38話 帰ってから
午前八時を少し回った頃、誠の車が神谷自動車工業へ到着した。
助手席の扉を開けると、冷たい朝の空気に混じって、焦げたような匂いが流れてくる。
昨夜の煙が、まだ残っている。
「足元、気をつけてください」
先に降りた誠が声を掛けた。
「ありがとうございます」
香織は鞄を抱え、車から降りた。
ガレージのシャッターは半分ほど開いていた。
その前にはタイヤの跡と、踏み荒らされた砂埃。出入口の脇には、警察が残した小さな番号札の跡がある。
中へ入ると、床の一部が白く汚れていた。
換気扇は今も回り続けている。
工具棚。
作業台。
奥に置かれた古いソファ。
昨夜、澪が立っていた場所。
香織の足が止まった。
「白石さん」
御影の声がした。
ガレージの中央に置かれた折り畳み机には、数枚の紙と地図、ノートパソコンが並んでいる。
御影はその前から立ち上がった。
スーツの上着は脱がれ、シャツの袖が肘まで捲られている。目の下には、はっきりと疲労が浮かんでいた。
神谷は作業台の近くで、床に残った白い粉を集めている。
樹は奥の椅子に座っていた。
香織に気づくと、すぐに立ち上がった。
「白石さん」
その顔を見て、香織は言葉を失いかけた。
一晩眠っていないというだけではない。
自分を責め続けていた顔だった。
樹は香織の前まで来ると、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「三雲さん」
「俺が、もっと早く気づいていれば」
声が掠れていた。
「危ないことは分かっていたのに、守れませんでした」
香織は黙って樹を見た。
澪がいなくなった瞬間。
白い煙の中で名前を叫び続けたこと。
何も掴めなかった自分の手。
責める相手が欲しくなかったと言えば、嘘になる。
目の前にいる樹を責めれば、少しだけ楽になれるのかもしれない。
けれど、澪はそれを望まない。
「澪を助けようとしてくれたんでしょう」
樹が顔を上げた。
「……はい」
「だったら、今は謝らないで」
香織はまっすぐ樹を見る。
「連れて帰ってからにして」
樹は何も言わなかった。
やがて、強く頷く。
「必ず」
「その言葉は、澪にも言ってあげてください」
「はい」
「私も、そのときに聞きます」
樹はもう一度、頭を下げた。
「白石さん」
今度は御影が一歩前へ出た。
「昨夜の件は、私にも責任があります。相手の侵入を許し、澪さんを――」
「御影さんもです」
香織は静かに言葉を遮った。
御影の口が止まる。
「謝るのは、澪が帰ってからにしてください」
「しかし」
「今は、連れて帰る方法を考えてください」
御影は香織を見つめた。
それから、ゆっくりと頭を下げる。
「承知しました」
神谷が箒を壁へ立て掛けた。
「とりあえず、座れ」
折り畳み椅子を一つ運んでくる。
「ここじゃ落ち着かねぇだろうが、立ったまま話すよりはましだ」
「ありがとうございます」
香織は椅子へ座り、鞄から一枚の紙を取り出した。
「電話で言われたことを、書いてきました」
御影が机の上を空ける。
香織は紙を置き、通話の時刻から順に説明した。
番号非表示だったこと。
相手が所属も名前も明かさなかったこと。
澪は目を覚まし、会話ができる状態だと聞かされたこと。
命に関わる怪我はないという説明。
外部との通信はできず、戻る時期も分からないこと。
そして、澪が最初に母親の安否を尋ねたと伝えられたこと。
御影は何度か確認したが、結論を急がなかった。
「相手は、警察へ通報するなとは言わなかったんですね」
「はい。警察については、何も」
「金銭や、何らかの行動も要求されていない」
「ありません」
御影は紙に視線を落とした。
「脅迫や交渉が目的ではない可能性が高い」
「澪は、本当に無事なんでしょうか」
「現時点では、断定できません」
御影ははっきりと答えた。
「ただ、澪さんの生存をこちらへ信じさせたい理由はあるようです」
「時間を稼ぐため?」
「その可能性もあります」
御影はノートパソコンへ視線を移した。
「ですが、こちらとの関係を完全には断とうとしていない。それ自体が、手掛かりになるかもしれません」
樹は机の横で、香織のメモを見つめていた。
「澪さんなら、大丈夫です」
香織が顔を上げる。
樹は一度、言葉を選んだ。
「大丈夫だと言い切れる根拠はありません。でも、何も考えずに待っている人じゃない」
香織は小さく頷いた。
「そうですね」
それは、誰よりも知っている。
澪はきっと、泣いて助けを待つだけではない。
周囲を見て、相手の言葉を聞き、今できることを探している。
「私は、ここにいてもいいですか」
御影が答えるより先に、神谷が口を開いた。
「好きに使え」
「でも、ご迷惑では」
「昨日の時点で、もう十分巻き込まれてる」
神谷は白く汚れた床を見下ろした。
「今さら一人増えたくらいで変わらねぇよ」
「……ありがとうございます」
神谷は小さく頷き、工場の奥へ目を向けた。
「ただ、椅子は足りねぇな」
「俺、出してきます」
誠が倉庫へ向かう。
誰も、次に何をすれば澪へ辿り着けるのか分かっていなかった。
相手の名前もない。
場所もない。
残されているのは、昨夜の痕跡と、一本の匿名電話だけ。
それでも香織は、一人で待っていたときより息がしやすくなっていた。
ここにいる全員が、同じ人を連れて帰ろうとしている。
それだけは、疑わなくてよかった。




