3.暗い闇の中で
ジュラは、さっき閉めたばかりの扉を開けようと試みたが、今度はびくともしなかった。
気味の悪い声が次第に近づいてくる……。
「いま、魔法で扉に鍵をかけちゃったのさ。もう逃げられないよー。それにしても君、とってもかわいい顔しているねー。きれいな女の子って大好きさ……」
白いねばねばの粘液が、びゅっと飛んできて、ジュラの左手首に絡みついた。そのまま糸状に伸びた粘液は、いったん鞭のように大きくしなると、軽量な彼女の身体は、ぐいっと引っ張られて上に持ち上がる。
続いて飛んでくる四本の粘液が、次々と手足を正確に射抜いて、接着剤のように壁に貼りつく。気が付けば、Xの文字ように手足を伸ばした姿で、ジュラははりつけにされていた。
六つの赤く光る眼がついに正体を現した。それは人間の言葉をしゃべる大蜘蛛だった。
「あはは、とっても恥ずかしい格好になっちゃったねー。すぐに食べちゃうのももったいないし、もうちょっと遊んじゃおうかなー?」
ふたたび何本もの粘液が宙を飛び交って、ジュラのマントにぺちょぺちょと貼りついていった。すると、粘液の糸はゴムのように収縮して、烏色のマントをジュラの身体からびりびりと引き裂いていった。
「きゃあっ……」
短い悲鳴を発して、ジュラはきっとにらみ返した。マントは無残にも剥ぎ取られ、白い絹肌が露出しているのだが、いかんせん、はりつけられたままでは、どうすることもできない。
大蜘蛛は、もう目の前まで迫っている。毛むくじゃらの太い前足が、まるで焦らすように、そろそろと伸びてきた。
「君、本当にすべすべのいい肌しているねー。感心しちゃうよ。若い娘は三年ぶりだなー」
ジュラはあきらめて目をつぶろうとした。――とその瞬間だった。
「あれれれれー?」
不気味な叫び声とともに、大蜘蛛の六つの赤い目が、縦に三つずつに分裂した。
いったい、なにが起こったの……?
「よう。危なかったな」
真っ二つに切り裂かれた大蜘蛛の死骸の横には、さっきのヒュームが、剣を片手に佇んでいた。
「あんた、どうやってここに?」
「お前さんのうしろについて、いっしょにこの屋敷に入っていたぜ。あれ……、気づかなかったのか?」
「まさか、うちの後ろをずっとついて来て、うちが扉を閉めるより前に、ここに飛び込んだとでもいうの?」
「そうだよ。おれのただ一つの取り柄は素早さでね……。
じいちゃんがホビットなんで、その血のおかげなのかな? ちっちゃい頃から人の動きなんて、停まって見えるのさ」
普段は口数の少ないメミルだが、珍しくべらべらとまくし立てていた。
ジュラは、にっこりと微笑んでから、一言告げた。
「そんなことより、そろそろここから下ろしてくれないかしら? 白馬の騎士さま」
大蜘蛛の粘液を完全に取り去るのには少々骨が折れたが、ジュラは晴れて自由の身となった。
「なによ、このねばねば。変な匂いがするし、もう……、やになっちゃう!」
ジュラは、粘液がついた手首のまわりに鼻をあてて、ぼやいている。
「ところで、お前。禿げおやじから財布をくすねたんだろう? 返してやれよ」
「お前とは失礼ね。うちにはジュリアーヌ・ベレズコリアキヌという立派な名前があるんよ」
「ジュリアニ……?」
困惑するメミルを見て、あきらめた様子でジュラが答えた。
「ジュラでいいわ。あんたは?」
「おれはプリミラ谷のメミルト。メミルって呼んでくれ」
「プリミラ……? じゃあ、あんた。あの大洪水の生き残り?」
「ああ。当時おれんちは高台の上にあったからな」
「そうなの……」
ジュラは少しの間黙っていたが、思いついたように床に落ちている大蜘蛛に引き裂かれたマントの前までやってきた。
「あーあ、あいつの汚らしい粘液まみれになっちゃった。これじゃあ着られやしないわ」
ジュラは、マントの内側にあるポケットをごそごそと探って、三枚の銀貨を取り出すと、両胸を覆い隠している布と地肌とのすき間に無造作に押し込んだ。ふと、メミルの視線が、下着だけの姿となった自分の裸体に注がれていることに気づいて、
「なに、じろじろ見てんのよ?」とメミルをにらみつけた。
「あっ、ごめん」
メミルは顔を赤らめて、ジュラの細い身体から目を逸らした。
「ふふっ。ところでさ、あの禿げ頭は有名な悪徳高利貸しなんよ。なんにも同情する必要なんかないわ。お金いっぱい持っているんだから」
「そうはいっても、正義は正義でなければならないんだ。人として正しい道を常に進まねばだな……」
「あんたねえ。善良な市民から生き血をすする薄汚いどぶねずみと、貧しい善良な市民を代表するかわいらしい女の子と、いったいどっちの味方をするんよ?」
「それは、まあ、女の子の方が……。いや待て、これだけはだめだ。とにかく、正義は正義なんだよ!」
頑なな態度を貫くメミルに、ジュラはいよいよしびれを切らしたようだ。
「もう、うっさいわねえ。じゃあ、これでいいでしょ?」
くびれた両手が、にゅうっと下から伸びてきて、細い指先がメミルの首筋にあやしく絡みついた。そのままぐっと引き寄せられたかと思うと、口もとがなにかでふさがれていた。
それは一瞬の出来事であった。気が付くと、メミルの口もとには、つるっと濡れた花唇の柔らかい感触が、ほんのりと残されていた。
「あはは、股間への攻撃は防げても、お口の方は無防備みたいね。
そうそう、うちの唇って、そう簡単には手に入らない、とっても貴重なものなんよ。だから、このお金がそのお代ってこと。これで文句はないでしょ?」
そういって、ジュラはメミルに軽く片瞬きをした。
予想外の出来事に、メミルの胸の鼓動は高鳴って、足元の力はがたがたと抜け落ちていた。
「ちょっと待てよ。それはなにかおかしいような気がする。だいたい、禿げ頭はお金を取られただけになっているじゃないか?」
「なにいってんのよ! うちはお金をもらったけど、その代わりに大切な貞操をメミルに奪われちゃったんよ。
そういえば、メミルはうちの唇を奪ったくせに、なにも失ってはいないみたいね。
もし、あの禿げ頭を可哀そうに思うんなら、あんたの騎士道精神とやらにのっとって、あんたが禿げ頭にお金をめぐんであげれば、すべてがまあるく収まることになるでしょ。ちがうん?」
「え? それは、そうだが……、なにか納得がいかねえ」
「なにをいまさら、男らしくないわね。それとも唇を奪った責任をきちんと取ってくださるのかしら?」
反論することができずに、メミルが考え込んでいると、ジュラが付け足した。
「それからね、メミル。あんた、どこかからうちの身体を覆う布きれを調達してくれない? このままじゃ、恥ずかしくて外にも出られないし……。
ちょっと、早くしてよね! うちが風邪でも引いたら、あんたどう責任取るん?」
「わ、わかったよ。ちょっとだけ、待っていてくれ!」
慌てふためいて外へと飛び出して行ったメミルの姿を見て、ジュラはおかしくなって、くすくすと笑い出した。
「ふふっ、本当にかわいいうちの僕ちゃんだわ……」
メミルは、罪悪感に悩み苦しみながらも、ジュラのために裏路地の物干しに干してあった大きな布をこっそり拝借して、大急ぎで大蜘蛛の家まで戻ってきた。
しかし、そこに彼女の姿は跡形なく消えていた。暁闇の薄明りに照らされて、ポツンと立ち尽くすメミルの前を、春先のつむじ風がさみしく舞っていった。