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3026  作者: Dar_3026
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40/60

40話 まず、食べる

 明日香の問いに、誰もすぐには答えなかった。

 誠が隣にいる樹を見る。


 樹は机の上の紙へ視線を落としたまま、何も言わない。

 御影も沈黙している。


 神谷だけが、キッチンカーの右後輪を覗き込みながら答えた。


「食ってねぇな」

「昨日の夜は?」

「覚えてねぇ」

「それ、食べてない人の答え」


 明日香は腰へ手を当てた。

 何か言おうとして、ふとガレージの入口へ目を向ける。

 床の端に、警察が置いた番号札の跡が残っていた。

 白く汚れた床。撮影のために動かされた工具。床の目地には、拭き取りきれない煙幕の粉が残っている。


 明日香の表情から、笑みが消える。


「……何かあった?」


 神谷の手が止まった。


「ああ」

「警察、来たんでしょ」

「夜中までいた」

「事故?」


 神谷は車体の下から顔を出した。

 折り畳み椅子へ座る香織を一度見てから、短く答える。


「白石さんの娘が、ここから連れていかれた」


 明日香は何も言わなかった。

 視線が香織へ移る。


 問い掛けるような目に、香織は小さく頷いた。


「私の娘です」

「……そうだったんですね」


 明日香の声が静かになる。


「まだ、見つかってない?」

「今朝、保護しているという連絡はありました。でも、本人とは話せていません」

「相手が誰かも?」

「分かっていません」


 明日香は香織の顔を見た。

 何と声を掛けるべきか、考えているようだった。


 けれど、安易な慰めは口にしなかった。

 代わりに、もう一度全員を見回す。


「じゃあ、なおさら食べよう」


 樹が顔を上げた。


「俺は、今は食欲が――」

「なくても食べる」


 明日香は言い切った。

 樹が目を見開く。


「探すんでしょ」

「……はい」

「考えるんでしょ」

「はい」

「お腹空いたままだと、考えられることも考えられなくなるよ」


 明日香はキッチンカーを親指で示した。


「いっぱい食べろとは言わない。少しでいいから入れよう」

「でも、これから営業では」


 香織が尋ねると、明日香は停まった車を振り返った。


「修司さんが直すまで動けませんから」

「すぐ直るとは言ってねぇぞ」

「じゃあ、もっと時間あるね」

「そういう意味じゃねぇ」


 神谷の返事に、明日香が少しだけ笑った。

 重かった空気が、ほんの僅かに緩む。


「ご飯は炊いてあるし、今朝仕入れたものもあります」


 明日香はキッチンカーの後部扉を大きく開いた。


「手伝える人いる?」

「俺、やります」


 誠が最初に立ち上がった。


「料理は?」

「全然できません」

「正直でよろしい。じゃあ、テーブルの紙を濡れないところへ移して」

「それは料理じゃないですよね?」

「最初から包丁持たせるほど信用してないから」

「会ったばっかりなのに、判断早いっすね」


 誠は言いながらも、机の上の地図や資料を御影と一緒に片づけ始めた。


「私も、何か」


 香織が立ち上がる。


「無理しなくても大丈夫ですよ」

「座って待っているより、手を動かしていたいんです」


 明日香は香織を少し見つめたあと、頷いた。


「じゃあ、お椀をお願いします。中に重ねてあります」

「分かりました」


 キッチンカーの中は、外から見るより広かった。

 片側に調理台と流し台。反対側に冷蔵庫と収納棚。天井近くまで道具が並んでいるが、どこに何があるのかは決まっているらしい。

 明日香は迷うことなく冷蔵庫を開け、保冷容器を取り出した。


 蓋を開ける。

 中には、鮮やかな赤色のマグロが入っていた。


「今日はこれを使います」

「売り物じゃないんですか」

「売り物だから食べられるんです」

「でも」

「困ってるときに使わないで、いつ使うんですか」


 明日香は手を洗い、エプロンを身につけた。

 髪をまとめ直し、包丁を手に取る。

 それまでの柔らかな雰囲気が、僅かに変わった。

 マグロの表面を確認し、筋の向きを見る。

 包丁が、迷いなく入った。


 同じ厚さに切り分けられた赤い身が、調理台へ並んでいく。

 醤油。

 みりん。

 少量の酒。


 明日香は小鍋へ調味料を入れ、コンロに火をつけた。


「橘さん」


 御影がキッチンカーの外から声を掛ける。


「何でしょう」

「私にも、手伝えることはありますか」


 明日香は御影の姿を見る。

 数秒考えてから、冷蔵庫を指した。


「お茶を出してください」

「それだけですか」

「まず飲んでください。顔色悪いですよ」


 御影は何も言い返さなかった。

 冷蔵庫から茶を取り出し、自分を含めた人数分のコップへ注ぐ。


「樹」


 誠がコップを差し出した。


「少し飲め」

「……ありがとう」


 樹は受け取り、一口だけ口にした。

 明日香はその様子を確認すると、再び手元へ視線を戻す。

 温めた調味料を冷まし、切ったマグロへ回しかける。


 炊き上がった米をほぐす音。

 海苔を炙る香り。


 鍋では、味噌汁が静かに湯気を上げ始めた。

 鉄と油の匂いが染みついたガレージへ、醤油と温かい米の香りが流れ込む。

 誰かの腹が、小さく鳴った。


 誠が周囲を見回す。


「今の、俺じゃないですよ」

「まだ誰も聞いてない」


 明日香は包丁を動かしたまま答えた。

 香織は椀を並べながら、ほんの僅かに口元を緩めた。

 澪がいないことは、何も変わっていない。

 相手の正体も、居場所も分からない。


 それでも、冷え切っていた時間が、少しずつ動き始めていた。


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