2.白い肌の踊り子
「お客さん、もう店じまいだよ。やれやれ困ったな」
メミルが目を覚ますと、店の中にはバーテンしか居なかった。どうやら時刻も夜半を大きくまわっているようだ。青猪亭を追い出されたメミルは、仕方なしにぷらぷらと裏通りを歩き始めた。
浮かれ気分でどことなく歩いているうちに、いつの間にかメミルは娼婦街に足を踏み入れていた。用が足したくなったので、袋小路の行き止まりにごみため場を見つけると、メミルはよろよろと近づいて行った。狭い通りの両側には、安っぽいレンガ造りの宿屋が立ち並んでいる。
と、その時だった。あろうことか、空から人間が降ってきたのだ。
落ちてきた人間は、メミルのすぐ前の地面に猫のように身軽に着地すると、メミルを無視するかのように背を向けた。しかし、その先が行き止まりであることを確認すると、さっと身をひるがえして、烏色のマントの下から鋭い視線を一瞬ぎらりと覗かせる。
「おっと、ごめんよ」
そいつは乱暴にメミルにぶつかって、わずかばかりのすき間をこじ開けると、そこをすり抜けて駆けていった。
メミルは呆然としながらも上空を見上げると、三階の窓が一つだけ開いていて灯りが煌々と漏れていた。ということは、あいつは、五ヤルデあろうかという高さから平気で飛び降りたのか……。
「おおい、盗人だー」
先ほどの窓から、禿げ頭の親父が、首をぬっと突き出して叫んでいた。
禿げ頭はメミルの姿を見つけると、
「おい、お前。小娘を見なかったか? 色白の吊り目で、唇が妙にいやらしいんだ。いま、わしの懐から財布をくすねて行きやがった」
「ああ、見たぜ。黒マントだろう?」
「そいつだ。頼む、捕まえてくれ。礼ははずむぞ」
あまりに高飛車な禿げ頭の命令に、メミルはさほど乗り気でなかったが、『騎士道たるは、ひたすら正義の探求のみにある』という古きことわざを重んじる彼にとって、この依頼を断る理由はなかった。
指をぽきぽきと鳴らして大きくひと伸びすると、メミルは颯爽と黒マントを追い始めた。
ジュラは追手がこないのを確認してから、盗んだなめし皮の袋を逆さに振った。中から銀貨が三枚出てきた。
「ふん。やっぱり三クローレしかないじゃん。たったの三クローレでこのうちを一晩ものにできるとでも思ったのかね? 甘く見られたもんだわ……」
皮袋を道端にぽいっと投げ捨てると、ジュラは街の中心に向かってとぼとぼ歩き出した。
――背後に異様な殺気を感じた!
軽い身のこなしでジュラは塀をよじ登ると、わずかな幅しかない塀の上を全力で駆け出した。
「まさか、あの禿げおやじが? 意外と侮れないやつだったのか?」
それでも、さすがにこの狭い塀の上を走るなんて芸当、ダンサー特有の平衡感覚でもなければ出来るはずがない。
どうやら気配は失せたみたいだ。ジュラはほっと一息吐くと、ぴょんと路地へ飛び降りた。
突然、後ろから肘をぐっとつかまれた。しかも、とても強くて鋼のような力だ。なにが起こったのか分からずに混乱を極めるジュラの耳元で、抑揚のない男の声がささやいた。
「わりいな。あんたに怨みはないけど、おれは正義を重んじなければならないんでね――」
とうとうメミルは黒マントを捕えた。
「まずは面から拝ませてもらうか」
そういうとメミルは、賊の顔を覆っている頭巾を、ばっと引き剥がした。
薄茶色の長い髪がボワッと広がる。かすかに漂う甘いクリノスの香り。振り向いたのは、雪のように透き通った白い肌の少女だった。吊り上った碧い目が、強気な性格を醸し出している。禿げ男がいっていたように、小振りながらなまめかしくて吸い込まれるような唇をしていた。
「おい――、お前、青猪亭の踊り子か?」
間違いない。顔は一瞬しか見えなかったが、こいつはさっきの舞台で踊っていた二番目の踊り子だ!
見たこともない頑強な男に左腕をがっちりと押さえられて、身動きが全くとれなかった。
「誰よ、あんた?」ジュラはきっと男の顔をにらんだ。
発達したあごにきりっと通った鼻筋。男性としては魅力的な顔つきのヒュームだが、細い目がどんよりと曇っていて、表情からはなにを考えているのか全く読み取れない。擦り切れた安っぽい皮鎧を着ているが、近衛兵の戦士だろうか?
しめた――、脚ががら空きだ!
「優しそうなお兄さんね。そんなに見つめちゃ、うち照れちゃうわ」
そういって油断を誘っておきながら、男の股間を目がけて、ジュラは思い切り蹴りをぶち込んだ。
ところが、彼女の足首は、急所寸前で、男の右手に阻まれる。
「かわされた……?」
ジュラは、とっさに反対の足で地面を蹴って、回し蹴りをあびせたが、男はちょいっと頭を下げるだけで、なんなくそれもかわすと、つかんでいたジュラの足首をぱっと放した。
「おい、無理するなって。おれがつかみ続けていたら、お前、足をひねって怪我していたところだぞ!」
そのわずかな隙を見逃さず、ジュラは猫のように一目散に駆けだした。再び塀に飛び乗ると、さらに屋根へとジャンプする。そのまま前宙をかけて、となり路地へと飛び降りると、たまたま目の前にある家の中へ飛び込んで、背中越しにばたんと扉を閉めた。
「はあはあ、なんてやつなのよ?」
息も絶え絶えに、ジュラが愚痴をこぼした。
それにしても、この扉の鍵がかかっていないのは、運が良かった。いくらやつが俊敏でも、さすがに、どこに逃げ込んだのかは、分かりっこないだろう。
家の中は、入口付近に松明がともされているだけで、ひっそりとしている。奥の方は暗闇となっていて、よく見えなかった。
ほったて小屋と思われたのに、中へ入ってみると、意外にも道場のように広々としている。でも、木でできた壁はあちこち腐っていて、ところどころが剥がれ落ちていた。
ジュラははっと息をのんだ。奥に誰かがいる!
「お客さんかい? 珍しいねえ。おやおや、これは美味しそうなお嬢ちゃんだなー」