夢花《ゆめはな》
夕路は昔からわがままだった。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。いつもはっきりと自己主張をする。おかげで、幼なじみのオレは夕路と一緒にいることが多かったばっかりに、たびたびとばっちりを受けて迷惑したものだ。
「塾にさ、高遠いづみって先生がいるんだけどさ。そいつ、へんなやつなんだよ」
言いながら、穏やかに笑う。え?と、思わずまじまじと夕路を見つめた。そんなに柔らかく微笑する夕路を見たのは、初めてな気がしたから。
「なんだよ」
オレの視線に気付いて、浮かべた微笑をすぐにかき消し、今度はむっとした表情になった。それだけでは飽き足らず、オレの頭をぽかりと殴った。そう、オレの知っている夕路は、こういうむちゃくちゃなヤツなのだ。
たかとおいづみ。夕路にあんな表情をさせるひと。――
社交的な夕路と、口下手なオレ。好きな女の子が同じだったら、圧倒的にオレが不利だ。今までは、夕路が野球一筋で、オレはサッカー一筋だったから特に問題はなかった。お互いに、何人かの女の子に告白されたこともある。でも、不思議なことに悲劇は起きた。オレも、やがて同じ塾に入り、よりにもよって、先生の高遠いづみに恋をしてしまったのだ。
「何やってるんだ、あいつらは……」
塾で今日最後の授業が終わり、廊下を歩いていたときだ。ひとつの教室を指し示して、友人の篠原くんがオレに苦笑する。
見れば、いづみが夕路の補習をしているところだった。ただし、どうやら夕路に惚れているらしい藤島穂乃香が、夕路の背後にぴったりとくっつくように居座って邪魔をしている。夕路はこれ以上ないほど、おそろしく不機嫌な表情をしていた。いづみは困ったように二人を見比べている。
「あれは……集中できないだろうな」
藤島よくやった、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
夕路にしてみれば、大好きないづみと二人でいられる貴重な時間を邪魔されているわけなので、藤島を嫌いこそすれ、好きになるわけはないのだ。しかし、藤島だって、片想いをしている相手の夕路が、他の先生や生徒ならともかく、惚れている相手のいづみと二人でいるところなんて見過ごせるわけがない。藤島のその行動力には本当に感嘆する。
「頼むからさあ……」
思っていたよりも、ずっと弱々しい夕路の声が、教室の扉の隙間からこぼれ落ちてきて、オレははっとした。
「邪魔しないでくれよ」
勉強ももちろんそうだが、それ以前に。いづみと一緒にいられる時間を。……
言葉にならなかった夕路の心の声が聞こえた気がした。だって、オレと夕路は幼なじみ。普段だって、いづみに授業を持ってもらっているわけじゃないから。補習を逃せば、次はいつ一緒にいられるかわからない。夕路だって、必死なのだ。
「穂乃香ちゃん、それじゃ集中できないと思うよ……」
いづみが困ったように藤島をたしなめ、一瞬哀しげに目を伏せた。
夕路は感情表現がストレートなので、夕路がいづみに惚れていることは、周りのヤツらみんなが気付いていた。でも、オレもいづみに惚れていることを夕路は知らない。
いづみが夕路と藤島のやりとりを瞳にうつして、寂しそうに小さく微笑み、首を傾げた。
ばかだな、夕路。いづみにそんな表情させるなよ。――
夕路に対して腹が立ち、胸がぎゅうっと苦しくなった。
咲く花で季節がわかるね、とふわりと微笑む。そんないづみが好きだった。口下手でうまく話せないオレの言葉を、急かすことをしないでのんびりと待ち、楽しそうに頷いてくれるひと。いづみがあいづちを打つたびに、普段では考えられないくらい、次々に言葉があふれてくる。
夕路が惚れてしまうのも、わかる気がした。
「今の季節だと、桃の花だね。春は、梅、菫、つくし、つつじ。菜の花、山吹、沈丁花。それから桜」
楽しそうに紡がれる言葉の数々は、つながれていく真珠のようだ。柔らかだけど、よくとおる声。耳に馴染んで聞きやすい。彼女の生みだす言葉は、どれも美しく、きらきらしていた。
でも。いづみは夕路の好きなひと。そして、いづみもたぶん……。
いづみは桜みたいだ。桜の花びらが、ほろほろ散るのをただ眺めるしかできないように、紡がれていく言葉を聞いているだけで、とても切なくもどかしい。いづみは夕路の、好きなひと。――
「ユキも邪魔してくればいいのに」
夕路といづみが一緒にいるのを、ただぼんやり眺めるオレに、幼なじみの蛍が言う。オレのことも、夕路のことも、小さい頃から知っている。蛍はなんでもお見通しだ。四人兄弟の長女のせいもあってか、しっかり者で、気付けば同じ年齢なのに、オレたちの世話も焼いてくれたりする。
「穂乃香はよく邪魔してるよ」
……確かに。でも一緒にしないでほしい。あんな行動力があれば、苦労しない。
オレの無言の訴えを理解してくれたのか、蛍は肩をすくめてみせた。
「ユキは夕路が大好きだよね」
「……その言い方、やめろよ。誤解を招くだろ」
まるで、オレが夕路に惚れているみたいな言い方だ。
ただ、夕路は以前オレを助けてくれたから。オレは、夕路に幸せになってほしいんだ。
オレは受験で部活を引退したのを最後に、小さい頃から大好きだったサッカーをあきらめた。スポーツの世界では珍しくはない話だとは思うが、練習をしすぎて膝を痛めてしまい、長時間の運動ができなくなってしまったのだ。小さいときから、プロのサッカー選手になるつもりだった。地域のクラブチームに入って、選抜メンバーにも選ばれた。夢に近づいていると思った。でも、夢は夢のまま、あっさりとオレの手からこぼれ落ちていった。
「これでもやってろ」
暇なんだろ、と部活にさえ出られず、部屋でふさぎ込むオレに、夕路は大量のゲームを持ってきた。口は悪いが、夕路なりにオレを励まそうとしているのがわかった。夕路も無類の野球好きだ。怪我は、決して他人事ではないのだろう。かといって、素直に礼を言う気にもなれず、ぼんやりゲームの山を見下ろした。
夕路は、無言のオレを特に気にとめる様子もなく、くるりと勢いよく方向転換をした。そのまま一気にオレの部屋を飛び出したかと思うと、慌ただしい足音が廊下中に響きわたる。ぴょんぴょん跳びはねるようにして帰る夕路を、部屋の窓から見送った。
二日後、夕路はまたしても唐突に、大量のマンガを持ってきた。あまりの量に呆気にとられているオレをきれいに無視し、夕路はあっさり帰って行った。
翌朝、学校で夕路に会うなり、オレをオタクにしたいのか、と文句を言ったのが運の尽き。その日の夕路はボールとグローブを持って部屋に現れた。自分の部屋に鍵がないことを、これほど恨めしく思ったことはない。結局、キャッチボールに無理矢理付き合わされるはめになった。
「男はやっぱり野球だ」
得意げに語る夕路がおかしくて、思わず笑った。
「ユキも野球にしよーぜ」
小さい頃も、やっぱりキャッチボールに付き合わされたのを思い出す。
当時の夕路もまだ小学校一年生。
のちにエースピッチャーをつとめる夕路も、今ほどコントロールがいいはずもない。手加減ナシのボールが容赦なく自分に襲いかかる恐怖は、筆舌に尽くしがたい。結果、野球嫌いになったオレ。だが、今日の夕路が投げるボールは、オレが取りやすいようにゆっくりで丁寧だった。掌に伝わるボールの重みが心地よい。でも。
「ありがとう、ユウちゃん。でもオレ、ボーズにはしたくないんだ」
次に投げられたボールが、手加減ナシの剛球だったことはいうまでもない。
今でもまだ、サッカーを楽しそうにしているヤツらを見ると、やっぱり胸が掻きむしられるような、そんな切なさを感じるけれど。
以前よりは、立ち直ってきていると自分では思う。
それは、オレが外との関わりの一切を拒否しようとしたとき、夕路がそれを許さずに関わり続けてくれたおかげだ。だから、オレは夕路との友情をずっと大切にしたいんだ。こんなこと、本人には口が裂けても言えないけれど。この先、もしも夕路がピンチに陥ってしまったら。次はオレが力になってやる番だ。夕路の未来を応援したい。心から。
「まあ、でもこのくらいは許してもらおう」
一人、自分を納得させる。
「え?」
書きものをする手をとめて、いづみは視線をあげた。まっすぐに、オレの視線を絡めとる。いづみとの補習もなんとか終えて、夕路は帰り支度をしに行った。夕路が席を外したのを狙った、確信犯的犯行。
「最近なんか映画みた?」
いづみの表情が、ぱっと輝く。
「みたよ!この前はねぇ……」
座っていたいづみが、うきうきと弾むような足取りでオレの隣にとんでくる。いづみはオレよりも背が小さい。
「オレもそれみたいな。おもしろそう。」
「本当?じゃあ結末言わないで待ってるから水嶋くんも早くみて!そして語ろう!」
いづみとオレの共通点。それはかなりの映画好き、ということ。
夕路は映画には別に詳しくない。そのせいもあって、いづみも映画のことならオレによく話しかけてくれるのだ。夕路をはじめ、いづみと話をしたいヤツは何人もいるから、なかなか二人で話す機会がない。たとえチャンスがあっても、夕路が藤島に邪魔されたように、最終的には二人で話せないのだ。だからこれは貴重な時間。
「水嶋くんの映画の好みがわかってきた。やっぱり男の子だね」
言いながら声をたてて笑う。本当に楽しそうに。聞いているだけで、あたたかい気持ちになってくる。だから、オレもいづみのことが好きなんだ。その声で、笑顔で、オレを優しい気持ちにしてくれるひと。春の、日溜まりみたいな。そんなひと。
オレもなんだかしあわせな気持ちになって、思わず笑みがこぼれた。いづみもそんなオレに気付き、つられたように小首を傾げて微笑する。今のオレも、こんな優しい表情をしているのだろうか。
「さよーならー」
夕路が待っていたオレを無視して後ろを通り過ぎていった。
「えっ、ユウちゃん、ちょっと待った!オレ待ってたのに!」
慌ただしく荷物をまとめて、すたすた歩く夕路を追いかける。走りながらオレは振り向いて、いづみに軽く会釈をするのも忘れない。いづみが、さようならと呟いて、軽く手を振っている。
エレベーターのところでようやく夕路に追いついた。
「おまえと高遠は、なんとなく雰囲気が似てるよな」
ぽつり、と夕路が呟きを落とした。オレはどう反応していいかわからず、きょとりと目をしばたいた。
そうか。オレはいづみと似ているのか。だから、一緒にいても違和感を感じないのかな。いづみみたいに、オレも周囲のひとを、しあわせな気持ちにしてあげられるといいのだけれど。
いづみは夕路が好きなんだと思う。あるときは、いづみが夕路を視線で追いかけ、夕路の視線と出会う。またあるときは、夕路がいづみを視線で追いかけ、いづみの視線を絡めとる。その二人の無言の時間を、夕路の隣で幾度も見てきた。そのたびに、切なくて切なくて切なくて、大声で叫びだしたかった。
オレの、大好きなふたり。
とはいえ、オレのいづみへの気持ちもすぐには消えない。
大切に胸の奥へしまっておこう。それだけで、優しさや勇気がわいてくるような気がするから。この気持ちは、オレにとってのお守りのようなものだ。このお守りを、オレが抱き続けるかわりに、オレは祈ろう。この先、二人がつらい思いをすることがないように。悲しくて、泣いたりすることもないように。
オレからサッカーを奪った神様になんて祈りたくはないから、オレはこの世界に祈る。空や、風や、花や、鳥たちに。
二人の未来が、誰よりも、何よりも、輝いたものでありますように。――