛び退けた。次の刹那、俺を掠めた禍々しき何かは、背後の壁に到達して、石材を砕き、代わりにそこへ巨大な虚ろを補充する。

「月魔女の薫陶を受けただけのことは有る、か、」

 そこに立っていたのは、青髪の若造ではなく、最も偉大なる将軍にして、最も偉大なる魔術師であった。

「俺の〝虹剣〟、それも剣から飛ばして宙を迸らせた物を初見で認めたのは、お前が始めてだ、バーレット。大した〝識眼〟を持っているようだな。」

 いつも重すぎる荷物を左腰にぶら下げているバンウィアーは、身軽になっており、つまり左手に盾、右手に剣を構え、その切っ先を地面のほうへ向けていた。盾の方は顎が見えつ隠れつする高さにまで持ち上げられており、頭から足先まで隙のない構えだ。

「非道い野郎だ。」俺は、〝虹剣〟が飛翔出来ることを知らされた驚愕を隠しつつ、「いきなりそんな物飛ばして来やがって。もしも、俺が健気な部下として、上官達を介抱しているだけだったらどうするつもりだったんだ。」

 虹剣は、敵意によって円かにされた虚しき青い瞳をこちらにまっすぐ向けながら、

「数学者として講義してやろう、バーレット。条件が満たされない命題は、いかに内容が馬鹿げていようが常に(しん)だ。つまり、貴様のその、戯言たる前提条件からなる議論は、意味を為さない。」

 ちょっと間を取ってから、

「いつから、俺を怪しんでいた? もしかすると、初めて会った時からか?」

「違う。それでは遅すぎる。」虹剣が、盾を持つ手で、器用に鎖骨の出会う辺りを握った。魔力を注入したのか、いつか聞かされた、真珠色の魔具の鋼を打ち鳴らすような音が、行儀の良さをそのままに、しかし、あからさまに居場所を主張するようになる。その殷々たる響きを縫って、「その前だ。ミニーが、どこぞの馬の骨を引き入れると言い出した時から、俺は心配していたよ。もしものことが有っては、と。」

「へえ、流石に賢しいお方だね。しかし、その甲斐も虚しく、アンタは何も出来なかったわけだ。」

 どうせ命は惜しくない。挑発を憚る理由はなかった。

 しかし、虹剣は憤るというよりも、ほんの僅かに銷沈し、

「何も出来なかったわけではない。いや、寧ろ、ミニーの戦友として完全な役目を果たしたさ。トゥネストへの船旅すら、つまりその最中でお前の魂やその反応を観察したことすら、俺にとっては念の為の確認でしかなかった。ミニーの魔術の仕組みの解明を企んでいる、それだけで、お前を外敵ないし内憂と断定するには充分だったよ。」

 俺は魔女を恨んだ。何が頼もしい協力者だ、寧ろアイツのせいで、全てが台無しになりかけているではないか。

 とにかく俺は言葉を止められなかった。

「何を言っていやがる。それだけなら、実際にそこら辺に居る様な奴の如く、本当にララヴァマイズの魔術に心酔しているが為の行動であるかもしれんだろうが。」

「そういう人間は、大抵氷牙呪文を修めるのだよ。まあ、確かにお前が人畜無害な青年である可能性はゼロではなかったが、しかし、どうでも良かった。多少才には恵まれているようだが、お前は、少なくとも今は小人(しょうじん)だ。ミニーの命と比べれば、霞の粒が如く軽い存在。天秤に載せるまでもなく、俺はお前を排除するつもりだったよ。」

 俺ははっとした。

「ちょっと待て、テメエ、まさか、この間ミネルヴァを殺そうとしたあの男は、――いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()あの男は、実は、」

 虹剣は、目に籠めた怒りを毀たぬままに、口角だけで笑った。

「ミニーを崇拝する人間よりも、遥かに多い人間が俺のことを崇敬している。実力や地位を考えれば当然だよな? で、中には、俺の為であれば命も惜しくないと言ってくれる、有り難い者も居るわけだ。どっかの間抜けがすっ転んだせいで、いまいち致命的でない箇所にナイフが刺さっちまったみたいだが。」

「いい趣味してやがるぜ、わざわざ、ミネルヴァの横に居る時の俺を狙うとはよ。」

「馬鹿言え。あれは想定外も良いところだ。折角秘書に忍び込ませてアイツの部屋の備品をくすねさせたり、それとなく保冷庫の購入を進めたりと、色々準備していたのによ。何で魔具の買い出しにミニーがついていくんだ、わけが分からん。」

 俺は、もしかするとあの日の氷刃は俺と――部下というより男としての俺と――買い物に出たかったのかな、と思ったが、それよりも別の話題を怒りによって選択させられた。

「とにかく、何が英雄だこの下衆野郎め。自分の戦友の為に、その場で殺される予定ではなかったにせよ、とにかく絞首刑にされる筈であった所業を、自分を慕う市民にさせたのかよ。」

「子供のようなことを言うな、バーレット。将軍とは、命の足し引き勘定をする仕事だ。ミニーの命を護ることで、その名を轟かせ続けることで、この国ないし世の平和を護れるのであれば、俺は迷わずにそうするさ。命を支払わずに命が護れるものか。」

 俺は、いつか自分がした思考を虹剣になぞられて紅潮しかけた。

「ミニーが、どうしても言うことを聞かなかったのだ。殺せとは言わないから、せめてアイツを馘首してしまって新しい補佐官、生え抜きのそれを迎えろと言う俺の指示に、どうしてもミニーは肯わなかった。仕方がないから実力を行使したが、それも叶わず。ああいうことの二度目が有れば流石にミニーに感づかれるだろうと困った俺は、やむなく、アアリスさんのお手を煩わせることにしたんだ。ミニーを納得させられるだけの、お前の悪徳性を訊問によって露にしてしまうか、あるいはお前を檻の中にぶち込むなり塀の外に放り出すなりの口実が見つからないものか、と。あの時のお前の魂の動きは、最早企みを抱えていることが確定的であったが、しかし、俺の〝識眼〟の結果だけでは、ミニーを口説く為の決定的証拠にならず、どうしたものかと考えていた矢先に、()()だ。畜生、ミニーの馬鹿野郎め。――ああ、ところで、バーレット、」

 バンウィアーが僅かに首を傾げた。それが示すのは疑問ではないのだろう。

「何故、俺がお前の話に付き合っているかを教えてやろう。一つ、治癒呪文を俺ほどに窮めた者は、その死者が死亡して本当にまもなれば、具体的には魂が死体から離れていなければ、殆ど問題なくその者を甦生させられる。故に、同胞たちの治療を急ぐ理由はないのだ。」

 こちらの狙いが見抜かれていたことと、多少の時間稼ぎでは無意味であることを知らされて、俺は顔を顰めた。畜生、ここで死んでは、無駄骨だというのかよ! これまでの俺の人生全てが!

「今のは、消極的理由、話をしていても構わないという理由であったが、しかしもう一つの理由は積極的なものだ。貴様に、言葉を送りたいのだ。」

 その剣の切っ先が舞い上がったように持ち上がり、遠くから俺の鼻を指し示す。

「ケイン・バーレット、俺は訂正を加えつつ、貴様に敬意を示す。曲がりなりにも、登用当日以前から向けられていた疑念を今日まで誤魔化しきり、そして、その狙いを美事成就させつつあるのだ。しかも、大将一人に軍務官三人を斃しての大立ち回り。本当に、美事だよ。皮肉でも何でもなく、貴様は偉大な戦士だ。こうなってしまうと、小人であるなどとんでもない。そうだ、お前こそ命の勘定をしているではないか。貴様とそこの男と氷刃との三つの命を捧げることで、この世に平穏を齎し、ひいては、無数の命が護れると貴様なりに思ったのだろう? 実力、精神、才、覚悟。貴様の全てが美事だ。多少の蒙昧の憾みはあれどな。

 そんな貴様への敬意の(ひょう)し方として、ケイン・バーレット、俺は貴様を、塵一つ残さずにこの世から消し飛ばしてやる。容赦などしないし、また、生け捕りにして訊問を施そうともしない。いずれも、偉大な戦士に対する、酷い冒瀆だからな。

 ――さあ、貴様の信じる神に祈れ、バーレット! 貴様の正義を神なるものへと説き、この血の祭典を奉ったことに関しての許しを請うのだ!」

 俺は、一言、

「俺とアンタは、意外と似ているんだよ、バンウィアー。俺も、両親の命と一緒に、信仰心なんてものは無くしちまったのさ。

 ――神だの、死後だの、知ったことか! 俺はこの世で、親の仇の為に、すなわち俺の誇りの為に戦うのだ! くたばれ、バンウィアー。伝説の戦士らしく、ここで、仲良く戦友達と死骸を並べろ!」

 俺が啖呵を切る間に、バンウィアーがその剣に魔力を注いでいることがあからさまであったので、その、不意討ち気味の虹の飛翔を、俺は悠々躱すことが出来た。この騙し討ちは、俺を憤らせるどころか、寧ろ輝かしい気持ちにさせる。再び壁が穿たれる音を聞きながら俺は思う。あの虹剣が、世界で最も強大な力を有する戦士が、俺相手に容赦をしていないのだ、卑怯な手を憚らずに用ねばならぬ相手だと認めているのだ。送り主が虹剣のクソったれであるというのは少々残念だが、しかし、この最大の賛辞を俺の生涯の最期に飾ることは、まあ、悪くない。

 バンウィアーは俺の正義を認めぬままに、しかし、俺を〝偉大なる戦士〟なるものとして認め、全力を注いで来ている。ならば俺も、全力で応じねばなるまい。攻撃を避けるついでにヴェロの死体の脇に来ていた俺は、急いでその懐から然るべき魔具を奪い、また跳び、再びの虹の魔力の襲来を避けた。今度は天井に大穴が開く。

 俺は雷帝の体を踏んづけることを何となく避けつつ、編輯者から奪った魔具の内の片割れの留め金を外し、その機巧を目醒めさせた。案の定顔を顰めた虹剣に寄りつつ、俺は、その、手に収まる程度の白灰色の正二十面体を、作り物でない青髪の下で顰まった顔目掛けて投げつける!

 虹剣でなくとも不快感を得たであろう、絶妙な不協和音を、しかも連続的に放つその白灰は、聴覚を塞ぐのみでなく本能的な嫌悪感を惹起することに成功し、光ではなく魔を見る剣士は、それを打ち払おうと盾を高めに構え始めた。つまり、注意が幾らかそちらに払われてしまっているその隙に、俺は、もう一方の魔具の蓋を開け、中身の液体を、思いきり()ち掛ける。先の正十二面体を払った直後で上半身がやや無防備になっていた虹剣は、その液体をまともに浴び、頭から胸に至るまでずぶ濡れとなった。当人曰く自慢であるという青髪が纏まり潰れる、その下で、その幼すぎる顔の上に驚愕が一瞬走り、しかしその後これ以上もなく忌ま忌ましげとなって、

「貴様、小癪な真似を!」

 ()滅法に虹剣が剣を振り上げたので、もともと届く距離ではなかったが、俺はつい急いで退()いて距離を取ってしまった。そう、虹剣は最早真の闇に落ちたのである。俺が浴びせかけたのは、虹剣が日頃書物を読むのに使っている、魔荷(チャージ)の籠められた画材臭いあの液体であった。自らの魂の無色性を頼りに世界を識眼視界で見てきたこの男も、夥しい魔荷(チャージ)を浴びせられてその特性を失わされては形無しに陥り、耳も塞がれた中、ああして不安げにきょろきょろする無様を曝す羽目になったのだ。涙ぐましい努力と工夫を重ねて、失明後も地位と名誉と強さを保ってきたこの男にとって、再び闇に落とされたことは、如何程の絶望を齎すものであるのだろう。

 しかし、急がねばならない。冷静になられて、再び識眼視界を恢復する手段に気付かれては終わってしまうのだ。俺は、編輯者が残した長過ぎるナイフを、もう動かない氷刃の胸から引き抜き、両手で剣のように、上段で構えて、虹剣の方へ駈けた、しかし。

 あまりに正確な剣の一撃が、煌めき、俺の鼻に刺さった。俺は呻きながら後ろに倒れ、続けて虹剣が剣先から乱れ撃ってくる呪文の雨霰を避ける為に、ナイフなど捨て置き、這う這うの体でその場所から逃げ出す。陽炎ほどの速度ではないにせよ充分に激しかったその攻撃により、床の強かなる面積と、俺の右袖が大いに抉られた。

 距離を取り直して立ち上がった俺は、骨まで到達したらしい鼻の傷が齎す疼痛や出血など意に介せずに考える。畜生め、流石は最強と謳われし戦士だ。目も耳も識眼も塞がれているくせに、残された僅かな感覚のみで、ほぼ正確に俺の動きを察知してしまうらしい。まあ、後半歩近づくのを待って致命的な一撃を放てなかった辺りは、俺の健気な工作が多少は功を奏しているということなのだろうが。

 再び、不安げにきょろきょろし始めた虹剣は、じっとしている限り俺の位置を上手く定めることが出来ないらしく、大人しくしている。何故、広範囲の魔術で俺ごと何もかもを吹き飛ばしてしまわないのかという疑問が生じるかもしれないが、しかし、これは当然のことであった。何せ、ここには虹剣の戦友にしてこの国の英雄たる、アイツにとって決して失うことが出来ない不老者達が、死にかけていたり新鮮な死体だったり、とにかく転がっているのだ。ならば、やたら滅多らな攻撃を(おこな)って彼ら彼女らの治療や甦生を不可能にすることは出来ないのだ。あらゆる視界を塞がれている虹剣は、それ故に、的確に俺のみを攻撃する困難さと必要さに迫られ、今あそこで首をぐるぐる回しつつ苦しんでいる。また、〝欠虹〟が一向に形成されないのも、同じような理由なのであろう。魔女曰く俺の魂は〝火〟であるらしく、先程まで尋常であった識眼視界によって当然それを認識している筈のバンウィアーは、火を欠いた〝欠虹〟を用いれば速やかに俺を――物理的な意味でも――滅すことが出来る筈であった。しかし、この場には、火の魂を持つ〝陽炎〟が死にかけないし死体で転がっている。いずれにせよそんなに危うい魂が、欠虹の齎す殺人的な魔場(フィールド)に晒されては、魂の消滅という完全な絶命があっという間に達成される筈であった。窮理魔導学という、虹剣と魔女が見出した自然の一つの側面が、自然であるがゆえに何も差別せず、すなわち俺とドリセネーの魂を全く区別しないことが、自らに光を当ててくれた父を裏切るかのように、今バンウィアーを苦しめている。虹剣よりも先に陽炎がここに来てくれ、しかも破れてくれたこと、敗走すら許されずにここに転がったままでいてくれていることは、このようにして、俺にとって本当に幸いであった。この僥倖により、俺は、空手で神に挑むような絶対不可能な試練を、精々龍に挑む程度の試練に変えることが出来ているのだ。こちらの絶望も色濃いが、しかし、完全ではない。幽くも光明が透けてくるのであれば、全力で縋ってやる。もしもこの試練を達成すれば、俺は氷刃のみでなく数多の偽善的英雄をこの世から排除することが出来るのだ。やってやる、どの道もう死ぬのだ、今日この日までに培ったもの、その内の魔力はなくなっちまったがそれでも残るもの、全ての理智と力を注いでやる!

 俺は慎重に動き、黒焦げでうつ伏せとなっている、雷帝の体の許へやって来た。恐らく死んでいるその体を、やはり慎重に起こし、そして、虹剣の方へと、思い切り押し出す。バンウィアーは敏感に反応し、刃を煌めかせたが、しかし、こんな雑な方法では雷帝の体が歩んでくれる筈もなく、俺の手から離れた瞬間から再び倒れ始めていたその黒焦げは、虹剣の振るった斬撃の下を器用にくぐった。一撃を外した為か、それとも自分がとんでもないことを仕出かしかけたことに気が付いた為か、とにかく表情を歪めた虹剣の、隙を衝き、俺は、雷帝から奪っておいた剣で、その右半身目掛けて斬りかかる!

 右を護るべき剣を攻撃に回した直後であった虹剣は、態勢を整えきれずに、俺の斬撃をそのまま受けることになった。脇腹の方、肩の付け根から腰にかけての斬撃は、しかし、空滑りしてしまう。その感触の奇妙さに絞られた俺の目が見た物は、裂かれた虹剣の服の間から覗ける、チェインメイルだ。とにかく俺は、案の定すぐに飛んできた虹剣からの反撃を回避する為に、慌てて身を引く。そうだ、アイツはあんな物を着込んでいるのだった。ということは、露になっている、例えば首や顔の辺りを攻撃せねばならんということなのか? しかし、そこら辺には、盾が常に彷徨いている。

 今俺は、攻防を経て巡り巡った結果、入ってきた廊下を背負いつつ、ちょっと距離を取って虹剣の目の前に対峙している。正十二面体が轟かす不快音の中で、向こうは相変わらずきょろきょろしている辺り、俺がここに居ることが分かっていないのだろうが、しかし、あんまりぼんやりしている訳にもいかないのだ。何せ、あの男が気が付いてしまったら、その時こそ、一巻の、

 その瞬間、いきなり、いかにも清浄な飛沫が俺の顔に飛んできた。水だ。何が起こったのか、やや伏していた視線を持ち上げると、改めて、虹剣がびしょ濡れになっている。その、背後から大量の水を浴びせられたかのような間抜けな表情を見て、しかし、俺はこの上なく戦慄した。ああ、まさか! 

 虹剣の体の向こう、なんとか見える、壁に凭れたまま確かに死にかけていた筈の血(まみ)れた氷刃が、顔を伏したままで、しかし、その左手を、風に揺らされる枯れ枝のごとく頼りなく、しかし、まっすぐ前に伸ばし、まるで、そこから魔術でも放った()()()()()、掌を立てている。何ということだ! どうでもいいと思っていた、氷刃の水撃呪文が、折角そのような解決法に気が付かないで居てくれた、虹剣の、体を洗ってしまったのだ。女神の名を持つ魔術師の重過ぎる細腕が、再び力なく地面へ落下した瞬間、魔荷(チャージ)の纏いを解かれたことで久々に俺を認めたバンウィアーが、にぃっと、邪な笑みを浮かべる。その見開かれ続けている虚しき両眼に点るは、最早怒りではなく、獲物を目の前にした興奮であった。クソ、ハーゼルモーゼンの死に損ないめ、余計な真似を!

 しかし、虹剣は攻撃してこない。何故だ? 一刻も早く俺を打ち倒して、さっきまで識眼視界が塞がれていたことで容態を見失っていた、戦友達の治療に専念したいと思わないのか? あるいは、もうこの一瞬で、彼ら彼女らに緊急の治療の必要がないと確信したのか?

 次の瞬間、俺は納得した。ああ、そうか、治療を急ぐ必要ではなく、攻撃を急ぐ必要がなかったのか。俺にこれを知らしめたのは、突如背中に走った、熱と激痛である。床に倒され、たまらずに背後を見上げる俺の目に映ったのは、俺の血を滴らせる剣を握りながら、背中を踏みつけようとしている、〝狩人〟の姿だった。ああ、しまった。虹剣の耳を潰す為の、この大音声(だいおんじょう)は、俺の耳まで潰してしまい、先程まで大いに役立っていた跫音を聞き留められなくしていたのか。

「お前、臭いな。」

 そのような事情を鑑みてか、やたら大きな声で、俺の上の狩人が話しかけてくる。

「この臭い、確かあの、禁制品の水剤だな? ということは、お前はもう魔術は使えん筈だ。つまり、ここから反撃など不可能だろうし、もしも試みたら、その、悪知恵の働く頭を、胴体から切り離してやる。大人しくしていやがれ、この野郎。」

 せめて歯を喰い縛る俺の前で、最早尋常な識眼視界を取り戻した虹剣が、近場のザナルドの治療を始め、瞬く間に、あの焦げ人形を、再びいまいち締まりのない様に見える雷帝の姿に恢復させた。そして虹剣が続けて氷刃を治療し、指示を出された雷帝が陽炎を治療し、そんなこんなで、結局この広場で執り行われた血の儀式の参加者の内、ヴェロ以外の全員が、衣服を破かれただけの、元の姿に戻ってしまったのである。各々の顔の変化は、戦士達のそれにおいて、屈辱と安堵と疲労とで奔放に歪んでいることと、俺において、鼻の頭から血が流れていることだけだ。

 誰かが白灰の魔具の音を止めたことで静かになったこの広場で、数は多少足りぬものの、いつかの日の黄昏時に訪れたペネニラル記念公園のように、英雄達がずらりと並んでいる。その中に立ち、俺達の攻撃によって破壊された服が全く隠せていないその乳児のような真っ白い胸板と、全身でそこだけ皮膚らしい色をしている乳首を庇いもせずに、ミネルヴァは、

「謝罪と、(おん)礼と、とにかく、あなたには様々なことを述べなければなりません、バン。」

 その、咳き込みも吃りもせずにまともに喋る氷刃の姿が、俺の、今日の、あるいは()()()()に来てからの、――いや、違う。俺の生涯全ての行動の無為を、虚しさを、真っ向から証明してきた。ああ、全てが終わった。何も、為せずに。

「状況を整理せねばなりませんが、そこの、」

 ここでミネルヴァは、作家らしく、言葉の選択にたっぷりと時間をかけた。

 結局、人の表現を拝借し、

「……そこの偉大なる戦士とやらを、まず、大人しくさせないと気が休まりません。頼めますか?」

「ああ。」

 応じた虹剣が、その剣の切っ先を俺に向け、しばらくすると、急に耐え難い眠気が俺を襲った。催眠呪文、か。背中の、狩人の足の不愉快な感触を頼りに、俺はその不自然な欲求に抗ったが、しかし、お預けを解除された犬のように雷帝が氷刃を抱き寄せようとし、体重差故にそれは叶わずに、結局自分の体をぶつけるように婚約者を抱き締めた様を、霞む視界で見届けたところで、俺の意識は一旦消滅した。 

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