8.回復の泉
森の中は、直射日光が遮断されるため、薄暗くなっていて、ひっそりと静まり返っていた。桂皮みたいな甘い樹木の芳香が、つんと鼻についてはくるものの、辺りには動物の姿が全く見えず、ときおりホーホーという鳥の鳴き声が、遠くから淋しく聞こえてくるだけだった。
そして、三人をあたかも招いているかのように、人が踏み固めたように見える、くねくねと曲がりうねった獣道が、一本だけ、延々と伸びていた。
「そろそろ、森に入ってから一刻くらい経っているでしかね?」
「なあ、おかしいと思わねえか? 迷いの森というくせに、ここまで分かれ道も全くなしと来たもんだ。これじゃあ、ちっとも迷い様がねえじゃないか?
おい、ジュラ。さっきから黙って、なにしているんだ?」
「あれれっ、ジュラさん、消えちゃったでしか?」
「ここにいるわよ。人聞きの悪いこといわないでちょうだい。ちゃんと働いているんだから。
ある程度歩いたら、目印に小枝同士を結んでおくんよ。ほら、ここを通ったという目印になるでしょ?」
「なるほどな。でも、ここまではずっと一本道なんだから、あえて目印なんか付ける必要もないだろう?」
「うっさいわねー。確かにここまでは、迷いの森とは名ばかりの状態だけど……」
そういって、ジュラが考え込んだ時だった。マルスが大きな声を発した。
「おおっ。泉があるでしよ」
突如として出現した小さな丸い池は、透明度が高い水を満々と留めて、鏡のように清らかに澄み切っていた。中心部からは、絶え間なく水がこんこんと湧き出していて、水面には美しい同心円状の波紋ができていた。
マルスとメミルが先を争って泉の水を飲もうとしたので、ジュラが慌てて止めた。
「ちょっと待ちなさい! あんたたち馬鹿じゃないの? その水が飲めるかどうかも調べもしないで……」
「ジュラ、心配いらねえぞ。ほら、すげえうまい水だ」
メミルは美味しそうに水をすくって飲んでいた。
「本当でし。みるみる元気が出てきたでし」
マルスの喜びようを見て、ジュラも横から恐る恐る湧き水を、手にすくって飲んでみた。
「あっ、本当だ。ふーん、ここは回復の泉ね」
「回復の泉?」
「うん。噂には聞いたことがあるけど、その水を飲めば、失っていた体力を回復できるといわれている、不思議な泉よ」
「なんだか、これじゃあ迷いの森というよりも、憩いの森と呼んだ方がぴったりくるよなあ」
「さあ、元気が出たから、また旅を続けるでしー」
泉から少し進んだところに、ひときわ目立つ樫の老木がそびえていた。道はそこで二股に分かれていた。
「ついに分かれ道ね――。さあ、どっちに行くん? 右、左?」
「とりあえず、右に行ってみよう」
メミルがあっさりと提案すると、あとの二人もそれに従った。
右の道を選択した三人は、再び半刻ほど歩いた。しかし、道は、樫の木の分岐路からはずっと一本道で、分かれ道はどこにもなかった。
やがて、メミルたちの前に、またもや泉が現れた。
「あれれ、さっきの泉に戻ってきてしまったぞ?」
その泉は、周りの景色が、先ほどの泉と寸分たがわず一致していた。
「本当でし。ぼくたちは、ぐるりと一周して、またここに戻ってきてしまったんでしね」
「ちょっと待ってよ。おかしいわね。うちら、ここに来るまでに、どこか別の道と合流したっけ?」
「いや、そんな道はなかったな」
「それじゃあ、おかしいわよ。ひょっとして、この泉、さっきの泉と違うんじゃない?」
「そんなことはないでしよ。風景が全く同じでしからな」
「そうだよな。こいつは確かにさっき通った泉に間違いはねえ」
「見た感じは全く同じなんだけど……、なんか納得できないわねえ」
「まあ、細かいことは気にしない! また、疲れたから、泉の元気のもとを飲むとしようぜ」
その泉の少し先に行けば、先ほどと同じく、樫の巨木がそびえていた。
「ほら、やっぱりこの泉は、さっき通過した泉だったということでしよ。この樫の木が、動かぬ証拠でし」
「まさに、動くことはないわよね……」
そして、三人の前には、やはり、分かれ道が立ちふさがっていた。
「さあ、今度は、どっちにいくでしか?」
「今度は、左にしようか?」と、再度メミルが行く先を決定した。
また半刻ほど歩いただろうか? 三人の目の前には、例の泉が現われていた。
「また、ここに戻っちゃったよ。つくづくおれたちはここに気に入られているようだな。はっはっはっ」
「絶対におかしい! だって、うち、ずっと道を見てきたけど、分かれ道は全然なかったんよ。それに見てよ。ほら。さっき通る時にうちが結んでおいた木の枝が、いまは解けちゃっているわ」
「本当に結んだんでしか?」
「絶対よ。うち、この木、覚えているもん」
泉を後にして、これで三度目となる樫の木の分かれ道までやってくると、マルスがメミルに訊ねた。
「どうするでし。次は右でしか?」
「いや、もう一度左に行ってみよう」
「意味わかんないけど、まあいいわ」
半刻後、一行は四たび泉の前にやってきていた。
「あーん、もうやだ。これが迷いの森ってことなんね?」
「ぼくも、そろそろお腹が空いたでし」
「ジュラ、さっきの木の枝は、いまはどうなっている?」
「おかしいわね。また解けちゃっているわ」
「そうか……、なるほどね」
「なにが、なるほどなのよ?」
「さあ、もう一度、樫の木の前まで行ってみようぜ。だんだん面白くなってきたな」
「どうかしてるわ。いったい、なにが面白いんよ?」
三人は、四度目となる、樫の木の前へとやってきた。
「さあ、樫の木よ。今度こそは右よね?」
「いや、もう一度左だ」
「なにいってるの? さっきも続けて左だったんよ?」
「嫌なら、お前は右に行ったらどうだ?」
「もう知らない。あーん、疲れたー」
メミルたちは左の道を選んで、またもや半刻ほど歩いた。すると、一行の前には、五度目となるあの泉が現れたのであった。
「ほうら、また泉に来ちゃった。どう責任とってくれるんよ? あーん。もう一歩も歩けなーい」
「じゃあ、とりあえず、元気を回復するとするでし」
そういうと、マルスはのこのこと水岸に近づいて行った。
「待てよ、マルス! 今回は、泉の水は飲まない方がいいぜ」
「なぜでし?」
「疲れたー。おうちかえりたーい」
「よく見ろ。ここはさっきの泉じゃねえ」
「えっ、どうしてでし?」
「ちょっと、聞いてるの? もー、疲れたー。おうちかえりたーい、んだけど……」
「だってよ。小鳥のさえずりが消えてるぜ」
「夕方になったからじゃないでしか?」
「あんたたち、うちのこと、完全無視していない?」
「それに水面が静かだ。さっきまでの泉は、こんこんと水がわき出ていたから、水面が動いていたけどな」
「ほんとでし。それに、近くのどこかで水のせせらぎの音が聞こえるでし。ここは、さっきの泉じゃないでし!」
「周りの景色は全く同じなのに?」と、ジュラが我慢できずに話にわり込んできた。
「ということで、この先の樫の木の分かれ辻で、今度こそ、なにか進展があるのかもしれないな」
皆を元気づけるかのように、メミルが声を張りあげた。
今回の樫の木のまわりの様子は、以前のと特に変わっている感じはしなかった。
「どうやら、なにも変わっていないようね。今度はどっちの道にするの?」
「さあ、ここで行動を別にしよう。まずおれが右の道へ行く。お前らはここでしばらく待っていろ」
「賛成、賛成、大賛成――。うち、もう疲れちゃって歩けないし、おなかぺこぺこー」
「異論はないでし。ところでどれくらい待てばよいのでしか?」
「そうだな。少なくても三刻の間は、ここで待っていろ。なんなら寝ててもいいぞ」
「わーい、ラッキー。じゃあ、メミルいってらっしゃい。なにするのか知らないけど――」
「いいか、絶対にここから離れるんじゃないぞ。それから、ここの泉の水は飲んじゃだめだからな」
そういって、メミルは一人で、右の道を選択すると、先へと進んでいった。
それからしばらくの間、メミルが姿を見せることはなかった。
「ちょっと、あんた。火を起こせないの? だんだん寒くなってきたわよ」
「ぼくは水魔法でしから、火をともす魔法は、第三水準にならないとできませんでしな」
「ふーん。それであんた、いつになったら第三水準を習得するんよ?」
「そうでしな。早くて二年、遅くて十年くらいでしかな?」
「最低――! 日ごろからもっとちゃんとお勉強していなさいよね。
ところでマルス。あんた、背中の袋にはなにいれているの?」
「えっと、魔法の秘薬とおやつでしな。さあ、ジュラさん、美味しい腸詰めはいかがでしか?」
「わーい、うれしい。マルス、あんた最高よ」
二刻ほど経過して、メミルが戻ってきた。その手には、灯りがともった松明とホロホロ鳥の死骸があった。
「なんだ、真っ暗じゃねえか。お前ら火も起こしていないのか?」
「メミル、ずるーい。自分だけ松明持って」
「実は火が起こせなかったんでし……」
「そりゃ可哀そうに。おい、マルス。適当に枯れ枝を集めて来い」
やがて、火がともされると、ジュラとマルスはようやく満足げな笑顔を見せた。
「メミルさん。どうやって火をつけたでしか?」
「木と木を擦り合わせてつけるのさ。常識じゃないか」
「ふーん、それってちょっと大変よね。どう考えても、うちの仕事じゃないわ」
「ぼくも力仕事はちょっと苦手でして」
「あらー、あんたに得意なことなんてあったかしら?
ところで、メミル。なにかわかったん?」
「迷いの森の秘密全体の半分くらいは、どうにか解明できたぜ。
あのあと、おれは右の道を進んでいったけど、結局、元の泉の場所に舞い戻ってしまったんだ。
それから、樫の木の前の道を、右、左、右、右、右、左、左、左と選択して進んでいったら、ようやくここにたどり着いたというわけだ。そして、その途中では、一切ここに来ることはできなかった。
結局、三回続けて左の道を選択した場合のみ、この場所にやってくることができる、ということになるな」
「なるほど、つまり、メミルさんは、右、左、左、左、と進んだこの場所でぼくたちと別れて、その後で、右、左、右、右、右、左、左、左、と進み、三回続けて左に進んだ場合だけが、この場所に到達できる、という事実を発見したわけでしな」
「あんた、結局、十二回もあの道を歩いてきたんだ。お疲れ様」
「しかし、それだけの道のりをたったの二刻で回るなんて、つくづくメミルさんは足が速いお人でしな」
「そういうこと。じゃあ、謎が少しだけ解明できたお祝いに、こいつをいただこうぜ」
メミルは、まるまると太ったホロホロ鳥の羽毛をむしって、焼き始めた。